目が覚めた瞬間にわかった。今日は“求める”日だ。理由は、ない。目覚ましの秒針の音が、いつもより半拍ゆっくり耳に届いたせいかもしれないし、枕元の共通日記の表紙が、薄い朝の湿気を吸って微かにふくらんで見えたからかもしれない。胸のいちばん奥のほう――骨のうらの柔らかい場所が、手を伸ばす方向を知っている。伸ばせ、と言う。伸ばしていい、とも言う。

 洗面台の鏡の前で顔を洗い、顔を上げる。目の下に、眠りが残した影がうすく残っている。口角に人差し指をあて、軽く押してから離す。喉の奥に空気を落とし、少しずつ拾い上げる練習をする。昨日までの“言い換えの合鍵”は、たしかに効くようになってきた。けれど、今日は合鍵ではない、と思う。鍵穴の前で工夫するより、扉に向かって正面から言葉を置いてみる日。

 登校。空は洗濯し終えたばかりのタオルみたいに高い。風は、道路の白線の上をまっすぐ撫でていく。通学路の脇の藪で、セミが鳴くのを一匹だけ忘れていたみたいに、短く、遅れて、ひと鳴きした。私は右側、内側、明るい道、止まる、連絡――いつもの小さなリストを心の棚の前列に出しなおす。青信号を一本見送り、次で渡る。渡り終えたところで、背中に風の裏打ちがあるのを確かめる。大丈夫、と足の裏の骨が言う。

 授業中、ノートに書く文字は少なかった。黒板の文字はいつも通りで、先生の声はいつも通りで、その中で私は、ページの余白に小さく「会いたい」を十回書いた。数字を数え、十で止める。止める、を自分で選ぶ。止めた位置で息を整える。息を整えた位置に、やわらかく熱が灯る。

 休み時間、前の席の椅子の背にもたれて瑠衣が振り向く。「結衣、顔に“会いたい”って貼ってあるよ」

「え、そんなに?」

「うん。額に。縦書きで」

 思わず頬を両手で押さえる。押さえた手のひらの温度が、顔の皮膚に移る。瑠衣は笑って、机の上のプリントを四角く揃えながら続けた。「いいじゃん。今日はそれでいこう」

「うん。……今日は、それでいく」

 昼のチャイム。廊下に出ると、掲示板の隅に新しいポスターが一枚。地域の復興イベントのお知らせ。赤い矢印が地図の上を行き来し、数本の道を太く塗りつぶしている。迂回の矢先に、小さな住宅街。矢印は親切だ。だけど、その親切の下に、別の生活が薄くたわんでいるのが見える気がして、私は一瞬だけ視線を外に逃した。今日は降らない、と空が言っている。雲は薄い。風は軽い。けれど、胸は、軽さを手に入れるために、反対側の重さを必要としている。

 放課後、予定をやり繰りして、私は蓮と短い時間だけでも会うことにした。待ち合わせは、駄菓子屋。あの、温かい缶をくれた店だ。ガラス戸を開けると、鈴の音が一度だけ鳴る。店主は新聞から顔を上げ、「また雨?」と空を見上げた。空は白く、遠く。雲は厚くない。

「今日は降らないと思います」と私。店主は「ええこっちゃ」と言って、レジの横のラムネの栓抜きを指さす。「よかったらどうぞ」

 蓮が横から瓶を二本取ってきて、ビー玉の下のゴムのところを親指で押さえ、添え木を使って栓を落とす。ビー玉が一段、落ちる。ガラスの内側で、小さくぶつかる音がした。私はその音を聞くだけで喉が潤う気がして、一口、飲む。甘さは、強くない。炭酸の針は、短い。喉の金具の位置で、ひとつ弾けて、消える。ほっとする。

 店の奥のテーブルに並んで座る。瓶の底から上ってくる泡が、光の粒を連れて舌の上に消えていく。棚の隅に、昔のガチャガチャのカプセルがふたつだけ残っていて、プラスチックの透明が少し曇っている。缶のプルタブの山。色紙の束。砂糖の白い匂い。世界は今日、曇っていない。曇っていない世界のなかで、私は、曇りがちな喉に、一度だけ、直接、言葉を載せた。

「抱きしめて」

 遠回しにするのをやめた。言葉は鍵。鍵は、扉を開けるためにある。蓮の目が、少し驚き、すぐに柔らかくなる。私を笑わせるための冗談は言わず、ただ、視線が「わかった」と言った。店の人の視線を気にして、私たちは店の裏口から路地へ出る。夕方の光は黄味を帯び、布団を干し損ねて取り込んだみたいな匂いが、狭い路地に薄く残っている。ベランダから滴る洗濯物の水が、ときどきコンクリートを打って小さく音を立てる。猫が一度だけこちらを見て、何もなかったみたいに伸びをした。

 路地裏で、正面から抱き合う。背中に回る腕の強さ。体の小さな骨が、互いの体温を通じて挨拶するみたいに順番に静かになる。胸に重なる鼓動。私の鼓動の上に、蓮の鼓動が重なって、二つのテンポが何度かずれ、やがて近づいていく。太陽が、屋根の角に触れる角度で止まっているみたいに、時間の伸び縮みがなくなる。言葉が要らない時間。要らない、というより、言葉が追いついてこないほど、先に何かが成立してしまっている。

「ねえ、私、怖いの」私は肩越しに小さく言った。「未来も、過去も、いまも。全部こぼれそう」

 蓮は、私の髪の分け目に一度だけ口元を近づけ、いつもの声で答えた。「こぼれる分、拾えばいい。二人なら、両手四つ」

 軽口に見えて、支える力がある。私は笑う。笑うと、肩のあたりのこわばりが、ひとつずつ解ける。両手四つ。四つの手は、二人が離れているときは二つずつになってしまうけど、戻る場所の上では、きっとまた四つになる。四つで拾う。拾い損ねても、拾い直す。そういう頻度を、数えられるような気がする。

 そのまま、私たちは神社まで歩いた。境内は空気がいくらか軽く、石畳の光は薄い金色を帯びている。風鈴が、鳴る、鳴らない、鳴る。私は手帳を出し、角を三回折ったページを開いて、蓮に見せた。「戻る場所」の確認。狛犬の横のベンチ。社務所の影の一角。駄菓子屋の奥のテーブル。駅脇の、ひとつ向こうの出口。蓮はうなずき、「オレのしるし」と言って、折り目のすぐそばに、小さな三角形をふたつ重ねたサインを描いた。サインは印鑑みたいに丸くはないけれど、彼の筆圧の癖を正確に記録して、紙の繊維がそこだけ強くなった気がする。“場所”を共有する――言葉で約束すると同時に、紙で約束する。約束は厚みで耐える。厚みは、触れて確かめられる。

 帰り道。信号待ち。風は西から、ゆっくり。夕方の光はすこし斜め。蓮がふいに真面目な顔になって、横顔のまま言った。

「結衣。もしもさ、また“時間”が揺れたら――俺、怖くなるかも。撮りたいもの、行きたい場所、いっぱいあるから」

 私は頷く。頷きながら、喉の金具に触れない言い方を探すのではなく、正面から、今日の言い方を選ぶ。

「怖がって。私も怖がる。で、抱きしめて。それで行こう」

 蓮は、短く笑って「それ、完璧」と言った。完璧、はこの世になかなかいないけれど、今の会話は、完璧に近いほうへと、体を向けさせてくれる。信号が青に変わる。走らない。私たちは歩く。歩いて渡る。渡り終える前に、風がひとつ、冷たくなりかけて、すぐに温度を戻した。

 夜。机に座って、共通日記を開く。今日は、出来事をなめらかな文で連ねるより、箇条書きにするのが正しい気がした。練習するための、練習。

 ・「会いたい」と言う
 ・「抱きしめて」と言う
 ・「怖い」と言う
 ・「助けて」と言う

 書き終えると、ページの下に、細いけれど確かな線で、ひとつ追記された。

 ・「任せて」と俺が言う

 私は息を吸い、笑う。応答の設計図ができた気がした。設計図は、現場で少し違ってもいい。違いを許す余白がある設計図は、実際に使える。私は「ありがとう」と一行足し、角を三回折ってから、今日のページを閉じる前に、もう少しだけ余白を眺めた。紙の白は、夜の光の下では少しだけ黄みを帯び、罫線はきちんと真っ直ぐで、紙の繊維は、呼吸のたびに細く膨らむ。呼吸は、紙にもあるのだと思う。

 窓の外は穏やかで、風鈴は鳴らない。鳴らない静けさは、今日の正確な輪郭だ。机の端でスマホが一度だけ震える。瑠衣から「明日、朝一緒にいける?」。私は「いける」と返し、アラームを二つ。行きの時間と、戻るの合図の時間。段取りは祈りの骨組みになる。骨組みがあると、手が空いた瞬間に不安が入り込む隙間が少し狭くなる。

 ページの欄外。見知らぬ筆跡が、今夜もふっと現れた。「二人で四つの手。老いれば六つ、八つ」

 増える? と小さく声に出しかけて、私はすぐに意味を取る。未来に“私たち”が増えていく可能性。家族。友人。もしかしたら、生まれてくるだれか。四つの手は、六つになり、八つになる。増えたぶんだけ、拾えるものの数が増える。こぼれる量も、拾える量も、増える。責任も、増える。だけど、責任という言葉は、増えるときに重くなるだけではない。支え合う場所の数を増やす。私は胸の奥が少し温かくなって、喉に溜まっていた薄い涙が、すっと引くのを感じた。

「……ありがとう」

 私は口パクで二回、言った。喉は詰まらない。求める言葉が、やっと通る。通った言葉は、部屋の空気に軽く混じり、紙のほうへも少しだけ移る。共通日記の表紙を両手で包むと、夏の終わりの夜の熱を少し吸って、紙がやわらかくなる。やわらかいものは、壊れやすいけれど、扱い方を知れば長持ちする。

 ベッドに横になる。天井の角は、暗闇のなかで輪郭を保ち、窓の外の電線は、風のないときでも、地球の自転に合わせてごくごくわずかに揺れている気がした。耳の奥で、今日の音を並べる。ビー玉の音。洗濯物の滴。風鈴の鳴る・鳴らない・鳴る。信号の変わる音。ラムネの泡の針。抱きしめるときの衣擦れの小さな擦過音。二つの鼓動が近づく瞬間の、無音に近い小さな合図。

 思い出しながら、私は胸の上に自分の両手を組む。掌の間の狭い空気に、今日の熱がもう一度、うっすら溜まる。「ありがとう」――声に出さずに、口の形だけで二回。二回とも、喉は詰まらなかった。明日は、きっと三回でも言える。三回言えたら、四回も言える。四回言えたら、四つの手のうちのひとつが、今日より少しだけ正確に、次のものを拾える。

 目を閉じる。秒針が、壁の白に均等な間隔で点を打つ。私は、明朝の段取りをもう一度だけ短く並べる。右側。内側。明るい道。止まる。連絡。折った角。印の三角。戻る場所。抱きしめる。求める。応じる。任せる。老いるまで。未来の二文字は遠くに置かず、今夜の枕の高さに置く。置き方ひとつで、重さは変わる。置き方は、学び直せる。私はゆっくり息を吐き、吸い、吐く。昨日より、すこしだけ正確に。鳴らない風鈴の沈黙が、ちょうどよい厚みで、私の眠りを包んだ。