朝の通学路は、やけに軽かった。台風は夜のうちに遠くへ抜け、空は洗濯したみたいに高く、雲は白の境界をはっきりさせたまま、ちぎれた布の端みたいに漂っている。電線の上を渡っていく風は新しく、家々の軒に引っかかっていた湿気をまとめて連れ去っていったようだった。にもかかわらず、胸の中は軽くならない。昨日までに作った言葉の合鍵――否定を肯定へ反転させる作戦――は、たしかに私の内側を何度か救った。けれど、外に起きることは私の都合を待ってくれない。世界が揺れる周期と、私が呼吸を数える周期は、今日も別々の速度で並走している。

 右側、内側、明るい道、止まる、連絡。いつもの小さなリストを、足の運びに合わせて心の縁に並べ直す。橋へ向かう曲がり角の手前で一度、青になった信号をそのまま見送り、次の青で渡る。渡り終える前に背中で風が強くなるのがわかる。振り返らない。体に覚えさせた所作を、順番に置いていく。

 一限のあと、教室で文化祭の話し合いがはじまった。担任が黒板の前で係の表を読み上げる。装飾、展示、当日運営、外との連絡……名前の列の途中で「準備チーム」に蓮の名が呼ばれ、続けて、私は図書室の企画係に入れられた。同じ時間帯に別の場所。放課後の予定が、これからしばらく合わないことが、すべて決まっていく。黒板の白が何かの天気図のように見え、矢印が別々の矢先へ伸びていく。

「ここ、すれ違うね」

 瑠衣が配られた紙の角を指で整えながら、小さく呟いた。紙の四辺を指で撫でる癖は、落ち着くための儀式のようで、見ているだけで呼吸が整う。

「うん」

 私はうなずき、配られた予定表の自分の名前の横に薄く印をつけた。印は、削除線ではなく、目印。目印の意味は、時々、心の奥で反転する。

 昼、蓮は写真部の最終審査に呼ばれ、放課後は顧問と打ち合わせだという。私は“落ち着く場所”リストのひとつ――神社のベンチにひとりで座って、風鈴の音を数えた。鳴る、鳴らない、鳴る。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。社務所の陰から漂ってくる紙と線香の匂いが混ざり、空気は紙の厚みをひと枚だけ増す。スマホが短く震えた。画面には「ごめん、今日は遅くなる」。合理的な遅れ。たしかにそうだ。顧問との打ち合わせは必要だし、今日の彼にとってはそれが「守ること」なのだと頭ではわかっている。それでも、胸のどこかに、ごく細い裂け目ができる。怒りではない。置いていかれるのでは、という昔の恐怖が、知らないうちに引き出しの底から上がってきて、喉の内側の金具にちょっと触れる。

 私は手帳の端を三度折り、折り目の厚みを指先で確かめる。三回折ったら“ここに戻れ”。合図は目で見える場所にあると、体の深いところが安心する。風は軽い。風鈴は鳴る。鳴らない。鳴る。私は鳴らない間を撫でるように、呼吸を少し長くした。

 夕方、神社からの戻り道。校門の脇で、自動販売機の影に寄りかかりながら、蓮が他クラスの女子と並んで写真の構図を見て笑っているのを見かけた。女子の指がスマホの画面の中の線を空でなぞり、蓮は頷きながら、真面目な顔で何か言葉を補っている。嫉妬は瞬間的で熱い。喉の奥が焼ける。すぐに、自己嫌悪が追いかけてくる。信じる、と決めていたのに。決めたはずの言葉の合鍵が、今はうまく鍵穴に合わない。私はその場をやり過ごし、橋の上で足を止めた。欄干の「約束」の文字が、今日は遠く見える。距離は同じなのに、光の屈折の角度だけが違うみたいに。

 水面は昨日の灯籠の熱をすでに忘れて、涼しい顔をしている。救われたはずの未来は、手を離せばすぐに薄くなる。薄くなった紙は、風が吹けばふわりと持ち上がり、別の音に簡単に混ざる。私は欄干に掌を置き、冷えた金属の温度で指の腹を落ち着かせた。

 夜、共通日記を開く。ページの上で最初の言葉に迷う。「今日、寂しかった」と書くべきか。正直であることは、刃にもなる。刃の向きは、置き方で変わる。私はペン先を少し持ち上げ、「今日、ひとりで“戻る場所”を確認した」と書いてみた。祠の横の空き地、神社のベンチ、駅の静かな出口、駄菓子屋の奥――薄い地図をもう一度、言葉でなぞる。数十秒後、ページの下から現れた字は、見慣れた角度で「ごめん、間に合わなかった」。続けて、「寂しがらせた」。自罰の色が強いのを見て、私は慌てて返す。「違う。怒ってない。ただ、怖かった。“消える”って、簡単に起きるから」

 そのとき、ページの隅から、別の筆跡が割り込んだ。年齢の重い、滑らかな字で、ひとこと。「消えない」。背筋に粟が立つ。以前も感じた“向こう側”の誰か。紙の繊維が、いったんふくらんでから薄く縮むような手触りのあと、ノートはゆっくり閉じようとする。私は両手で押さえ、深呼吸をした。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。青い糸の結び目――強く結びすぎず、ほどけもしない――の触感を指の記憶で呼び出し、ページの端に静かに重ねる。やがて、紙は落ち着いた。落ち着いたあと、残るのは、うっすらとした伴走者の気配だけ。

 翌朝。昇降口で、私はいつもより少し早く蓮を待つ。ガラス戸の向こうの空は、今日も高い。時計の分針が一目盛り進む。靴箱のあたりの匂いはゴムと洗剤が薄く混ざったもので、いつも通り。けれど、蓮は来ない。遅刻の連絡は後で届いた。校外撮影。写真の勝負どころ。常識的には何も問題がない。

「勝負どころだよ、蓮くん」と瑠衣は笑顔で言う。「ど真ん中、掴みに行ってる感じ」

「うん。わかってる」

 わかっている。わかっているのに、体のどこかがわかってくれない。喉の金具が少しずつ重くなる。私は首の後ろに手を当て、皮膚の温度を指で確かめた。熱はない。ただ、空気の薄さを数えるための器官だけが、ほんのわずかに硬くなっている。

 放課後、三人で会う段取りは流れた。私はひとり、河川敷へ向かった。風が強く、草が一斉に倒れては戻る。倒れているのではない。しなっているだけ。折れていない。ただ、しなっている。自分も同じだ、と言い聞かせる。言い聞かせる言葉は、体に届くまで時間がかかる。届く前に、風がもう一度、草をまとめて倒す。私は足を止め、靴の底で土の硬さを量った。川面のきらきらは、今日に限って音を持たない。音のない光は、視界の深さを測る物差しみたいに薄い陰影を置く。

 その夜、蓮から電話が来た。

「ごめん。会える?」

 私は、ほんの半呼吸分だけ迷い、「今日は無理」と答えてしまった。言った瞬間、胸が痛む。金具のある位置で、音が反響して、別の意味に変わる。彼は短い沈黙のあと、「明日」と、やさしい声で言った。

「明日」

 通話を切ってすぐ、共通日記を開く。正直に書く。「会いたいって言えなかった。意地になった」。文字は思っていたよりも小さく、視界の隅に追いやられそうになる。私はページの中央に「会いたい」を大きく書き直し、丸で囲んだ。丸の線は少し太めに。線を重ねるごとに、胸の揺れに仮の支えができる感じがする。数秒後、「俺も」と返る。短い言葉に、体温が宿っている。裂け目は、言葉で仮留めできる。完治ではないが、血は止まる。

 ほっとした途端、欄外の見知らぬ筆跡が、もう一度現れた。「約束は、裂け目の上に渡す板」。その線はしっかりしていて、古い橋の梁のように微かな節を含んでいる。私は震える手で「誰?」と書いた。返事はない。紙は静まる。静まったあと、部屋の音が戻る。冷蔵庫の唸り、廊下を走る誰かの足音、遠くの車のタイヤの薄い水音。音の列の、いちばん最後尾に、紙の繊維が静かに呼吸する気配が、たしかに付け足された。

 その夜は、眠りに入る前にもう一度、今日の輪郭を指でなぞった。高い空。黒板の矢印。合理的な遅れ。神社の風鈴。自販機の影の笑い声。欄干の遠い「約束」。紙の上の「消えない」。昇降口のガラスの光。河川敷のしなる草。電話の「明日」。丸で囲んだ「会いたい」。そして、「約束は、裂け目の上に渡す板」。板は、渡すためのものだ。渡すには、踏み出す足と、戻るための合図がいる。私は手帳の端をまた三回折り、折り目の厚みを確かめた。厚みは頼りになる。頼りになる厚みが増えるたびに、薄く生まれる罪悪感は、べつの名前を与えられて静かになる。――責任。私は責任の上に息を置き、目を閉じた。

 翌日が来たら、もう少しうまく言えるかもしれない。言い換えの合鍵を、少し磨き直す。言葉を置く位置を、一つ分ずらす。会える、と言う。会いたい、と言う。言わないで守る方法と、言うことで守る方法のあいだに、板を一本渡す。青い糸の結び目に、指の腹で触れる。強く結びすぎず、ほどけもしない。ちょうどよさを確かめる。私は深く吸い、吐いた。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。秒針が、壁の白い余白を同じ幅で刻んでいく。鳴らない風鈴の沈黙が、夜の体温に合う長さで、今夜も私を包んだ。