曇天の朝は、声の出し方を忘れた人の顔をしていた。薄い灰が窓の外で重なり合い、わずかな風を皺にして流していく。洗面台の鏡の前で、私は唇をほぐすみたいに指先で口角を押し、喉の奥に小さく息を落としてから、音を拾い上げる練習をした。
「だ、い、じょ、う、ぶ」
鏡の中の私が口を開き、五つの音をひとつずつ外へ渡していく。わずかな濁り。舌の位置。頬の筋肉の、知らない硬さ。最後の「ぶ」で、音が少しだけ濁った。濁っても、かろうじて言葉の形は保たれる。
「し、な、な、い、で」
――ここだけ、声帯が閉じた。音の手前で扉が落ちる。喉の内側に薄い金具が掛かって、うっかり勢いで開けたら戻ってこない気がして、手を伸ばす前に指が震えた。口のかたちだけが鏡の中で泳ぎ、音のない「し」が、曇ったガラスに白い指で書いた文字みたいに浮いた。私は蛇口をひねり、冷たい水を二口、流し込む。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。
登校。玄関の金具は湿気で重く、手の内側にぬるい感触を残す。廊下の空気は静かで、夏の終わりの諦観が薄く落ちていた。黒板には白いチョークで「二学期始業式まであと6日」。数字の6は、誰かが急いで書いたのか、尻尾の丸みが小さく震えている。私は席に座り、ペットボトルの水をひと口含んで、喉の金具の位置を確かめた。
「昨日、怖かったけどさ、三人だったから大丈夫だったね」
瑠衣が斜め前から振り返って言う。髪のゴムは朝の湿気を吸って少し伸び、こめかみの明るい産毛が風に見えないくらいの速度で揺れた。
「うん」
私は頷く。頷ける。でも、その頷きは喉の奥の叫びを誤魔化している。言えない言葉の塊が、扁桃腺のあたりで正しい重心を見失い、上下の間でぎゅう、と縮んだまま固まっている。机の裏で指を組み、爪の先で掌をそっと押して、体の内側に目印をつけ直す。右側、内側、明るい道、止まる、連絡――小さなルールを脳の端に並べ、息をひとつ整える。
一限のチャイムが終わって、私は図書室へ向かう廊下に出た。掲示板の片隅に、見慣れない赤い矢印がうねっている新しいポスターが貼られている。〈地域祭り交通規制のお知らせ〉。太い線が一本、既存の道を塞ぎ、別路線が強調されて太く描き足されている。矢印は「こちら」と親切に示しているのに、矢印の指す先には、必ず誰かの生活の細い路地があった。迂回が誰かの朝を細くし、帰路の光を少し遠くする。昨夜、川面で一瞬だけ逆流した灯の列が、頭の中でくり返し再生される。光が逆らって流れたほんのわずかな間、世界が薄く軋む音を、骨の奥でまた聞く。
昼休み。屋上。風が抜け、雲の影が校庭を横切る。フェンスが影を格子模様に落とし、シューズのゴム底が陽のあたったコンクリートから熱を受け取る。蓮がフェンスにもたれ、細い影を少しだけ長くしてから言った。
「結衣、最近、何か言いたいのに言わない顔、してる」
図星。私は笑って誤魔化すのをやめ、言葉の入口に手を置く。喉の金具に指をかけるように、ゆっくり。
「言いたい。ほんとは。けどさ、言ったら“守るため”じゃなく“縛るため”になる気がするんだ。『あの日はああして』『この道は通らないで』って……私の怖さを、君の足首に結ぶことになったら、って」
蓮は何も言わず、風の音に耳を合わせるみたいに黙って聞く。沈黙は私の言葉の外側に薄い膜を張り、言い終えた直後の浮遊をゆっくり受け止める。
「俺、たぶん、結衣の“縛られたくない”も、“守りたい”も、両方わかる」
蓮はそう言って、小さく笑った。笑いながら、目はよく見ている。
「だからさ――方法、探そう。言わないで守る方法」
言わないで、守る。無言の合図と、事前の地図。言葉の代わりに触れる場所。私は頷き、息をひとつ置く。
放課後、私たちは“落ち着く場所”リストを作った。地図を机いっぱいに広げ、蛍光ペンを三色。混雑時でも人が立ち止まりやすいベンチ、駅の静かな出口、神社の脇の空き地、駄菓子屋の店内――この夏、たびたび私が助けられてきた場所たち。地図の上で、そこに小さな丸と三角を交互に重ねる。丸は「寄っていい」。三角は「避ける」。瑠衣が途中で加わって、別の色で逃げ道を増やす。
「ページの端、どうする?」蓮が訊く。
「三回、折る。三回折ったら“ここに戻れ”の合図」
「三回ね」
私は手帳の端を実際に三回折って、折り目の厚みを指で確認した。厚みは頼りになる。祠のしめ縄の結び目――青い糸――と同じちょうどよさで、強く結びすぎず、ほどけもしない。
帰り道、踏切の警報音が強く鳴った。赤い光が点滅し、遠くで鈍い金属のうねりが近づいてくる。列車の風圧が頬を打ち、空気が前から押し寄せ、耳の中の小さな骨が低く震える。私は一歩下がり、喉の金具がまた落ちてくるのを感じる。「し……」と言いかけ――最後まで、言えない。言葉は金具の向こうに落ちて、舌の上に残った欠片だけが苦い。
代わりに、蓮の手を二度、強く握る。ぎゅ、ぎゅ。二拍の合図。蓮はすぐにわかった気配で、私の前に半歩出て、体で風の壁になった。肩と肩の間に生まれる小さな隙間に、私の呼吸の通り道ができる。列車が通り過ぎるまで、私たちは黙ったまま、その壁で立つ。金属の尾が遠ざかり、警報が終わる。音がふたたび散文に戻る。私は手をほどき、蓮の指の温度がまだ残っていることに救われた。
夜。自室。机の上の共通日記を開く。青い表紙は昼の湿気をすっかり吐き出し、指の腹を少し乾かした。私は「言えない言葉」を、ページの上に並べはじめる。
「怖い」「離れないで」「死なないで」「来年も」「十年後も」
書いたあとで、一本線で消す。消すことは、なかったことにするためではない。上に、別の言い方を重ねるために、いったん下地を準備する作業だ。下に、書き直す。
「守りたい」「一緒にいたい」「生きよう」「また夏へ」「老いるまで」
否定形から肯定形へ、作文を反転させる。反転は、嘘をつくことではない。同じ方向を別の地図で示すこと。地図は複数でいい。数秒後、ページの端に細い字が浮かんでくる。「肯定、好き」。蓮の癖に似た角度。けれど、ほんの少しだけ線の圧が軽い。軽さは、夜の涼しさみたいに、演技ではなく素のままの温度だ。
ふと、今日の屋上で言い損ねた言葉が喉の奥で裏返る。私はペンを置き、机の縁を指で撫でた。木目の溝に遅い影が流れ、窓の外で低く雷が鳴る。遠雷。空気はまだ切れないけれど、音だけが先に知らせに来る。私はベッドに横になり、目を閉じる。眠りの縁――薄い布の縁取りのような場所に、足の指先をそっとかけてから、心の中で初めてはっきり叫ぶ。
――死なないで!
声は外へ出ない。出ないのに、胸の内で反響するたび、涙が頬を伝う。水は暖かく、枕の布がそれを受け取る。叫びは、金具を越えないで、私の内側を何度も何度も往復する。往復するうちに、叫びの端が、別の形にほぐれていく。私はそのほぐれに合わせて囁く。
――一緒に生きよう。
肯定は、喉の金具を通り抜けるための合鍵だ。合鍵は、誰かに勝手に渡さない。けれど、私自身には渡していい。私は胸に手を置き、鼓動を数えた。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。数えるうちに、喉の内側で固かった金具がわずかに温まって、蝶番の油が行き渡る。窓の外で遠雷がもう一度、遠くなる。
目を開けずに手を伸ばし、共通日記のページの端に指を置いた。紙の繊維が、指の腹の温度と呼応するみたいに、ほんの少しだけふくらんでやわらぐ。ふ、と風もないのにページがめくれる。見えない力の指先が、紙の角をそっと持ち上げたみたいに。薄闇の中、インクの黒がわずかに光を拾い、「一緒に生きる」の文字が太字でなぞられていく筆圧の幻が見えた。誰かが、私の代わりに太く書き直してくれる。「叫べなかった声」は、別の形で世界に刻まれる。言えないときの私を通り抜け、紙の中のどこかへ届く。その経路の存在が、今夜は確かな支えだった。
翌朝の段取りを、まぶたの内側で並べる。右側。内側。明るい道。止まる。連絡。三回折ったら戻る。二回握ったら壁になる。屋上の風、図書室の椅子、駄菓子屋の缶、神社の石畳。落ち着く場所のリストを、脳の棚に戻す。祠のしめ縄の青い結び目――強く結びすぎず、ほどけもしない――を指の記憶でなぞる。私は深呼吸をひとつ、またひとつ。昨日より、すこしだけ正確に。秒針の音が、部屋の輪郭をていねいに測り直す。鳴らない風鈴の沈黙が、耳の奥でやわらかく広がる。
明日の私が言えないときのために、今夜の私が書いた。書いたものが私を守る。言えない言葉は、無力ではない。外に出ない声が、内側で道具になる。工具箱を閉じる音はしない。閉じたという事実だけが、胸の温度を半度上げた。私の「叫び」は、紙の厚みに吸収され、やがて、私の速度で外へ出る準備をするだろう。出るときには、きっと肯定のかたちで。
眠りに落ちる直前、遠雷がもう一度、今度はずっと遠くで鳴った。私は枕元のページに掌を平たく重ね、「ありがとう」と小さく言う。返事はない。ないのに、紙の奥のどこかで、繊維同士がやわらかく擦れ合う気配がした。青い糸の結び目が、ほどけも締まりもしない、ちょうどよさで息をする。その呼吸に合わせて、私は眠った。呻くでもなく、泣きじゃくるでもなく、ただ胸の真ん中の灯を守るみたいに。灯の油は減っている。けれど、次の一手を考える力は、まだある――そう確かめながら、静かに。
「だ、い、じょ、う、ぶ」
鏡の中の私が口を開き、五つの音をひとつずつ外へ渡していく。わずかな濁り。舌の位置。頬の筋肉の、知らない硬さ。最後の「ぶ」で、音が少しだけ濁った。濁っても、かろうじて言葉の形は保たれる。
「し、な、な、い、で」
――ここだけ、声帯が閉じた。音の手前で扉が落ちる。喉の内側に薄い金具が掛かって、うっかり勢いで開けたら戻ってこない気がして、手を伸ばす前に指が震えた。口のかたちだけが鏡の中で泳ぎ、音のない「し」が、曇ったガラスに白い指で書いた文字みたいに浮いた。私は蛇口をひねり、冷たい水を二口、流し込む。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。
登校。玄関の金具は湿気で重く、手の内側にぬるい感触を残す。廊下の空気は静かで、夏の終わりの諦観が薄く落ちていた。黒板には白いチョークで「二学期始業式まであと6日」。数字の6は、誰かが急いで書いたのか、尻尾の丸みが小さく震えている。私は席に座り、ペットボトルの水をひと口含んで、喉の金具の位置を確かめた。
「昨日、怖かったけどさ、三人だったから大丈夫だったね」
瑠衣が斜め前から振り返って言う。髪のゴムは朝の湿気を吸って少し伸び、こめかみの明るい産毛が風に見えないくらいの速度で揺れた。
「うん」
私は頷く。頷ける。でも、その頷きは喉の奥の叫びを誤魔化している。言えない言葉の塊が、扁桃腺のあたりで正しい重心を見失い、上下の間でぎゅう、と縮んだまま固まっている。机の裏で指を組み、爪の先で掌をそっと押して、体の内側に目印をつけ直す。右側、内側、明るい道、止まる、連絡――小さなルールを脳の端に並べ、息をひとつ整える。
一限のチャイムが終わって、私は図書室へ向かう廊下に出た。掲示板の片隅に、見慣れない赤い矢印がうねっている新しいポスターが貼られている。〈地域祭り交通規制のお知らせ〉。太い線が一本、既存の道を塞ぎ、別路線が強調されて太く描き足されている。矢印は「こちら」と親切に示しているのに、矢印の指す先には、必ず誰かの生活の細い路地があった。迂回が誰かの朝を細くし、帰路の光を少し遠くする。昨夜、川面で一瞬だけ逆流した灯の列が、頭の中でくり返し再生される。光が逆らって流れたほんのわずかな間、世界が薄く軋む音を、骨の奥でまた聞く。
昼休み。屋上。風が抜け、雲の影が校庭を横切る。フェンスが影を格子模様に落とし、シューズのゴム底が陽のあたったコンクリートから熱を受け取る。蓮がフェンスにもたれ、細い影を少しだけ長くしてから言った。
「結衣、最近、何か言いたいのに言わない顔、してる」
図星。私は笑って誤魔化すのをやめ、言葉の入口に手を置く。喉の金具に指をかけるように、ゆっくり。
「言いたい。ほんとは。けどさ、言ったら“守るため”じゃなく“縛るため”になる気がするんだ。『あの日はああして』『この道は通らないで』って……私の怖さを、君の足首に結ぶことになったら、って」
蓮は何も言わず、風の音に耳を合わせるみたいに黙って聞く。沈黙は私の言葉の外側に薄い膜を張り、言い終えた直後の浮遊をゆっくり受け止める。
「俺、たぶん、結衣の“縛られたくない”も、“守りたい”も、両方わかる」
蓮はそう言って、小さく笑った。笑いながら、目はよく見ている。
「だからさ――方法、探そう。言わないで守る方法」
言わないで、守る。無言の合図と、事前の地図。言葉の代わりに触れる場所。私は頷き、息をひとつ置く。
放課後、私たちは“落ち着く場所”リストを作った。地図を机いっぱいに広げ、蛍光ペンを三色。混雑時でも人が立ち止まりやすいベンチ、駅の静かな出口、神社の脇の空き地、駄菓子屋の店内――この夏、たびたび私が助けられてきた場所たち。地図の上で、そこに小さな丸と三角を交互に重ねる。丸は「寄っていい」。三角は「避ける」。瑠衣が途中で加わって、別の色で逃げ道を増やす。
「ページの端、どうする?」蓮が訊く。
「三回、折る。三回折ったら“ここに戻れ”の合図」
「三回ね」
私は手帳の端を実際に三回折って、折り目の厚みを指で確認した。厚みは頼りになる。祠のしめ縄の結び目――青い糸――と同じちょうどよさで、強く結びすぎず、ほどけもしない。
帰り道、踏切の警報音が強く鳴った。赤い光が点滅し、遠くで鈍い金属のうねりが近づいてくる。列車の風圧が頬を打ち、空気が前から押し寄せ、耳の中の小さな骨が低く震える。私は一歩下がり、喉の金具がまた落ちてくるのを感じる。「し……」と言いかけ――最後まで、言えない。言葉は金具の向こうに落ちて、舌の上に残った欠片だけが苦い。
代わりに、蓮の手を二度、強く握る。ぎゅ、ぎゅ。二拍の合図。蓮はすぐにわかった気配で、私の前に半歩出て、体で風の壁になった。肩と肩の間に生まれる小さな隙間に、私の呼吸の通り道ができる。列車が通り過ぎるまで、私たちは黙ったまま、その壁で立つ。金属の尾が遠ざかり、警報が終わる。音がふたたび散文に戻る。私は手をほどき、蓮の指の温度がまだ残っていることに救われた。
夜。自室。机の上の共通日記を開く。青い表紙は昼の湿気をすっかり吐き出し、指の腹を少し乾かした。私は「言えない言葉」を、ページの上に並べはじめる。
「怖い」「離れないで」「死なないで」「来年も」「十年後も」
書いたあとで、一本線で消す。消すことは、なかったことにするためではない。上に、別の言い方を重ねるために、いったん下地を準備する作業だ。下に、書き直す。
「守りたい」「一緒にいたい」「生きよう」「また夏へ」「老いるまで」
否定形から肯定形へ、作文を反転させる。反転は、嘘をつくことではない。同じ方向を別の地図で示すこと。地図は複数でいい。数秒後、ページの端に細い字が浮かんでくる。「肯定、好き」。蓮の癖に似た角度。けれど、ほんの少しだけ線の圧が軽い。軽さは、夜の涼しさみたいに、演技ではなく素のままの温度だ。
ふと、今日の屋上で言い損ねた言葉が喉の奥で裏返る。私はペンを置き、机の縁を指で撫でた。木目の溝に遅い影が流れ、窓の外で低く雷が鳴る。遠雷。空気はまだ切れないけれど、音だけが先に知らせに来る。私はベッドに横になり、目を閉じる。眠りの縁――薄い布の縁取りのような場所に、足の指先をそっとかけてから、心の中で初めてはっきり叫ぶ。
――死なないで!
声は外へ出ない。出ないのに、胸の内で反響するたび、涙が頬を伝う。水は暖かく、枕の布がそれを受け取る。叫びは、金具を越えないで、私の内側を何度も何度も往復する。往復するうちに、叫びの端が、別の形にほぐれていく。私はそのほぐれに合わせて囁く。
――一緒に生きよう。
肯定は、喉の金具を通り抜けるための合鍵だ。合鍵は、誰かに勝手に渡さない。けれど、私自身には渡していい。私は胸に手を置き、鼓動を数えた。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。数えるうちに、喉の内側で固かった金具がわずかに温まって、蝶番の油が行き渡る。窓の外で遠雷がもう一度、遠くなる。
目を開けずに手を伸ばし、共通日記のページの端に指を置いた。紙の繊維が、指の腹の温度と呼応するみたいに、ほんの少しだけふくらんでやわらぐ。ふ、と風もないのにページがめくれる。見えない力の指先が、紙の角をそっと持ち上げたみたいに。薄闇の中、インクの黒がわずかに光を拾い、「一緒に生きる」の文字が太字でなぞられていく筆圧の幻が見えた。誰かが、私の代わりに太く書き直してくれる。「叫べなかった声」は、別の形で世界に刻まれる。言えないときの私を通り抜け、紙の中のどこかへ届く。その経路の存在が、今夜は確かな支えだった。
翌朝の段取りを、まぶたの内側で並べる。右側。内側。明るい道。止まる。連絡。三回折ったら戻る。二回握ったら壁になる。屋上の風、図書室の椅子、駄菓子屋の缶、神社の石畳。落ち着く場所のリストを、脳の棚に戻す。祠のしめ縄の青い結び目――強く結びすぎず、ほどけもしない――を指の記憶でなぞる。私は深呼吸をひとつ、またひとつ。昨日より、すこしだけ正確に。秒針の音が、部屋の輪郭をていねいに測り直す。鳴らない風鈴の沈黙が、耳の奥でやわらかく広がる。
明日の私が言えないときのために、今夜の私が書いた。書いたものが私を守る。言えない言葉は、無力ではない。外に出ない声が、内側で道具になる。工具箱を閉じる音はしない。閉じたという事実だけが、胸の温度を半度上げた。私の「叫び」は、紙の厚みに吸収され、やがて、私の速度で外へ出る準備をするだろう。出るときには、きっと肯定のかたちで。
眠りに落ちる直前、遠雷がもう一度、今度はずっと遠くで鳴った。私は枕元のページに掌を平たく重ね、「ありがとう」と小さく言う。返事はない。ないのに、紙の奥のどこかで、繊維同士がやわらかく擦れ合う気配がした。青い糸の結び目が、ほどけも締まりもしない、ちょうどよさで息をする。その呼吸に合わせて、私は眠った。呻くでもなく、泣きじゃくるでもなく、ただ胸の真ん中の灯を守るみたいに。灯の油は減っている。けれど、次の一手を考える力は、まだある――そう確かめながら、静かに。



