週明けの朝、教室の空気はふつうに見えて、色だけがわずかに濃かった。黒板の端に残るチョークの粉が、いつもより粒立って見える。始業前のざわめきのなか、階段の踊り場から短い悲鳴がした。みんなの視線が一斉にそちらに向く。次の瞬間には、担任と保健委員が走っていって、一年生の女の子が両肘と手首を擦りむいて泣いていた。血はにじむほどで、骨は大丈夫そうだ、と先生が判断する。保健室へ連れていく途中、女の子は私と目が合い、泣き顔のまま、小さくうなずいた。私は同じ小ささでうなずき返す。
保健室の消毒の匂いは廊下の角まで届いて、すこし冷たい。私は胸の奥で短い音をひとつ立てる。――軽い、で済んだ。安堵はする。けれど、わかってしまう。世界のリズムはまだ凪いでいない。波形は小さく揺れ続けていて、たまたま今朝は、表層のひとすじが階段に触れただけだ。
ひとつ、ふたつ。深呼吸を数え、ノートの余白に、いつもの小さなリスト――右側、内側、明るい道、止まる、連絡――を書いて、鉛筆の腹でそっと薄める。薄めても、紙の繊維に残る白い痕が、そのまま今日の私の骨の裏に写る。
昼休み。写真部の掲示板の前に小さな人だかりができていて、私は胸の真ん中の重さを確かめるみたいに歩みを整えて近づいた。一次審査通過――一覧の真ん中に、蓮の「雨上がり」とタイトルのついた写真のサムネイルがある。濡れた石畳のうえに、提灯の赤が薄く揺れている。空気の水分まで写っているようで、私は思わず拍手した。蓮は後ろから耳を赤くして近づいてきて、「いや、たまたまやろ」と笑う。
「すごいよ」と私は言う。「あの、色の重さ。かっこよかった」
「結衣の“橋”も、かっこよかったのに」
「本番は灯籠流しで撮るから。あれは、練習」
自分で言って、胸の底に灯りがひとつ点くのを感じる。灯りは小さく、でも確かで、指で覆えば消えるけれど、ちゃんと呼吸している。
放課後、三人――私と蓮と瑠衣――で文具店に寄った。灯籠づくりの材料をそろえるためだ。紙の厚さを指の腹で確かめ、蝋燭の高さを目で量り、ひもはほつれにくいものを、重りは薄い鉛板と小石を試す。透明な接着剤の匂いが鼻の奥で甘く光り、棚に並ぶ色紙は、ふだんより正確に色の名前を名乗った。実用品を選ぶ時間が楽しい。楽しい、という感情が軽すぎない重さで胸に収まるのを、私は久しぶりに許せた。
「三人で願い事、言うんだよ」と瑠衣が言い、蓮はためらいなく「俺は“ちゃんと帰る”」と即答した。
「賛成」と私は言う。言葉にされることで、戻る道が目の上に薄く見える。瑠衣は笑って「わたしは“来年の夏の私たちが笑ってますように”」と付け足し、私は「じゃあ、私は“今を数えられますように”」と答えた。三つの願いは重なり、重なったところが少しだけ温かくなった。
帰路、踏切で赤い光が点滅し、数分の足止め。遠くから貨物列車が現れる。コンテナの側面に貼られた企業名や番号が次々と過ぎ、鉄の音が街を水平に切っていく。会話は自然に途切れ、三人の呼吸がそれぞれの長さで並ぶ。私はその切れ目に、「ひび」の形を重ねた。救われた未来は、手入れしないとすぐに割れる。割れてもすぐには崩れないけれど、雨が降ればそこから染みて、寒くなればそこから凍えていく。手入れは、今日やる。今日の手の温度で。
夜、家。夕食後、父がニュースをつける。画面の隅に進路予測図が出て、白い点線がいくつも枝分かれしながら弧を描く。台風の接近。日時は、八月十五日の前日から当日にかけて。喉の奥で心臓が一拍遅れる。ラーメンの湯気が視界の端でほどけ、テロップの青がやけに冷たい。
自室に戻って、共通日記を開く。「台風、来るかも」と書く。数秒の沈黙のあと、ページの下から細い字で問いが上がってくる。「来ても行く? 行かない?」
正直に「安全最優先」と書いた。強がりをやめるのは、勇気。任せる、のときに学んだ。任せるために準備すること、準備を祈りに編み直すこと。
翌日、台風は進路を少し東に逸れ、地域の防災情報は「注意」に下がった。開催見込み――胸をなでおろす。でも、廊下の掲示板の端に小紙片が新しく貼られているのが目に入った。「○○川で中学生が溺れかけ救助」。日付は昨日。未遂の事故。別の線で、別の誰かが危なかった。私は紙片の角を目で正し、指先で触れたい衝動をおさえた。触れていいのは、自分の責任の範囲だけ。
午後、神社で灯籠の予行をした。境内は人が少なく、風鈴の音がいつもより遠くで鳴っている。三人でペンをとり、各自の願いを書く。蓮は「結衣と瑠衣と、自分」。瑠衣は「三人それぞれの“来年の夏”」。私はペン先を宙で一度止め、紙の四角の真ん中に「また夏に会おう」と書いた。過去に置いてきたはずの合図。でも今は、未来に向けて。言葉は、置き場所で意味を変える。
その夜、私は夢を見た。川の水面に、ひとつだけ逆さに燃える灯籠。炎が、水の下で揺れている。逆さまなのに、消えない。近づこうとすると水が固く、足が進まない。手を伸ばしても、水はガラスのように冷たく、表面張力が強すぎる。目が覚めると、喉が乾いている。枕元の共通日記が少し開いていて、薄闇に目を慣らすと、ページの縁に「川に気をつけて」とある。誰の字か、判別できない。蓮の癖に似ている。でも、年齢の重さがある。時間が字に宿るとき、線は少しだけ震える。震えの形が、記憶の端と一致しない。
八月十五日。当日。空は薄曇り。風は穏やか。私はいつもより早く家を出て、右側、内側、明るい道、止まる――を心の端に並べ直しながら、自転車を押した。待ち合わせの角で、蓮のブレーキ音がひとつ、瑠衣のリュックの鈴がひとつ、私の心拍がひとつ。三つの音が交差して、短い和音を作る。三人で集合場所へ向かう。川辺には人が集まり始め、係員が注意事項を読み上げる。柵の内側に入って、安全な位置を確保。段取りは整っているのに、胸の底には微かなざわめきが残る。ざわめきは、すぐには名前を欲しがらない。だから私は、数えることにした。
流れ始める灯籠。川面に小さな光の列ができ、ゆっくりと曲がり角へ消えていく。笛の合図。係の声。子どもの笑い。私は「今」を数える。灯籠、十。子ども、三。笛の音、ひとつ。係の叫び、一回。――大丈夫。数えるあいだ、呼吸が正しく上下する。上下の間に、心臓がうなずく。
その瞬間、上流で歓声が上がった。続いて、小さなどよめき。何が起きたのか分からないまま、係員が走る。風が一段強くなり、川面の光が一瞬だけ逆流する。私の視界が狭まり、夢の中の逆さの灯籠がフラッシュバックする。膝がわずかに揺れ、私は柵を掴み、瑠衣の手を握った。蓮がもう片方の手を掴む。三人の輪ができる。指と指の間で、言葉にならない誓いが固まる。「離れない」。言わないけれど、言ったのと同じ強さで。
次の瞬間には風は弱まり、係員が振り向きざまに叫んだ。「大丈夫、流木がひっかかっただけ!」波紋が落ち着き、灯籠はまた静かに流れ出す。私は指の力を少しゆるめ、瑠衣の手がちゃんと体温を持っていることを改めて確かめる。蓮の親指の付け根の筋肉が、さっきまでの緊張で硬くなっている。彼はそれを隠さない。隠さない強さは、私にとって守りやすい。
終わってみれば、何も起きなかった。けれど、何かが起こりかけた。救われたはずの未来に、細かなひびが走る音を、私は確かに聞いた。ひびは、音のない亀裂ではなく、薄い紙を裏から撫でたときにできる、光の筋に似ている。光が走ると、たしかにそこは脆い。だからこそ、上から別の紙を重ね、端を糊で押さえる。薄い層を、重ねていく。
帰り道、三人で歩きながら、私は「止まる」を多めにした。信号の手前で一度、角を曲がる前にもう一度。瑠衣は気づいて「うん、それでいい」と小さく言い、蓮は何も言わずに同じ速度で並ぶ。言葉の代わりに、歩幅が合う。
夜。部屋に戻り、髪を乾かしてから机に座る。共通日記を開くと、ページの中央に、誰かの字でこうあった。「もうすぐ帰るね」。――帰る。どこへ? 喉が鳴る。帰るという言葉は方向を持つけれど、出発点と到着点は書かれていない。私のところへ? 夏へ? 過去へ? 結び目の向こう側へ? 私は震える指で「待ってる」と書き、ページを閉じた。閉じる前、紙の繊維がひと呼吸分だけ温かかった。温かさは灯りだ。胸の中の灯は、まだ消えていない。けれど、油は減ってきている。減り方が、今日の風の強さと似ている。
ベッドに横になり、暗闇に目が慣れていくのを待つ。秒針の音、冷蔵庫の低い唸り、遠くの道路のタイヤの音。音を一列に並べて、順番にゆっくり撫でていく。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。私は思う。次の一手を、そろそろ考えないといけない。ひびは見えた。見えたなら、補強する。補強のやり方は知っている。右側、内側、明るい道、止まる、連絡。今を数える。ごめんを減らす。ありがとうを増やす。任せるための準備を怠らない。祠の青い結び目を思い出す。強く結びすぎない、けれどほどけない、ちょうどよさ。
まぶたの裏に、今日の灯籠が戻ってくる。川面をゆく小さな四角い灯り。曲がり角でいったん集まり、またほどけていく。私は心のページをそっとめくり、そこに薄い紙を一枚、重ねて貼る。重ねた紙は透明で、元のひびが見えるまま、指の腹にだけ新しい手触りを残す。明日、また数えるために。明日、また、止まるために。明日、また、進むために。私は灯りの残り香を胸にしまい、眠りへと沈んだ。鳴らない風鈴の沈黙が、今夜の輪郭を最後まで守っていた。
保健室の消毒の匂いは廊下の角まで届いて、すこし冷たい。私は胸の奥で短い音をひとつ立てる。――軽い、で済んだ。安堵はする。けれど、わかってしまう。世界のリズムはまだ凪いでいない。波形は小さく揺れ続けていて、たまたま今朝は、表層のひとすじが階段に触れただけだ。
ひとつ、ふたつ。深呼吸を数え、ノートの余白に、いつもの小さなリスト――右側、内側、明るい道、止まる、連絡――を書いて、鉛筆の腹でそっと薄める。薄めても、紙の繊維に残る白い痕が、そのまま今日の私の骨の裏に写る。
昼休み。写真部の掲示板の前に小さな人だかりができていて、私は胸の真ん中の重さを確かめるみたいに歩みを整えて近づいた。一次審査通過――一覧の真ん中に、蓮の「雨上がり」とタイトルのついた写真のサムネイルがある。濡れた石畳のうえに、提灯の赤が薄く揺れている。空気の水分まで写っているようで、私は思わず拍手した。蓮は後ろから耳を赤くして近づいてきて、「いや、たまたまやろ」と笑う。
「すごいよ」と私は言う。「あの、色の重さ。かっこよかった」
「結衣の“橋”も、かっこよかったのに」
「本番は灯籠流しで撮るから。あれは、練習」
自分で言って、胸の底に灯りがひとつ点くのを感じる。灯りは小さく、でも確かで、指で覆えば消えるけれど、ちゃんと呼吸している。
放課後、三人――私と蓮と瑠衣――で文具店に寄った。灯籠づくりの材料をそろえるためだ。紙の厚さを指の腹で確かめ、蝋燭の高さを目で量り、ひもはほつれにくいものを、重りは薄い鉛板と小石を試す。透明な接着剤の匂いが鼻の奥で甘く光り、棚に並ぶ色紙は、ふだんより正確に色の名前を名乗った。実用品を選ぶ時間が楽しい。楽しい、という感情が軽すぎない重さで胸に収まるのを、私は久しぶりに許せた。
「三人で願い事、言うんだよ」と瑠衣が言い、蓮はためらいなく「俺は“ちゃんと帰る”」と即答した。
「賛成」と私は言う。言葉にされることで、戻る道が目の上に薄く見える。瑠衣は笑って「わたしは“来年の夏の私たちが笑ってますように”」と付け足し、私は「じゃあ、私は“今を数えられますように”」と答えた。三つの願いは重なり、重なったところが少しだけ温かくなった。
帰路、踏切で赤い光が点滅し、数分の足止め。遠くから貨物列車が現れる。コンテナの側面に貼られた企業名や番号が次々と過ぎ、鉄の音が街を水平に切っていく。会話は自然に途切れ、三人の呼吸がそれぞれの長さで並ぶ。私はその切れ目に、「ひび」の形を重ねた。救われた未来は、手入れしないとすぐに割れる。割れてもすぐには崩れないけれど、雨が降ればそこから染みて、寒くなればそこから凍えていく。手入れは、今日やる。今日の手の温度で。
夜、家。夕食後、父がニュースをつける。画面の隅に進路予測図が出て、白い点線がいくつも枝分かれしながら弧を描く。台風の接近。日時は、八月十五日の前日から当日にかけて。喉の奥で心臓が一拍遅れる。ラーメンの湯気が視界の端でほどけ、テロップの青がやけに冷たい。
自室に戻って、共通日記を開く。「台風、来るかも」と書く。数秒の沈黙のあと、ページの下から細い字で問いが上がってくる。「来ても行く? 行かない?」
正直に「安全最優先」と書いた。強がりをやめるのは、勇気。任せる、のときに学んだ。任せるために準備すること、準備を祈りに編み直すこと。
翌日、台風は進路を少し東に逸れ、地域の防災情報は「注意」に下がった。開催見込み――胸をなでおろす。でも、廊下の掲示板の端に小紙片が新しく貼られているのが目に入った。「○○川で中学生が溺れかけ救助」。日付は昨日。未遂の事故。別の線で、別の誰かが危なかった。私は紙片の角を目で正し、指先で触れたい衝動をおさえた。触れていいのは、自分の責任の範囲だけ。
午後、神社で灯籠の予行をした。境内は人が少なく、風鈴の音がいつもより遠くで鳴っている。三人でペンをとり、各自の願いを書く。蓮は「結衣と瑠衣と、自分」。瑠衣は「三人それぞれの“来年の夏”」。私はペン先を宙で一度止め、紙の四角の真ん中に「また夏に会おう」と書いた。過去に置いてきたはずの合図。でも今は、未来に向けて。言葉は、置き場所で意味を変える。
その夜、私は夢を見た。川の水面に、ひとつだけ逆さに燃える灯籠。炎が、水の下で揺れている。逆さまなのに、消えない。近づこうとすると水が固く、足が進まない。手を伸ばしても、水はガラスのように冷たく、表面張力が強すぎる。目が覚めると、喉が乾いている。枕元の共通日記が少し開いていて、薄闇に目を慣らすと、ページの縁に「川に気をつけて」とある。誰の字か、判別できない。蓮の癖に似ている。でも、年齢の重さがある。時間が字に宿るとき、線は少しだけ震える。震えの形が、記憶の端と一致しない。
八月十五日。当日。空は薄曇り。風は穏やか。私はいつもより早く家を出て、右側、内側、明るい道、止まる――を心の端に並べ直しながら、自転車を押した。待ち合わせの角で、蓮のブレーキ音がひとつ、瑠衣のリュックの鈴がひとつ、私の心拍がひとつ。三つの音が交差して、短い和音を作る。三人で集合場所へ向かう。川辺には人が集まり始め、係員が注意事項を読み上げる。柵の内側に入って、安全な位置を確保。段取りは整っているのに、胸の底には微かなざわめきが残る。ざわめきは、すぐには名前を欲しがらない。だから私は、数えることにした。
流れ始める灯籠。川面に小さな光の列ができ、ゆっくりと曲がり角へ消えていく。笛の合図。係の声。子どもの笑い。私は「今」を数える。灯籠、十。子ども、三。笛の音、ひとつ。係の叫び、一回。――大丈夫。数えるあいだ、呼吸が正しく上下する。上下の間に、心臓がうなずく。
その瞬間、上流で歓声が上がった。続いて、小さなどよめき。何が起きたのか分からないまま、係員が走る。風が一段強くなり、川面の光が一瞬だけ逆流する。私の視界が狭まり、夢の中の逆さの灯籠がフラッシュバックする。膝がわずかに揺れ、私は柵を掴み、瑠衣の手を握った。蓮がもう片方の手を掴む。三人の輪ができる。指と指の間で、言葉にならない誓いが固まる。「離れない」。言わないけれど、言ったのと同じ強さで。
次の瞬間には風は弱まり、係員が振り向きざまに叫んだ。「大丈夫、流木がひっかかっただけ!」波紋が落ち着き、灯籠はまた静かに流れ出す。私は指の力を少しゆるめ、瑠衣の手がちゃんと体温を持っていることを改めて確かめる。蓮の親指の付け根の筋肉が、さっきまでの緊張で硬くなっている。彼はそれを隠さない。隠さない強さは、私にとって守りやすい。
終わってみれば、何も起きなかった。けれど、何かが起こりかけた。救われたはずの未来に、細かなひびが走る音を、私は確かに聞いた。ひびは、音のない亀裂ではなく、薄い紙を裏から撫でたときにできる、光の筋に似ている。光が走ると、たしかにそこは脆い。だからこそ、上から別の紙を重ね、端を糊で押さえる。薄い層を、重ねていく。
帰り道、三人で歩きながら、私は「止まる」を多めにした。信号の手前で一度、角を曲がる前にもう一度。瑠衣は気づいて「うん、それでいい」と小さく言い、蓮は何も言わずに同じ速度で並ぶ。言葉の代わりに、歩幅が合う。
夜。部屋に戻り、髪を乾かしてから机に座る。共通日記を開くと、ページの中央に、誰かの字でこうあった。「もうすぐ帰るね」。――帰る。どこへ? 喉が鳴る。帰るという言葉は方向を持つけれど、出発点と到着点は書かれていない。私のところへ? 夏へ? 過去へ? 結び目の向こう側へ? 私は震える指で「待ってる」と書き、ページを閉じた。閉じる前、紙の繊維がひと呼吸分だけ温かかった。温かさは灯りだ。胸の中の灯は、まだ消えていない。けれど、油は減ってきている。減り方が、今日の風の強さと似ている。
ベッドに横になり、暗闇に目が慣れていくのを待つ。秒針の音、冷蔵庫の低い唸り、遠くの道路のタイヤの音。音を一列に並べて、順番にゆっくり撫でていく。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。私は思う。次の一手を、そろそろ考えないといけない。ひびは見えた。見えたなら、補強する。補強のやり方は知っている。右側、内側、明るい道、止まる、連絡。今を数える。ごめんを減らす。ありがとうを増やす。任せるための準備を怠らない。祠の青い結び目を思い出す。強く結びすぎない、けれどほどけない、ちょうどよさ。
まぶたの裏に、今日の灯籠が戻ってくる。川面をゆく小さな四角い灯り。曲がり角でいったん集まり、またほどけていく。私は心のページをそっとめくり、そこに薄い紙を一枚、重ねて貼る。重ねた紙は透明で、元のひびが見えるまま、指の腹にだけ新しい手触りを残す。明日、また数えるために。明日、また、止まるために。明日、また、進むために。私は灯りの残り香を胸にしまい、眠りへと沈んだ。鳴らない風鈴の沈黙が、今夜の輪郭を最後まで守っていた。



