午後の校庭は、湿気で土が低く鳴っていた。空は鉛色。まぶたの裏側にまで水気が入り込んできて、視界の輪郭がほんの少しだけ鈍る。廊下の掲示板、気象部のプリントには手書きの赤で「夕立注意」。その四文字を目でなぞると、肺の奥の方で見えない針が小さく跳ねた。世界が洗い流される瞬間が来る――そんな予感が体の表面ではなく、骨の彫り込みのあいだからゆっくり滲み出して、背中へ広がっていく。

 五限の終わり、教室の空気は黒板消しの粉と汗の匂いであたたかく膨らんで、扇風機が回るたびにもわり、と揺れた。私はノートの余白に、癖になっているリスト――右側、内側、明るい道、連絡――を小さく書く。書いて、鉛筆の腹でそっと撫でて薄める。薄めた文字は、消えたふりをして紙の繊維に残り、そこに指先を当てると、わずかに光って見えることがある。光は、今ここに在るための印だ。

 放課後、蓮と商店街で待ち合わせをした。アーケードは古く、蛍光灯の白がいちいち人の肩に貼りついては剥がれ、貼りついては剥がれる。空気が肌に張り付く。アイスの看板の青がやけに遠く、クレープの甘い匂いが近すぎる。空はまだ堪えているけれど、色の根っこがすでに濡れて重く、音が少しだけ遅れて聞こえる。

「よー」と蓮。白いTシャツの肩に、最初の一滴が落ちて丸い斑点を作る。私の頬にも、ぴ、と冷たい針が触れたかと思うと、次の瞬間には豪雨だった。雨は遠慮なく、最初から本気で落ちる。天井から漏る隙間風のような前置きはなく、ただ音だけが世界の主語になって、すべての会話と音楽と足音を一段下に押し込めた。

「こっち!」と蓮が言うのと、私たちが同時に軒先へ駆け込むのとは、ほとんど同時だった。けれど同じタイミングで避難しようとする人の群れが押し込んできて、一瞬だけ、肩と肩のあいだに見えない波が立ち上がった。背中に押す力。前に動けと命じる圧。誰かの傘が私の腕に冷たい輪郭を刻み、かばんの角が腰に当たる。去年の花火の、あの圧迫感の再演。肺が縮む。視界が白くなる。喉が、空気の場所を忘れる。

 その瞬間、手首に確かな力がかかった。蓮の指。掴まれて、引き寄せられる。誰かの肩と傘の先のあいだをすり抜け、Tシャツの胸元に抱き込まれた。雨に濡れて温度を少し失った布の向こう側に、濡れてもなお熱を持つ体温がいる。体温の輪郭が、世界を復元する。音は雨。匂いは湿ったコンクリートと、砂糖の気配。私は、ここにいる。

「大丈夫」と耳元で蓮が短く言った。言葉は短いほど芯が強い。背中に置かれた手は、濡れたタオル越しに、規則正しいリズムで叩く。「吸って、吐いて。いっしょに。ほら、雨、見て。音、聞いて」

 私は言われた通りにした。吸う。吐く。吸う。吐く。吸う――視線を外へ移す。軒先のすぐ前で、雨粒が地面を打って跳ね、斜めに滑って流れる。水たまりの輪が重なるところでは、輪の縁がせめぎ合い、勝った輪が少しだけ色を濃くする。排水溝の口へ一斉に集まっていく細い筋。排水の格子に抱きとめられて、泡が白く砕ける。その白は、不思議と、さっきまでの視界の白よりやわらかくて、目が受け入れやすい。

「いいよ、そう。大丈夫、ちゃんと吸えてる」と蓮。声の振動が胸骨に伝わって、骨の内側で薄く紙がめくれるみたいな音がする。私はその音に耳を澄ませる。

「若いの、風邪ひくなよ」軒先のガラス戸が開いて、店主がタオルを差し出した。年季の入った指の節が、濡れた布の重さに慣れている。「これも、持っていき。温かいの、まだ箱から出したばっかや」

 手渡されたのは温かい缶ココアだった。指に触れた金属の熱が、ほんの少しだけ強すぎて、それが逆に安心を増やす。私は「あ、ありがとうございます」と言って、頭を下げる。蓮も「すみません」と続ける。店主は「いいんだよ、こんな日はお互いさま」と笑って、私たちを店内の端に通してくれた。

 ガラス戸の内側は、昔ながらの駄菓子屋だった。棚にはカラフルな小箱が並び、ラムネ瓶の胴に貼られたラベルは少し色褪せ、ガチャガチャの機械は透明の球をいくつか抱いたまま静かに構えている。湿った空気に、砂糖の匂いが溶けていた。冷房は弱く、湿気は抜けないのに、安心だけが濃度を増す。

 缶のプルタブを引く音は短く、甘い熱が喉を落ちて胸の中央に丸い灯りを点す。店のテレビから流れるローカルニュースは、雨音の壁に跳ね返されながら店内に拡散してくる。「週末の海岸で波浪注意」。私の胸の奥で、別の警報音が小さく鳴る。モニターの青い帯を見ながら、遠くで点滅する“次の境界”を思う。海。あの日の朝の水色。灯台の階段。――境界は薄くなったり厚くなったりする。厚くしていく手触りを、今日も取り戻す。

 雨は強弱を繰り返し、ガラスの向こうを走る人影の速さが、たびたび世界のテンポを変える。店主に礼を言って、雨脚が弱まった隙に、私は蓮と顔を見合わせた。「行こか」「うん」。駄菓子の棚の角を避けるみたいに、私たちは走った。

 神社までの短い距離が、やけに長い。舗道のレンガの隙間から、雨が細い筋を立て続け、溜まった水を蹴ると、泥の跳ねがふくらはぎに小さく星座を作った。鳥居をくぐる。境内は雨で洗われ、石畳が鏡みたいに空を映している。空は鉛のままなのに、鏡の中では少しだけ明るい顔をしている。祠の前で足が止まった。しめ縄の結び目は、今日も、青い糸に見える。雨粒が縄の毛羽にとどまり、そこだけ光の点を作る。

「私、誰かの願いを踏んでないかな」私は正直に吐き出した。昨日の紙片――〈明日、無事に帰れますように〉――に書かれた鉛筆の角度が、今ここで濡れて重くなる感覚。その紙を踏まずに歩いたはずなのに、私の息の重みのほうが、誰かの願いを押し潰していないか怖くなる。

 蓮は少し考えて、祠の屋根から垂れる水滴を一粒見送ってから言った。「願いは増えると強くなる。踏んでない。むしろ重ねてる。俺らのも、誰かのも。重なったぶんだけ、厚みが出るんちゃう?」

 厚み。私はうなずき、二人で掌を合わせた。指の間にまだ雨の冷たさが残っている。「来年も、その先も。ちゃんと帰る」声に出して、言葉を紙に書くみたいに、空気の上へ置く。置いた言葉は、しばらくそこで呼吸して、やがて私たちの中に入っていく。

 ポケットの中でスマホが震えた。画面には瑠衣の名前。「結衣? 大丈夫? 今、すごい雨でさ。蓮くんといる?」

「いる。無事。ありがとう」

「よかった。あのさ、商店街の角のところ、すぐ水溜まるから気をつけてね。……変なこと言うけど、なんとなく、 今日は『止まる』を多めにしよ」

「うん。止まる、ね」

 声の向こうの心配が、柔らかい膜みたいに私を包む。膜は薄いのに、圧に強い。やさしさは、薄いほうが、意外と丈夫だ。

 神社を出ると、雨は小雨に落ち着いていた。二人はわざとゆっくり歩く。走れるのに走らない、という選択を、筋肉に覚えさせる。泥跳ねが足首に小さな点々を増やし、街灯の反射が路面に揺れる帯を長く伸ばす。濡れた葉の匂いは、ほんの少しだけ苦味を増して、夏の深部に近づく。

 歩幅を合わせていると、蓮がふいに言った。「結衣、もしもさ、あと一回だけ過去を変えられるって言われたら、何する?」

 私は立ち止まり、雨の滴る睫毛の重さを感じる。質問は軽くて、重い。重いのに、持てる。

「……今の『ありがとう』を、もっと言う。未来のためじゃなくて、今のために」

 言ったあと、胸の中のどこかで鍵がひとつ回る音がした。蓮は「ええな」と言って、笑った。「じゃ、俺は『ごめん』を減らす。ごめんの代わりに、『助かった』って言うわ」

「助かった、か」

「今日のココアもさ。あれ、『助かった』やろ」

「うん。助かった」

 私たちは、助かった、をいくつか拾いながら帰路を行く。コンビニの前で立ち止まり、信号の青が点滅しても走らずに待つ。青がまた戻るのを眺める。戻ってくる青は、行きよりも少し落ち着いた顔をしている。

 夜。部屋に戻って、濡れた前髪から落ちた水滴が、共通日記のページに落ちた。インクの線が少し滲む。私は「ありがとう」を何度も重ねて書く。行を変えて、重ねる。重ねて、角度を少しずつ変える。言葉の重なりは、いつか結び目になる。結び目は、ほどけにくくなるかわりに、強く引くと、痛む場所を正しく教えてくれる。

 数呼吸遅れて、ページの下から文字が上がってくる。「こっちこそ、ありがとう」。いつもより線の圧がやわらかく、滲んだ水のふちで雲の縁みたいに広がる。私は目の端で笑い、泣き、指先でその縁に触れた。濡れた紙は簡単に破れるから、触り方を知っていないといけない。そっと。指の腹の温度は、紙の温度とすぐに馴染んだ。

 机の端で、スマホが短く鳴った。写真部の募集締切の通知。「今週末 エントリー〆切」。私は短く息を吸い、決める。――“この夏の写真”で応募する。勝ち負けじゃない。今を、証拠として残す。フォルダを開く。海の朝、灯台の踊り場、境内のベンチ、橋の欄干の「約束」、昨日の夜空、今日の雨で濡れた石畳。去年の構図に重ねた写真も、今年だけの角度の写真も。並べてみると、画面の中の私たちは、ほんの少しずつ、ちがう人に見えた。違いは不安ではなく、息の長さの違いのようで、見ていてほっとする。

 髪をドライヤーで半分だけ乾かして、電気を消す。窓の外の雨は、もう音にならないほど細い線に変わっている。風鈴は鳴らず、秒針の進む音だけが部屋の形を正しく測っている。目を閉じると、背中にまだ蓮の掌の熱が残っていた。タオル越しの叩くリズム、吸って、吐いて、の合図。呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、すこしだけ正確に。世界は、しっかり実体を持っていた。指の間のわずかな空気さえ重さがあり、胸の中の小さな結び目が青いままでいる。

 眠りの縁で、私は今日をもう一度、低い声で読み上げる。湿った掲示板、豪雨の白、軒先の熱い缶、駄菓子の砂糖、ローカルニュースの青、石畳の鏡、祠の青い結び目、電話の向こうの瑠衣の膜、泥跳ね、街灯の帯、濡れた葉の匂い、ありがとう、助かった、ありがとう――ページをめくる音が、骨の奥でやわらかく続く。やがて音は遠のき、私はそのまま、今日の証拠に背中を預けて眠った。明日、また「今を数える」ために。明日、また「止まる」を多めにするために。明日、また、走るために――走らないでいるために。