翌朝の空気は、昨日までと同じ匂いがするのに、色だけがすこし鮮やかに見えた。洗面所の鏡に映る自分の顔も、いつもの配置のままなのに、輪郭の線だけ鉛筆を一本新調したみたいに細く濃い。台所に行くと、味噌汁の湯気は低い位置で丸まり、テーブルの木目に沿ってほどけていく。私は意識してゆっくり食べた。米を十回、二十回と数えて噛む。飲み下す間に、背中の骨を一本ずつ並べ直すみたいに息を通す。母の「行ってらっしゃい」に、「行ってきます」を重ねる。玄関で靴紐を結び直す手が微かに震えて、深呼吸で整える。ひとつ、ふたつ。昨日より、ほんの少しだけ正確に。

 通学路。右側を歩く。交差点の手前で一度止まって、青になっても走らない。何度も稽古した小さな所作が、今朝は体のほうから先に出てくる。学校の門をくぐる時、門柱の石がいつもより明るい灰色に見えた。昇降口の金属の取っ手は、昨夜の風を少しだけ閉じ込めていて、握ると指の腹に冷たさが等間隔に散った。

 教室。ざわめきは、いつもの火加減。黒板はチョークの粉で白い斜めの薄い霧をまとっている。私はまだ誰にも声をかけず、自分の席の横を通って、彼の方へ無言の目配せを送る。蓮は遅刻も怪我もなく席に着いて、欠伸をひとつ。いつも通りの、少し間の抜けた顔。それから、当たり前の調子で言う。「昨日、楽しかったな」

 私は笑って頷く。その当たり前の調子に、胸の内側で小さく「生きてる」と反芻する。言葉は体に浸透するまで時間がかかる。今朝のそれは、吸い込んだ空気に混ざって肺の内側に一度貼りつき、背中の方へ静かに透過した。

 一限後の余白を見計らって、図書室へ。夏の終わりの光が斜めに差し、机の木目の凹凸がくっきり浮き上がっている。窓際の、いつもふたりで座る場所。椅子を引く音がやわらかい。遠くで司書さんが蔵書カードを指で揃える小さな音がして、ページをめくる誰かの爪が紙を撫でる。空調は紙のための温度を保ち、呼吸の長さを少し延ばす。

 蓮は写真の基礎本を開き、三分割法の図を指の腹でなぞった。指は、指のくせに、目よりも先に構図の正しさを見つけてしまう。私はノートを開いて、ページの端に昨夜の時刻を書いた。二十時四十……書いて、消す。消して、また書き足す。ほんの数分、鉛筆の芯で何度も上書きする。昨日のあの時刻を、別の形で「上書き」する儀式。消しゴムのカスが小さな白い削屑になって集まり、机の木目の谷間に寄せ集まっていく。

「さ」蓮が唐突に言った。「なんか最近、書いてる?」

 私は顔を上げる。問いは軽い声の色をしているのに、真ん中だけ少し重い。彼は笑って続ける。「作文とか、日記とか。なんかさ、言葉の選び方、前よりやさしくなった気がして」

 図書室の静けさが、急に増幅されたみたいに心臓の音を大きくする。共通日記のことを、どこまで話すべきか。話すことは「告げる」だ。告げることは、責任を引き受けること。私は昨日の評論の一節を思い出しながら、言葉の形を慎重に選ぶ。

「交換ノートの続き、ひとりでやってる」私は言った。嘘ではない真実。真実ではない嘘。境界の幅の中で許される表現。

「俺も、書いてる。前よりたぶん、ちゃんと」

 それだけ言って、彼は視線を落とし、ページの角を指で整えた。言い足さない、という選択も、やわらかい正直さの一種だと知る。テーブルの中央に透明な皿が置かれていて、そこに二人の“秘密”が、それぞれ包み紙の上からそっと重なって置かれる想像をする。包み紙は青い糸の柄で、結び目は強すぎず、ほどけすぎもしない。

 私は席を立ち、司書台のそば――民俗学の棚へ。前に借りた『境界の民話』の別刷が新しく追加されている。背表紙は薄い黄土色、紙は厚みのわずかに違う手触り。手に取って開くと、以前見た箇所に新しい付箋。角度が、あの斜めの癖に似ている。胸が先に反応する。章題は「通り過ぎた凶日」。見出しの下に、本文はこう続いていた。〈凶日は、約束の連なりで弱まる。ただし、別のひずみが別の日に生じることがある〉。行末に鉛筆で小さな書き込み。〈橋→回避/代償=?〉。字の角が、彼の筆跡の角度に似ている。似ているだけだ、と自分に言い聞かせるのに、喉が乾く。私は蓮に見られないよう、そっと閉じて棚に戻した。紙の匂いが一瞬、浮いて、すぐに棚の暗がりに吸われる。

 戻ると、蓮はページから顔を上げずに言った。「風、どう撮るんやろな」

「揺れてるものを、揺れてないもので囲む」と私は答える。「木の葉の裏側、カーテンの裾、水面の縞」

「なるほど」と蓮は笑い、私の言葉の一部をポケットに入れるみたいに目を細めた。

 昼休み、屋上へ。風が強くて、気持ちいい。空は昨日の煙を使い切って、別の透明を仕入れてきたみたいだ。フェンスの影が地面に格子の涼しさを落とし、髪が横に流れる。蓮がスマホを構える。「風、撮れるかな」

「撮れてるよ」と私は画面を覗く。そこに映る二人は、去年より少し大人びて見えた。輪郭の内側に余白が生まれて、言葉を置きやすくなっている。

「結衣、ありがとう」蓮が小さく呟く。「昨日、帰り、人混みで止まろうって言ってくれて。なんかさ、あの瞬間、世界が逸れる音がした」

「逸れたね」と私は返す。言葉の選び方が、昨日の夜からすこし変わった気がする。世界が逸れる音は、耳でなく骨で聞く種類の音だった。骨の奥で、薄く乾いたページがめくれるみたいに鳴る。鳴ったあと、風がひとつ増える。

 午後の授業の間、私は板書の横に小さく「通り過ぎた」と書いて、すぐに上から数式で埋めた。黒板の前に立つ先生の声は一定で、時計の秒針は右へ右へ同じ歩幅を続ける。日常は規則でできている。規則は、守るときより見つけるときのほうが、体の奥で音がする。

 放課後、瑠衣が寄ってきた。教科書を横抱きにして、いつもの軽さを口にぶら下げている。「昨日、めちゃくちゃリア充やん。写真見せよ?」

「やだ」と私は笑ってごまかす。「顔、むくんでるから」

「むくんでるのも含めて、はい尊い〜」

「そういうラベル、返品不可でしょ」

 ふたりで笑う。普通のからかいに救われる。日常の軽さは、よくできた救命具みたいにちゃんと浮く。浮くことが、泳ぐ力を戻してくれることもある。

 帰宅後、いつもの順に荷物をほどき、手を洗い、コップに水を入れる。窓の外はまだ明るく、風鈴は今日、鳴らない。机に座り、共通日記を開く。青い表紙は昨夜よりも乾いて、指先を軽く滑らせる。ページの上部に「通り過ぎた」と書く。続けて、図書室で見た文の一節を転記する。〈凶日は、約束の連なりで弱まる。ただし、別のひずみが別の日に生じることがある〉。書き終える。数呼吸遅れて、ページの端に細い字が浮かぶ。〈代償=?〉――昼間、余白に見たのと同じ書き込み。濃さは昨日の「守った」より少し浅い。浅いのに、輪郭は迷いがない。誰の手だろう。今ここにいる蓮の、未来の、あるいは、約束の向こう側のだれかの。私は息をひとつ長く吐き、鉛筆で小さく円を描いて囲む。問いを問いのまま机の上に置く。答えに触る前に、問いの温度を測る。

 夜。風呂上がりの髪をタオルで挟んだまま、ベッドの縁に腰かける。外は、祭りの余韻をすっかり手放していて、音の不在が夜の形を整える。電気を消すと、天井の角にだけ薄い濃淡が残り、目を閉じる前のひと呼吸ぶんの迷い場になる。寝入りばな、耳のずっと奥で紙をめくる音がした。枕元の共通日記は閉じたまま。なのに、別の本のページがひとりでにめくれている気配。電気をつける。何も動いていない。消す。また、音がする。恐怖より先に、「読まれている/読んでいる」という双方向の感触が勝った。ページは向こうからこちらを読み、こちらも向こうを読む。読むことは、境界の幅の真ん中で目を合わせる作法だ。

「ありがとう。明日も、普通でいよう」私は低く囁く。囁きは布団の繊維に吸われ、ゆっくりほどけて、空気の底で丸くなる。返事はこない。こないのに、胸の内側でページが一枚、確かに裏返る。眠りの入口は、今日は広くて浅い。私はその浅瀬に片足を入れ、深い方へ重心を移す。重心が水に沈む瞬間、指先で見えない結び目に触れた気がした。青い糸。強く結びすぎず、ほどけもしない、ちょうどよさ。

 翌日の準備を頭の隅で点検する。右側、内側、明るい道、連絡。声に出さずに置き直すだけで、体の奥の器官が正しく返事をする。私は呼吸を数える。ひとつ、ふたつ。昨日より、ほんの少しだけ正確に。まぶたの裏には、昼間の屋上で彼が言った「逸れる音」が薄い線で描かれている。線はまっすぐではなく、かすかに撓み、撓んだ先で別の線と重なる。重なった場所に、秘密は置かれる。秘密は、誰かを傷つけるためではなく、今日を守るための厚みだ。厚みがあるから、ページは簡単には破れない。

 遠くで、小さな車のドアが閉まる音。冷蔵庫の唸り。秒針。音の列の最後尾で、紙がまた一枚、めくられた。私はその音を、怖れの方へではなく、感謝の方へ分類する。感謝は、眠りの材質を柔らかくする。柔らかさは、明日の普通を支える。普通は、選ぶものだ。選び続けるものだ。私はそう思いながら、ページの中に吸い込まれていくように眠りへ落ちた。落ちていく間、胸の奥で、昨夜の二文字がもう一度はっきり光る。「守った」。光は小さく、けれど確かで――その小ささのまま、私を温めた。