「どうしてこんなことをしたの?」
再びダイニングテーブルに座った霧子と頭に保冷剤を当てた直也は、気まずい面持ちで向かい合っていた。
「霧子を怖がらせれば俺を頼るようになるから、早く同棲ができると思ったんだ。」
「じゃあ、あの非通知の電話や暗号も直也だったの?」
「それは違う。
でも、霧子を怖がらせるには丁度いい材料だと思ってた。」
間接照明に照らされた直也の顔半分に翳りが出来ている。
血管の浮き出た直也の大きな手の甲を見ながら、霧子が低く呻いた。
「げんくんも居るのに?」
「げんくんが居るからだよ。」
スッと顔色を変えた直也の口調が変わった。
「霧子が昔のトラウマで虐待児されたげんくんに同情しているのは理解できる。
でも、プライベートで預かるとなると話は別だ。
でも、どうせ霧子は頑固だから聞く耳を持たないだろ? だから…。」
「だから夜中に黒いパーカーを着て、狂ったみたいに玄関のドアを叩くの?
サイテーだねッ!」
早口でまくし立てた霧子は、目に涙を浮かべて立ちあがった。
「別れましょう。」
「オイ、ちょっと待てよ。」
「もう無理。こんな人だとは思わなかった。 帰って。
二度と会わない。」
「俺が、こんなに愛してるのに?」
「聞きたくない。」
直也の顏に絶望が浮かび、みるみるうちにその顔色が朱色に染まった。
「これもみんな、アイツのせいなんだな。」
「なに?」
「アイツさえ居なくなれば…。」
怒り狂った直也は勢いよく寝室のドアを蹴破り、布団で寝ていた元希に覆いかぶさった。
「なによ、何をする気なの⁉」
直也は躊躇することなく、太い腕と大きな手で元希の細い首を絞め上げた。
元希は目を覚まして状況を理解したようだが、声も出せずに小さな手足をバタつかせ、やがて力なくうなだれた。
「や…。」
♢♢
フラッシュバックする記憶。
セピア色の霧子の父親が、直也と同じ形相で幼い霧子にのしかかる。
♢♢
その時霧子の中で、何かが弾けた。
「やめてーッ!」
霧子は持っていたバットを振りかぶったその勢いのまま、直也の頭を目がけて打ちおろした。
打ち付けては振り下ろし、打ち付けては振り下ろしを繰り返す。
何回も
何回も
ガンガン ガンガン
ガンガン …
どれほどの時間が過ぎただろうか。
直也はついに、ピクリとも動かなくなった。
♢ ♢
血生臭い匂いと排泄物の異臭。
うつ伏せになった直也の、真っ白な顏と床に伸びた手。
霧子は止まらない吐き気と震えに動けなくなっていた。
「どうしよう…。」
その時、布団の上の元希が咳込みながら起き上がった。
「げんくん!」
「きりせんせー…お兄ちゃんは?」
「怖かったでしょ。でも、もう大丈夫。」
「やっつけてくれたんだね。」
「うん…もう動かない。」
「死んだ?」
「…分からない…!」
霧子は力なく崩れ落ちた。
涙が止まらない。
「泣かないで、せんせー。
ぼくがいいこと教えてあげるから。」
元希がポケットから出した物を霧子の手に握らせた。
「燃やしちゃえば?」
「え?」
霧子の手の平にある使い捨てライターの中の液化ガスが、小刻みに揺れる。
「こども園でごみの工場見学に行ったでしょ。
あれみたいにぼくのお母さんも燃やしたら楽だった。」
「なにを…言っているの? げんくんのお母さん、まだ生きてるでしょ?」
「あの人はお母さんじゃない。ママだよ。」
「え?」
「今、家に居るのはママ。」
ピリピリピリピリ
霧子のスマホの着信が鳴る。 相手は山下だった。
「は、はい。」
「霧子先生、落ち着いて聞いてね。やっぱりげんくんの家、おかしかったわ!」
頭の整理が出来ない霧子は、山下の言葉をすぐに理解出来なかった。
「それ、どういう意味ですか?」
「佳苗と早苗は双子の姉妹だったの。 姉の佳苗は昔から虚弱体質で、げんくんを産んだ後は妹の早苗がげんくんを預かることが多かったんだけど、今年の春に早苗は火事が原因で亡くなっている。
でも、佳苗の家を古くから知る町内会の会長さんが、双子の見分け方を知っていて、葬儀の時に見たのは死んだはずの早苗だったって言っているの。」
「ま、待ってください!」
霧子は慌てて元希の通学カバンから母子手帳を取り出した。
生まれたばかりの元希を抱く母親が写っている写真が差し込まれている。
「見分け方ってなんですか?」
「首元に大きなホクロがあるの。」
霧子の記憶が正しければ、佳苗の首にホクロはない。
写真の中で微笑む母親のホクロは、思っていたよりも目立つものだった。
「 例えばだけど、保険金目当てで姉妹が入れ替わっている…ということもあるかなって。」
「入れ替わった?」
霧子は受話口を押さえながら元希を見た。
元希は霧子の方を向いているものの、目線はどこか遠くを映していた。
「げんくんのお母さん、げんくんをイジメたんだ。 ぼくが怖いって。 産まなきゃ良かったって。」
「怖い?」
「お母さんが悪いのに。ぼくよりココちゃんを可愛がったりするから。 ぼくがココちゃんをバキバキに折ってトイレに流したら、大きな声で怒ってぼくを叩いたんだ。」
元希のスーツケースの荷解きをした時に見たアルバムの、トイプードルと元希が一緒に映る写真が霧子の頭をかすめる。
元希は相変わらずあさっての方向を見ながら、ペラペラと饒舌に喋り続けた。
「ぼく、すごくムカついた。
だから、お母さんを早苗ママと取り替えたんだ。」
「え…?」
「お母さんと早苗ママは顏がそっくりだから、取り替えても誰も気がつかなかったよ。
ぼく、頭イイでしょ。」
スマホを床に落とした霧子は生唾を飲み込んだ。
「でもやっぱり早苗ママもぼくを叩くから、もう嫌になっちゃった。
きりせんせーは大丈夫だよね? ぼくのこと、愛してるよね? だからこのお兄ちゃんを燃やすんでしょ?」
元希の顔にブラインドの影が重なり、不意に霧子の頭にあの赤い暗号が思い浮かんだ。
あの暗号はブラインドのように、上を線で隠せば文字が浮かんでくるのではないだろうか。
✢✢✢
【XX 9 XX d XX】
【My mom】 か【My mam】
✢✢✢
インターホンの画像を確認している時、画面の端にカーキ色のブルゾンを着た女性の姿がチラリと映っていた画像があった。
入れ替わりが正しければ
あれは妹の早苗?
「気をつけなさい」と霧子に告げた真意のベクトルは、元希へ向かっていたのだろうか?
母の日のあの二人のお母さんを描いた絵は、佳苗と早苗だったとしたら…。
あの日の元希は【お母さん】の佳苗と入れ替わった【ママ】の早苗を描いた絵だったということか。
霧子と手を繋ごうとした元希の手を振り払って、霧子は壁ぎわまで後退した。
元希のあどけない顔に悲しみの色が浮かぶ。
「どうしたの?」
「ひとごろしッ!
私はお母さんじゃない!!」
霧子のヒステリックな叫び声に、元希は耳を塞いだ。
「…アナタも…ぼくの…お母さんじゃなかったんだね…。」
元希は無表情で園バックから小さな水筒を取り出す。
小さな手で水筒の蓋を外し、中の液体を振り巻いた。
途端に鼻を突き刺す刺激臭が部屋に充満する。
「臭い…何コレ。まさか…ガソリン⁉」
霧子は腕で鼻を覆いながら元希に手を伸ばした。
「げんくん止めなさい! ここ、こんなことしちゃいけないわ!!」
元希はヒラリと身をかわす。
「だって、せんせーはぼくのこと嫌いなんでしょ?」
「それとこれとは話が別よ!」
「ぼくを愛してくれるひとがぼくの本当のお母さんなのに。 みんな優しいのは初めだけ。」
元希は残念そうにため息を吐いた。
元希を止めようとした霧子は足の痺れを自覚して愕然とした。
「 足が痺れて動けない…。」
「夜ごはんに薬を混ぜたんだ。お母さんも動けなくなった。」
「イヤッ!」
必死にスマホに手を伸ばす霧子。
その震える手首に結束バンドが巻かれる。
「こんなことをしたら、警察に捕まるわよ!」
「大人ってよくそういう脅しをするよね。鬼が来るとか、地獄に堕ちるとか。
でもぼくは、まだ子どもだからよく分かんない。 まだ当分は死なないだろうからね。」
元希はカミソリを手にすると、霧子の爪と皮膚の間に差し込んだ。
カミソリの刃がめり込んだ皮膚が裂けて赤く滲む。
「や、やめなさい!」
「霧子先生もお母さんやママみたいに命令するんだね。 ぼく、そういうの嫌いだよ。」
ゆっくりと着実にカミソリの刃が肉に食い込んでいく。
メリ… メリメリ…
「アーーー‼‼‼」
想像を絶する痛みが霧子の全身を貫く。
目を見開いた霧子は悲鳴を上げようとして、ガソリンが染み込んだウサギのぬいぐるみの頭を口に詰め込まれた。
「ウッグッ…。」
「つまんない。」
元希は霧子の前にライターを放り投げた。
再びダイニングテーブルに座った霧子と頭に保冷剤を当てた直也は、気まずい面持ちで向かい合っていた。
「霧子を怖がらせれば俺を頼るようになるから、早く同棲ができると思ったんだ。」
「じゃあ、あの非通知の電話や暗号も直也だったの?」
「それは違う。
でも、霧子を怖がらせるには丁度いい材料だと思ってた。」
間接照明に照らされた直也の顔半分に翳りが出来ている。
血管の浮き出た直也の大きな手の甲を見ながら、霧子が低く呻いた。
「げんくんも居るのに?」
「げんくんが居るからだよ。」
スッと顔色を変えた直也の口調が変わった。
「霧子が昔のトラウマで虐待児されたげんくんに同情しているのは理解できる。
でも、プライベートで預かるとなると話は別だ。
でも、どうせ霧子は頑固だから聞く耳を持たないだろ? だから…。」
「だから夜中に黒いパーカーを着て、狂ったみたいに玄関のドアを叩くの?
サイテーだねッ!」
早口でまくし立てた霧子は、目に涙を浮かべて立ちあがった。
「別れましょう。」
「オイ、ちょっと待てよ。」
「もう無理。こんな人だとは思わなかった。 帰って。
二度と会わない。」
「俺が、こんなに愛してるのに?」
「聞きたくない。」
直也の顏に絶望が浮かび、みるみるうちにその顔色が朱色に染まった。
「これもみんな、アイツのせいなんだな。」
「なに?」
「アイツさえ居なくなれば…。」
怒り狂った直也は勢いよく寝室のドアを蹴破り、布団で寝ていた元希に覆いかぶさった。
「なによ、何をする気なの⁉」
直也は躊躇することなく、太い腕と大きな手で元希の細い首を絞め上げた。
元希は目を覚まして状況を理解したようだが、声も出せずに小さな手足をバタつかせ、やがて力なくうなだれた。
「や…。」
♢♢
フラッシュバックする記憶。
セピア色の霧子の父親が、直也と同じ形相で幼い霧子にのしかかる。
♢♢
その時霧子の中で、何かが弾けた。
「やめてーッ!」
霧子は持っていたバットを振りかぶったその勢いのまま、直也の頭を目がけて打ちおろした。
打ち付けては振り下ろし、打ち付けては振り下ろしを繰り返す。
何回も
何回も
ガンガン ガンガン
ガンガン …
どれほどの時間が過ぎただろうか。
直也はついに、ピクリとも動かなくなった。
♢ ♢
血生臭い匂いと排泄物の異臭。
うつ伏せになった直也の、真っ白な顏と床に伸びた手。
霧子は止まらない吐き気と震えに動けなくなっていた。
「どうしよう…。」
その時、布団の上の元希が咳込みながら起き上がった。
「げんくん!」
「きりせんせー…お兄ちゃんは?」
「怖かったでしょ。でも、もう大丈夫。」
「やっつけてくれたんだね。」
「うん…もう動かない。」
「死んだ?」
「…分からない…!」
霧子は力なく崩れ落ちた。
涙が止まらない。
「泣かないで、せんせー。
ぼくがいいこと教えてあげるから。」
元希がポケットから出した物を霧子の手に握らせた。
「燃やしちゃえば?」
「え?」
霧子の手の平にある使い捨てライターの中の液化ガスが、小刻みに揺れる。
「こども園でごみの工場見学に行ったでしょ。
あれみたいにぼくのお母さんも燃やしたら楽だった。」
「なにを…言っているの? げんくんのお母さん、まだ生きてるでしょ?」
「あの人はお母さんじゃない。ママだよ。」
「え?」
「今、家に居るのはママ。」
ピリピリピリピリ
霧子のスマホの着信が鳴る。 相手は山下だった。
「は、はい。」
「霧子先生、落ち着いて聞いてね。やっぱりげんくんの家、おかしかったわ!」
頭の整理が出来ない霧子は、山下の言葉をすぐに理解出来なかった。
「それ、どういう意味ですか?」
「佳苗と早苗は双子の姉妹だったの。 姉の佳苗は昔から虚弱体質で、げんくんを産んだ後は妹の早苗がげんくんを預かることが多かったんだけど、今年の春に早苗は火事が原因で亡くなっている。
でも、佳苗の家を古くから知る町内会の会長さんが、双子の見分け方を知っていて、葬儀の時に見たのは死んだはずの早苗だったって言っているの。」
「ま、待ってください!」
霧子は慌てて元希の通学カバンから母子手帳を取り出した。
生まれたばかりの元希を抱く母親が写っている写真が差し込まれている。
「見分け方ってなんですか?」
「首元に大きなホクロがあるの。」
霧子の記憶が正しければ、佳苗の首にホクロはない。
写真の中で微笑む母親のホクロは、思っていたよりも目立つものだった。
「 例えばだけど、保険金目当てで姉妹が入れ替わっている…ということもあるかなって。」
「入れ替わった?」
霧子は受話口を押さえながら元希を見た。
元希は霧子の方を向いているものの、目線はどこか遠くを映していた。
「げんくんのお母さん、げんくんをイジメたんだ。 ぼくが怖いって。 産まなきゃ良かったって。」
「怖い?」
「お母さんが悪いのに。ぼくよりココちゃんを可愛がったりするから。 ぼくがココちゃんをバキバキに折ってトイレに流したら、大きな声で怒ってぼくを叩いたんだ。」
元希のスーツケースの荷解きをした時に見たアルバムの、トイプードルと元希が一緒に映る写真が霧子の頭をかすめる。
元希は相変わらずあさっての方向を見ながら、ペラペラと饒舌に喋り続けた。
「ぼく、すごくムカついた。
だから、お母さんを早苗ママと取り替えたんだ。」
「え…?」
「お母さんと早苗ママは顏がそっくりだから、取り替えても誰も気がつかなかったよ。
ぼく、頭イイでしょ。」
スマホを床に落とした霧子は生唾を飲み込んだ。
「でもやっぱり早苗ママもぼくを叩くから、もう嫌になっちゃった。
きりせんせーは大丈夫だよね? ぼくのこと、愛してるよね? だからこのお兄ちゃんを燃やすんでしょ?」
元希の顔にブラインドの影が重なり、不意に霧子の頭にあの赤い暗号が思い浮かんだ。
あの暗号はブラインドのように、上を線で隠せば文字が浮かんでくるのではないだろうか。
✢✢✢
【XX 9 XX d XX】
【My mom】 か【My mam】
✢✢✢
インターホンの画像を確認している時、画面の端にカーキ色のブルゾンを着た女性の姿がチラリと映っていた画像があった。
入れ替わりが正しければ
あれは妹の早苗?
「気をつけなさい」と霧子に告げた真意のベクトルは、元希へ向かっていたのだろうか?
母の日のあの二人のお母さんを描いた絵は、佳苗と早苗だったとしたら…。
あの日の元希は【お母さん】の佳苗と入れ替わった【ママ】の早苗を描いた絵だったということか。
霧子と手を繋ごうとした元希の手を振り払って、霧子は壁ぎわまで後退した。
元希のあどけない顔に悲しみの色が浮かぶ。
「どうしたの?」
「ひとごろしッ!
私はお母さんじゃない!!」
霧子のヒステリックな叫び声に、元希は耳を塞いだ。
「…アナタも…ぼくの…お母さんじゃなかったんだね…。」
元希は無表情で園バックから小さな水筒を取り出す。
小さな手で水筒の蓋を外し、中の液体を振り巻いた。
途端に鼻を突き刺す刺激臭が部屋に充満する。
「臭い…何コレ。まさか…ガソリン⁉」
霧子は腕で鼻を覆いながら元希に手を伸ばした。
「げんくん止めなさい! ここ、こんなことしちゃいけないわ!!」
元希はヒラリと身をかわす。
「だって、せんせーはぼくのこと嫌いなんでしょ?」
「それとこれとは話が別よ!」
「ぼくを愛してくれるひとがぼくの本当のお母さんなのに。 みんな優しいのは初めだけ。」
元希は残念そうにため息を吐いた。
元希を止めようとした霧子は足の痺れを自覚して愕然とした。
「 足が痺れて動けない…。」
「夜ごはんに薬を混ぜたんだ。お母さんも動けなくなった。」
「イヤッ!」
必死にスマホに手を伸ばす霧子。
その震える手首に結束バンドが巻かれる。
「こんなことをしたら、警察に捕まるわよ!」
「大人ってよくそういう脅しをするよね。鬼が来るとか、地獄に堕ちるとか。
でもぼくは、まだ子どもだからよく分かんない。 まだ当分は死なないだろうからね。」
元希はカミソリを手にすると、霧子の爪と皮膚の間に差し込んだ。
カミソリの刃がめり込んだ皮膚が裂けて赤く滲む。
「や、やめなさい!」
「霧子先生もお母さんやママみたいに命令するんだね。 ぼく、そういうの嫌いだよ。」
ゆっくりと着実にカミソリの刃が肉に食い込んでいく。
メリ… メリメリ…
「アーーー‼‼‼」
想像を絶する痛みが霧子の全身を貫く。
目を見開いた霧子は悲鳴を上げようとして、ガソリンが染み込んだウサギのぬいぐるみの頭を口に詰め込まれた。
「ウッグッ…。」
「つまんない。」
元希は霧子の前にライターを放り投げた。



