佳苗との話し合いをした後の週末、元希は20Lのスーツケースと一緒に霧子のアパートにやって来た。
「せんせー、ぼく来たよ!」
「げんくん、いらっしゃい。」
霧子は直也とともに元希を出迎えた。
万が一の佳苗とのトラブルに備えていたのだが、佳苗はいたって普通だった。
「先生にご迷惑をかけちゃダメよ。」
「はーい。」
佳苗は園に預ける時のように元希に手を振ってからRV車に乗り込んだ。
霧子は車のマフラーから出た灰色の排気ガスが空へと昇るのを恨めしげに見送る。
(げんくんママにとって、私の行動はただのお節介?)
霧子は佳苗の態度に虚しさを覚えていた。
(虐待を反省してほしいとは言わないけど、もう少し悔しそうにしてくれてもいいのに。)
「霧子、指。」
直也に指摘されるまで、指を第一関節まで噛んでいたことに気づかなかった。
「ゴメン。まだ癖が治らなくて。」
「謝るなよ。好きでやってるわけじゃないんだから。」
「でも、子どもみたいで恥ずかしい。」
苦笑いをして背中に指を隠した霧子を、直也は苦しそうに見つめた。
「ねー、つまんない。
せんせーとお兄ちゃん、あそぼ‼」
元希が霧子と直也の服の裾を同時に引っ張った。
霧子は中座して直也の頭を優しく撫でた。
「何しよっか? 鬼ごっこにする?」
「せんせーが鬼だよ。ぼくとお兄ちゃんを追いかけて!」
「え、うそ。ま、待ちなさーい!!」
アパートの敷地から道路に飛び出した元希を、霧子が慌てて追いかける。
元希の笑顔だけが、霧子の癒しだった。
♢
元希がリビングのソファで知育絵本に夢中になっている間、霧子はダイニングテーブルに向かい合って座った直也と暗号についての私見を話していた。
「あの暗号、本当は別の意味があるんじゃないかな。」
「どんな?」
霧子は元希に話が聞こえないように、声をひそめた。
「実は、げんくんのお母さんもあの暗号を知っているみたいなの。
で、『気をつけてね』って言われたんだ。」
「じゃあ、あの暗号の犯人はげんくんのお母さんてことか!
虐待のことといい、あの母親は痛すぎるな。」
「そうなんだけど…。」
「だけど?」
「なんか腑に落ちないんだよね。何か大事なことを見過ごしているような気がして…。」
その時、霧子の尻ポケットがブルブルと振動した。
「あ、バイブにしてたんだっけ。」
スマホ画面を確認すると、非通知の着信とショートメッセージと山下からだった。
ショートメッセージのポップアップから内容を確認した霧子は、思わず声を上げた。

【XX 9 XX d XX】
「これ…なんで!?」
無言で直也にメッセージを見せると、直也も表情が強張った。
「警察に通報する?」
「げんくんを保護してるのがバレたら面倒だから、まだいい。」
「でも何かあってからじゃ遅いだろ。」
「いいってば!」
直也は呆れ顔で席を立った。
「クソ、こっちは心配だから言ってんのに。」
「余計なお世話。」
「じゃ、俺にできることはもうねーな。
帰るわ。」
「もう?」
いつもの口喧嘩だと思っていた霧子は、意表を突かれて驚いた。
「怒ってるの?」
「ガキが居たらなんにも出来ないし…困ったことあったらすぐに連絡くれよ。」
直也に素直に甘えられないのは性格だけではない。
霧子が虐待サバイバーだということは、少なからず関係が深い。
今回の件も自分の過去に元希の状況を重ねているということまで、直也は理解してくれているのだ。
「ごめん。ホントにいろいろゴメンね。」
霧子が謝ると、直也は柔和な笑みを見せた。
「おう。1000倍にして返せよな。」
直也が帰ったあと、改めてスマホを手に取った霧子は山下のメールを確認するためにLIMEを開いた。
休みの日にはお互いに気を遣ってやり取りは避けているのだが、緊急の案件だろうか。
LIMEの画面に目を通した霧子はすぐに眉をひそめた。
『げんくんママのことを調べている間に、スゴイことに気がついてしまいました。
あとで電話するね!』
まだ探偵気分で調べていたのかと呆れる反面、山下が突き止めた『スゴイこと』がずっと頭に引っ掛かった。
♢
夕食を食べながら眠ってしまった元希を起こして風呂に入れると、あっという間に一日が終わった。
シングルベットを元希に譲り、霧子はその下に布団を敷いて寝ようとしたが、電気を消した瞬間に元希は霧子の布団に潜り込んできた。
「一緒に寝てもいい?」
「いいよ。」
「きりせんせーのこと、お母さんって呼んでもいい?」
「フフッ、いいよ。」
母性本能がくすぐられるとはこういうことを言うのだろう。
霧子は今まで感じたことのない幸福感に満たされていた。
(結婚なんてしなくてもいい。
子どもだけが居てくれたらいいのに。)
元希は半分寝ぼけながら霧子の胸元に手を差し込んできた。
(ふふ、赤ちゃんみたい。)
「アナタは…本当にぼくのお母さんなんですか?」
寝言のような言葉に答えようか迷っていると、玄関から物音がした。
ヒタ
ヒタ
ヒタ
(足音?)
嫌な予感がした。
ピタリ
(家の前で足音が止んだ…。)
ドン!
霧子は激しい打撃音に布団から飛び起きた。
ドンドン! ドンドン!
(う、うちのドアだ…!!)
全身の毛が逆立ち、ゾッとする。
(げんくんは?)
元希が眠りに落ちたのを確認した霧子は、そっと寝室から抜け出した。
早まる胸の動悸を抑えつつ、インターホン越しに外の映像を確認する。

「あっ!」
黒パーカーの人物が玄関のドアに拳を叩きつけている。
ドンドン!! ドンドン!!
ドンドン!! ドンドン!!
激しくドアを叩く音。
腰が抜けそうになるのをこらえて周囲を見回した霧子は、クローゼットの奥にしまい込んでいた野球のバットを震える手に持った。
一人暮らしを始めるときに直也が置いていったお守りだ。
(私がげんくんを守らなきゃ!)
玄関に向かった霧子はドアスコープ越しに外の様子を伺った。
黒パーカーはもうドアの前には居ない。
少しだけドアを開ける。
ギィィィ…
霧子はハッとした。
黒パーカーが背中を向けている。
(このままじゃ犯人が逃げる!)
霧子は裸足で玄関を飛び出し、冷たい通路を全速力で走っていた。
「アアア‼」
霧子の叫びで振り向いた黒パーカーの頭を目がけて、持っていたバットを思い切り振りぬいた。
ゴッ‼
鈍い打撃音が廊下に響き、目の前の人物が崩れるように倒れた。
「やった…!」
荒く息を吐いて胸を上下させた霧子は、倒れた人物の顏に被さっていたパーカーを後ろに引き、犯人の顔を確かめた。
「そんな…嘘でしょ…。」
その人物は、男性だった。
しかも霧子がよく知る男。
「直也⁉」
「せんせー、ぼく来たよ!」
「げんくん、いらっしゃい。」
霧子は直也とともに元希を出迎えた。
万が一の佳苗とのトラブルに備えていたのだが、佳苗はいたって普通だった。
「先生にご迷惑をかけちゃダメよ。」
「はーい。」
佳苗は園に預ける時のように元希に手を振ってからRV車に乗り込んだ。
霧子は車のマフラーから出た灰色の排気ガスが空へと昇るのを恨めしげに見送る。
(げんくんママにとって、私の行動はただのお節介?)
霧子は佳苗の態度に虚しさを覚えていた。
(虐待を反省してほしいとは言わないけど、もう少し悔しそうにしてくれてもいいのに。)
「霧子、指。」
直也に指摘されるまで、指を第一関節まで噛んでいたことに気づかなかった。
「ゴメン。まだ癖が治らなくて。」
「謝るなよ。好きでやってるわけじゃないんだから。」
「でも、子どもみたいで恥ずかしい。」
苦笑いをして背中に指を隠した霧子を、直也は苦しそうに見つめた。
「ねー、つまんない。
せんせーとお兄ちゃん、あそぼ‼」
元希が霧子と直也の服の裾を同時に引っ張った。
霧子は中座して直也の頭を優しく撫でた。
「何しよっか? 鬼ごっこにする?」
「せんせーが鬼だよ。ぼくとお兄ちゃんを追いかけて!」
「え、うそ。ま、待ちなさーい!!」
アパートの敷地から道路に飛び出した元希を、霧子が慌てて追いかける。
元希の笑顔だけが、霧子の癒しだった。
♢
元希がリビングのソファで知育絵本に夢中になっている間、霧子はダイニングテーブルに向かい合って座った直也と暗号についての私見を話していた。
「あの暗号、本当は別の意味があるんじゃないかな。」
「どんな?」
霧子は元希に話が聞こえないように、声をひそめた。
「実は、げんくんのお母さんもあの暗号を知っているみたいなの。
で、『気をつけてね』って言われたんだ。」
「じゃあ、あの暗号の犯人はげんくんのお母さんてことか!
虐待のことといい、あの母親は痛すぎるな。」
「そうなんだけど…。」
「だけど?」
「なんか腑に落ちないんだよね。何か大事なことを見過ごしているような気がして…。」
その時、霧子の尻ポケットがブルブルと振動した。
「あ、バイブにしてたんだっけ。」
スマホ画面を確認すると、非通知の着信とショートメッセージと山下からだった。
ショートメッセージのポップアップから内容を確認した霧子は、思わず声を上げた。

【XX 9 XX d XX】
「これ…なんで!?」
無言で直也にメッセージを見せると、直也も表情が強張った。
「警察に通報する?」
「げんくんを保護してるのがバレたら面倒だから、まだいい。」
「でも何かあってからじゃ遅いだろ。」
「いいってば!」
直也は呆れ顔で席を立った。
「クソ、こっちは心配だから言ってんのに。」
「余計なお世話。」
「じゃ、俺にできることはもうねーな。
帰るわ。」
「もう?」
いつもの口喧嘩だと思っていた霧子は、意表を突かれて驚いた。
「怒ってるの?」
「ガキが居たらなんにも出来ないし…困ったことあったらすぐに連絡くれよ。」
直也に素直に甘えられないのは性格だけではない。
霧子が虐待サバイバーだということは、少なからず関係が深い。
今回の件も自分の過去に元希の状況を重ねているということまで、直也は理解してくれているのだ。
「ごめん。ホントにいろいろゴメンね。」
霧子が謝ると、直也は柔和な笑みを見せた。
「おう。1000倍にして返せよな。」
直也が帰ったあと、改めてスマホを手に取った霧子は山下のメールを確認するためにLIMEを開いた。
休みの日にはお互いに気を遣ってやり取りは避けているのだが、緊急の案件だろうか。
LIMEの画面に目を通した霧子はすぐに眉をひそめた。
『げんくんママのことを調べている間に、スゴイことに気がついてしまいました。
あとで電話するね!』
まだ探偵気分で調べていたのかと呆れる反面、山下が突き止めた『スゴイこと』がずっと頭に引っ掛かった。
♢
夕食を食べながら眠ってしまった元希を起こして風呂に入れると、あっという間に一日が終わった。
シングルベットを元希に譲り、霧子はその下に布団を敷いて寝ようとしたが、電気を消した瞬間に元希は霧子の布団に潜り込んできた。
「一緒に寝てもいい?」
「いいよ。」
「きりせんせーのこと、お母さんって呼んでもいい?」
「フフッ、いいよ。」
母性本能がくすぐられるとはこういうことを言うのだろう。
霧子は今まで感じたことのない幸福感に満たされていた。
(結婚なんてしなくてもいい。
子どもだけが居てくれたらいいのに。)
元希は半分寝ぼけながら霧子の胸元に手を差し込んできた。
(ふふ、赤ちゃんみたい。)
「アナタは…本当にぼくのお母さんなんですか?」
寝言のような言葉に答えようか迷っていると、玄関から物音がした。
ヒタ
ヒタ
ヒタ
(足音?)
嫌な予感がした。
ピタリ
(家の前で足音が止んだ…。)
ドン!
霧子は激しい打撃音に布団から飛び起きた。
ドンドン! ドンドン!
(う、うちのドアだ…!!)
全身の毛が逆立ち、ゾッとする。
(げんくんは?)
元希が眠りに落ちたのを確認した霧子は、そっと寝室から抜け出した。
早まる胸の動悸を抑えつつ、インターホン越しに外の映像を確認する。

「あっ!」
黒パーカーの人物が玄関のドアに拳を叩きつけている。
ドンドン!! ドンドン!!
ドンドン!! ドンドン!!
激しくドアを叩く音。
腰が抜けそうになるのをこらえて周囲を見回した霧子は、クローゼットの奥にしまい込んでいた野球のバットを震える手に持った。
一人暮らしを始めるときに直也が置いていったお守りだ。
(私がげんくんを守らなきゃ!)
玄関に向かった霧子はドアスコープ越しに外の様子を伺った。
黒パーカーはもうドアの前には居ない。
少しだけドアを開ける。
ギィィィ…
霧子はハッとした。
黒パーカーが背中を向けている。
(このままじゃ犯人が逃げる!)
霧子は裸足で玄関を飛び出し、冷たい通路を全速力で走っていた。
「アアア‼」
霧子の叫びで振り向いた黒パーカーの頭を目がけて、持っていたバットを思い切り振りぬいた。
ゴッ‼
鈍い打撃音が廊下に響き、目の前の人物が崩れるように倒れた。
「やった…!」
荒く息を吐いて胸を上下させた霧子は、倒れた人物の顏に被さっていたパーカーを後ろに引き、犯人の顔を確かめた。
「そんな…嘘でしょ…。」
その人物は、男性だった。
しかも霧子がよく知る男。
「直也⁉」



