直也とのデートをキャンセルした休日、電車を降りた霧子は照りつける太陽に目を細めながら小さな細い路地を歩いていた。
 昼間は初夏の日差しだが夜は気温差が5度以上もあり、寒暖差に体が慣れない。

 10分歩き続けると、スニーカーの中の足の蒸れが気になってくる。
 あいにく替えの靴下を忘れてしまった。
 近くにコンビニがあるかも分からず、黙々と地図アプリを頼りに目的地へと歩いていた霧子は、通りすぎようとした黄色いアパートの前で足を止めた。

「ここだ。」

 園の家庭調査票の名前とアパートの全面に掲げられている看板を見比べる。

『悠々荘』

 昭和に建てられたことを彷彿とさせる名前と古びた造りの木造アパート。
 ところどころ壁面は剥がれ、備え付けられた外階段の手すりは、茶色く錆びて掴むのをためらうほどだ。

 しかし、ここでめげてはいられない。

 カンカンカン

 金属音を響かせて二階の通路に来た霧子は、部屋番号を見ながら奥へと歩いた。

「201,202,203,205,206…。」

 そして、ついに210号室に着いた。

 呼吸を整えてインターホンを押した霧子は、ふとドアの上を見上げた。

「あ。」

 水道のシールに小さな赤い文字。
 意識して見ようとしなければ、絶対に気が付かない場所だ。

 XX9XXdXX

「あれ、 ウチと同じ暗号なの…?」

 直也の解説通りなら、この暗号は女の一人暮らしに使われるはずだ。
 しかし、霧子の知る限りここの住人は女一人と子どもが一人。
 直也の情報は当てにならないということだろうか?

 霧子はざわざわと鳥肌が立つのを感じた。

「違う…これは…そういう意味じゃないんだわ。」

 そう思った瞬間、不意に内側から扉が開いた。
 
「霧子先生? どうしたんですか?」

 寝起きのように髪が乱れた佳苗が、驚いた顏で霧子を迎えた。
 ここは美神家が住む部屋だった。


 ♢

「すみません、急にお邪魔して。」
「いいですけど、先生は今日はお休みなんですか?」
「ええ。
 こうして美神さんとゆっくりとお話できる機会が、なかなかないので…。」
「たいへんですね、保育士って。」

 佳苗に促されて居間に上がると、霧子は違和感に包まれた。
 幼い子供が済んでいるとは思えないほど、きちんと整理整頓された部屋だった。

 唯一、母の日に書いた元希の絵が壁に貼られている。

 ダイニングのテーブルセットの椅子に案内された霧子は、出された麦茶をひとくち飲んでから切り出した。

「げんくんのお母さんもお仕事お休みだったんですね。」
「ええ。ちょっと役所に用事があったので。
 元希がいると書類が書けないから、休みだけど園に預けちゃいました。」
「ああ、そうですか。」
「で、用件は何ですか?
 もしかしてお迎えのことかしら?」
「それも気になることではありますが…単刀直入に言います。
 実は先日、元希くんに相談を受けました。
 お母さんに虐待をされていると言っていました。」
「元希が?」

 目を丸くした佳苗は、取り乱すこともなく静かに笑った。

「あの子…。」

 何がそんなにおかしいのか、笑いを堪えている様子に霧子は殺気だった。

「笑いごとじゃないです!」

 一気に頭に血がのぼって椅子から立ち上がった霧子を、佳苗は値踏みをするように頭から足先まで眺めた。

「あなたが遅くまでパチンコ店に居る間、元希くんはどこに居るんですか?
 一人で留守番をさせているんじゃないんですか!?」
「そこまで調べたの?」
「それはネグレクトという病気です。」
「あなた、正義感が強いのね…私も昔はそうだった。」

 佳苗は微笑みを浮かべて台所に立ち、換気扇を回して煙草を吸い始めた。
 霧子は拳をギュッと握りしめた。

「お母さん、少し元希くんと距離を置いた方が良いのでは?」
「私だって、そうしたいのよ…。でも、元希が許してくれないわ。」

 苦悩を浮かべた佳苗の顔つきは、本心を語っているようだ。
 霧子は決心したように切り出した。

「しばらくの間、私が元希くんを預からせていただいてもよろしいでしょうか?
 もちろん園には内緒で。」

 始めは佳苗はポカンと霧子の話を聞いていただけだった。
 しかし、その内容を理解した佳苗は半笑いで確認した。

「あなた本気?」
「はい。」

 煙草の先を灰皿に押し付けた佳苗はテーブルの上の広告をひっくり返すと、その裏にボールペンで文字を描いた。

「もしかして、あなたの家にこんなマークがついていなかった?」

 XX9XXdXX 

「どうしてそれを…。」

 息を飲んだ霧子。
 佳苗が立ちあがり、窓の外の様子を伺ってからカーテンを閉めた。
 口パクで何かをつぶやいたあと、霧子に向き直った。

「気をつけてね。」
「え?」
「あなた、狙われているわよ。」