5時ちょうどにスマホの機械音(アラーム)がけたたましく鳴り響く。
 手探りで電源をオフにして音を止めると、霧子は目を見開いてぼんやりと天井を眺めた。

 いつもなら二度寝をしてしまうくらい寝起きは良くない人間なのだが、直也と一緒に消したはずの玄関の暗号が頭の隅に残っていて、眠りが浅かった。

 おかげで気分は最悪だ。

 天井の壁紙のシワまでもがあの暗号に見えてくる。
 霧子にはひとつ、確信していることがあった。

(あれはただのイタズラなんかじゃない。)

 一ヶ月分のインターホンの録画を見直してみると、黒のフードを被った怪しい人物が映っていた。
 30秒くらいの画質が荒い動画しかないので、その人物があの記号を書いたのかは分からない。

(私生活が誰かに盗み見られているかもしれないなんて…気持ち悪い!)

 個人情報が垂れ流しになっていると思うと、なおさら吐き気がする。

 エントランスにドアロックがあるアパートへの引っ越しも考えたが、経済的にすぐには無理だろう。
 現実的に考えると直也との同棲が無難だが、やらなければならないことが山積みの仕事との両立を考えると、やはり気が進まない。 

「起きなきゃ…。」

 霧子はいつになく重苦しい気持ちを抱えながら身を起こした。


 ♢

「ちょっと、きり先生! コレ見て‼」

 職員室に入ると、朝から興奮した口調で山下がスマホ画面を指差した。
 山下がこのような時は、霧子は冷静に対処するように努めている。

「山下先生が好きなアイドルが結婚発表ですか?」
「それ以上の事件だよ!」

 アイドルヲタクを自認している山下の『それ以上』が気になって、霧子はスマホに注視した。
 トップ画面には黒い画面に白い文字と十字架のマークが描かれている。 
 
 ✢✢✢

 謹んでお悔やみを申し上げます

 ■■早苗 (29)

 喪主 父■■

 通夜 ■■年■月■日
     18時

 葬儀 ■■年■月■日
     10時

 ✢✢✢

「ちょ…!
  先生、コレお悔やみ欄じゃないですか。」

 霧子はブルッと体を震わせた。
 いたずらにしてはタチが悪いが、山下はいたってマジメな顏をしている。

 何か事情がありそうだ。 

「誰か亡くなったんですか? 園の関係者とか??」
「実は私の母がお悔やみ欄ヲタクなの。」
「エッ、なかなかコアな界隈ですね…。」
「年取ると、いつ呼ばれてもいいようにチェックしたくなるらしいよ…じゃなくて、ほら昨日話していた、火事で亡くなったげんくんの親戚の人ってこの人じゃない?」
「え?」

 霧子はもう一度、目を凝らして画面を見た。
 
「今月火事で亡くなった町内の女性はこの人だけなんだって。あと、名前。げんくんのお母さんって佳苗さんでしょ?
 この早苗さんって名前が似ているし、姉妹なんじゃないかな。」

 霧子の住む町は一万人強の小さな町だが、それにしてもお悔やみ欄から赤の他人を特定するのは難しい。

「もうそ…いや、推理力すごいな〜。」
「私、推理小説が好きなの。
 因みにげんくんの家は母子家庭?」
「ハァ。」
「やっぱり。苗字が一緒なのよ。離婚してるなら旧姓に戻している可能性があると思って。」
「そこまで?」

 引き気味の霧子にはお構い無しで、山下は自分の顎に手の甲を添えた。

「姉妹が亡くなったなら、性格が変わっても仕方ないかもね~。」
「ああ…。」

 自分は大して気にしていなかったが、山下は佳苗の変わりようが引っかかっていたようだ。

(こんなこと、わざわざ教えてくれなくても良いのに…。)

 わりと山下はミーハーなところがあり、興味事を優先して突っ走る傾向がある。

(先輩だけど、ちょっと危ないんだよね…巻き込まれないように注意しなきゃ。)

 霧子は職業柄、性格分析をする癖があった。
 妄想話を過熱させる山下をやんわり黙らせようとした時、副園長の声が響いた。
 
「朝礼しまーす。」
「はーい。」

 ホッとして列に並ぼうとした霧子に、山下がこっそり耳打ちした。

「げんくん、火事になった時にここに預けられていたらしいよ。」

 ♢

「きりせんせー、なんでげんくんばっかり見てるの?」

 電子ピアノを弾いていた霧子は、さくらの声にハッとして鍵盤から手を離した。

「そ、そんなことないよ。」

 日曜日に登園した13人の園児の視線が自分に注がれる。
 山下の言葉が気になって…とは、説明ができない。

 火事の現場に居合わせた元希の気持ちを考えると、胸が押しつぶされそうになる。
 言いよどんで口ごもると、さくらが腕組みをして口を尖らせた。

「あるもん。
 さくら、先生のこと見てたもん!」
「え〜?」

 幼くても女の勘は鋭い。
 シラを切り通そうとする霧子にさくらが言い放った。

「きりせんせーはげんくんのことが好きなんでしょ!」
「え、そっち!?」
「ダメなんだから! げんくんはさくらのものなんだから!!」

 女子たちの黄色い歓声があがり、元希が顔をトマトのように赤くする。
 霧子は両手をメガホンのように丸めて、明るい声で叫んだ。

「安心して下さーい。
 きり先生は、げんくんだけじゃなくて、み〜んなのことが大好きなんです!」
「本当に?」
「あー良かった!」

 口々に園児が「良かった」を連呼し、ホッとした顏をする。
 さくらも騒ぎすぎたと反省したようで、大人しくなった。 

「もしも、誰にも話せない心配なことがあったら、いつでも先生に相談してね!」
「はーい。」

 ♢

 お迎え前の園児たちが体育館に移動した後、教室に最後まで残っていたのは元希だった。

「せんせー。」
「げんくん、どうしたの?
 みんなと体育館に行かないの??」
「どっか痛いところがあるのかな?」
「あるよ。」

 元希がおもむろに、腕に貼られた大きな絆創膏をペロリと剥がした。
 白い肌が紫に腫れ上がっている。

 昨日、パチンコ店で見た佳苗の姿が急にフラッシュバックする。
 まさか…。

 霧子は小さな声で元希の耳元で囁いた。

「げんくん、おうちで何かあったの? 転んだりした?」
「あのね、ぼくのママね…怒るとぼくを叩くの。」

 霧子は大きく深呼吸をして、グッと腹に力を入れて自分を鼓舞した。
 思っていた通りだったが、油断すると泣いてしまいそうだ。

「勇気を出して…話してくれてありがとう。」

 霧子は元希の小さな体を抱きしめた。
 元希は必死に霧子にしがみついて耳元で囁いた。

「せんせー、せんせーはぼくのこと好き?」
「大好きだよ。」
「良かった。ぼくもだよ。」