「何回も電話したんだぜ。」
「仕事中は出られないんだってば。」
電車を降りた帰宅途中。
コンビニで夕飯を選びながら、霧子はBluetoothのイヤホンを耳に入れて彼氏の直也と通話をしていた。
「げんくんが来る日はだいたい残業だから。」
「また『げんくん』かよ。」
不満げな直也の声を聞き流しつつ、ホットコーナーの激辛チキンに手を伸ばす。
「そうそう。」
「ビシッと言えば? 『契約違反だから他所に行け!』とか。」
直也は高校のからの付き合いだ。性格はモロに体育会系で、素直に思った事を口に出すタイプ。
昔はそんな直也が好きだったが、最近は少しめんどくさいと思うようになった。
霧子は無意識に親指の短い爪を噛む。
「それはムリ。
ていうか最近親せきが亡くなったとかで、言い出しづらいんだよね。」
「親戚なんていつか亡くなるだろ。」
「冷た…。」
「それより、明日・明後日は連休だろ? これからオマエん家行っていい?」
「来月の遠足の案を練りたいから、今日はムリ。」
「またかよ。」
電話の向こうの呆れ顔が目に浮かぶ。
セルフレジでバーコードを機械に読み込ませながら、霧子はイヤホンの音量を下げた。
「この前はお誕生日会、その前は保護者会に入学式…。
霧子が保育士になってから会えなすぎじゃない? 織姫と彦星じゃないんだからさー。」
「仕方ないでしょ、仕事だもん。」
何回スキャンしても読み取りにくい弁当のバーコード。
霧子の口調がキツクなるのはこのせいだと、自分に言い聞かせる。
「前から思ってたけど、オマエの職場、ブラックすぎん?」
「こども園はコレが普通なの。」
「洗脳されてんなー。ヤバイ宗教みたい。」
「あのさぁ…さっきから失礼すぎ!
保育のこと何も分からないクセに、余計な口出ししないで‼」
つい大声で叫んで電話を切った霧子は、コーヒーメーカーの清掃をしていた眼鏡の店員にジロリと凝視された。
「すみません!」
霧子は弁当を入れたレジ袋を掴み、店の外に飛び出した。
♢
街頭に照らされた静かな道をトボトボと歩きながら、霧子は直也に電話をかけなおした。
「ゴメン…さっきは言い過ぎた。」
「ま、いいよ。
俺も言い過ぎたし。
正義感強めなのが、霧子らしいし。」
直也の言葉に胸が熱くなる。
学生時代からの長い付き合いの秘訣は直也の優しさであるといっても過言ではない。
「それじゃー今日はこの辺で。
今週末はどっか行こうぜ。」
「うん…え?」
たどり着いた先、賃貸アパートの玄関ドアを見上げた霧子は、愕然と固まった。
「なに、コレ!」
ドアの上の水道検針の消費期限シールに赤い記号が描いてある。

XX9XXdXX
「怖…。」
「どうした?」
心配そうな直也の声。
「玄関のドアに変なイタズラ書きが描いてあるの。
赤い字で。
今、撮って送るから見て!」
霧子は急いでスマホを出して写真を撮り、直也に送信した。
「ああ、コレな。」
直也から返ってきたのは意外な返事だった。
「コレなって…コレが何か知ってるの?」
「暗号だよ。」
「暗号?」
「オマエんち、表札出してないだろ? だから、どこの誰か分かるように暗号を描かれたんだよ。
最近、新聞の勧誘とか来なかった?」
最近は忙しくてインターホンの録画チェックを怠っていたので、誰が訪ねてきたか記憶にはない。
「う、分かんない。」
「確か【XX】は染色体だったら女性だって理科で習ったよな?
【9】は9時から。
【d】はディナーまで家に居ない。」
「というと?」
「たぶん【女が一人暮らしで居ない時間があるよ】って暗号なんじゃない? 」
「こわ! 個人情報の漏洩!?」
「そーそー。
新聞の営業くらいならいいけど、空き巣に悪用される可能性もあるから直ぐに消しておけよ。
だから、早く一緒に暮らせばいいのに。」
直也の最後の言葉を無視した霧子は一度部屋に戻った。
洗面台の棚にあったネイルの除光液を手に持ち、再び外に出ようとした。
しかし、玄関ドアの把手をつかんだまま、霧子はその場に固まった。
ドアの向こうで人の気配を感じたからだ。
ヒタ
ヒタ
ヒタ
通路をゆっくり歩く足音。
この足音がもし、霧子の部屋の前で立ち止まったら?
霧子は生唾をゴクリと飲み込んだ。
まだ、直也との電話は繋がっているのを確認する。
「ゴメン直也。
やっぱり今日はウチに来て。」
♢
直也が帰ったのは、次の日の夜だった。
最近はいつも会うたびに些細な喧嘩をしていたが、今日の直也は久し振りに機嫌良く帰宅した。
「また何かあったら、すぐに呼んで。」
「ありがと。」
駅の改札口で直也と別れた霧子は、商店街のショーウインドウに映る自分を見た。
肩がカットアウトされたミントのニットにチノのワイドパンツ。
ネイルはピンクのワンカラ―に先だけシルバーのラメを乗せている。
いつものトレーナーとジーンズスタイルの仕事着からすると、かなりお洒落な今どき女子に見える。
(園児に囲まれている私と直也に会っている時の私。
どちらも私だけど、ぜんぜん違うな。)
今回の暗号の件で前から言われていた同棲について言及された。
直也はハッキリと口にはしないが、その先の結婚まで考えているのだと思う。
霧子は今の状況を維持することに精いっぱいで、そこまで気が回らない。
むしろ、前向きな直也の気持ちが霧子にはプレッシャーだった。
(婚約となるとお互いの両親を会わせるんだよね?)
一度だけ直也の実家に顔を出したときに両親に挨拶をしたことがある。
二人とも優しそうな雰囲気だった。
(うちの親にも直也を会わせるのか…。)
ぼんやりしながら歩いていると、すれ違いざまに白髪の男と肩がぶつかった。
「気をつけろ!」
「あ、すみません。」
商店街の通りに面しているパチンコ屋に吸い込まれていく男の背中を見送ると、自動ドアの向こうの店内が見えた。
騒々しいほどの音楽が流れる店内に一瞬だけ目を奪われた霧子は、ギョッとして足を止めた。
目に飛び込んできたのは、入り口側の台にくわえ煙草で足を組んで座っているロングヘア―の女性。
見覚えのあるカーキのブルゾンに胸が震えた。
「げんくんのお母さん…⁉」
慌てて扉の横に身を潜めた霧子は、自動扉に貼られた目隠しシールの隙間から店内を覗き見た。
「接客業で土日も遅くまで仕事だから、げんくんを預けてるんじゃなかったの?」
嫌な予感がした霧子はすぐにポケットのスマホに手を伸ばした。
心が赴くままにメールアプリを開き、出勤している新人保育士の真坂の個人LIMEにメールを打ちこむ。
『お疲れ様です。今日、げんくんは登園してますか?』
ドキドキしながら返事を待つ間、霧子は訳の分からない怒りに震えていた。
この怒りはムダなことだとは分かっている。
むしろプロとしては、目を瞑って忘れなくてはならない案件だろう。
心の中の葛藤にモヤモヤしていると、やがて真坂からの返信が来た。
『休日なのに、マジメですねw
もちろん来てますよ。
残業確定でメンタルヤバめで~す』
(なんて母親なの!)
霧子は真坂に返信を返すのも忘れ、イライラと指先を赤くなるまで噛んだ。
「仕事中は出られないんだってば。」
電車を降りた帰宅途中。
コンビニで夕飯を選びながら、霧子はBluetoothのイヤホンを耳に入れて彼氏の直也と通話をしていた。
「げんくんが来る日はだいたい残業だから。」
「また『げんくん』かよ。」
不満げな直也の声を聞き流しつつ、ホットコーナーの激辛チキンに手を伸ばす。
「そうそう。」
「ビシッと言えば? 『契約違反だから他所に行け!』とか。」
直也は高校のからの付き合いだ。性格はモロに体育会系で、素直に思った事を口に出すタイプ。
昔はそんな直也が好きだったが、最近は少しめんどくさいと思うようになった。
霧子は無意識に親指の短い爪を噛む。
「それはムリ。
ていうか最近親せきが亡くなったとかで、言い出しづらいんだよね。」
「親戚なんていつか亡くなるだろ。」
「冷た…。」
「それより、明日・明後日は連休だろ? これからオマエん家行っていい?」
「来月の遠足の案を練りたいから、今日はムリ。」
「またかよ。」
電話の向こうの呆れ顔が目に浮かぶ。
セルフレジでバーコードを機械に読み込ませながら、霧子はイヤホンの音量を下げた。
「この前はお誕生日会、その前は保護者会に入学式…。
霧子が保育士になってから会えなすぎじゃない? 織姫と彦星じゃないんだからさー。」
「仕方ないでしょ、仕事だもん。」
何回スキャンしても読み取りにくい弁当のバーコード。
霧子の口調がキツクなるのはこのせいだと、自分に言い聞かせる。
「前から思ってたけど、オマエの職場、ブラックすぎん?」
「こども園はコレが普通なの。」
「洗脳されてんなー。ヤバイ宗教みたい。」
「あのさぁ…さっきから失礼すぎ!
保育のこと何も分からないクセに、余計な口出ししないで‼」
つい大声で叫んで電話を切った霧子は、コーヒーメーカーの清掃をしていた眼鏡の店員にジロリと凝視された。
「すみません!」
霧子は弁当を入れたレジ袋を掴み、店の外に飛び出した。
♢
街頭に照らされた静かな道をトボトボと歩きながら、霧子は直也に電話をかけなおした。
「ゴメン…さっきは言い過ぎた。」
「ま、いいよ。
俺も言い過ぎたし。
正義感強めなのが、霧子らしいし。」
直也の言葉に胸が熱くなる。
学生時代からの長い付き合いの秘訣は直也の優しさであるといっても過言ではない。
「それじゃー今日はこの辺で。
今週末はどっか行こうぜ。」
「うん…え?」
たどり着いた先、賃貸アパートの玄関ドアを見上げた霧子は、愕然と固まった。
「なに、コレ!」
ドアの上の水道検針の消費期限シールに赤い記号が描いてある。

XX9XXdXX
「怖…。」
「どうした?」
心配そうな直也の声。
「玄関のドアに変なイタズラ書きが描いてあるの。
赤い字で。
今、撮って送るから見て!」
霧子は急いでスマホを出して写真を撮り、直也に送信した。
「ああ、コレな。」
直也から返ってきたのは意外な返事だった。
「コレなって…コレが何か知ってるの?」
「暗号だよ。」
「暗号?」
「オマエんち、表札出してないだろ? だから、どこの誰か分かるように暗号を描かれたんだよ。
最近、新聞の勧誘とか来なかった?」
最近は忙しくてインターホンの録画チェックを怠っていたので、誰が訪ねてきたか記憶にはない。
「う、分かんない。」
「確か【XX】は染色体だったら女性だって理科で習ったよな?
【9】は9時から。
【d】はディナーまで家に居ない。」
「というと?」
「たぶん【女が一人暮らしで居ない時間があるよ】って暗号なんじゃない? 」
「こわ! 個人情報の漏洩!?」
「そーそー。
新聞の営業くらいならいいけど、空き巣に悪用される可能性もあるから直ぐに消しておけよ。
だから、早く一緒に暮らせばいいのに。」
直也の最後の言葉を無視した霧子は一度部屋に戻った。
洗面台の棚にあったネイルの除光液を手に持ち、再び外に出ようとした。
しかし、玄関ドアの把手をつかんだまま、霧子はその場に固まった。
ドアの向こうで人の気配を感じたからだ。
ヒタ
ヒタ
ヒタ
通路をゆっくり歩く足音。
この足音がもし、霧子の部屋の前で立ち止まったら?
霧子は生唾をゴクリと飲み込んだ。
まだ、直也との電話は繋がっているのを確認する。
「ゴメン直也。
やっぱり今日はウチに来て。」
♢
直也が帰ったのは、次の日の夜だった。
最近はいつも会うたびに些細な喧嘩をしていたが、今日の直也は久し振りに機嫌良く帰宅した。
「また何かあったら、すぐに呼んで。」
「ありがと。」
駅の改札口で直也と別れた霧子は、商店街のショーウインドウに映る自分を見た。
肩がカットアウトされたミントのニットにチノのワイドパンツ。
ネイルはピンクのワンカラ―に先だけシルバーのラメを乗せている。
いつものトレーナーとジーンズスタイルの仕事着からすると、かなりお洒落な今どき女子に見える。
(園児に囲まれている私と直也に会っている時の私。
どちらも私だけど、ぜんぜん違うな。)
今回の暗号の件で前から言われていた同棲について言及された。
直也はハッキリと口にはしないが、その先の結婚まで考えているのだと思う。
霧子は今の状況を維持することに精いっぱいで、そこまで気が回らない。
むしろ、前向きな直也の気持ちが霧子にはプレッシャーだった。
(婚約となるとお互いの両親を会わせるんだよね?)
一度だけ直也の実家に顔を出したときに両親に挨拶をしたことがある。
二人とも優しそうな雰囲気だった。
(うちの親にも直也を会わせるのか…。)
ぼんやりしながら歩いていると、すれ違いざまに白髪の男と肩がぶつかった。
「気をつけろ!」
「あ、すみません。」
商店街の通りに面しているパチンコ屋に吸い込まれていく男の背中を見送ると、自動ドアの向こうの店内が見えた。
騒々しいほどの音楽が流れる店内に一瞬だけ目を奪われた霧子は、ギョッとして足を止めた。
目に飛び込んできたのは、入り口側の台にくわえ煙草で足を組んで座っているロングヘア―の女性。
見覚えのあるカーキのブルゾンに胸が震えた。
「げんくんのお母さん…⁉」
慌てて扉の横に身を潜めた霧子は、自動扉に貼られた目隠しシールの隙間から店内を覗き見た。
「接客業で土日も遅くまで仕事だから、げんくんを預けてるんじゃなかったの?」
嫌な予感がした霧子はすぐにポケットのスマホに手を伸ばした。
心が赴くままにメールアプリを開き、出勤している新人保育士の真坂の個人LIMEにメールを打ちこむ。
『お疲れ様です。今日、げんくんは登園してますか?』
ドキドキしながら返事を待つ間、霧子は訳の分からない怒りに震えていた。
この怒りはムダなことだとは分かっている。
むしろプロとしては、目を瞑って忘れなくてはならない案件だろう。
心の中の葛藤にモヤモヤしていると、やがて真坂からの返信が来た。
『休日なのに、マジメですねw
もちろん来てますよ。
残業確定でメンタルヤバめで~す』
(なんて母親なの!)
霧子は真坂に返信を返すのも忘れ、イライラと指先を赤くなるまで噛んだ。



