「霧子せんせー! げんくん、お迎えでーす!」
眠気でうつらうつらしていた霧子は、ハッとして連絡帳を閉じて教室の時計の針を確認した。

19時を過ぎている。
(もうこんな時間…?)
こども園の契約書にある最終お迎え時間は18時30分だが、元希の母・佳苗はいつも一番最後に迎えに来る。
そのため元希を預かっている日は、職員の就業終了時間である19時に帰ることができない。
先日も園長を交えて契約内容についての話し合いをしたのだが、残念ながら佳苗には響いていなかったようだ。
園長には保護者の管理も『担任の責任』だと言われている以上、延長プラス着替え時間はサービス残業ということになる。
だからと言って元希の前で佳苗に文句を言うこともできないので、この問題はまだしばらくは続くのだろう。
眠気を振り払うように頭を振って、霧子は明るい声を振り絞った。
「げんくん良かったね、お母さん来たよ!」
返事が無いので図書コーナーまで行ってみると、元希が真剣な顏で絵本を読んでいる。
「おやまぁ、げん先生。今日も熱心に本の研究ですか?」
さっきまで『博士ごっこ』をしていたので、その延長で霧子がおどけて切り出すと、ようやく元希が絵本から顔を上げた。
「おっほん。研究は一日にして成らずじゃ!」
「どんな研究ですかな?」
「あんごうだよ。」
本の表紙を覗いてみると、黄色い文字で『解いてみよう! 洞窟のひみつ』というタイトルが見える。
ホワイトボードの材質を利用した、記入式の知育絵本のようだ。
「ふむふむ。
暗号表をもとにクロスワードを完成させて、記号をつなげて解読するのね。」
「分かる?」
「博士、これは難しそうな問題ですね。」
「答えは【ティラノサウルス】じゃ!」
「すごいすごーい!げんくんは天才だね‼」
得意げな顏をした後、元希はしゅんとうなだれた。
「でも…もうお片づけの時間だよね。」
使ったおもちゃや本はもとの場所に戻して帰るように指導するのがこども園の決まりだ。
「じゃ、こうしよっか!」
霧子は元希に目配せして、知育絵本を窓際の棚の上に開いて乗せた。
「かざるの?」
「明日、みんなに見せてからお片づけしようね!」
「やったぁ! きりせんせー・だーいすき!!」
元希が目をキラキラと輝かせて霧子の太腿にしがみつく。
こういう時が、保育士になって良かったと心から思う瞬間だ。
その時、教室の引き戸がガラリと開いた。
「こんばんは…。」
入ってきたのは、元希の母の佳苗だった。
緩いウェーブの入った胸まであるロングの黒髪。細身のタイトなデニムにカーキのブルゾンを羽織っている。
「ママ!」
「遅くなってゴメンね。」
ダッシュで佳苗の胸に飛び込む元希を見て、霧子は胸がキュンとする。
保育士がどんなに親身になってお世話をしても、やっぱり本物の母親には敵わない。
(今日も無事に、この親子を引き合わせることができて良かった。)
さっきまで残業への恨み事を考えていた自分を心の中でパンチして、霧子は佳苗に話しかけた。
「見てください、お母さん! げんくんが暗号を解いたんですよ♪」
棚上に飾られた本を見た途端、佳苗の口元が分かりやすく引きつった。
「ああ、また…。」
(また?)
霧子の顏がこわばる。
「ダメじゃない元希。ちゃんとお片づけをしなきゃ。」
「きりせんせーがかざって良いっていったんだもん…。」
「わがままを言って、先生を困らせないで!」
佳苗は少し強めの口調になった。
「あ、あの!」
霧子は思わず口を挟んだ。
「げんくんが素晴らしいので、明日みんなに見せてからお片づけしようねって話していたんです!
ねっ、げんくん‼」
「…甘やかさないでください。」
「え?」
思い切り眉をひそめた霧子に、佳苗は冷たく言い放った。
「元希を子ども扱いしないでくださいと言っているんです。ウチでも好きにされたら困るんで。」
「あ…ですよね。その…すみません…。」
大きなため息を吐いた佳苗が窓際の絵本を本棚に仕舞った。
♢
「げんくん・また・明日ねー!」
元希を乗せた黒いセダン車を大きく手を振って見送ったあと、霧子は首を回して左肩を揉んだ。
暗号の件はヒヤヒヤしたが、今日も無事に一日を終えることができた。
玄関の施錠をしてクルリと振り向いた霧子の目に映ったのは、職員室の入り口からひょっこりと顏を出している山下だ。
「おつかれぃ。」
「うぃーっす。」
放り投げられた缶を見事にキャッチすると、プルタブを開けた霧子はゴクゴクと音を立ててコーヒーを喉に流し込んだ。
「ンー、染みるッ!」
「きり先生が好きそうだと思って買っておいた。」
「さすが先輩! あざーっす‼」
年の離れた先輩ではあるものの副担任になった山下とは、友達のように仲良くさせてもらっている。
山下は、大きなクリクリの目を見開いて霧子の横にすり寄った。
「さっきの、見ちゃった。」
「何がですか?」
「ウチのコを甘やかさないでください!」
「あぁ…。」
「フォローに入ろうか迷ったけど、事なきを得て良かったよ。
案外、教育ママなんだね。」
「良かれと思ってしたことでも、人によっては受け止め方が違いますよね。」
「確かに。園児は可愛いけど、親の取り扱いは難しいよね。」
「ムズイです、普通に。」
落ち込む霧子の横で、山下が首をひねった。
「でもさー、げんくんママってあんなに暗い感じの人だっけ? 」
「え?」
「入園した頃はもう少し愛想が良かった気がする。
美容師なんでしょ?」
そう言われるとそうかもしれない。
霧子は自分のことに精一杯で、保護者の変化までは記憶していない。
「あ、そういえば。」
元希との会話を思い出した霧子が切り出した。
「課題保育の時に身近に起きたニュースを園児に発表してもらったじゃないですか。
その時にげんくんが私にだけに話してくれたことがあるんです。」
「何を?」
「『最近、火事でしんせきのおばさんが死んじゃった』って。」
「えぇ~! げんくんママの姉妹が死んだってこと?」
「げんくん情報だから、詳しくは分かんないですけど。
ちょっと子どもたちの前で掘り下げるには繊細な話だから、私もあまり話を広げないようにしていたもので…。」
「いや、それはげんくんママも鬱になるかもね。そっかそっか。」
もう山下の脳内では、佳苗が身内を失って性格が豹変したと認識されたのだろう。
山下は急に熱を失い、話を切り上げるように時計を見た。
「きり先生、早く帰らないと家で彼氏が待ってるんじゃないの?」
「山下先生こそ、お子さんたちの夕飯の準備を急がないと。」
「あ、そうだった!」
今までダラダラとしていた山下の背筋が急に伸びて、モップに手を伸ばした。
「あとは私がやるんで、大丈夫ですよ。」
霧子は慌てて山下からモップを取り上げた。
「あ~申し訳ないけど甘えておく! いつもゴメンね!!」
「良いんです。私は独身だし。
てゆうか、子どもが二人もいる人に残業させるシフトを組むこと自体、おかしくないですか?
こども園のくせに。」
「ハハ。それが園長の方針だからね。
ウチも保育士なのに土日祝休みにさせてもらってるし、そこは仕方ないかな。」
「山下先生がいいならいいですけど…。」
「きり先生に心配してもらえるだけでもありがたいよ。
じゃ、また明日!」
山下は急ぎ足で駐車場に向かった。
職員室に一人で取り残された霧子は、ジーンズの尻ポケットからスマホを取り出した。
今日、着信履歴を確認するのは朝以来だ。
一時間おきに2回の着信。
画面に浮かぶ名前は
♡彼氏♡
霧子は重ためのため息を吐いた。
「仕方ない、よね。」
それから、非通知で一件。
「え?」
それが1分前の着信だと知り、霧子は首を傾げた。
「ウソ。今? 音鳴ったかな⁇」
着信音の設定を確かめたものの、特に音設定が小さくなっているわけではない。
不思議に思いながらも、まとめた書類をカバンに入れた霧子は職員室の電気を消した。
眠気でうつらうつらしていた霧子は、ハッとして連絡帳を閉じて教室の時計の針を確認した。

19時を過ぎている。
(もうこんな時間…?)
こども園の契約書にある最終お迎え時間は18時30分だが、元希の母・佳苗はいつも一番最後に迎えに来る。
そのため元希を預かっている日は、職員の就業終了時間である19時に帰ることができない。
先日も園長を交えて契約内容についての話し合いをしたのだが、残念ながら佳苗には響いていなかったようだ。
園長には保護者の管理も『担任の責任』だと言われている以上、延長プラス着替え時間はサービス残業ということになる。
だからと言って元希の前で佳苗に文句を言うこともできないので、この問題はまだしばらくは続くのだろう。
眠気を振り払うように頭を振って、霧子は明るい声を振り絞った。
「げんくん良かったね、お母さん来たよ!」
返事が無いので図書コーナーまで行ってみると、元希が真剣な顏で絵本を読んでいる。
「おやまぁ、げん先生。今日も熱心に本の研究ですか?」
さっきまで『博士ごっこ』をしていたので、その延長で霧子がおどけて切り出すと、ようやく元希が絵本から顔を上げた。
「おっほん。研究は一日にして成らずじゃ!」
「どんな研究ですかな?」
「あんごうだよ。」
本の表紙を覗いてみると、黄色い文字で『解いてみよう! 洞窟のひみつ』というタイトルが見える。
ホワイトボードの材質を利用した、記入式の知育絵本のようだ。
「ふむふむ。
暗号表をもとにクロスワードを完成させて、記号をつなげて解読するのね。」
「分かる?」
「博士、これは難しそうな問題ですね。」
「答えは【ティラノサウルス】じゃ!」
「すごいすごーい!げんくんは天才だね‼」
得意げな顏をした後、元希はしゅんとうなだれた。
「でも…もうお片づけの時間だよね。」
使ったおもちゃや本はもとの場所に戻して帰るように指導するのがこども園の決まりだ。
「じゃ、こうしよっか!」
霧子は元希に目配せして、知育絵本を窓際の棚の上に開いて乗せた。
「かざるの?」
「明日、みんなに見せてからお片づけしようね!」
「やったぁ! きりせんせー・だーいすき!!」
元希が目をキラキラと輝かせて霧子の太腿にしがみつく。
こういう時が、保育士になって良かったと心から思う瞬間だ。
その時、教室の引き戸がガラリと開いた。
「こんばんは…。」
入ってきたのは、元希の母の佳苗だった。
緩いウェーブの入った胸まであるロングの黒髪。細身のタイトなデニムにカーキのブルゾンを羽織っている。
「ママ!」
「遅くなってゴメンね。」
ダッシュで佳苗の胸に飛び込む元希を見て、霧子は胸がキュンとする。
保育士がどんなに親身になってお世話をしても、やっぱり本物の母親には敵わない。
(今日も無事に、この親子を引き合わせることができて良かった。)
さっきまで残業への恨み事を考えていた自分を心の中でパンチして、霧子は佳苗に話しかけた。
「見てください、お母さん! げんくんが暗号を解いたんですよ♪」
棚上に飾られた本を見た途端、佳苗の口元が分かりやすく引きつった。
「ああ、また…。」
(また?)
霧子の顏がこわばる。
「ダメじゃない元希。ちゃんとお片づけをしなきゃ。」
「きりせんせーがかざって良いっていったんだもん…。」
「わがままを言って、先生を困らせないで!」
佳苗は少し強めの口調になった。
「あ、あの!」
霧子は思わず口を挟んだ。
「げんくんが素晴らしいので、明日みんなに見せてからお片づけしようねって話していたんです!
ねっ、げんくん‼」
「…甘やかさないでください。」
「え?」
思い切り眉をひそめた霧子に、佳苗は冷たく言い放った。
「元希を子ども扱いしないでくださいと言っているんです。ウチでも好きにされたら困るんで。」
「あ…ですよね。その…すみません…。」
大きなため息を吐いた佳苗が窓際の絵本を本棚に仕舞った。
♢
「げんくん・また・明日ねー!」
元希を乗せた黒いセダン車を大きく手を振って見送ったあと、霧子は首を回して左肩を揉んだ。
暗号の件はヒヤヒヤしたが、今日も無事に一日を終えることができた。
玄関の施錠をしてクルリと振り向いた霧子の目に映ったのは、職員室の入り口からひょっこりと顏を出している山下だ。
「おつかれぃ。」
「うぃーっす。」
放り投げられた缶を見事にキャッチすると、プルタブを開けた霧子はゴクゴクと音を立ててコーヒーを喉に流し込んだ。
「ンー、染みるッ!」
「きり先生が好きそうだと思って買っておいた。」
「さすが先輩! あざーっす‼」
年の離れた先輩ではあるものの副担任になった山下とは、友達のように仲良くさせてもらっている。
山下は、大きなクリクリの目を見開いて霧子の横にすり寄った。
「さっきの、見ちゃった。」
「何がですか?」
「ウチのコを甘やかさないでください!」
「あぁ…。」
「フォローに入ろうか迷ったけど、事なきを得て良かったよ。
案外、教育ママなんだね。」
「良かれと思ってしたことでも、人によっては受け止め方が違いますよね。」
「確かに。園児は可愛いけど、親の取り扱いは難しいよね。」
「ムズイです、普通に。」
落ち込む霧子の横で、山下が首をひねった。
「でもさー、げんくんママってあんなに暗い感じの人だっけ? 」
「え?」
「入園した頃はもう少し愛想が良かった気がする。
美容師なんでしょ?」
そう言われるとそうかもしれない。
霧子は自分のことに精一杯で、保護者の変化までは記憶していない。
「あ、そういえば。」
元希との会話を思い出した霧子が切り出した。
「課題保育の時に身近に起きたニュースを園児に発表してもらったじゃないですか。
その時にげんくんが私にだけに話してくれたことがあるんです。」
「何を?」
「『最近、火事でしんせきのおばさんが死んじゃった』って。」
「えぇ~! げんくんママの姉妹が死んだってこと?」
「げんくん情報だから、詳しくは分かんないですけど。
ちょっと子どもたちの前で掘り下げるには繊細な話だから、私もあまり話を広げないようにしていたもので…。」
「いや、それはげんくんママも鬱になるかもね。そっかそっか。」
もう山下の脳内では、佳苗が身内を失って性格が豹変したと認識されたのだろう。
山下は急に熱を失い、話を切り上げるように時計を見た。
「きり先生、早く帰らないと家で彼氏が待ってるんじゃないの?」
「山下先生こそ、お子さんたちの夕飯の準備を急がないと。」
「あ、そうだった!」
今までダラダラとしていた山下の背筋が急に伸びて、モップに手を伸ばした。
「あとは私がやるんで、大丈夫ですよ。」
霧子は慌てて山下からモップを取り上げた。
「あ~申し訳ないけど甘えておく! いつもゴメンね!!」
「良いんです。私は独身だし。
てゆうか、子どもが二人もいる人に残業させるシフトを組むこと自体、おかしくないですか?
こども園のくせに。」
「ハハ。それが園長の方針だからね。
ウチも保育士なのに土日祝休みにさせてもらってるし、そこは仕方ないかな。」
「山下先生がいいならいいですけど…。」
「きり先生に心配してもらえるだけでもありがたいよ。
じゃ、また明日!」
山下は急ぎ足で駐車場に向かった。
職員室に一人で取り残された霧子は、ジーンズの尻ポケットからスマホを取り出した。
今日、着信履歴を確認するのは朝以来だ。
一時間おきに2回の着信。
画面に浮かぶ名前は
♡彼氏♡
霧子は重ためのため息を吐いた。
「仕方ない、よね。」
それから、非通知で一件。
「え?」
それが1分前の着信だと知り、霧子は首を傾げた。
「ウソ。今? 音鳴ったかな⁇」
着信音の設定を確かめたものの、特に音設定が小さくなっているわけではない。
不思議に思いながらも、まとめた書類をカバンに入れた霧子は職員室の電気を消した。



