♢♢一枚の絵♢♢

(こども園の幼児が描いた母親の絵。その左下に小さな女性の顔。)



 日に日に陽射しが強くなって、木漏れ日が柔らかな芝生に降り注ぐ五月。

 認定こども園の保育士・透野霧子は縦型のブラインドのルーバーを閉めようとして、園庭のカラフルな遊具たちの向こうに赤紫色のライラックが咲いているのを見つけた。

(あれ。
 コレってデジャヴュ?)

 確か去年の今頃も、園の窓からライラックの花を見たはずだ。

 霧子は保育士二年生。
 髪は明るめの栗色でショートボブ。
 前髪は潔く眉上できっかりと揃えていて、色白の額がより際立っている。
 オレンジ色のスウェットの上衣にブルージーンズを合わせた服装は、このこども園の規定スタイルだ。
   
(この一年間、早かったなぁ!)

 沢山の失敗に泣いたし、子どもたちの行動に悩み振り回され、時には辞めたいと思うことさえあった。
 思い返すと、黒歴史しか浮かばないのが辛い。
    
 しかし、負けん気の強さと努力がついに実を結び、今年からは担任として年長クラスの『そらぐみ』を任せられている。

 正直言うと規定労働時間じゃ足りないくらい、担任の仕事はキツくて大変だ。
 最近では彼氏とのデート中でさえも、気づけば園のイベントの段取りを考えている。

(直也も内心、呆れてるよね。
 初恋だって…十年経ったら家族じゃん。)

 霧子は直也とペアの小指のピンキーリングの日焼け跡を見て、人知れず苦笑いをした。

「せんせー! 」

 可愛らしくて甲高い声が『そらぐみ』の教室に響きわたる。

「お母さんの絵、できました!」

 おませな彩音が走り寄ってくると同時に、複数の園児たちが転がるように霧子目がけて突進してきた。

「おらのも、おらのも!」
「ママ!…じゃなくて、せんせー、わたしの絵も見て!」
「ちょ、待って。」

 一瞬で園児たちに取り囲まれた霧子は、思考を即時にシャットアウトした。

(いろいろあるけど、やっぱりこどもたちの笑顔に癒されるんだよね!)

 霧子は満面の笑顔を貼り付けて、園児たちの掲げるスケッチブックの絵をじっくりと眺めた。

「わぁ素敵! みんな上手に描けたねぇ!!」

 今日は『母の日』だ。
 日ごろの感謝を込めてのサプライズプレゼント…ということで、園児たちにお母さんの似顔絵を描かせている。

 普段は作業に飽きて離脱してしまう子も多いお絵描きの時間も『プレゼント』となると、全員が真剣に取り組んでいる姿が微笑ましくて、可愛い。

 自然と緩む頬を抑えつつ、霧子は園児たちと目線を合わせるために、膝を曲げて中座をした。
 差し出される一枚一枚の絵を丁寧に受け取り、園児たちに感想を伝える。

「あやねちゃん、上手! リボンいっぱいでイイね。
 そうくんも画面いっぱいに描けてスゴイね。優しそうなお母さん!
 げんくんのお母さんは…。」

 順番に講評をしていた霧子の目線が、須藤元希の絵の左下で止まる。

(ん? コレ…何だろう…。)

「えっと…お母さんはとっても可愛く描けてるね。
 けど、下のこの小さな女の人は…だれかな?」

 霧子は中央に大きく描かれた笑顔の母親の絵の右下を指差した。
 母親の絵のタッチに比べると、ずいぶんと簡略化されているようだ。

「まさか、オバケじゃないよね?」
「これはねぇ…。」

 元希は大きく息を吸うと、ハッキリとこう言った。

「お化粧をしていないお母さん!」

 あまりにも悪気の無いその言葉に、近くで園児の補助をしていた副担任の山下が噴き出した。

「ちょ…やだ!」
 
 山下の笑い声につられて、園児たちも次々に笑い出し、教室がザワザワと騒がしくなった。
 キョトンとしている元希に山下が話しかけた。

「げんくんのお母さんは、メイクが上手なんだね!」
「うん。ママはびようしだから、いつもかわいくしてる!」
「そっかぁ。じゃあ、メイクにたくさん時間をかけてるんだねぇ。
 ププッ。」

 調子良く話を進める山下に、霧子が低い声で制した。

「や・ま・し・たせんせ!」

 唇の動きだけで『言い過ぎ』とたしなめると、山下がペロリと舌を出す。

「ゴメン。フォローよろしく!」

 教育者たるもの言葉には神経を使わなくてはならない。
 子どもの何気ない話から保護者のクレームに発展することは多いからだ。

 霧子より15歳年上で現場の経験年数も上の山下が、未だに一度も担任を任されないのはこういうところなのだろう。
 霧子は優しく元希の頭を撫でた。

「元希くんは、お母さんのことをよく見てるんだね。
 メイクをしているお母さんもメイクをしていないお母さんも大好きなんだね。」

 元希は何かを言いたげな様子で、ジッと霧子を見上げた。

「…。」
「元希くん?」

 霧子の心配を他所に、急に身を翻した元気は「オシッコ!」と言いながら教室を慌てて出ていった。

「やれやれ。」

 山下と目を合わせると、霧子は肩を触りながら中座から立ちあがった。
 子どもの突飛な行動は日常茶飯事で、それをいちいち気にしてはいられない。

「これでお絵かきの時間はおしまいでーす。
 今描いた絵はお家に帰ってから、お母さんにサプライズプレゼントをしてくださいねー!」

 ♢

 幸せで溢れた母の日の一コマ。
 この時はまさかこの絵が、あんな事件に繋がるとは思ってもいなかった。