春が訪れた。

それはルナにとって、初めての地上での季節だった。



夜だけでなく、昼も彼の隣にいられる。

小さなことが、ひとつひとつ新しく、愛おしかった。



土の匂い。草の感触。雲の動き。鳥の声。

女神だったころは気づかなかった世界が、目の前に広がっていた。



「ルナ、これが桜っていうんだよ」



ハルトが指差したのは、満開の花をつけた大きな木だった。

薄紅色の花びらが、風に乗って舞っている。



「こんなに儚いのに、こんなに綺麗なんて……」



ルナは、指先で一枚の花びらを受け止めた。

どこか、自分に似ていると思った。



「また来年も咲くよ。咲き方は少し違っても、ちゃんと春になると」



その言葉に、彼女は微笑んだ。



「じゃあ、私も、来年はもっと綺麗に笑えるようになるわ」



ふたりは並んで桜を見上げた。

月が照らす夜も、陽が射す昼も、もう怖くなかった。



過去に背を向けたわけじゃない。

神の力を失った悲しみも、喪失も、すべて心の奥に残っている。

けれど、それ以上に、ハルトの隣で生きることのほうが、ずっと重く、ずっとあたたかかった。



それでも、夜になるとルナは時折、空を見上げる。



彼女がかつていた場所。

今も変わらずそこに浮かぶ、静かな月。



「ありがとう。私を許してくれて」



誰に向けた言葉かは、自分でもわからなかった。



ただ、あの光が今も変わらずに世界を照らしていることが、嬉しかった。



「行こう、ルナ」



後ろからハルトが手を差し伸べる。



「うん」



彼女はその手を握る。

もう、冷たくない手。命を持つ手。愛を選んだ手。



ふたりの影が、春の陽に溶けていく。

空は高く、風はやわらかく、季節は確かに進んでいた。



そして、ふたりの物語もまた。



ゆっくりと、新しい章へと歩き出していた。