満月が空を染める夜、ルナは静かに人間界の小さな町に降り立った。銀色の髪が風に揺れ、肌は月の光を宿して透き通っている。彼女は月の女神。だが、神の掟により、人間界での滞在は許されていなかった。



「たった一晩だけ…⋯」



そう呟きながら、ルナは森の奥へと歩を進めた。そこで彼女は、少年ハルトと出会った。彼は星を見上げながら、無邪気に笑っていた。



「君は誰?」



ルナの声に、ハルトは驚いたが、すぐに笑顔を返す。



「僕はハルト。君は?」



「ルナ。月の女神だよ」



言葉を聞いても信じられない様子のハルトに、ルナは静かに頷いた。



「信じてほしいわけじゃない。ただ、今夜だけ、君のそばにいたい」



月の光が二人を包み込む。禁断の恋が、静かに芽吹いた。



日が昇ると、ルナは去らねばならなかった。



「また会える?」



ハルトの声にルナは微笑み、



「もし、願いが叶うなら」



そう答えた。



それから二人は満月の夜にだけ逢い続けた。だが、神々の掟は二人の時間を縮めていく。



ある夜、ルナの姿がだんだん薄れていくのを感じた。



「離れなければ、君は消えてしまう」



ハルトは涙を流しながらも、



「君がいない世界なんて、僕にはないよ」



と叫んだ。



ルナは決意した。



「私の力を全部使って、あなたと共に生きる道を探すわ」



それは禁じられた行為。神々の怒りを買うことになる。



だが、二人の絆はそれを越えた。



月が沈み、夜が明けても、ルナは人間の姿を失わなかった。彼女はもはや完全な女神ではなかったが、ハルトと共にいることができた。



彼らの恋は永遠に輝く月の光のように、静かに世界に刻まれたのだった。



満月の夜だけ。

それがふたりに許された、わずかな時間だった。



ルナは何度も地上に降りた。神々の目を盗み、ハルトの待つ森へと通った。

彼は決して、問い詰めなかった。なぜ満月の夜しか会えないのか、なぜ涙を流すのか、なぜ触れるたびに彼女の指先は冷たいのか。

それでも、彼の目はいつもルナをまっすぐ見ていた。



「また来てくれたんだね」



「ええ。あなたが、待っていてくれるから」



ルナは微笑んでそう言う。けれど、その笑みの裏には、焦りと痛みが隠れていた。



彼女の力は、確実に失われていた。

神々の世界と人間の世界は、交わってはならない。



ましてや、心を通わせるなど、最大の禁忌。



このまま彼と会い続ければ、月の神力は彼女の中から完全に失われ、存在すらも消えてしまう。



それでも、もう引き返せなかった。

ハルトの声、彼のまっすぐな眼差し、笑い声、たった一言の「またね」。

そのすべてが、ルナを月ではなく、地上に引き寄せていた。



「ルナ。もし、次の満月に君が来なかったら……」



彼は言いかけて、目を伏せた。

言葉にするのが怖いのだろう。来なくなる未来を、想像したくなかった。



ルナは、そっと彼の頬に手を添えた。

冷たい指先が、彼の体温に溶けていくようだった。



「私は、あなたを忘れないわ。たとえ月が欠けても」



ハルトはうなずき、静かに言った。



「僕も。たとえ君が消えたとしても、君と過ごした夜を忘れたりしない」



その夜、ルナは一度も空を見なかった。

彼女は、月の女神でありながら、月を見上げる資格を失ったのだと思った。



そして、次の満月。

ハルトは森に立ち、夜空を見上げていた。

だが、そこにルナの姿はなかった。



風が、冷たい。

満月は、悲しげに照っていた。



終わったのだ。



彼がそう思いかけたとき、不意に空気が震えた。

風が止まり、月明かりがいっそう強くなった。



「……遅れて、ごめんなさい」



振り向くと、そこにルナが立っていた。

しかし、その姿は以前のように神々しくはなかった。

銀の髪は淡く色を失い、瞳には深い疲れが宿っていた。



「もう、女神じゃないの」



彼女は微笑んだ。その表情には、どこか安堵すらあった。



「どうして……?」



ハルトの問いに、ルナは答えた。



「あなたといる未来を選んだから。神としてではなく、ひとりの女として」



ハルトは彼女の手を握った。今度は、冷たくなかった。



「それでいい。いや、それがいい。ずっと、待ってた」



「私も。ずっと、願ってた」



月が静かに微笑むように、ふたりを照らしていた。

その夜、月の女神はひとりの人間として、愛に生きることを選んだ。



それは神の記録から消え去るかもしれない、ほんの小さな物語。

けれど、ふたりにとっては永遠だった。