異邦の王は風に立つ

 冬至の夜が来る。
 都に雪が降る。薄く、真綿のように。
 白くなる屋根。城壁の上でだけ火床が赤く揺れ、凍りついた鐘の胴に風が手をかける。鳴らないはずの音が、鈍く胸に触れた。息は白くならない。乾いたこの国の空気は白を抱え込まず、ただ冷たさだけを残す。

 王宮の評議室は小さく灯り、扉は厚い布で二重に覆われている。机の上には紙、印、針。地図を押さえる石の角が冷たい。
 席につく者は四人だけ。王、宰相・楓麟(ふうりん)、剣士・藍珠(らんじゅ)、密偵頭。
 議題はひとつ。紅月と――「密約」の兆し。

 捕らえた書記補の青年が言ったこと。震えながら、息を切らしながら。「春までに白風が持たぬなら、割譲の条件で講和に応じる」。
 紙に写しても、言葉の体温は消えない。
 条件には「都の一部を兵営に」「租税の半分を紅月へ」。
 楓麟は、冷たい語でそれをひとつずつ置き換えた。
「講和の名を借りた併呑だ。名が変われば、刃の切れ味は鈍ると、向こうは知っている」

 机の端に置いた手のひらが、少し汗ばむ。遥(はるか)は自分の脈を数えた。早くない。けれど、指の腹の皮は薄く痺れている。
 城下の民の一部は講和を望んでいる。寒さは骨を細くし、腹の穴は心の言葉を沈める。粟袋を差し出されれば、誰の手だって揺れる。
 法務卿・玄檀(げんだん)は落ち着いた声で言った。
「国を保つためなら、一時の屈服もやむなし」
 商務司が紙を撫でる指で同調する。
「交易が再開すれば、飢えは和らぎます」
 遥は言葉が出ず、机に置いた手を見た。爪の間に、堰の夜の灰がまだ残っている気がした。あのざらつきが、今も残っている。
 心が、裂けそうになる。

 藍珠が剣の柄を指で叩く。硬い音。
「紅月に膝を折れば、兵の士気は死ぬ。死んだ士気を食う民は、結局、明日を飢えるだけだ」
 楓麟が淡い声で補う。
「王よ。紅月は徳を試している。屈すれば、次の代には王も国も名を失う」
 失う――という言葉は、風より冷たい。

 沈黙。
 雪が屋根から落ちる音は、音というより重みだった。
 遥は唇を噛み、白い窓へ視線を逃がした。逃がした先に、雪が積もる。
「……従属は嫌だ。けど、民の飢えを見捨てるのも嫌だ」
 弱さの向こうにある強さを、まだ知らない。けれど、探したいと思う。

 楓麟が一歩、前へ。机の上に地図を広げた。
 紙が布の上を滑る音。
「ゆえに、密約を逆手に取る。紅月が欲しいのは“春までの持久”だ。こちらから偽の使者を出す。条件を呑む素振りを見せつつ、相手の本陣と補給の筋を探る」
 藍珠が視線だけで頷く。
「偽使者を出せば、内通者が食いつく。釣れる」
 遥の喉が鳴る。
「……罠に、かける」

 密偵頭が前へ出た。目は深くない。けれど、揺れない。
「使者の仮面は、処罰を免じた者に。罪を減じられたことで“裏切り”を選ぶか、“贖罪”を選ぶか。紅月は必ず試す。ならば、その試しを、こちらが先に試す」
 評議室の空気が重くなる。灯が低く揺れ、影は長くなった。

「人を、餌にするのか」
 遥の声は低かった。
 楓麟が首を振る。
「違う。人を餌にするのは紅月だ。王は、その牙を逆手にする」
 逆手――という言葉は、刃の冷たさよりも、手の温かさに近い。

     ◇

 翌日。
 悔悟令で出頭した三人の若者のうち、一人が選ばれた。
 彼は震えていた。けれど、逃げるためではなく、立つために。
「……贖いたい」
 密使の役を受けるとき、彼は父の形見の紐を外し、手首に巻き直した。紐には擦れた節がひとつあって、そこに指が落ち着く。
 偽の講和文が作られる。租税の割譲を呑む。代わりに「春までの兵糧供給」を求める条文。紅月にとって都合のよい条件。
 だが、その文には裏がある。古地図の記号を用いた暗号だ。会合の場所を、逆にこちらが指定する仕掛け。文字の間の余白に、小さな点の組み合わせ。見慣れた者にしか見えない星の並び。

 雪が深くなる。夜は早く来る。
 若者は仮面をつける。白い布で作った、顔の上半分を覆う簡素なもの。目だけが見える。それでも、震えは隠せない。
 藍珠が影の位置を確かめ、尾行の者を置く。
 楓麟は塔に登り、風を読む。鈴は鳴らさない高さで、風は城を回る。
 遥は塔の下、見えない風の高さに耳を澄ませた。耳で聞くのでなく、骨で。
 手の中には短い紙片。出す言葉は少なく、置く言葉は重く。

 城外。雪原に火が灯る。小さな火だ。小さいほど、目が集まる。
 紅月の影が現れる。黒い布に包まれた肩。薄い革の匂い。足跡は寄せて消してある。
 若者は震える声で偽文を渡す。
 紅月の斥候は笑う。笑いは唇だけで、目は笑わない。
 袋を投げた。
「春の半分だ。残りは王の誠意次第。都の端を兵営に寄越せ」
 若者の瞳が揺れる。
 揺れた瞬間――雪煙が遠くで合図をする。
 藍珠が踏み込む。
 尾行隊が包囲を狭める。
 だが、紅月の斥候も仕掛けていた。雪の間から二重の影が立ち上がり、矢が放たれる。矢羽根は紅。狙いは若者の喉。
 楓麟が塔の上で息を切る。
 風が、切り替わる。
 鈴を鳴らさない高さで、刃の線が少しだけ曲がる。
 矢は逸れ、仮面の端を裂くだけで雪に吸われた。
 藍珠の剣が斥候の肩を叩き落とす。
 雪が跳ね、赤が散る。
 残りは捕縛された。縄は濡れて、冷たい。指先の感覚が遅くなる。遅くなる間に、息は短く整えられる。

 捕らえた斥候は口を割らなかった。
 袋の粟の底を、藍珠が指先で探る。指に当たる硬いもの。
 楓麟が灯を近づける。
 粟の底板。裏に刻印。
 丸のようで丸でない。三つの点が斜めに並び、その横に短い線。
 密偵頭が目を細める。
「都の北東、古い街道。雪に埋もれているが、刻印はその道の印。……補給は、そこ」
 雪の下で、見えない血管が走っている。

     ◇

 王宮に戻る。
 捕縛した斥候が評議の間に引き出される。背は曲がらない。目は濁らない。
 玄檀が「処刑を」と言う。鋭く、迷いがない。
 遥は首を振った。
「処刑より、情報を生かす。紅月の喉を絞めるには、補給路を断つしかない」
 声は低い。低い声は、長く届く。
 楓麟が静かに頷く。
「王よ、これは戦の中の戦。次の決断は、峠でも渡しでもない。都の奥で下される」
 藍珠が剣に手を置く。
「ならば、俺が行く」
 遥は雪の夜を思い出した。仮面の下で揺れていた若者の目。矢羽根の赤。風の高さ。
「……春までに、この国を生かす。そのために、鎖も罠も、全部使う」
 口にするたび、言葉は骨になる。骨は折れにくい。

 夜が深くなる。
 書庫塔の下。塞いだ古穴の前に、三人の影が並ぶ。王、宰相、剣士。
 石は冷たい。冷たさは足裏から膝へ、膝から胸へ。
 遥は低く言った。
「外へ逃がして捕る。中を焼かない。……この国の記憶は、焼かせない」
 楓麟が目だけで笑う。
「王の線、また濃くなった」
 藍珠は頷き、柄を握り直した。
 鈴は鳴らさない高さで、塔の上を風が渡る。灯の炎が細く揺れ、影の輪郭が一瞬だけ柔らかくなる。

     ◇

 密使に選ばれた若者は、医の館の隅で眠った。眠りは浅い。
 夢に出てくるのは畑の縁。母の手。乾いた土に刺す雨の匂い。
 目が覚めると、窓の紙に雪の影。
 彼は手首の紐を確かめる。節はそこにある。
 「贖いたい」――その言葉は、自分のためだけではないと、やっと思える。

 翌朝。
 密偵の間に紙が並ぶ。刻印の写し。地図の線。雪の深さ。馬の蹄が沈む角度。
 楓麟は風を測る。
「北東、午後。風は南。雪は深いが、凍りは薄い」
 藍珠が隊を選び、足音の軽い者を集める。足の指が広がる者は滑らない。
 長風(ちょうふう)が歌を札に置き、旗に白の細を縫い足す。白は雪に紛れ、目に残らない。
 遥は評議の間で、商務司に命じる。
「倉から粟を。労役の家に先に送れ。……今日、残すべき声は、腹の声だ」
 玄檀は口をつぐんだ。沈黙は石のように硬い。硬いものは、いつか割れる。

 午後。
 雪の路地に短い影が走る。城門の外は白い。音はよく通るが、遠くまでは届かない。
 都の北東。古い街道。
 雪は道の縁を隠し、道でない場所を道に見せる。
 密偵のひとりがしゃがみ、雪の下の土を指で探る。
 小石が唇を出す。出す位置が不自然だ。
 「通っている」
 蹄の跡は薄く、重なるように消してある。けれど、消し忘れた縁の欠けが、薄い口をあけている。
 藍珠は目を細め、指でその欠けをなぞる。
「ここだ」
 隊が散る。散ると見えるものがある。

 夕暮れ。
 雪の向こうに、赤い布。
 紅月の小隊。
 荷馬の背の袋に刻印。
 藍珠が指で合図。
 楓麟が風を低くする。鈴を鳴らさない高さで、雪がわずかに固くなる。
 速さと静かさの真ん中で、包囲が閉じる。
 短い衝突。短い叫び。短い息。
 袋は倒れ、口がほどける。粟がこぼれ、土の上で転がる。粒が割れて白い胚乳が見える。
 底板に、同じ刻印。
 古い街道は、やはりここを通っていた。

 その夜。
 王宮の評議室。
 捕らえた紅月の兵は何も言わない。言わないことを学んでいる。
 しかし、袋が語る。刻印が語る。雪が語る。
 玄檀は「示威のために処刑を」とふたたび言う。
 遥は首を振る。
「言葉は刃になるが、刃は言葉にはならない。……情報を生かす。補給を断つ」
 楓麟が地図の上で指を滑らせる。
「ここからここまで、夜に。火ではなく、音で。鹿笛と、竹の罠と、凍りの薄さ」
 藍珠が剣の鞘を押さえる。
「行く」
 遥は雪を見た。
 白い。
 冷たい。
 でも、燃えるものを隠すには向かない。
 「……春まで。生かす。全部、使う」
 鎖も、罠も。
 人の弱さも、風の高さも。
 善の言葉だけでなく、汚れた技も。
 使って、それでも、守る。
 それは矛盾ではない。矛盾の中で立つための、芯だ。

     ◇

 夜半。
 都の上に雪。
 白風の旗が凍りつく。
 凍りついた布は音を持たない。けれど、そこに風が当たれば、形だけがわずかに震える。
 塔の上で楓麟が風を読む。
 鈴は鳴らさない高さで、城を一周して戻る。
 藍珠が足袋を締め直す。結び目は固い。固いほど、外れにくい。
 遥は紙を閉じる。名簿。昨日と今日の名。
 指の先に、ざらつきはもうない。灰は流れた。
 残っているのは、線。
 短く、濃い、線。
 それを、胸の中にもう一本引いた。

 遠い北東の街道にも雪が降る。
 白の上に、蹄の跡が刻まれる。刻まれて、すぐにさらに新しい雪が薄く覆う。
 跡は消えない。
 消えないが、浅い。
 浅いものは、壊れやすい。
 壊すべきものは、いつも、浅いところを走る。

 戦場は、峠でも、渡しでも、平原でもなくなる。
 見えない血管――補給路。
 そこに、火ではない刃を差し入れる。
 音と、風と、細い指の力。
 第二部の火は、都の内側から外へ向かって、ゆっくりと広がろうとしていた。
 雪は降り続ける。
 白は、何も隠さない。
 隠さないからこそ、選んだ線が浮かび上がる。
 王の足の裏に、石の目地の感触が、またひとつ増えた。
 目地は細く、確かだ。
 確かさは、罰ではない。
 明日の印だ。