夜の底は、息を潜める術を知っている。魔灯の芯が眠りの姿勢を保ち、匂い旗は炊かれず、決済板の透明革袋は冷えた金の輪郭を月明かりにわずかに晒す。黒板の白は、昼の議論の熱をすっかり忘れている。忘れる板は、賢い。遼は白墨を指で転がし、眠る板の端に“もしも”の段取りを二行だけ置いた。置くのは、安眠のためだ。
――非常灯:一→二(合図)
――通路封鎖→便退避(順序:郵便→人→荷)
白は鳴らない。鳴らないが、遼の胸の内側のT字は、夜だけに分かる微かな響きを打った。借方に“命”、貸方に“物語”。その間に“運用”と添える。運用は剣より早い。剣は抜いてから走るが、運用は置いてから走る。
その時、風のない夜気が、ほんのひとかけらだけ波立った。広場の端。匂いは脂と鉄の間。白い息の数が一つ増え、床の目地が短く鳴り、旗竿が窓の桟で小さく震えた。ロックが窓辺で顔を上げ、犬のように鼻を鳴らす。
「来る」
声は短い。短い声は、長い夜の真ん中で遠くまで届く。サラが笛箱を胸に寄せ、ガルドは旗の束を肩にかけ直し、エイダは杖を持ち替えて“顔”を用意する。トオマは“二つ先読み表”の空欄を指で一度撫で、嚢(のう)を確認して紐を締め直した。薄青の紐は、夜でもよく見える。裏路地の夜目にすら優しい色だ。
「非常灯、一度」
遼の声とともに、魔灯が短く点き、すぐ眠る。一度だけの灯りは、黒より黒い。暗さの中に残像が線を描き、その線が合図になる。合図は難しくない。二度にしないときは、一度。二度にするときは、必ず二度。夜は回数に正直だ。
「通路封鎖――順序で閉じる。狭隘部から」
ガルドの旗が二度、角度を変える。「狭い」「回れ」。ロックが路地の口に足を差し込み、短剣の柄で木樽を押して栓をつくる。樽の中身は空だが、空の樽ほど役に立つ。空は軽い。軽いは速い。速いは剣に勝つときがある。
「退避――郵便→人→荷」
トオマが最初に動く。嚢は軽く、足は狭さを選び、刻印の継ぎ目と朗読の仮刻印を正確に踏んでいく。「『通せ』『回れ』」。声は短い。短い声は、雪ではなく石畳を鳴らす。宿場の人々が息を合わせる。“自分ごと”の音が、夜の薄皮の裏で増え、厚みを持ち始める。
広場の入口で、薄い影が三、四、五。十。影は走る。走る足は、板を狙う。黒板を倒せば、言葉が倒れる。言葉が倒れれば、手順は散る。散れば、夜は取り戻す。夜は散らばったものを好む。
「黒板の“隅”へ」
遼は板の前に立たない。いつも通り、隅だ。隅は角。角は道具。板は壁。壁は城。城に剣は似合うが、今夜は剣の席ではない。朗読の席だ。
「護衛は交差点優先。狭隘部を抑えろ。交差の朗読、二度」
ロックが応え、旗の角度を変える。「止め」「回れ」。交差点は拳に似ている。指を一本ずつ折れば強くなる。路地の角を一つずつ折る。折られた角は、剣の軌道を外す。
ライオットの庇は見えない。見えないが、端末のように“脅しの電流”が夜気のどこかを走っていた。彼は粗暴を好まない。好まぬ者が襲撃を選ぶとき、仕組みのどこかに“飢え”がある。滞留を吸われ続けた現金が、吠えたいのだ。
最初の衝突は、黒板の星の欄だった。投げ紐が遠心力で白い列を掬い、金の星が地に落ちる。落ちた星は光る。光を踏む足は、躊躇う。躊躇いは遅延だ。遅延の間に、ガルドの旗が路地に蓋をする。「『止め』」。
「トオマ、郵便――遅延ゼロで守れ」
遼は言った。無茶ではない。宣言だ。宣言された無茶は、枠ができる。枠は手順になる。手順は無茶を小さくする。
「はい」
トオマの返事は、夜のなかで歯切れよく割れた。嚢を肩に、振り返らない。振り返らない背に、薄青の紐がひと呼吸だけ揺れる。薄青は“戻る道”の色。戻る道が見えている者は、行ける。
投げ紐が彼の脚に絡みかけた。紐は夜の蛇のように素早い。トオマは刻印の継ぎ目を一段飛ばし、片足で着地し、次の一歩で紐の上に乗せた。踏む。紐は蛇ではない。布だ。布は足に弱い。弱みを知れば、怖れは軽くなる。
次の角で、刃が閃いた。遼の視界の端で、《路標》の黄が一瞬だけ赤に滲む。危険は数ではなく、角だ。角は二度だけ曲がっていれば、読める。トオマは角を一つ、二つと曲がり、三つめでは曲がらない。直進。刃は曲がることを前提につくられている。前提は、手順には勝てない。
しかし無傷では済まない。投擲の小刃が石壁で跳ね、トオマの左上腕をかすめた。布が裂け、温いものが夜に混ざる。痛みは詩を短くする。「大丈夫」。彼は言った。自分に言い、夜に言う。夜は大丈夫でないものを好むが、短い言葉には弱い。
「サラ、血の処置は後。今は“遅延ゼロ”の手順を維持」
「了解」
サラは短く答え、彼の後ろを“朗読”で支える。「『回れ』『通せ』」。声は棒。棒は刃を逸らす。声で逸らす。逸れた刃は地面で考え事をする。考え事は、暴力の天敵だ。
遼は広場の“心臓”――交差三叉の狭隘部へ身を滑らせ、非常灯を二度点す。今度は長めに。光は走らない。留まる。留まる光の下で、足の筋肉が“手順”を思い出す。思い出す筋肉は誇りに近い。誇りは、暴力の無駄を嗅ぎ分ける。
「厨房、鍋を閉じろ。水栓、右だけ。滑る路地に湯をこぼすな。――清掃班、ほうきは横持ち、樽押しの補助に」
清掃班のゴードンが低く返事をし、太い腕で樽を一つ、二つ押し、狭隘部の“蓋”を厚くする。厨房の湯気は窓の内側で丸くなり、魔灯の芯が“まだ眠る”と肩を竦める。各家の戸が短く“縛り”をなされ、紐の結び目が二度だけ撚られる。二度だけ。夜は回数を覚えやすい。
「関所側、交差点優先。旗は『止め』から『回れ』、二拍遅らせて『通せ』」
ガルドが旗で拍を刻み、朗読者がそれに合わせて三語を回す。交差点は譜面だ。夜は音楽に弱い。弱いのに踊りたがる。踊りたがる足を、旗の角で少しずつ“ずらす”。ずらしは攻撃ではない。運用だ。
ライオットは姿を見せない。見せないが、襲撃の列は彼の“手際”を持っている。無駄が少ない。無駄の少なさは恐ろしい。しかし“無理”は必ずある。無理のある列は、交差でほどける。ほどける列は、朗読で遅れる。遅れは、こちらの味方だ。
「決済板、袋は内側へ」
賢者と教授が袋を柱の影に引き込み、透明の革が月を二度だけ吸う。透明は暴力の敵だ。敵は隠れる。隠れた敵は、朗読で呼び出す。「『出ろ』」。旗が一度だけ鋭角に切れ、刃の先より先に“声の先”が角を曲がる。
ロックが片膝で滑り込み、黒板の“隅”に肩を入れて支える。その肩越しに、星を拾う子ども番人の小さな手が見える。彼らは踏まない。踏まないから、拾える。拾えるから、明日貼れる。明日貼れるから、今夜が繋がる。
「トオマ、状況」
「――『遅延ゼロ』。郵便、第一便通過、第二便、狭隘部手前。……“次の角、明かり一拍”。ください」
遼は非常灯に手を伸ばし、短く点す。一拍。暗がりは記憶を持つ。さっきの角で受け取った光の記憶が、今度の角で働く。働く記憶は、地図だ。地図を持つ足は、怖れを後回しにできる。
広場の入口で投げ紐が樽に絡み、樽がきしむ。樽は頭がいい。倒れない。倒れないのは、重さのせいではない。角の位置のせいだ。角は二度だけズレている。ズレた角は、力を逃がす。
「笛箱は?」
「無事」とサラ。胸に抱く箱の封は乾いた王女印。印は数と詩の境界に座る。境界は狙われやすい。だから、境界は重ねる。手順で二重に。封の上の封。詩の下の数字。数字の端の注。注に詩。
刃の光は増えず、叫びは太らず、足音は散っていく。散るとき、暴力は弱る。弱った暴力は、勝手に息を切らす。息切れに“朗読”は効く。「『息して』」。エイダの声が狭隘部の天井で柔らかく跳ね返り、追う足と逃げる足の両方に同じ空気を配る。公平な空気は、ケンカに向かない。
短い時間が長く伸び、長い時間が短く折り畳まれ、夜は自分の長さを忘れた。忘れた夜は、朝に近い。
「撤退合図」
ロックが低く言った。彼の耳は、足音の節の“緩み”でそれを聴き取る。緩んだ節は、敗北の音でも勝利の音でもない。単に“やめる”の音だ。その音は、ライオットの癇癪の終わり方に似ている。短く怒り、短く退く。長く考える余白を残す。
遼は追わない。「路線の再開が最優先」。声にして言い、板の端に書く。声にして書けば、足が同じ方向に揃う。
「負傷者」
「軽傷二、うち一人はトオマ」
「処置を」「……いい。郵便を先に」
トオマは笑った。笑うと痛みは一瞬だけ縮む。縮んだ痛みは、“遅延ゼロ”の枠の中に収まる。収まると、怖くない。彼は嚢を黒板の“郵便”欄に置き、白墨で短く丸をつけた。「○」。丸は良い。丸は、夜の終わりの形だ。
◆
夜明けまでの二刻。遼は運用の“後ろ向き”を進め続けた。非常灯の点滅パターンを“平常”へ戻し、樽の蓋を順番に外し、関所の顔指数に「夜朗読+1」「交差点封鎖+1」を加点した紙を貼る。決済板の袋は定位置に戻り、透明の革を通した朝の光が“中身そのまま”を証明する。証明は大声ではない。透過の仕事だ。
サラは星を一枚ずつ布で拭き、子ども番人と並んで貼り直す。星の位置は元通りではない。少しだけズレる。ズレた星は、昨夜の“生”を帯びる。生は重い。重いが、晴れる。
「追いますか?」とロック。
「追わない。追うと、こっちが遅れる」
「“遅延率”の板が泣くな」
「泣かせない。――その代わり、朝を早める」
◆
朝。冷たい白が板に戻り、広場に人が集まる。集まる人の顔は眠いが、眠い顔は朗読に優しい。数に優しい人は、今日の自分の席を知っている。
黒板の上段に、遼は太字で見出しを置いた。
――宿場攻防(夜)→「剣より早い運用」
下段には、分単位の“運用記録”が整然と並ぶ。サラが徹夜で整え、賢者と教授が用語の注を加えた。
――子(ね)の刻二つ:非常灯一度→広場合図/通路封鎖(狭隘)
――子の刻四つ:郵便退避(第一便)→“遅延ゼロ”/護衛=交差点優先
――丑(うし)の刻一つ:第二便通過→負傷(軽)→“遅延ゼロ維持”
――丑の刻三つ:撤退→路線再開準備/非常灯二度→平常遷移
――寅(とら)の刻:決済板・袋確認→透明(変化なし)
行間は広くない。広くないが、読める。読める人は、数字を“思い出”として飲み込む。飲み込めば、力になる。
その右には、短い報告書が束になって掲げられる。題名は、同じ。
――「遅れませんでした」
厨房の女房の報告。「スープはこぼしませんでした」。清掃班の報告。「ほうきは横持ちで押しました」。関所の若い吏の報告。「顔は短く説明しました」。子ども番人の報告。「星を踏みませんでした」。郵便の報告は、トオマの字で。「“遅延ゼロ”。薄青の紐は、切れませんでした」。
拍手は自然に起きた。誰が始めたわけでもない。最初は小さく、次に厚く、やがて静かに。静かな拍手は、褒めるより“続けたい”の合図だ。
エイダが前に出て、顔で挨拶し、「詩は注に」と笑った。詩は短い。
――剣は抜かず、灯は二度、角は二度。
――遅れないは、続ける力。
――夜の手順が、朝の声になる。
詩は注に落ち、数字は前で光る。光は冷たいが、見えるものを温める。
ガルドは関所の「顔指数」に新しい欄を作った。
――“朝朗読(攻防報告)”:二回→+1
彼は朗読した。「『息して』『通せ』」。二語だけでも、十分だ。十分は、いつも“足りる”より少しだけ小さい。それが、続けるための隙になる。
遼は決済板の前で“眠り賃”の欄を見た。寝た金はない。夜は動いた。動いた金は、朝に歩く。歩いた金は、声を持つ。声のない金は、昨夜、外へ逃げた。逃げた金は、黒板に戻らない代わりに、襲撃の癇癪に燃えた。燃えた金は、灰だ。灰は灰皿へ。
「トオマ」
「はい」
「手当」
彼は素直に頷き、サラに袖をまくって見せた。裂け目は浅い。浅い傷は、誇りにはならない。誇りにならない傷は、習慣になる。習慣は、夜を軽くする。
「――“遅延ゼロ”は、あなたひとりの手柄ではない」と遼。「朗読、旗、樽、子どもの足。全部で“ゼロ”だ」
「知ってます」
トオマが笑い、笑いが詩を呼びそうになったが、彼は詩に逃げない。数字の前で歯を見せるだけにした。偉い。
◆
午前。宿場の“再開”は、運動のように滑らかに始まった。広場の中央に“再開フロー”の小さな板を立てる。
――道具戻し→灯具点検→交差点朗読→試走(小)→試走(大)→定時
ロックは旗の“角度二度”を点検し、ガルドは関所の抽出箱の「朗読見張り」を誰にするか決める。賢者は決済板で“裏箱”から移された資金の保留札を作り、教授は注を短くする。「注:昨夜の資金移動なし。供奉箱→監査待ち」。注が短いと、不安は小さい。
サラは笛箱の口を布で拭き、王女印の封に新しい蝋を落とす。蝋は朝の温度でよく固まり、夜の湿りでさらに強くなる。箱は呼吸している。
ミナが白刻印の塩を小袋に詰め、屋台に並べる。白い塩は夜でも白い。白いものは、騒ぎの翌朝に強い。強い白は、誰の所有にもならない。
遼は黒板の端の“呼吸”欄を見て、二本の線を足した。
――朝朗読:攻防報告(短)/再開宣言(短)
――夕朗読:反省会(短)/星貼り(小)
反省会は詩ではない。短い数字の交換だ。「どこが遅れたか」「次はどの樽に結ぶか」「非常灯の間隔」。言葉は短いほど、未来に近づく。
ロックが、ライオットの居場所を問う目をした。遼は首を横に振る。「ここ(板)に来るまでは、こちらの仕事じゃない」
「追わないんだったな」
「“遅延率”が泣く」
「泣く板は、洗うのが大変だ」
サラが笑い、「洗うのは清掃班の詩」と言った。ゴードンがくすりと笑い、ほうきの柄で小さく拍を取る。「『掃け』『寄せろ』『積め』」。掃除の三語。朗読は生活の道具だ。
◆
昼。定時便が一本、また一本と、普段より少し遅いが“予告内”で出た。予告の器が生きている限り、遅れは罪ではない。罪でなければ、怒りは小さい。怒りが小さいと、手順は太る。太った手順は、夜に強い。
黒板の右下に、今日の特別欄が貼られた。
――「遅れませんでした」
宿場の誰もが、そこへ一行ずつ書き足す。鉛筆の芯がやわらかく擦れる音が、広場の底に深く沈む。沈む音は、拍手の兄弟だ。
エイダが中央に立ち、顔で締めた。「路線は、剣で守るより、早く守る。――昨夜、学んだ通り」
拍手。今度は大きい。大きいが、長すぎない。長いのは詩だ。詩は注に置く。拍手は数字の前で短く終わる。
◆
夕刻。反省会は外ではなく、板の横、柱の影で行われた。柱は秘密を吸い込んで、翌朝には吐き出す器だ。器に向かって、各人が三語ずつ言う。
ロック:「“樽の位置”」。ガルド:「“朗読の間”。」サラ:「“非常灯テンポ”。」トオマ:「“角の明かり”」。エイダ:「“顔の角度”」。教授:「“注の長さ”」。賢者:「“袋の距離”」。ゴードン:「“ほうき横持ち”」。ミナ:「“塩は朝”。」
遼は最後に一語だけ言った。「“追わない”」。一語は重い。重い一語は、牛のように“明日”を引っ張る。引かれた明日は、遅れない。
星貼りは、子ども番人の儀式になった。落ちた星は全て戻り、今朝より少しだけズレて、しかし美しく並ぶ。ズレは生だ。生は祝祭だ。祝祭は、黒字のときだけではない。遅れなかった日も、祝祭だ。
ライオットは来ない。来ないことが、今は良い。来ない夜は、こちらの“運用”の練習日だ。練習は裏切らない。裏切らない手順は、剣より早い。
◆
夜の入り。遼は黒板の最下段に、ほんの小さな予告を置いた。
――“峠—鉱山街”間:税の二重取り(噂)→決済板×関所=連動試験
噂は短く、数字は長く、詩は注に、旗は二度だけ角度を変え、袋は透明で、笛箱は王女印で封じ、魔灯は眠り、路線は拍を取り戻した。拍を取る道は、心臓だ。拍は、剣より早い。剣は息を切らし、拍は息を整える。
トオマは人のいない黒板の前で、鉛筆でそっと“○”を指でなぞった。丸は完了の形であり、帰還の形であり、明日の輪郭だ。薄青の紐が彼の手首で軽く揺れ、彼はそれを見て頷く。「戻る道は、見えるほど強い」。
遼はその横顔を見て、胸のT字に最後の点を打った。借方に“命”、貸方に“物語”。間に“運用”。小さく、“剣より早い”。点は増え、節は強くなり、網は夜を受け止める。
翌朝、宿場の掲示板はやはり冷たく光っていた。だが冷たい白の上に並ぶ報告書は、どれも同じ題で始まっている。
――「遅れませんでした」。
この四文字が、今日の“詩”であり、“数字”だった。拍手が起き、すぐに止み、足音が始まり、路線が動き出す。剣は鞘の中で静かに横たわり、旗は二度だけ角度を変え、誰もが自分の席に座った。座れば動く。動けば、遅れない。遅れない夜は、いつだって、よく眠る。
――非常灯:一→二(合図)
――通路封鎖→便退避(順序:郵便→人→荷)
白は鳴らない。鳴らないが、遼の胸の内側のT字は、夜だけに分かる微かな響きを打った。借方に“命”、貸方に“物語”。その間に“運用”と添える。運用は剣より早い。剣は抜いてから走るが、運用は置いてから走る。
その時、風のない夜気が、ほんのひとかけらだけ波立った。広場の端。匂いは脂と鉄の間。白い息の数が一つ増え、床の目地が短く鳴り、旗竿が窓の桟で小さく震えた。ロックが窓辺で顔を上げ、犬のように鼻を鳴らす。
「来る」
声は短い。短い声は、長い夜の真ん中で遠くまで届く。サラが笛箱を胸に寄せ、ガルドは旗の束を肩にかけ直し、エイダは杖を持ち替えて“顔”を用意する。トオマは“二つ先読み表”の空欄を指で一度撫で、嚢(のう)を確認して紐を締め直した。薄青の紐は、夜でもよく見える。裏路地の夜目にすら優しい色だ。
「非常灯、一度」
遼の声とともに、魔灯が短く点き、すぐ眠る。一度だけの灯りは、黒より黒い。暗さの中に残像が線を描き、その線が合図になる。合図は難しくない。二度にしないときは、一度。二度にするときは、必ず二度。夜は回数に正直だ。
「通路封鎖――順序で閉じる。狭隘部から」
ガルドの旗が二度、角度を変える。「狭い」「回れ」。ロックが路地の口に足を差し込み、短剣の柄で木樽を押して栓をつくる。樽の中身は空だが、空の樽ほど役に立つ。空は軽い。軽いは速い。速いは剣に勝つときがある。
「退避――郵便→人→荷」
トオマが最初に動く。嚢は軽く、足は狭さを選び、刻印の継ぎ目と朗読の仮刻印を正確に踏んでいく。「『通せ』『回れ』」。声は短い。短い声は、雪ではなく石畳を鳴らす。宿場の人々が息を合わせる。“自分ごと”の音が、夜の薄皮の裏で増え、厚みを持ち始める。
広場の入口で、薄い影が三、四、五。十。影は走る。走る足は、板を狙う。黒板を倒せば、言葉が倒れる。言葉が倒れれば、手順は散る。散れば、夜は取り戻す。夜は散らばったものを好む。
「黒板の“隅”へ」
遼は板の前に立たない。いつも通り、隅だ。隅は角。角は道具。板は壁。壁は城。城に剣は似合うが、今夜は剣の席ではない。朗読の席だ。
「護衛は交差点優先。狭隘部を抑えろ。交差の朗読、二度」
ロックが応え、旗の角度を変える。「止め」「回れ」。交差点は拳に似ている。指を一本ずつ折れば強くなる。路地の角を一つずつ折る。折られた角は、剣の軌道を外す。
ライオットの庇は見えない。見えないが、端末のように“脅しの電流”が夜気のどこかを走っていた。彼は粗暴を好まない。好まぬ者が襲撃を選ぶとき、仕組みのどこかに“飢え”がある。滞留を吸われ続けた現金が、吠えたいのだ。
最初の衝突は、黒板の星の欄だった。投げ紐が遠心力で白い列を掬い、金の星が地に落ちる。落ちた星は光る。光を踏む足は、躊躇う。躊躇いは遅延だ。遅延の間に、ガルドの旗が路地に蓋をする。「『止め』」。
「トオマ、郵便――遅延ゼロで守れ」
遼は言った。無茶ではない。宣言だ。宣言された無茶は、枠ができる。枠は手順になる。手順は無茶を小さくする。
「はい」
トオマの返事は、夜のなかで歯切れよく割れた。嚢を肩に、振り返らない。振り返らない背に、薄青の紐がひと呼吸だけ揺れる。薄青は“戻る道”の色。戻る道が見えている者は、行ける。
投げ紐が彼の脚に絡みかけた。紐は夜の蛇のように素早い。トオマは刻印の継ぎ目を一段飛ばし、片足で着地し、次の一歩で紐の上に乗せた。踏む。紐は蛇ではない。布だ。布は足に弱い。弱みを知れば、怖れは軽くなる。
次の角で、刃が閃いた。遼の視界の端で、《路標》の黄が一瞬だけ赤に滲む。危険は数ではなく、角だ。角は二度だけ曲がっていれば、読める。トオマは角を一つ、二つと曲がり、三つめでは曲がらない。直進。刃は曲がることを前提につくられている。前提は、手順には勝てない。
しかし無傷では済まない。投擲の小刃が石壁で跳ね、トオマの左上腕をかすめた。布が裂け、温いものが夜に混ざる。痛みは詩を短くする。「大丈夫」。彼は言った。自分に言い、夜に言う。夜は大丈夫でないものを好むが、短い言葉には弱い。
「サラ、血の処置は後。今は“遅延ゼロ”の手順を維持」
「了解」
サラは短く答え、彼の後ろを“朗読”で支える。「『回れ』『通せ』」。声は棒。棒は刃を逸らす。声で逸らす。逸れた刃は地面で考え事をする。考え事は、暴力の天敵だ。
遼は広場の“心臓”――交差三叉の狭隘部へ身を滑らせ、非常灯を二度点す。今度は長めに。光は走らない。留まる。留まる光の下で、足の筋肉が“手順”を思い出す。思い出す筋肉は誇りに近い。誇りは、暴力の無駄を嗅ぎ分ける。
「厨房、鍋を閉じろ。水栓、右だけ。滑る路地に湯をこぼすな。――清掃班、ほうきは横持ち、樽押しの補助に」
清掃班のゴードンが低く返事をし、太い腕で樽を一つ、二つ押し、狭隘部の“蓋”を厚くする。厨房の湯気は窓の内側で丸くなり、魔灯の芯が“まだ眠る”と肩を竦める。各家の戸が短く“縛り”をなされ、紐の結び目が二度だけ撚られる。二度だけ。夜は回数を覚えやすい。
「関所側、交差点優先。旗は『止め』から『回れ』、二拍遅らせて『通せ』」
ガルドが旗で拍を刻み、朗読者がそれに合わせて三語を回す。交差点は譜面だ。夜は音楽に弱い。弱いのに踊りたがる。踊りたがる足を、旗の角で少しずつ“ずらす”。ずらしは攻撃ではない。運用だ。
ライオットは姿を見せない。見せないが、襲撃の列は彼の“手際”を持っている。無駄が少ない。無駄の少なさは恐ろしい。しかし“無理”は必ずある。無理のある列は、交差でほどける。ほどける列は、朗読で遅れる。遅れは、こちらの味方だ。
「決済板、袋は内側へ」
賢者と教授が袋を柱の影に引き込み、透明の革が月を二度だけ吸う。透明は暴力の敵だ。敵は隠れる。隠れた敵は、朗読で呼び出す。「『出ろ』」。旗が一度だけ鋭角に切れ、刃の先より先に“声の先”が角を曲がる。
ロックが片膝で滑り込み、黒板の“隅”に肩を入れて支える。その肩越しに、星を拾う子ども番人の小さな手が見える。彼らは踏まない。踏まないから、拾える。拾えるから、明日貼れる。明日貼れるから、今夜が繋がる。
「トオマ、状況」
「――『遅延ゼロ』。郵便、第一便通過、第二便、狭隘部手前。……“次の角、明かり一拍”。ください」
遼は非常灯に手を伸ばし、短く点す。一拍。暗がりは記憶を持つ。さっきの角で受け取った光の記憶が、今度の角で働く。働く記憶は、地図だ。地図を持つ足は、怖れを後回しにできる。
広場の入口で投げ紐が樽に絡み、樽がきしむ。樽は頭がいい。倒れない。倒れないのは、重さのせいではない。角の位置のせいだ。角は二度だけズレている。ズレた角は、力を逃がす。
「笛箱は?」
「無事」とサラ。胸に抱く箱の封は乾いた王女印。印は数と詩の境界に座る。境界は狙われやすい。だから、境界は重ねる。手順で二重に。封の上の封。詩の下の数字。数字の端の注。注に詩。
刃の光は増えず、叫びは太らず、足音は散っていく。散るとき、暴力は弱る。弱った暴力は、勝手に息を切らす。息切れに“朗読”は効く。「『息して』」。エイダの声が狭隘部の天井で柔らかく跳ね返り、追う足と逃げる足の両方に同じ空気を配る。公平な空気は、ケンカに向かない。
短い時間が長く伸び、長い時間が短く折り畳まれ、夜は自分の長さを忘れた。忘れた夜は、朝に近い。
「撤退合図」
ロックが低く言った。彼の耳は、足音の節の“緩み”でそれを聴き取る。緩んだ節は、敗北の音でも勝利の音でもない。単に“やめる”の音だ。その音は、ライオットの癇癪の終わり方に似ている。短く怒り、短く退く。長く考える余白を残す。
遼は追わない。「路線の再開が最優先」。声にして言い、板の端に書く。声にして書けば、足が同じ方向に揃う。
「負傷者」
「軽傷二、うち一人はトオマ」
「処置を」「……いい。郵便を先に」
トオマは笑った。笑うと痛みは一瞬だけ縮む。縮んだ痛みは、“遅延ゼロ”の枠の中に収まる。収まると、怖くない。彼は嚢を黒板の“郵便”欄に置き、白墨で短く丸をつけた。「○」。丸は良い。丸は、夜の終わりの形だ。
◆
夜明けまでの二刻。遼は運用の“後ろ向き”を進め続けた。非常灯の点滅パターンを“平常”へ戻し、樽の蓋を順番に外し、関所の顔指数に「夜朗読+1」「交差点封鎖+1」を加点した紙を貼る。決済板の袋は定位置に戻り、透明の革を通した朝の光が“中身そのまま”を証明する。証明は大声ではない。透過の仕事だ。
サラは星を一枚ずつ布で拭き、子ども番人と並んで貼り直す。星の位置は元通りではない。少しだけズレる。ズレた星は、昨夜の“生”を帯びる。生は重い。重いが、晴れる。
「追いますか?」とロック。
「追わない。追うと、こっちが遅れる」
「“遅延率”の板が泣くな」
「泣かせない。――その代わり、朝を早める」
◆
朝。冷たい白が板に戻り、広場に人が集まる。集まる人の顔は眠いが、眠い顔は朗読に優しい。数に優しい人は、今日の自分の席を知っている。
黒板の上段に、遼は太字で見出しを置いた。
――宿場攻防(夜)→「剣より早い運用」
下段には、分単位の“運用記録”が整然と並ぶ。サラが徹夜で整え、賢者と教授が用語の注を加えた。
――子(ね)の刻二つ:非常灯一度→広場合図/通路封鎖(狭隘)
――子の刻四つ:郵便退避(第一便)→“遅延ゼロ”/護衛=交差点優先
――丑(うし)の刻一つ:第二便通過→負傷(軽)→“遅延ゼロ維持”
――丑の刻三つ:撤退→路線再開準備/非常灯二度→平常遷移
――寅(とら)の刻:決済板・袋確認→透明(変化なし)
行間は広くない。広くないが、読める。読める人は、数字を“思い出”として飲み込む。飲み込めば、力になる。
その右には、短い報告書が束になって掲げられる。題名は、同じ。
――「遅れませんでした」
厨房の女房の報告。「スープはこぼしませんでした」。清掃班の報告。「ほうきは横持ちで押しました」。関所の若い吏の報告。「顔は短く説明しました」。子ども番人の報告。「星を踏みませんでした」。郵便の報告は、トオマの字で。「“遅延ゼロ”。薄青の紐は、切れませんでした」。
拍手は自然に起きた。誰が始めたわけでもない。最初は小さく、次に厚く、やがて静かに。静かな拍手は、褒めるより“続けたい”の合図だ。
エイダが前に出て、顔で挨拶し、「詩は注に」と笑った。詩は短い。
――剣は抜かず、灯は二度、角は二度。
――遅れないは、続ける力。
――夜の手順が、朝の声になる。
詩は注に落ち、数字は前で光る。光は冷たいが、見えるものを温める。
ガルドは関所の「顔指数」に新しい欄を作った。
――“朝朗読(攻防報告)”:二回→+1
彼は朗読した。「『息して』『通せ』」。二語だけでも、十分だ。十分は、いつも“足りる”より少しだけ小さい。それが、続けるための隙になる。
遼は決済板の前で“眠り賃”の欄を見た。寝た金はない。夜は動いた。動いた金は、朝に歩く。歩いた金は、声を持つ。声のない金は、昨夜、外へ逃げた。逃げた金は、黒板に戻らない代わりに、襲撃の癇癪に燃えた。燃えた金は、灰だ。灰は灰皿へ。
「トオマ」
「はい」
「手当」
彼は素直に頷き、サラに袖をまくって見せた。裂け目は浅い。浅い傷は、誇りにはならない。誇りにならない傷は、習慣になる。習慣は、夜を軽くする。
「――“遅延ゼロ”は、あなたひとりの手柄ではない」と遼。「朗読、旗、樽、子どもの足。全部で“ゼロ”だ」
「知ってます」
トオマが笑い、笑いが詩を呼びそうになったが、彼は詩に逃げない。数字の前で歯を見せるだけにした。偉い。
◆
午前。宿場の“再開”は、運動のように滑らかに始まった。広場の中央に“再開フロー”の小さな板を立てる。
――道具戻し→灯具点検→交差点朗読→試走(小)→試走(大)→定時
ロックは旗の“角度二度”を点検し、ガルドは関所の抽出箱の「朗読見張り」を誰にするか決める。賢者は決済板で“裏箱”から移された資金の保留札を作り、教授は注を短くする。「注:昨夜の資金移動なし。供奉箱→監査待ち」。注が短いと、不安は小さい。
サラは笛箱の口を布で拭き、王女印の封に新しい蝋を落とす。蝋は朝の温度でよく固まり、夜の湿りでさらに強くなる。箱は呼吸している。
ミナが白刻印の塩を小袋に詰め、屋台に並べる。白い塩は夜でも白い。白いものは、騒ぎの翌朝に強い。強い白は、誰の所有にもならない。
遼は黒板の端の“呼吸”欄を見て、二本の線を足した。
――朝朗読:攻防報告(短)/再開宣言(短)
――夕朗読:反省会(短)/星貼り(小)
反省会は詩ではない。短い数字の交換だ。「どこが遅れたか」「次はどの樽に結ぶか」「非常灯の間隔」。言葉は短いほど、未来に近づく。
ロックが、ライオットの居場所を問う目をした。遼は首を横に振る。「ここ(板)に来るまでは、こちらの仕事じゃない」
「追わないんだったな」
「“遅延率”が泣く」
「泣く板は、洗うのが大変だ」
サラが笑い、「洗うのは清掃班の詩」と言った。ゴードンがくすりと笑い、ほうきの柄で小さく拍を取る。「『掃け』『寄せろ』『積め』」。掃除の三語。朗読は生活の道具だ。
◆
昼。定時便が一本、また一本と、普段より少し遅いが“予告内”で出た。予告の器が生きている限り、遅れは罪ではない。罪でなければ、怒りは小さい。怒りが小さいと、手順は太る。太った手順は、夜に強い。
黒板の右下に、今日の特別欄が貼られた。
――「遅れませんでした」
宿場の誰もが、そこへ一行ずつ書き足す。鉛筆の芯がやわらかく擦れる音が、広場の底に深く沈む。沈む音は、拍手の兄弟だ。
エイダが中央に立ち、顔で締めた。「路線は、剣で守るより、早く守る。――昨夜、学んだ通り」
拍手。今度は大きい。大きいが、長すぎない。長いのは詩だ。詩は注に置く。拍手は数字の前で短く終わる。
◆
夕刻。反省会は外ではなく、板の横、柱の影で行われた。柱は秘密を吸い込んで、翌朝には吐き出す器だ。器に向かって、各人が三語ずつ言う。
ロック:「“樽の位置”」。ガルド:「“朗読の間”。」サラ:「“非常灯テンポ”。」トオマ:「“角の明かり”」。エイダ:「“顔の角度”」。教授:「“注の長さ”」。賢者:「“袋の距離”」。ゴードン:「“ほうき横持ち”」。ミナ:「“塩は朝”。」
遼は最後に一語だけ言った。「“追わない”」。一語は重い。重い一語は、牛のように“明日”を引っ張る。引かれた明日は、遅れない。
星貼りは、子ども番人の儀式になった。落ちた星は全て戻り、今朝より少しだけズレて、しかし美しく並ぶ。ズレは生だ。生は祝祭だ。祝祭は、黒字のときだけではない。遅れなかった日も、祝祭だ。
ライオットは来ない。来ないことが、今は良い。来ない夜は、こちらの“運用”の練習日だ。練習は裏切らない。裏切らない手順は、剣より早い。
◆
夜の入り。遼は黒板の最下段に、ほんの小さな予告を置いた。
――“峠—鉱山街”間:税の二重取り(噂)→決済板×関所=連動試験
噂は短く、数字は長く、詩は注に、旗は二度だけ角度を変え、袋は透明で、笛箱は王女印で封じ、魔灯は眠り、路線は拍を取り戻した。拍を取る道は、心臓だ。拍は、剣より早い。剣は息を切らし、拍は息を整える。
トオマは人のいない黒板の前で、鉛筆でそっと“○”を指でなぞった。丸は完了の形であり、帰還の形であり、明日の輪郭だ。薄青の紐が彼の手首で軽く揺れ、彼はそれを見て頷く。「戻る道は、見えるほど強い」。
遼はその横顔を見て、胸のT字に最後の点を打った。借方に“命”、貸方に“物語”。間に“運用”。小さく、“剣より早い”。点は増え、節は強くなり、網は夜を受け止める。
翌朝、宿場の掲示板はやはり冷たく光っていた。だが冷たい白の上に並ぶ報告書は、どれも同じ題で始まっている。
――「遅れませんでした」。
この四文字が、今日の“詩”であり、“数字”だった。拍手が起き、すぐに止み、足音が始まり、路線が動き出す。剣は鞘の中で静かに横たわり、旗は二度だけ角度を変え、誰もが自分の席に座った。座れば動く。動けば、遅れない。遅れない夜は、いつだって、よく眠る。



