朝の黒板は、銀の粉をかぶったみたいに冷たく光っていた。峠の吹雪を越えた翌日、白は疲れを見せない。見せない白は、味方だ。遼は白墨を握り、上段に太く書いた。

 ――議題:現金滞留(灰手ギルド)/対策=枠前払の拡張+匿名通報(笛箱)

 広場のざわめきは、寒さのせいだけではない。灰手(はいで)の会――盗賊ギルド――は、夜の保全を専属化してから表の席に半歩入った。半歩入った靴の底には、まだ裏路地の泥が付いている。泥を落とさせる方法は、水ではない。手順だ。

「“現金が余る”のが、やつらの強みだ」とロックが肩で息をした。「余りを使って、昼の市場で揺らす。買い占め、迂回料、旗の袖の下」

「“余る”じゃない。『滞る』だ」と遼。「現金が“滞留”する。――流れない金は、臭う。臭いは、仕訳の出番だ」

 黒板の右側に短い図が現れる。円環が三つ。ギルドの現金、荷受け枠、夜の切手。矢印は太いが、ところどころで細る。細る場所に注を置く。

 ――注:切手→現金化“夜”のみ
 ――注:枠→前払で“仮固定”
 ――注:保険(基金)→緊急便の吸い上げ口

「“前払”を広げる。――荷受け枠の『先行予約』、一月分。先行予約には『滞留抑制手数料』を付ける。使わなければ、手数料は基金へ流れる。使えば、星が付く。星は『信用割』に変わる」

 サラが白墨をすべらせ、三行で運用を添える。
 ――枠前払:日/区間/積載上限(公開)
 ――使わず:手数料→基金袋(平時)
 ――使えば:緑星→次月“信用割”(料率△)

「“現金を眠らせる”と損をするなら、眠らせない」とダル。「眠らせぬ間に、こちらの手順で囲う」

「囲うのは“甘さ”だ」と遼。「“枠の希少性”を高める。――先行予約は総量の三割まで。残り七割は“抽選+補正”。抽選なら、裏の握手が効きにくい」

 ガルドが旗の束を肩にずらした。「抽選の箱、透明か?」

「透明。――袋と同じ革で作る。光が通る箱の中で、札が寝る。寝る札は、昼に起きる」

 教授が片眼鏡を直し、「“寝る札”は詩にしたい」とぼやいた。賢者は杖の石を一度だけ鳴らし、「詩は注に」と頷いた。

 遼は黒板の下段に、もう一つの小さな見出しを書く。

 ――匿名通報(笛箱):設置/王女印/毎夕刻開封

 笛箱――穴の小さな投函箱。以前、王城で汚職の孤立をほぐしたあの箱だ。細い笛を入れる者は、声をなくさない。戻る道の色“薄青の紐”が、細い笛の首に巻かれる。

「笛箱は“裏向け”に取り付ける」と遼。「表から見えるが、投函の手は見えない。開封は毎夕刻。王女の私印で封緘。――開けるのは“顔”」

「私か」とエイダが笑う。「顔は、箱を温める役」

「温めると、固まった言葉が溶ける」とサラ。「溶けた言葉は、短い詩になる」

「詩は注に」と遼。「数字は前に。――通報は『三点一致』で扱う。帳簿・動線・証言。三つの線が交わったときだけ、動く」

 ロックが頷く。「動くときは短く。『交差1』『旗』『金』」

「“金”は“現金”だ」と遼。「現金は“早さ”を持つ。――早さを手順で奪う」



 午前。黒板の「枠前払」欄は、たちまち札で埋まった。商隊連合の連中は慎重だが、在庫持ちの商人は敏い。枠を抑えるのは安心だ。三割の枠は昼までに埋まり、基金の袋に手数料が薄く溜まる。透明の革袋が陽光を呑んで、金の薄い音を腹で鳴らす。

 灰手の会は遅れてきた。ライオットは現れず、若い衆が庇の深い帽子で目を隠したまま枠を札で押さえる。押さえる手は速い。速い手は、裏で遅れる。遅れは「支払い」だ。前払で資金が寝る。寝た金は、昼の買い占めに回らない。

 午後、黒板の右端に小さな欄が増えた。

 ――手数料流量:本日〇〇枚(平時袋へ)

 基金の袋が静かに増える。増える袋を見ると、人は嘘を言わなくなる。透明の中身は、嘘の居場所をなくす。嘘は暗がりを好む。箱の裏は暗いが、裏に笛箱がある。暗がりに口が一つ、正直のための。

 夕刻。笛箱の鍵をエイダが回す。箱の中には、笛が三本。一本は無地、一本は薄青の紐、一本は黒い煤で先が汚れている。

 エイダは笛を布の上に並べ、遼とサラと、監査の賢者と教授が短く囲む。賢者の杖の石は鳴らない。音を立てないのは敬意だ。

 無地の笛からは、短い紙片。「“宿場裏の数え役、夜に札を二度抜く”」。薄青の紐の笛は、もう少し長い。「“枠前払は、頭の声で決まる。灰手は抽選の名を差し替える術を持つ”」。煤の笛は嘘の匂いがした。「“関所の箱は偽物。内部で札を差し替え”」。

 遼は三つの紙を三つの線に置く。帳簿・動線・証言。無地は帳簿と動線で一致、薄青は動線と証言で一致、煤はどこにも刺さらない。刺さらない匂いは、ポイ、と箱の横の灰皿で燃やす。燃える嘘は、良い嘘だ。火で働き、灰で黙る。

「差し替えの術?」とロックが眉を寄せた。

「紙より“指”だ」と遼。「抽選は透明箱。差し替えるなら、“指”の角度。指の角度は“顔”で止まる」

 翌朝から、抽選の台の前に「朗読者」を立てることにした。詩ではない。三語の朗読。「手を見せ」「角度二度」「戻す」。角度はまた二度。二度で足りない朗読は、詩になる。詩は注に置く。



 二日目。黒板の「枠前払」欄は、灰手の札で一杯になった。彼らは枠を取る。取れば、現金が眠る。眠りの重みで、昼の市場が軽くなる。軽くなった市場は、昼の風洞みたいによく回る。回る風は、買い占めを嫌う。

 昼過ぎ、黒板の隅でサラが「遅延率(市場)」という新しい欄を生んだ。
 ――市場遅延率=(入札→掲示→成約の遅れ)
 「遅延が減ると、噂が太れない」とサラ。
「噂は薄く、情報は濃く」と遼。「濃い情報は、薄利多走を呼ぶ」

 夕刻、笛箱は五本の笛を吐き出した。そのうち二本に、同じ癖の点があった。点は小さく、しかし同じ角度。同じ角度は、同じ手。手は、裏の平坦な石の上をよく通る。通り道に砂をひとつ、落とせばいい。砂は「朗読」だ。

 抽選台の横に、ロックが立った。旗ではなく、朗読。
「『手を見せ』『角度二度』『戻す』」
 彼の声は短いが、深い。浅い声は風に負ける。深い声は、砂を動かす。

 差し替えは起きなかった。起きないと、退屈だ。退屈は、正義の親戚だ。親戚が増えると、裏路地は狭くなる。狭くなると、歩きにくい。歩きにくさは、噂を遅らせる。



 三日目。ギルドの金が寝始めた。寝る金は、彼らのやり口を鈍らせる。鈍ると、手が出る。手は、宿場の外から来る。外から来る手は、派手だ。派手は、黒板に勝てない。だが、派手は人の目を奪う。目を奪えば、朗読をかき消せる。

 昼。黒板の前で、薄い影が走った。人がざわめくより先に、旗が一度鳴った。ロックの肩が、空気の動きに先に反応する。反応は筋肉の詩だ。

「――襲撃」

 短い声が、長い影を切った。灰手の若い衆が十、二十。棒、短剣、投げ紐。広場の入口で、旗の色が一瞬、混じる。「回れ」と「止め」が交錯し、空気の腱が悲鳴を上げる。

 遼は黒板の下段に、三行を走らせた。
 ――“網”の内側へ後退/朗読:交差・二度/基金→緊急便(人員移送)

 エイダが杖で地面を二度打ち、声を重ねる。「『回れ』『待て』」。サラは笛箱を胸に抱え、王女印の封を指先で掴む。笛箱は盾になる。盾の詩は短く、「開けない」。

 ガルドは関所側から旗を引き連れ、朗読で道を作った。「『通せ』」。通すのは荷ではない。人だ。人が通ると、剣は迷う。剣は“狭い”を嫌う。狭いは朗読の仕事だ。朗読は空間を絞る。

 灰手の若い衆は、黒板に向かって走った。黒板を倒せば、言葉が倒れる。言葉が倒れれば、数字は散る。散った数字は、拾うのに時間がかかる。時間は、彼らの味方だ。

 遼は黒板の前に立たない。黒板の“隅”に立つ。隅は、矩(かね)の角だ。角は強い。黒板の“隅”は、詩の棲家でもあり、手順の杭でもある。杭に背中を当て、遼は棒を横に構えた。棒の先の青い鉱石が、空気の温度を読む。

「“網”の内側へ」

 ロックが応え、関所へ通じる狭い路地に人の流れを作る。流れの端で、旗が二度だけ角度を変える。角度は“回れ”。回ると、ぶつからない。ぶつからないと、剣は孤立する。

 孤立した剣は、三秒で言い訳を探す。言い訳の三秒は、朗読の三語で塞げる。「『戻れ』」。ロックの声は短く、浅い呼吸を止める。止められた呼吸は、剣を鈍らせる。

 だが派手は派手だ。投げ紐が黒板の角に絡み、星の欄が一列、ベリ、と剥がれた。剥がれた星は、地面で光る。光を踏む足は、罪悪感を覚える。罪悪感は剣を遅らせる。遅れの間に、ガルドの旗が路地に蓋をする。「止め」。

 エイダは“顔”で前に出た。杖は剣ではない。顎の上げ下げが武器だ。彼女は顎を一度上げ、二度下げ、声を置く。「『息して』」。荒い呼吸は荒事に効くが、長続きしない。息を整えよ、が朗読の中心だ。

 灰手の列がひるんだ刹那、広場の奥で庇の影が動いた。ライオット。彼は走らない。走らない者は、目だけが速い。速い目は、黒板ではなく、笛箱を見た。

「箱を壊せ」

 若い衆が反射で向きを変える。箱は木だ。木は刃に弱い。弱いものを前に置くと、剣の先端はそこへ吸い寄せられる。吸い寄せられた剣は、旗から遠ざかる。旗から遠い剣は、朗読を聞かない。

「――囮を出す」

 遼の声は短く、届く場所を選ばない。囮は郵便だ。昨日、峠で学んだ通り。軽い嚢が、重い刃を遅らせる。

「郵便、軽装! 薄青の紐!」

 トオマが飛び出した。嚢は軽い。足は軽い。軽いものは、狭いを好む。狭い路地をくぐり、笛箱の横をかすめ、広場の端で薄青をひらりと見せる。薄青――戻る道。

 若い衆の視線が、嚢に吸われる。箱から剣が離れる。離れた刃の脇を、サラが滑り込む。箱を抱え、王女印の封をこちらに向け、朗読の声で言う。「『開けない』」

 箱は開かない。封は詩ではない。印は数字の番人だ。数字は箱の中で生きる。生きているものは、壊されにくい。

 ライオットの庇の下で、目が細く動いた。「また、それか」

 “また”でいい。習慣は強い。強い習慣は、刃の勢いを落とす。落ちた勢いは、朗読で受け止められる。

 遼は棒を構え直し、黒板の隅を背で押した。押される板は倒れない。隅は角、角は道具だ。角が道具なら、板は壁だ。壁に星は戻る。星は戻るが、いまは地に落ちている。落ちた星は、拾う。拾うのは子どもだ。子どもは、星を踏まない。

 広場の隅から小さな声がした。「踏んじゃだめ!」

 子ども番人――慈恵院で青い糸の棚を守る子らだ。彼らは星を拾い、袖で拭き、黒板の足元で守る。守ることは、参加だ。参加は、暴力を弱める。

 ガルドが合図を送り、関所側から“緊急便”が出る。基金の袋が静かに揺れ、“平時”の一部が“緊急”に転じた。緊急便は、荷ではない。人だ。怪我人を包み、子どもを柵の内に引き入れ、朗読者の位置を詰める。

「――退く」

 ライオットは短く言って、退いた。退くのが早いのは、彼の強さだ。退く足が速い者は、次を先に考える。彼は考える。「現金の滞留」。滞留は、彼の喉に棘のように刺さっている。

「夜に返す」と彼は言い、庇を深くした。夜は彼の席だ。夜の席で、詩を作る。詩は注に。注は、こちらの板に移す。



 襲撃は小一時間で止み、夕暮れが早まった気がした。黒板の星は半分が戻り、半分はサラの掌にある。掌で温めると、星の角が丸くなる。丸い星は、また貼りやすい。

 遼は基金の袋の前に立ち、短く計算する。緊急便に使った分、平時の袋から補填。予防の袋から柵の補修。袋は透明で、中身が減るのも見える。減るのが見えると、人は怒らない。怒らない代わりに、手を貸す。

 教授が「袋の詩」を短く改訂した。
 ――減るは働く。
 ――働くは戻る。
 ――戻るは、習慣。

 賢者は杖で床を二度叩き、朗読の時間を告げた。エイダが前に出る。顔は疲れている。疲れた顔は、朗読に向く。誠実は、疲労の影を連れてくる。

「“郵便は命の貨物”。――今日は、その一文だけで、いい」

 拍手はない。代わりに、笛箱の口が静かに息を吐いた。息は紙の匂い。紙の匂いは、今日の防音壁。



 夜。ライオットは現れなかった。代わりに、笛箱が六本の笛を吐き出した。三本は嘘、二本は真実に触れ、一つはためらいだ。ためらいの紙には、震える文字。「“現金を回す者が、夜に『枠』を換金しようとした。切手と枠の交換を、裏で”」

 遼は眉を動かさず、白墨で短く書く。
 ――枠→切手交換:禁止(公開)
 ――違反:黒点固定+入札凍結
 ――正規:黒板窓に“翌月繰越”欄(料率付)
「“繰越”を作る。――算段する場所を“表”に置く」と遼。「表に置けば、裏は痩せる」

「痩せない裏もある」とロック。「“現金の滞留”は、夜の床下に溜まる」

「床下は吸う」と遼。「“滞留吸上口”を増やす。――『保管手数料』。長く眠る現金には、眠り賃を付ける。眠り賃は基金へ」

 サラが白墨を走らせ、三行を添える。
 ――眠り賃(滞留手数料):夜→朝(自動)
 ――基準:枠未使用/切手未現金化
 ――発表:朝黒板(名札付き)

 朝、黒板の端に小さな欄が増えた。
 ――眠り賃:〇〇枚(灰手:〇〇、商人〇)
 名札の横に、薄い点。点は恥だが、罰ではない。罰は怒りを呼ぶ。恥は沈黙を呼ぶ。沈黙の間に、手順は進む。

 ライオットは昼にだけ現れ、欄を見て庇の下で笑わない笑いをした。「金は寝かせると増える、が座右だ」

「増えるのは“利”だ」と遼。「寝かせれば、“利”は増える。だが“声”は減る。――声のない金は、裏路地にしか届かない」

「裏路地に届けば、十分だ」

「峠は裏路地じゃない」

 言葉は短くぶつかり、ぶつかり合った音の境目に、サラの詩が注の欄で温度を下げた。
 ――金は座る、声は歩く。
 ――歩く声が、峠を通す。
 ――座る金は、椅子を温めるだけ。

 詩は注に。数字は前に。囲いの中で、眠り賃は静かに働き、基金の袋は少し重くなり、重みは“緊急便”を軽くする。



 一週間。
 “枠前払”は常態化し、眠り賃の欄は日ごとに細くなった。灰手の会は枠を取りすぎなくなり、取った枠を使い切るようになった。使い切る枠は、道を詰まらせない。詰まらない道は、剣を退屈させる。退屈な剣は、商売を始める。

 昼、黒板に新しい欄が付く。
 ――“灰手・昼商売”:朗読可→+/不可→夜専
 ライオットが庇を上げ、「昼に座る椅子が増えた」と呟いた。
「座るなら、名札を」と遼。「“顔指数”を足す。昼の顔は、夜の脅しを薄める」

 笛箱は、内部の軋みを少しずつ吐いた。帳場の数え役の“二度抜き”は消え、抽選の差し替えは朗読で枯れ、裏の“切手換金”は黒点に変わった。黒点は薄くなる仕組みが隣に貼られ、薄くする手順は「三十日無事故」と「朗読参加」。朗読に参加した賊は、剣を抜かなくなる。抜かない剣は、旗を好きになる。旗は二度だけ角度を変えて、彼らの肩に馴染んだ。



 二週目の終わり、ライオットの癇癪が来た。癇癪は、彼の短所であり、長所だ。短く怒る者は、長く考える。長く怒る者は、短く考える。彼は短く怒った。

 夜半。宿場の柵の外。魔灯が一度だけ瞬き、匂い旗が檸檬を薄く炊いた。風は凪いでいる。凪は、足音を遠くまで運ぶ。遠くの足音は、近くの警告だ。

 ロックが最初に鼻で気づいた。「脂の匂い。布を焼く匂いじゃない。“金”の焼けた匂いだ」

 “金”は焼けない。焼けないが、回る。回ると、匂いが出る。滞って焼ける匂い。滞留の熱。遼は胸のT字に点を打ち、棒の先を低く構えた。

「――宿場襲撃、来る」

 エイダは顔を“剣”に変えず、朗読者の顔を保つ。「『待て』『回れ』」

 ガルドは関所の側から旗の群れを前に出し、継ぎ目朗読の位置で道を絞る。道を絞ると、火は走れない。火は道を好む。道が狭いと、火は諦める。

 灰手の若い衆が夜の布を肩に、路地に溶ける動きで近づく。細い瓶が空を過ぎろうとした瞬間、サラの笛が一度鳴った。笛は細い。細い音は、太い動きを止める。

「――“網”を切る音だ」

 遼は囮を出さない。囮は昼に効く。夜は“灯”が囮だ。魔灯を一度だけ灯し、すぐ眠らせる。灯りの記憶が、剣の目を一瞬縛る。その一瞬を、ロックが拾って旗で封じる。「『止め』」

 ライオットは前に出なかった。出ないのは、彼が裏の詩を作っているからだ。詩は注に。注は翌朝、黒板へ。

 襲撃は手順に吸われた。吸われる暴力ほど、彼らは苦手だ。暴力は空気を掴むが、手順は空気を滑らせる。滑った空気は、旗で曲がる。曲がった空気は、剣を曇らせる。曇った剣は、退く。

 退くとき、若い衆の一人が笛箱に肘をぶつけた。箱は鳴らない。鳴らない箱は強い。王女印の封は、夜の湿りを吸って、さらに固くなっていた。



 夜明け。黒板の上段に太字が並ぶ。

 ――襲撃未遂(夜)→被害小/黒点:灰手(眠り賃+)
 ――枠前払(累計):手数料→基金袋(平時+〇)
 ――笛箱:通報八→三点一致二(処理中)
 ――朗読:夜=二/朝=二(継続)

 そして右端に、遼が新たに描いた大きな枠があった。

 ――“決済板”(試験):日次清算/名札連結/眠り賃自動

「“決済板”?」とエイダ。

「現金を“昼に清算”する。――夜の滞留を朝に流す。切手・枠・入札・保険の掛け金。全部を朝の板の前で“連結”する。名札を並べ、金の流れを一本線で可視化する。『眠り賃』は自動で計算、袋へ落ちる」

 教授は目を輝かせ、賢者は杖を二度鳴らした。ガルドは旗を肩からおろし、「“顔指数”に『清算短明』を加点していいか」と訊いた。

「いい。――“決済”は“朗読”。短く、明るく、二度だけ」

 サラが白墨で小さな詩を添える。
 ――夜の金は、朝に歩く。
 ――歩いた金は、声を持つ。
 ――声のない金は、眠り賃。

 詩は注に。数字は前に。決済板は、黒板の隣に立った。透明な革袋の下、薄い金の音が二度だけ鳴った。



 正午、ライオットが現れた。庇を上げ、目を細め、黒板と決済板を順に眺める。彼は笑わなかった。笑うときは決めたときだ。笑わないのは、まだ選んでいるからだ。

「滞留を“吸う”のは、相変わらず上手い」

「吸うのは“網”だ」と遼。「網は“節”で強くなる。――決済板は節だ。君らの現金を“朝に歩かせる”」

「歩く金は、裏路地を嫌う」

「嫌わせる」

 ライオットは首を少しだけ傾げ、「“裏”で詩を作る余地は、どれほど残る」と呟いた。

「詩は注に」と遼。「注は残す。――“裏”の良い詩は、表の注へ移す。悪い詩は灰皿へ」

 庇の下で、彼の目がわずかに笑った。「灰皿は、慣れている」

 互いに短く会釈し、ライオットは背を向けた。背は広くない。広くない背に、薄青の紐の色が一瞬だけ差した気がした。錯覚かもしれない。錯覚は、次の手順を急がせない。



 夕刻。笛箱の中には、一本だけ笛があった。細く、白く、紐も煤もない。紙片は短い。

 “西の鉱山街へ向かう裏路(うらじ)の床下に、箱。『戦支度』。箱には金。紙には『供奉』の印。夜の二つ目の鐘で搬出”

 サラは息を止め、遼を見る。遼は頷く。「三点一致に足る」

 ガルドが旗を上げ、「関所経由で“抜き取り”の朗読だ」と言う。エイダは杖を持ち直し、「顔は夜でも働く」と笑った。ロックは短剣の鞘を軽く叩き、トオマは“二つ先読み表”の空欄を器として撫でた。空欄は増え、増えた空欄は、夜の“遅れない”を呼び込む。

 遼は黒板の端に、短い詩を置いた。

 ――金は座る、声は歩く。
 ――歩かせる板、吸い上げる袋。
 ――裏の箱は、朝に開く。

 詩は注に落ち、数字は前で整列する。整列した数字は、襲撃より静かに人を動かす。静かな動きが、最も遠くへ届く。



 夜。二つ目の鐘。西の裏路の床下。倉の影は薄く、風は無風、匂い旗は炊かれない。炊かれない夜は、足音だけが合図だ。

 床下から箱が引き出される瞬間、旗が一度だけ動き、朗読が短く刺さる。「『止め』」。箱は止まり、手は止まり、目だけが動く。目は、庇の下で笑った。

「――また、朝に会おう」

 ライオットの声だった。声は低く、短く、肩を落としていた。落ちた肩は、退いた肩だ。退くのが早いのは、強さの証明で、敗北の証明ではない。

「朝の板は、冷たい」と遼。
「冷たい板は、誠実だ」とライオット。
 短いやり取りの間に、箱は決済板の下へ運ばれていた。透明の袋の影に、箱の黒が映る。映る黒は、数字の前では黒でいられない。



 翌朝。黒板の上段に、新しい太字。

 ――裏箱:決済板へ/“供奉”資金→保留→監査(公開)

 監査の教授と賢者が板の前でうなずき、サラは「供奉」の字に注の読みを振った。「そなえたてまつる」。詩が好きな言葉だ。注に降ろすと言葉は縮む。縮んだ言葉は、数字の前で座る。

 “眠り賃”の欄は、今日は細い。灰手の名の横の点はさらに薄く、代わりに“昼商売”の欄で星が増えた。星は丸く、貼りやすい。貼る音が小さく続き、広場に拍手はない。代わりに、工具の音と、旗の布の擦過音と、子どもの歌が薄く重なる。

 遼は胸の内のT字に、小さな点をひとつ打った。借方に“命”、貸方に“物語”。その間に“決済”と“眠り賃”。さらに“笛箱”。点は増える。増えた点は、網の節になる。節は、暴力が引っかかる結び目だ。

 エイダが黒板の前で短く言い、朗読で締めた。「『息して』『通せ』『待て』。――今日の顔は、朝の板」

 ライオットは現れなかった。現れなかったが、裏路地の霜柱はさらに背を低くし、薄青の紐の色が光に似た。似ただけだ。似たものは、たいてい、次の章の橋になる。

 黒板の最下段に、サラが小さく予告を書いた。

 ――次章予告:国境税の“二重取り”/鉱山街の協議会/決済板と関所の“連動”試験

 詩は注に。数字は前に。旗は二度だけ角度を変え、基金の袋は透明で、決済板は朝に冷たく、夜に眠い。眠い板の横で、薄青の紐が短く揺れ、トオマの“空欄”はまた一つ増えて、増えた空欄は、遅れないを呼び寄せた。

 ――“盗賊ギルドの弱点、現金の滞留”の章は、ここでいったん息を置く。息を置けるのは、呼吸が整っているからだ。呼吸を整えるのは、朗読と、板と、透明の袋と、角度二度の柵。そして、薄青の紐。戻る道の色は、今日も、黒板の隅で、静かに光っている。