朝の黒板の白は、いつもより硬かった。白は冷えると鳴る。白が鳴る日は、字を短くする。

 ――警報:国境峠・吹雪(路線麻痺)

 板の上段に、サラの字で太く載った見出し。下段には、昨夜までの“温度窓”の記録が並んでいる。卯の刻に氷が厚みを増し、酉の刻に風が回り、子の刻に匂い旗がうまく燃えない。数字は冷たいが、冷たい数字は、火の用意が良い。

 遼は《路標》の表示を視野の端に薄く開いた。緑の筋は細り、黄の帯は縮れ、赤の斑点が峠の背骨に沿って移動している。赤は獣の腹ではない。風の歯だ。風の歯は雪を噛み、噛んだ雪で道の喉を塞ぐ。

「“滑り止め刻印”が追いつかない」とロックが肩で息をした。「雪は刻印を読まない」

「雪は“形”を読む」と遼。「読むのは角度だ。……柵を、少しだけ斜めにする」

 彼は棒を抜いた。棒の先の青い鉱石が薄く震え、吹き溜まりの縁が見える。峠の風はただ速いだけではない。谷が狭く、断層が浅く、雪の粒が一つの方向へ“選ぶ”速度を持っている。選ばれる“壁”を、こちらが先に用意する。

「自然除雪の“風洞”を造る。柵の角度を二度だけ変える」

「二度?」とサラ。「好きだね、その回数」

「大きく振ると、風は怒る。怒った風は、獣になる。二度だけなら、風は“整う”。整った風は、雪を運ぶ」

 エイダが杖を持ち替え、「私も行く」と言った。膝の布は薄く、目は厚い。「峠は、路線の心臓だ。心臓に顔がないと、体は迷う」

「顔で来て」と遼。「剣ではなく。朗読を頼む。『止め』『通せ』『息して』。それだけでいい」

 エイダは苦笑し、杖の先を床に二度だけ打った。「了解」

 ガルドは関所から駆け付け、旗の束を肩にかけた。「朗読者は揃ってる。――支度の朗読、今やる」

 黒板の前で、短い声が走る。「綱、杭、角度二度、匂い旗“回れ”、温度窓・卯の刻測定、郵便小荷“軽装”」

 短い声は、体の深いところへ降りる。降りた声は凍らない。



 峠の下腹まで来ると、雪は音を持っていた。砂が擦れるような、紙をめくるような、乾いた書物の匂いに似た音。雪が風に読まれ、谷が雪の本を読む。読み手が強すぎる。読まれすぎた紙は、破れる。

 遼は柵の根本に膝をつき、角度を測る。柵は直立、地面は凍土、杭は鈍い。鈍い杭は、打つと黙る。黙る杭は、風に礼儀正しい。

「ここから“二度だけ”南へ倒す。風の右肩を滑らせて、峡へ“逃がす”。逃がし先に“雪溜め”を掘る。……ロック、杭!」

「応!」

 ロックが分厚い手袋で杭を握り、カン、と短く打ち込む。カン、とまた短く。二度だけ。雪は打音に驚かない。三度目は驚く。驚けば、逆風を呼ぶ。

 サラは写図板を抱え、柵列の角度を小さな矢印で連ねていく。「角度二、間隔六歩、雪溜め深さ一・二。……詩にできる」

「詩は注に」と遼。「数字を前に」

 エイダは杖を雪に差し、子どもに教えるみたいな声で言う。「『待て』『回れ』『息して』」

 旗が三色、白い空気の上で方向を示す。白は声をよく映す。映された声は、旗の角度に縫い付けられる。

 柵列の端に、自然の“風洞”ができ始める。風が柵に触れ、わずかに向きを失い、谷の斜面に沿って滑り落ちる。滑り落ちた風が雪を引く。引かれた雪は、峠の喉から少しだけ退く。喉は完全には開かない。完全は嘘だ。嘘の道は、滑る。

 遼は棒の先で空気を撫で、青い音を薄く広げた。風は音を嫌う。音は雪を殴らない。殴らない音が、雪を遠ざける。

「“自然除雪”というより、“風の偏食”だな」とロック。「雪は“こっち食え”と言われて、笑いながらそっちに行く」

「笑う雪はいい雪だ」と遼。

 トオマは“二つ先読み表”に新しい欄を足していた。
 ――風洞/雪溜め満杯予測/捨雪ルート
「“雪溜め”はどのくらいで満杯に?」とサラ。
「卯の刻に一回、酉の刻に一回、溢れる」とトオマ。「空欄、二つ埋める」

 遼は頷いた。「溢れるときは“捨雪”。谷の浅い方へ、滑り止め刻印を縫って落とす。落としすぎない。二度だけ落とす」

 ガルドは旗の根元を持ち直し、朗読を短く重ねた。「『回れ』『待て』『通せ』」

 関所の“顔指数”は今日、峠で加点される。顔は短く、道は長い。短い顔が、長い道を守る。



 風洞の完成は、正午の少し前だった。柵列は二度だけ角度を持ち、雪溜めは一つ増え、匂い旗は薄い檸檬を二度だけ炊いた。雪は素直ではないが、頑固でもない。導き方を知っていれば、頷きの回数を守る。

「――通せ」

 エイダの声で、昼の貨物列が慎重に滑り出した。歩行帯の刻印は雪で薄れているが、継ぎ目朗読の声がその上に“仮の刻印”を置く。朗読は刻印を一時的に作る。作られた刻印は、一度だけ効く。

 最初の列が抜け、二本目の列が抜け、三本目がゆっくりと融けるように峠の肩を越えた。峠は心臓。拍動を取り戻した心臓は、小さく、しかし確かに、全身へ送る。

 遼は雪溜めの縁に立ち、棒で深さを測る。浅い。深い。二度だけ測る。二度で充分だった。測り過ぎは、不安の別名だ。不安は雪を重くする。

「――救援に回る」とエイダが言い、杖の先で雪を弾いた。「峠の北側、鉱山街との合流地点で二便が立ち往生。護衛が足りない」

「ロック、半隊を連れて」と遼。「俺は柵列の監視と“捨雪”。トオマ、黒板へ“状況→短文”を飛ばせ。郵便で。――夜は郵便のみ、昼は貨物。だが今は昼に郵便を短く差し込む。『救援、北肩、二便』」

「了解」とトオマ。彼は白い息を二度吐き、郵便小荷の革嚢を締め直した。嚢は小さく、軽い。軽いものは、風に勝てる。勝つ方法は、力ではない。回数だ。二度だけ、角を変えて走る。



 救援列が峠の肩に差し掛かった頃、雪は音を変えた。紙の匂いは消え、砂のざわめきが濃くなり、次に来るのは鉄の匂いだ――遼は鼻の奥が冷え直るのを感じた。鉄の匂いは、雪の匂いじゃない。刃の匂いだ。

 ロックが低く唸る。「……待ち伏せ」

 エイダが杖を雪から抜いた。「誰が?」

 雪の幕の向こう、黒い外套が斜面に貼り付く。庇の下の目は笑わず、笑わないのに、笑いに似た柔らかさを持っている。ライオット。灰手の幹部。夜の匂いを昼に持ち込む男。

「団長。――顔は、ここでは良い獲物だ」
 声は低い。低い声は、風と仲良しだ。仲良しは厄介だ。

 護衛の列が短い弧を描いて広がり、旗が二度、角度を変えた。「止め」「待て」。ロックが前へ一歩出る。ロックは短剣を抜くが、振らない。剣は抜くときより、収めるときが難しい。抜いた剣を収める技は、朗読に似ている。

「ライオット」
 エイダの声は朗読者の声だ。驚いていない。驚かない声は、吹雪に勝つ。

「夜の誓約に、昼の注釈を付けに来た」とライオット。「専属のかわりに、昼の短い“迂回料”が欲しい」

「迂回料?」

「ここを通る“速度”の値段だ。今なら高い」

「札を持ってこい」とロック。「黒板に貼るなら、話は早い」

「黒板はここにない」とライオットが笑う。「ここが“裏”だ」

「裏は、表の兄弟だ」と遼は割って入った。「兄弟は時々、背中を預ける」

 ライオットが眉を上げかけ、その刹那――峠上の雪の声が変わった。風洞が働きすぎて、雪溜めが満杯に近い。トオマの表の空欄が、さっき“満杯予測”の上で震えたのを遼は思い出す。

「捨雪、一回目!」

 遼の声に、ロックが反射で合図を返す。旗が白に切り替わり、護衛と荷車が斜面の肩の一段下へ下がる。雪溜めの縁がわずかに崩れ、雪の筋が谷の浅い方へ滑り、静かに落ちる。静かな落雪。静けさは重い。重さは、刃より強いときがある。

 ライオットは舌打ちもせず、足を一歩引いた。引いた足は、逃げではない。読み直しだ。

「二度目の捨雪が来る前に、終わらせよう」
 彼の合図で、斜面の黒が二つ、三つ動く。囲む動き。囲まれて喜ぶ雪はない。だが、囲まれるのが嬉しくなる手順が、この峠にはある。

「囮を出す」と遼。「郵便」

 サラが息を飲む。「昼に?」

「昼だ。情報は“命を救う貨物”。――郵便便(少量・高速)を囮にして、護衛を誘導する。ロック、囮線の旗を“緑・白・緑”。トオマ、嚢は“軽装”、文は短文、目印は“薄青の紐”」

 エイダが笑った。笑いは短く、雪に溶けない。「薄青の紐は、戻る道」

「戻る道を、敵に見せる」と遼。「“戻る”が見えると、人は追いたくなる。追いやすい道に、旗を置く。斜面の“悪い”を避けて、いいほうへ誘う」

 トオマが喉を鳴らし、嚢を肩に掛けなおした。目は怖い。怖いが、空欄を見ている目だ。空欄は器。器は、恐怖より重い。

「――行きます」

 トオマが雪を蹴った。足は軽く、旗は緑に一度、白に一度、また緑。緑→白→緑。合図は短い。短い合図は、追う者の足を短くする。短い足は、滑る。

 ロックが護衛の二人を囮線の両脇に貼り付け、詠む。「『通せ』『回れ』『待て』」
 朗読の韻が雪面に刻印を再現し、郵便の足跡は刻印の上だけを選んで走る。情報の鮮度は、刻印の選択で守られる。

「追え!」と斜面で誰かが叫んだ。声は浅い。浅い声は、風に負ける。風は深さを好む。

 ライオットは追わない。追わせる側だ。彼の目は、エイダの杖の先を見ている。杖は剣ではないが、剣の次に近い。彼は“顔”を獲ると言った。

 遼は棒を握り、指先で印を温めた。「――捨雪、二回目」

 二度目の落雪が、囮線の一段下で静かに滑り落ちる。追っていた黒い影が足を取られ、雪に吸われる。吸われた足は、立て直すのに“手順”を要する。手順のない足は、そのまま沈む。沈んだ足は、脅しを忘れる。

 ライオットは思わず庇の下で目を細め、笑いに似た線を消した。「坊主――いや、朗読者はどこだ」

「ここ」とトオマ。囮線の先で、一度だけこちらを振り返り、薄青の紐を短く見せた。戻る道の色。色は記憶に強い。強い記憶は、刃を一瞬だけ遅らせる。

 ロックがその一瞬に割り込み、エイダの前に肩をねじ込む。短剣は抜かれ、抜かれたまま、振られない。刃は朗読の影にぶら下がり、影は旗に縫い付けられ、旗は二度だけ角度を変えて、雪を味方にする。

「退け」とライオットが言い、言うだけで、手を出さない。手を出さないのは、雪の性格を読むからだ。雪は不意を悪く覚える。悪い記憶は、次の商いに効く。

「退く」と遼。「退いた先で、黒板に“迂回料”を貼れ。昼の注釈は、昼に読む。裏の詩は、注に置く」

 ライオットは肩をすくめ、鼻で吸い、吐かなかった。吐かれない息は、雪より冷たい。彼は庇を深くし、斜面の影に溶けた。溶けるのは狼狽ではない。夜の人の歩き方だ。



 峠の風は午後に鎮まり、雪溜めは一度満ち、一度空になった。風洞は働き、柵列は耐え、刻印の朗読は途切れず、郵便の嚢は軽かった。軽い嚢は、峠の心臓の鼓動に合わせて揺れた。揺れはリズムだ。リズムは、道の記憶になる。

 エイダは杖を脇に挟み、深く息を吸った。「助かった。……“囮に郵便”は、心臓に悪い」

「心臓は“リズム”で動く」と遼。「郵便は道のリズムだ。軽い足が先に打つ拍が、重い荷の拍を整える」

「詩?」とサラ。

「数字だ。――『市場反応時間』、『供給調整時間』。夜に短文、昼に荷。今日は昼に短文を差し込んだ。短文が命を連れて帰ることがある」

 板に戻ると、ガルドが関所の“顔指数”の欄に「峠朗読+2」「捨雪合図+1」と短く加点を貼っていた。貼る手が少し震えていて、その震えが雪より温かい。

「郵便は、命を救う貨物だ」とロックがぼそりと言った。「今日、見た」

 サラが白墨を握り直し、黒板の右端に短い詩を置く。

 ――軽い嚢が、重い刃を遅らせる。
 ――短い文が、長い道を守る。
 ――郵便は、命の貨物。

 詩は注に落ち、数字は前で乾く。乾いた数字は、冷えた朝に強い。



 夜。宿場に戻ると、魔灯が二度だけ細く光り、基金の袋が月の薄光を飲んでいた。平時の袋から“滑り止め刻印”補充の札が出て、予防の袋から“柵の予備杭”の札が出る。緊急の袋は開かない。開かない袋は、安眠を買う。

 遼は“自然除雪”の設計図を簡略にまとめ、背の低い机に広げて、注を短く添えた。

 ――注:柵角“二度”→風洞形成/雪溜め“二回”→捨雪
 ――注:捨雪は静かに/旗は“緑・白・緑”
 ――注:朗読は刻印の仮置き
 図の端に、サラが小さく詩を加える。
 ――風は偏食。皿を出す。
 皿という言い方は、村の老婆が好む比喩だ。生活の側に寄った言葉は、翌朝の手順を短くする。

 エイダが椅子に腰を下ろし、膝の布を緩めた。「ライオットは、どこで何をする気だろう」

「彼は“裏”で詩を作る」と遼。「詩は注に。注は、こちらの板に移す」

「詩盗み?」とロックが笑う。

「注の翻訳」と遼。「裏の詩が、裏のままだと、脅しになる。表に出すと、朗読になる。朗読は、旗に変わる」

 トオマは“二つ先読み表”の空欄を新しくしていた。“雪溜め満杯予測”と“捨雪タイムテーブル”、それから“郵便差し込み窓”。空欄が増える。増えた空欄は、明日の“遅れない”を呼び込む。

「――薄青の紐は、見せすぎでしたか」とトオマ。

「ちょうどいい」と遼。「戻る道は見せる。道が見えれば、追う足は散る。散った足は、朗読に従う」

 サラが笑う。「今日の詩は、長くても許す」

「長くしない。二度で足りる」



 翌朝。黒板の見出しは、また太かった。

 ――峠:自然除雪・風洞運用(継続)/郵便差込(短文)
 ――遅延率:峠絡み(予告あり)→金星+4
 ――関所・顔:峠朗読+2/捨雪合図+1(公開)
 ――護衛:夜→郵便専属(誓約維持)/昼→朗読可優先
 ――基金袋:予防→杭補充/平時→刻印補充(更新)

 そして右端に、新しい欄があった。

 ――“呼吸”の欄
 ・朝朗読(二回)/夕朗読(二回)
 ・郵便窓(昼差込):一(本日)

「“呼吸の欄”……良い」とエイダが言い、杖の柄に軽く額を当てた。「私は顔で、呼吸をする」

「顔は朗読の器だ」と遼。「器が温かいと、数字が飲みやすい」

 ガルドが関所の欄で短い説明を二度だけ繰り返し、賢者と教授は基金袋の前で“袋の透明化”の詩を改訂し、ロックは旗の角度を二度だけ増やして“凍雨”用の合図を練習する。サラは白墨を削り、トオマは空欄の角を指でさすった。

 ライオットの名は、黒板にはない。だが、裏の路地の霜柱は、昨夜より背が低い。脅しの温度が、少し下がった。



 峠の午後。柵はまだ立っている。柵は人の手で立つが、風の手で働く。風は気まぐれで、気まぐれは、習慣の細い糸で手懐ける。

 遼は棒を肩に、雪溜めの縁をもう一度、短く測った。浅い。深い。二度で足りる。

「――通せ」

 エイダの声が晴れて届く。声は詩ではない。朗読だ。朗読は短い。短い声に、荷車の軸は従い、郵便の嚢は揺れ、旗は二度だけ角度を変え、“道の心臓”は今日も拍を打つ。

 遼は胸の中のT字に、小さな点をひとつ打った。借方に“命”、貸方に“物語”。その間に“風洞”と小さく書き、さらに“郵便”と重ねる。重ねるのは重くするためではない。重なり目が、網の節になる。

 黒板の端に、サラが最後の短い詩を置いた。

 ――雪は読む。
 ――読むなら、こちらが先に書く。
 ――道の心臓は、朗読で打つ。

 詩は注に落ち、数字は前で息をする。息をする数字は、吹雪の日に強い。吹雪が過ぎ、道が乾き、星が貼られ、袋が揺れ、旗が二度だけ角度を変え、刻印石は冷たく、魔灯は眠る。

 その眠りの手前で、遼は短く呟いた。「――“郵便は命の貨物”。板に太字で、残す」

 太字は人を動かさない。動かすのは、短い朗読と、二度だけの角度と、薄青の紐。薄青は、戻るための空の色。峠の空は、その色を刻んで、低く、長く、今日の終わりを告げた。