夜の峠は、耳で触れる場所だった。
 遼は風を背に、折り畳みの棒の先で古い橋脚を軽く叩いた。低い音が、骨の奥のどこかをくすぐる。橋脚は半分崩れ、苔と白い菌糸の薄膜に覆われ、根元は過去の洪水が置き忘れた玉石に組み敷かれている。魔灯の火は眠り、星だけが規則正しく冷たい。
「……響きが、夜は太い」
 棒先の青い鉱石が微かに震え、遼の視界の《路標》が、川沿いの細い筋に灰色の縞を浮かべた。“共鳴”。
 昼間の試験では、叩いても短い澄んだ音しか返ってこなかった。だが今は違う。湿った低音が地面を長く走り、遠くの崖肌がわずかに応える。
「道が喰われるっていう“理屈”が、ここにあるのか」
 独り言に、足音が返事をした。ロックが石の上に腰を下ろし、短剣の柄で同じ橋脚を二度、軽く撫でる。
「獣の姿は見えないのに、腹は鳴ってる」
「姿は“物質”じゃない。――波だ」
 遼は棒を立て、橋脚の間に身を沈めた。手袋の指の腹で苔を払うと、古い刻印が出てくる。波形のような線の並び。
「見ろ。旧帝国期の“地脈標”。橋は地脈の上に架ける。流れが安定するからだ。でも、地脈の“音”は年で変わる。洪水、堆積、伐採、魔灯の普及、井戸の増減。――音程が、合わなくなる」
「合わない音は?」
「“共鳴点”を作る。橋脚、門柱、古井戸、切り立った岩。夜は地表の冷えで層ができ、音が絡まる。絡まった音が形を取ると、人は“獣”と呼ぶ」
 ロックは顎に手を当てる。「じゃあ、断路獣は、地脈の唸りの“顕現”か」
「名前はなんでもいい。――理屈を地図に落とせれば」

 遼は《路標》に指で命じ、ヒートマップの裏側に「共鳴図」を重ねた。川筋に沿って灰色の帯が二本、古い橋脚から放射状に薄い輪がいくつも広がる。輪は夜に濃く、昼に淡い。
「共鳴帯、可視化完了」
 視界の端で、数字が踊る。帯の厚さ、減衰、周期。遼はそれを紙の板に写し、魔灯の眠る柱に寄りかからせた。
 紙の端に、サラの字で注が入る。
 ――注:夜の低温で帯が太る。
 ――注:橋脚の古刻印は音の“鍵”。
 ――注:昼は薄い。
 短い注は、読みやすさを温める。

「やっぱり“夜間閉鎖/昼間解放”だね」とエイダが杖をつきながら現れた。膝はまだ厚い布で支えられているが、目は軽い。
「閉じ方は旗でいける?」
「いける。関所と同じく四色で。『止め(赤)』『通せ(緑)』『待て(黄)』『回れ(白)』。ただし夜は“回れ”を増やす。――夜の回避路は、昼の最短じゃない。地脈の“音程”を外す曲線を引く」
「曲線の歌、ね」
 エイダは苦笑し、橋脚の刻印に指を触れた。「……この刻み、いいね。古いのに、字の癖が今の私たちと似てる」
「理由は単純。短く刻んだほうが、風雨に耐える。長い詩は、削れる」



 朝。
 宿場ハブの黒板の上段に、太い題が書き足された。
 ――共鳴帯図(峠下・川沿い区画)
 その下に、大きな帯の図と、時間割。
 ――夜間閉鎖/昼間解放(試験・七日)
 ・夜(酉の刻〜丑の刻):川沿い主路“閉鎖”。郵便のみ“細道”運用。
 ・昼(辰の刻〜申の刻):解放。ただし橋脚直下、歩行帯のみ。
 ・薄明(卯・酉):旗の訓練、共鳴測定。
 ――抽出検閲:関所“後追い”継続
 ――救難合図:匂い旗(杉脂)→“回れ”。
 黒板の下段には具体的な“閉鎖手順”。旗の位置、結び目の形、刻印石の押印時刻の基準。
「こんなに締めたら、夜便が死ぬ!」と商人のひとりが声を上げた。
 ざわつき。灰手(はいで)の会の連中も腕を組み、読める字をあえて読み飛ばすみたいな顔をする。
 ガルドは腕を組まず、眉間の皺を指で延ばしてから、人混みの正面に立った。
「一夜で事故をゼロにできるなら、俺は星を貼る」
 彼の言葉は短く、重い。関所の“取り分”を板で公開するようになってから、彼の声は“賄賂の声”ではなく、“手順の声”になりつつある。
 遼は一歩前に出た。
「反発は分かる。夜は運ぶ側の都合がいい。気温も、道も、税吏の目も、やわらかい。でも、夜は“地脈の声”が太い。太い声に、車輪は飲まれる」

 彼は板の端に短い詩を置いた。
 ――夜の道は、声が通る。
 ――声が通ると、影が立つ。
 ――影が立つと、足が沈む。
「詩は注に。数字は前に」
 遼は手順に戻って、時間割の欄に小さく“郵便のみ”の印を書き足した。「夜は郵便だけ走らせる。――情報の鮮度こそ国力だ。荷は昼、言葉は夜」

「言葉だけ通す?」とサラ。
「うん。夜の細道は“軽い足”だけ。郵便は飛脚二人編制、護衛一人、荷は小。刻印石に“夜便”の印を押す。便は短文を優先、長文は昼便へ。魔灯は灯さない。匂い旗だけ。音は低く」
 エイダが頷く。「郵便の“息”を優先する。荷は昼にまとめて滑らせる」
「滑らせる?」
「地脈の音が薄い時間に“滑らせる”。橋脚直下は歩行帯だけ。荷車は仮設桟で二列、護衛は桟の“継ぎ手”に立つ」
 ロックは短剣を腰で揺らし、桟の継ぎ目を目で追った。「継ぎは詩の韻に似てる。外すと、転ぶ」



 初夜。
 日の影が崖に寝そべり、川の表皮が灰白に変わる。魔灯は眠り、匂い旗の筒が開けられる。杉脂に薬草の粉を混ぜた“回れ”の匂い、乾いた皮の焦げの“止め”、薄い檸檬の“待て”。
 遼は橋脚の陰で棒を振り、青い音を薄く張る。エイダは匂い旗の位置を調整し、サラは黒板に細い字で“郵便便の経過”を書き留める。
 ――丑一刻(夜半・一回目)発:出発/二人+護衛一。
 ――通過:細道/足音低い/匂い反応なし。
 ――到着:関所内側板に転記。
 刻印石は寝息のような冷たさを保ち、指の痕だけが淡く増える。
 川の向こうで、灰手の会の幹部ライオットが腕を組んでこちらを眺めていた。彼は灰色の外套に夜の草の汁の汚れをつけ、目の奥に、急いだ金の影を隠さない。
 夜半の二便が帰り、三便の準備が始まるころ、ライオットが一歩出た。
「夜便を再開しろ」
 空気が硬くなった。ロックが半歩、エイダの前に出る。ガルドは旗を握りなおし、サラが白墨を置いた。
「“夜の細道”を郵便に占有されるのは看過できない。――貨物の“鮮度”で勝ってきた商いが死ぬ」
 遼は首を振る。「鮮度は貨物の独占物じゃない。情報の鮮度は、国力だ」
「詩か?」
「数字だ」
 遼は黒板の端に式を描く。
 ――“市場反応時間”=(情報到達)-(発生)
 ――“供給調整時間”=(到達)+(意思決定)+(昼便出発)
「市場は情報で呼吸する。夜の呼吸を止めれば、昼の足はもつれる。――夜は短文を先行させ、昼に荷を滑らせる。結果、全体の“遅延”は減る」
「俺たちの“現金回り”は?」
「初回と同じだ。――“券”は夜便には使えない。夜は郵便“切手”。切手は小銀で買える。商人組合が“回数割”を出せば、負担は下がる。あなた方は“朝一の売り場”で取り返せる」
 ライオットは鼻で笑った。「朝一で売れるのは、噂だ。噂は金にならない」
「噂は金に変わる。――黒板に“入札予定”を早く出せる。敵も味方も見る。隠れた値は、夜明けに沈む。沈めば、あなたの“買い占め→放出”は、今よりうまくやらなきゃいけない」
 彼の目が細くなった。「脅しか」
「提案だ。夜は郵便のみ。――その代わり、あなた方の“夜の護衛”を郵便線の保全に入れる。切手の現金化権を与える。あなた方が夜の“噂”を運ぶ者になる。噂は、時に金より重い」
「噂は裏切る」
「数字も裏切る。――だから、注に詩を置く」
 遼は黒板の夜便欄に短い詩を足した。
 ――夜は息。
 ――息は言葉。
 ――言葉は荷を呼ぶ。
 ライオットは無言で詩を睨み、やがて片手を上げた。指先は細いが、皮膚は固い。
「一夜、様子を見る。――事故ゼロなら、明晩は“切手”を買う」
 ガルドが旗を下げ、エイダは小さくうなずき、ロックは肩の力を落とした。サラは白墨を取り上げ、夜の欄に“交渉:保全参加/切手買い”と一行書いた。



 一夜が過ぎた。事故はゼロだった。
 黒板の朝の欄に、サラの字で大きく書かれる。
 ――夜便:郵便のみ→事故ゼロ(四便)/噂の到達:六件→朝黒板反映。
 ――昼便:荷車八列/橋脚直下歩行帯運用→渋滞〇・三→午後〇・一。
 ――共鳴帯:夜間測定→帯の厚さ前日比-〇・二。
 朝の空気は固くなかった。硬いのはパンの皮だけで、中は温かい。
 ライオットは約束通り、切手を買い、夜便の保全に二人を出した。彼らは旗の位置をずらすことを覚え、匂い旗の向きで“回れ”の範囲を広げる技術に驚き、二度目の夜には自分から位置を提案した。
「夜便、再開しろ」と叫んでいた商人の幾人かは、朝の黒板を見て黙った。黙った口は、コインの音を待つ。コインの音は、昼に来る。
 関所のガルドは板の隅に星を貼った。
 ――星:関所取分(公開)→微増
 ――理由:遅延削減×税収増
 彼は星を剥がさない貼り方を覚え、指輪の回し方をやめた。



 時間割は七日続ける予定だったが、三日目の夜に手直しが入った。
 川の左岸の共鳴帯が予想より早く痩せ、右岸の古井戸が新たな“点”になりかけていることが測定で分かった。遼は匂い旗を一本足し、細道の角度を二度だけ広げた。
「“二度だけ”っていうのが、いい」
 エイダがそう言って笑う。「魔灯も、刻印石も、二度が好きだね」
「人の注意が長く続くのは二度までだ。三度目は嘘になる」
「詩は何度?」
「詩は“くりかえし”が歌になる」
「ずるい」
「注に置くから」

 遼は黒板に“昼の滑り”を描き直した。橋脚直下の歩行帯は、人の歩幅“六歩”ごとに継ぎ目を置き、荷車の腰を揺らさない継ぎを採用。護衛は継ぎ目の頭に立ち、足の置き場を声で誘導する。
 ロックが笑う。「継ぎ目が詩の韻で、護衛が“朗読者”だな」
「朗読は短く。『踏め』『待て』『跨げ』」
 ガルドの副官が、朗読が得意だと分かり、旗と声の訓練は関所の“顔指数”に加点されることになった。関所の“顔”が光るほど、人は短く従う。従うことは、服従じゃない。合図だ。



 四日目の昼、黒板の前で一人の老婆が足を止めた。
 白い髪、腰は曲がり、手は細い。しかし目は黒板の字を追い、唇は数を数えている。
「夜は手紙、昼は荷。……昔の川も、そうだったよ」
 遼は振り返る。
「潮の満ち引きで、船が出る刻が決まってね。夜は人が歌って、昼は網を洗った。――順番を決めると、喧嘩が減る」
「順番は手順の親戚だ」と遼。
 老婆は黒板の端を軽く叩いた。「順番を歌にしておくれ。忘れるから」
 サラが頷く。短い詩が黒板の端に加わる。
 ――夜は息。昼は手。
 ――息が先で、手があと。
 ――手があとなら、足は揃う。
 詩は注。注は忘れを遅らせる。忘れが遅れれば、事故も遅れる。事故が遅れれば、避けられる。



 五日目の夜、橋脚の一本が、かすかに“鳴いた”。
 遼は《路標》の共鳴図を広げ、棒で音膜を薄く重ねる。音は浅く、帯は細い。細い帯は、地面の“息”が変われば切れる。
「……こいつは“眠り方”を思い出してる」
「獣が?」とロック。
「地脈が。夜は歌う。昼は眠る。――眠りの形を取り戻せば、夜の声は薄くなる」
 遼は橋脚の刻印に触れ、微細な溝に砂が詰まっているのを見つけた。砂は川が置いたものだ。砂は歌を“濁す”。濁すと、声は形を得る。
 彼は細い刷毛で溝を掃き、綿で吸い、湿り気をしめらせた布で軽く撫でた。
 音が変わる。
 低かった“うなり”が、少し高く、短く、軽くなる。
 サラが黒板に書く。
 ――橋脚清掃→共鳴帯前日比-〇・一。
 ロックが指笛を鳴らし、エイダが膝を伸ばさずに踵で拍を打つ。拍は短いが、続く。



 六日目の午後、ライオットが再び現れた。今度は笑っている。
「朝一の売り場で“噂”が金になった。黒板の“入札予定”が早く出るからだ。――“噂の鮮度”は侮れない」
「侮れないものは、手順にする」と遼。
「手順にされた“噂”は、噂じゃなくなる」
「“情報”になる」
 ライオットは肩をすくめ、「言葉遊びだな」と笑い、切手を十枚まとめて買った。まとめ買いは割引が効く。割引の告知は黒板の最下段に小さな字で書かれ、結び目の形で夜便と見分けがつく。
 灰手の会の若い衆が旗の振り手に混ざり、匂い旗の炊き方を覚え、いらぬ喧嘩を減らした。彼らは喧嘩がしたいわけではない。喧嘩を“仕事”にしていたのだ。仕事が旗に変われば、旗を振る。



 七日目の朝。
 黒板の上段に、太い字が増えた。
 ――試験終了→“時間割”採用(当面)
 ――夜:郵便のみ・切手・保全隊
 ――昼:貨物集中・歩行帯・継ぎ目朗読
 ――共鳴点:清掃・監視・図更新
 ――関所:抽出率八分維持・顔指数加点
 星が三つ、貼られた。
 関所の待機はゼロに近く、昼の渋滞は〇・一に圧縮、夜の事故はゼロのまま。
 老婆が再び現れ、黒板の詩を指でなぞった。
「歌は短い方が若い子が覚える」
 サラは頷く。「歌は短い方が、黒板が長持ちする」
 遼は笑って肩をすくめ、詩の下に小さく“注”と書いた。
 ――注:歌は忘れの速度を落とす。



 午後、関所の小屋でガルドが帳面を閉じた。
「成果報酬……笑えるな」
「笑ってるから、貼れる」と遼。
 教授が片眼鏡を外し、賢者が杖の鐘を鳴らさずに頷いた。「『遅延削減×税収増』に『事故ゼロ』の重みを係数でかけた。係数は星の数で微調整。――顔指数も効いている」
「顔で金が動くのは、気分が良い」とガルド。
「顔は数字の“器”だ」
 遼は関所の外に出て、橋脚の方角を見た。風は湿り、匂いは薄い。詩にするほどの匂いではない。詩にしない匂いが、道をきれいにする。



 夕暮れ。
 ライオットが黒板の前で立ち止まり、帽子を少し持ち上げた。
「夜便の“郵便のみ”――今は認める。だが、峠の向こうの“鉱山街”は昼が短い。冬はなおさらだ。――昼の滑りを増やせるのか」
「増やせる」と遼。「“二列桟”を三列にするのは危ない。――代わりに“交差点”を増やす」
「交差点?」
「朗読者を増やす。朗読は短く、旗は軽く、継ぎ目は韻。――人が増える。金が要る。……板の袋は今、重い」
 ライオットは微笑し、「袋を軽くするのは得意だ」と言って、今度は日中の“荷受け枠”を一つだけ買った。
「一つだけ?」
「希少性は武器だろう」
「学ぶのが早い」
「俺たちは“隣”だ。敵でいるのが楽な時期は終わった」
 彼は帽子を深く被り直し、旗の振り手の若い衆に顎で合図を送る。若い衆は笑って、旗の角度を二度だけ変えた。



 夜。
 遼は棒をしまい、橋脚の刻みを最後に撫でた。溝はきれいで、砂は薄い。
 エイダが杖に体を預けて立ち、目を細くして川を見ている。
「“地脈の乱れ”を疑って、橋脚を掃除して、時間割で音を外して。――あなたはいつも、見えないものに手を置くね」
「見えるようにしているだけだよ。見えるようにすれば、誰でも触れる。触れれば、手順になる。……詩は注に、数字は前に」
「注の詩は、あなたが書く?」
「サラが書く」
 サラは笑って、白墨の先を差し出した。「夜は息、昼は手。――覚えた?」
「覚えた。忘れたら、注を見る」
 三人が笑う。笑いは小さく、川の音に吸われ、星の冷たさに残る。

 遼は黒板に最後の一行を足した。
 ――“夜便を再開しろ”→夜は郵便のみ。貨物は昼。情報の鮮度=国力。
 字は短い。短い字の後ろに、長い道が折り畳まれている。道は紙のように薄く、しかし踏めば立ち上がる。

 遠く、峠の向こうから、鈍い金属音が一度響いた。地脈の向きが変わり、空の高みに薄い光の筋が走った。
 サラが眉を上げる。「……今のは?」
「予告だろう」とロック。「鉱山街の“冬用音路”が、動く前触れだ」
 エイダが杖を地に軽く打つ。「なら、次は“凍る道”だね」
 遼は頷き、胸の内側のT字に小さな点をひとつ打った。借方に“命”、貸方に“物語”。そして注に“地脈”。
「凍る前に、歌を決めよう。――次の章の黒板に」

 黒板の端に、サラの字が先に躍った。
 ――次章予告:冬の滑り、氷の朗読、橋の息。
 魔灯は眠り、刻印石は冷たく、旗は竿で細く揺れ、星は固く、風はやさしい。
 道は喰われない。理屈が“見える”限り。
 そして、“見える”を続ける限り。