朝の霧は舌の上で少ししょっぱかった。塩でも煙でもない、石粉が湿気を吸って柔らかくなった匂いだ。宿場――いまは“ハブ”――の北側に立つ関所は、かつての王都門と似た造りで、違うのは門扉の代わりに人が並ぶこと。門が閉じられないのは、道が細いからではない。手順が“瓶”になっていて、人の流れが栓に変わっているからだ。
列の先頭で、関所長ガルドが太い指を鳴らした。金の指輪が小さく鳴り、合図もなく列が止まる。止まるのは慣れだ。慣れは罪ではないが、罪に体温を貸す。
「待て。積み荷の目録が足りん」
「昨日と同じ荷だ」と商人が叫ぶ。声は高く、顔は赤い。声が高くなるのは、相手が遠ざかって見えるからだ。
「昨日は昨日だ」
ガルドは無表情のまま、手を開いて閉じた。掌の皺が銀の形で記憶している。列の後ろで誰かが咳をし、別の誰かが荷車の柄をきつく握った。握られた木は、汗の塩を覚える。
遼は列の横を歩き、関所の梁を見上げた。梁には古い焼印――関、通、許――が煤で黒く沈んでいる。黒は重みだが、重みは位置を間違えると重石になる。
「最大の渋滞源は、関所だ」と遼はエイダに言った。「なら、関所に“速度”を返す」
「速度なんて、返せるのかい」団長エイダは腰の帯を締め直しながら、片眉を上げた。髪は相変わらず煤で黒く、片膝には新しい布が巻かれている。半壊した団をもう一度縒り直した指が、今日も落ち着かずに動く。
「返せる。“手順の場所”を変えるだけで」
遼は板を二枚用意した。一枚は関所の外に、一枚は関所の内側に。二枚の間に人の流れがある。流れは細いが、流れがある。板は流れの記憶だ。
外の板の上部に、太く書く。
――通行券、魔印化(試験)
黒い字に、ざわめきが集まる。ガルドの目が細くなる。商人は首を伸ばし、飛脚は喉を鳴らし、護衛は腕組みを解く。
「通行券は紙じゃない。石にする。――刻印石」
遼は腰袋から小さな板状の石を取り出した。灰白色、角は丸く、中央に指の腹ほどの窪み。窪みは触れるためにあり、触れた痕が残る。石の縁には魔道工房の刻み――二度だけ光る魔灯と同じ、一次と二次の印。
「通過時刻、積載量、護衛数。この三つを“刻印石”に刻む。刻は“触れる”で起動、“押す”で確定、“引く”で差戻し。――関所の検閲は“後追い抽出”に切り替える。通るときは止めない。止めずに通し、後で抜き取って調べる」
静寂は短く、すぐに怒号が追いかけてきた。
「後で調べる? “今”見なきゃ意味がないだろう!」と誰かが言い、また別の誰かが「賄賂がいらなくなる」と呟き、呟きは笑いにならず、地面に落ちた。
ガルドが一歩前に出た。大きな腹の上で鎧のベルトが鳴り、指輪が光る。彼の目は濁っていない。濁っていないからこそ、厄介だ。
「待機をゼロに? だが、“見ない”で通すなど、我らの権威が……」
「“観る”と“見る”は違う」と遼。「権威は“観る”で守る。――“あとで観る”ために、“今は見ない”。抽出は偏りを嫌う。だから、魔印の“抽出印”を使う」
遼は刻印石の裏面を見せた。そこに薄い線の格子と、小さな窓。窓を指でなぞると、石の表に銀色の砂が集まり、点が三つ、四つ、任意の場所に浮かぶ。
「抽出用の乱数印だ。関所はこの印に従って、通過した記録から後追いで“抜く”。――“抜き方”は石が決める。人は抜かない」
ガルドの鼻が鳴った。「抜き方まで、石が……」
「人の意思と石の印――両方あれば、片方の過ちを片方が止める。君の手を信じるほど、石を置きたい。石を信じすぎないように、君の目を残したい」
遼は板に図を描いた。関所の前で止まっていた時間の帯――黒く太い帯――を、関所の後ろに薄く移す。薄さは“抽出率”。最初は一割。実績が出れば、下げる。下げすぎれば、上げる。
「待機はゼロへ。検閲は“後追い抽出”。――手順の位置を変えるだけで、流れは速くなる」
ガルドは唇を噛み、指輪を回し、最後に低く言った。「そんなことをしたら、関所の収入は……」
「賄賂のことなら、たしかに減る」と遼は乾いた笑いをひとつ。そして指でT字を空に描き、借方に“命”、貸方に“物語”、その下に小さく“仕組み”と書いたつもりで指を下ろした。「代わりに“成果報酬”を置く。――遅延削減×税収増。関所の取り分は、待機時間が減り、通行量が増え、税収が増えるほど上がる。賄賂より、長い」
「長いものは、今日の腹に入らない」
「今日の腹は、今日の椀で満たす。――“試験期間、三十日”。期間中は“基礎金”を保証する。基礎金+成果報酬。成果報酬は板に貼る。貼れば、誰でも読む。読むなら、誰でも考える」
ガルドの目がほんの少しだけ泳いだ。泳ぐ目は、海を思い出している。泳いだ後に戻る目は、岸を探している。
「成果報酬の算定は誰が?」
「監査院の賢者と商人学舎の教授。第三者だ。――君の部下にも計算に加わってもらう。その代わり、結果は板に貼る。『今月の遅延削減』『今月の税収増』『今月の関所取り分』。字は大きく、短く」
「……字は短く」
「詩は注に、数字は前に」
エイダが横で肩をすくめ、ロックが短剣の柄で柱を軽く叩き、サラが白墨を握り直した。ダルは胸の小札を一度撫で、関所の扉の縁に手を置いた。
「関所は“止める場所”から“通す場所”に変わる」と遼。「通して、後で抜く。抜いたら、出す。出したら、直す」
ガルドは長く吐息を吐き、最後にうなずいた。「三十日だ。三十日で、俺が笑えなければ、やめる」
「三十日で、誰かが笑う。――笑いが板に残る」
◆
運用初日。魔灯が朝の一度目の光を放ち、刻印石の箱が関所の卓の上に置かれた。石はひんやりとしていて、触る人の体温を好む。窪みは指を待ち、指は窪みに落ちる。落ちた指は、印を残す。
最初の通行券は、エイダの団の便だった。刻印石の表に軽く触れ、窪みに指を押し当てる。石が微かに光り、時刻が刻まれ、石の縁に三つの小さな点。点は護衛数、積載量、便種を示す。護衛数は二、積載量は“薬草と布”。便種は“定時”。
ガルドの副官が石を受け取り、裏面の抽出窓を撫でる。窓は静かだ。抽出なし。――通過。
列が動く。動いた列は止まらない。止まらない列は、人の背を伸ばす。伸びた背に、太陽が当たる。
遼は《路標》を視界の隅で起動し、ヒートマップの朝の緑を確認した。緑は細いが、細いものほど張力に強い。黄の帯は関所の外に薄く残り、赤は遠い。赤が遠い日は、研修に向いている。手順を変える日は、天気を選ぶ。
ガルドの眉間の皺はゆるみ、指輪は回るのをやめた。彼もまた、速度の快感を知る。
「……悪くない」
「悪くないものを、悪くないと言えるのが、改革の始まりだ」
遼は板の端に「待機時間:今朝ゼロ」と書き、横に小さな星を一つ貼った。星は小さい。だが、数で光る。
午前の終わり、抽出の第一回が行われた。石が箱から三つ、乱数印に従って選ばれる。選ばれた石の持ち主は、関所の横の小屋へ。小屋では監査院の賢者が杖を壁に立て、老教授が片眼鏡を光らせ、関所の書記が羽根ペンを整えている。検証は短い。荷の実物、護衛の人数、刻印の一致。嘘がないなら、嘘は生まれない。嘘が生まれるとき、人は視線を落とす。落とした視線は、板に映る。
「午後も、この調子で」と遼が言いかけたとき、関所の外から低い唸りが届いた。空の色は変わらない。変わらないのに、影が深くなる。地面が薄く震える。震えは短く、続いて、長い。
エイダが顔を上げる。「今か」
「今だ」
《路標》が視界の隅で激しく脈を打つ。ヒートマップの緑が細り、黄が濃くなり、赤が波のように押し寄せる。波は地中を走る。地表に出るのは、兆しだけ。――低温。甘香。石粉。今日は、そこに“乾いた布の焦げる匂い”が混じった。
「断路獣の群れ」
関所前の空気が割れた。叫び声、荷車の軋み、子どもの泣き声。泣き声は悪くない。泣き声が上がる場所が悪くない場所なら、そこは安全を思い出す。
「止めるな、通せ!」とガルドが叫んだ。彼は覚えている。今は通す。後で抜く。抜くには、通した記録がいる。
だが、人は揺れる。揺れる列は、交差点で詰まる。詰まる交差は、事故の形を思い出す。
「ロック!」遼は叫んだ。「交差点制圧。――四角に切る」
「了解」
関所前の広場には、四つの交差がある。宿場へ、森際へ、川沿いへ、峠へ。遼は棒の先で地に線を引き、四つの“交差点”に番号を振った。1、2、3、4。番号は言葉だ。言葉が短ければ、動作が速い。
「護衛を交差点に“固定”する。1番は“止める旗”。2番は“通せ”。3番は“待て”。4番は“回れ”。――旗は色で。赤、緑、黄、白。『止め』『通せ』『待て』『回れ』」
魔灯の紐に結んであった色紐を引き裂き、旗に結ぶ。旗は薄布でいい。薄布は風に応じ、風が教える。教えられた動作は、体の深いところへ降りる。
「サラ、板に“迂回路”を書く。――川沿いの浅瀬は、今は深い。森際の倒木は、昨日の雨で動いた。峠の手前の窪地は、乾きかけ。――《路標》の線を薄く見せる」
「見る、書く、叫ぶ。分かった」
サラは白墨を持ち、板の端に新しい線を素早く引いた。線は細いが、切れない。矢印は小さいが、鋭い。
「飛脚は“二列”。交差点に来たら『待て』の旗に耳を貸す。護衛は『止め』の旗に従い、人の流れに“空白”を入れる。空白は呼吸だ。呼吸がなければ、道は窒息する」
遼は棒を振り、低い青い音を地面に沈めた。音膜は薄く広がり、地面の“鳴り”を抑える。断路獣は音を好む。音を“整える”音は、獣の好みでない。
群れの最初の波が来た。地表の砂が立ち、波紋の縁が冷え、甘い匂いが襲い、石粉が鼻の奥を焼く。遼は右に五歩、左に二歩、後ろに一歩――合図を刻む。隊列は合図通りに薄くなり、薄くなった列が“止め”の旗の前で呼吸を取り戻す。
交差点1でロックが旗を上げ、彼の声が短く広場を走る。「止め! 通せ! 待て! 回れ!」
単語は足の筋肉に直行する。言葉の複数形は、混乱の誘いだ。短い言葉は、体に届く。
広場の端で、エイダが飛脚の肩を押し上げ、荷車の軸を蹴って向きを変え、叫んだ。「こっち、回れ!」
次の瞬間、地面が割れた。割れ目は口で、口の縁が灰で、灰の中に光が瞬いた。浅い。浅いが、足首には深い。
エイダの足が滑った。膝が捻られ、彼女の体が横に流れ、荷の角が肩を打つ。音は小さく、痛みは大きい。
「団長!」と誰かが叫び、遼の耳に血の音が流れ込む。《路標》の表示が一瞬だけ滲み、ヒートマップの線が揺れる。揺れる線は、嘘ではない。嘘ではない揺れは、現場だ。
「後退!」と遼。「二、四、前へ! 交差点2、3は“待て”を長く!」
ロックは旗を切り替え、ダルが関所の柵を開け、ガルドが自分で腕を巻き上げて“通せ”の合図を補強する。彼は賄賂の指輪で場を回した男だ。だが今、彼は旗を振る。権威は手順に居場所を変えられる。
遼はエイダに膝をついた。膝の布が紅く濡れ、肩の布が歪んでいる。彼女は歯を食いしばり、笑った。「……走る足が多いなら、私が休んでもいい」
「休め。走りは板がやる」
「板が走る?」
「“網”が走る」
遼は彼女の足の下に小さな板を滑り込ませ、固定用の皮ひもを結んだ。結び目は一度だけ。緩めやすい。緩めやすい結びは、痛みの逃げ場だ。
再び棒を振る。低い音が地面に落ち、断路獣の波が方向を変える。薄い膜は、獣の歯を滑らせる。滑った歯は、別の場所で噛む。別の場所――遼が描いた“迂回路”の外側。
「1番、二呼吸で“通せ”! 2番、“待て”。3番、“回れ”の旗、高く! 4番、逆流に注意!」
命令は短く、続く。続く命令は、習慣に変わる。習慣は速度だ。速度は生存だ。
混乱は波で来て、波で去る。最初の波が去り、二度目の波が浅く、三度目の波は遠い。遠い波は、音を嫌う。音が整うと、波は獣の内側へ戻る。
やがて、地面の震えが細くなり、砂が立たなくなり、甘い匂いが消え、石粉が鼻の奥から薄れた。広場の空気が落ち着くと、人々の呼吸が一斉に音を取り戻す。音は小さい。小さい音が増えると、静けさは厚くなる。
遼は棒を下ろし、額の汗を腕で拭った。エイダは息を整え、膝を伸ばすのを諦め、布を巻き直す。彼女は苦笑した。
「……私は、現場で転ぶのが似合うね」
「似合わない。似合うのは板の前の笑いだ」
ガルドが近づいた。顔に煤と汗が線を作り、指輪は土で曇った。「後追い抽出の石、抜くぞ」
「今か?」
「今だ。――『勤めた』を、板に貼りたい」
彼は箱から石を三つ抜いた。乱数印が示した“抜き”。選ばれた三つは、エイダの便、商人の便、灰手の会の便。選ばれた順に小屋へ入り、荷を見せ、護衛を数え、時刻を照らし合わせる。嘘はなかった。嘘がなくて、皆、驚いた。驚きは、自分への不信から生まれる。不信は、制度の位置を間違えていた証拠だ。
「午後の遅延は?」と遼。
サラが板を見て指を置いた。「――〇・一。“待機ゼロ”じゃない。でも、ほとんどゼロ」
「〇・一は、涙の量だ」とロック。「泣いたが、溺れてない」
ガルドは頷き、意外なほど柔らかい声で言った。「遅延削減が“数”になれば、俺の取り分も増えるわけだな」
「税収増と掛け算だ」と遼。「どちらか一方だけでは動かない。――掛け算は“網”の足し算だ」
彼は午後の終わりに板へ向かった。板の端に三行を書き、星をひとつ貼る。
――待機:ゼロ(朝)/〇・一(午後)
――抽出:三/三一致
――迂回路:有効(旗運用:良)
星は小さい。小さい星を、エイダが指先で撫でる。撫でる指の動きに、彼女の痛みに耐える呼吸が重なる。遼は彼女の肩に手を置き、短く言った。
「現場判断の責任は、俺が持つ」
「あなたが?」
「あなたではない。――“仕組み”を動かす判断は、仕組みの番人が背負う。今は、俺だ」
彼は胸の中のT字の貸方に“責任”と書き、借方に“命”の横へ小さな点を打った。点は涙の大きさに似ている。涙は悪くない。涙は塩だ。塩は保存を助ける。
◆
夜、関所の横の小屋で、ガルドは賢者と教授を相手に粗い帳面をめくっていた。彼の指先は思いのほか丁寧だ。丁寧な指は、賄賂の数を数える指でもある。数は裏切らない。裏切るのは位置だ。
「遅延削減×税収増……掛け算だけじゃ、俺の部下の“顔”が見えない」
「なら、“顔指数”を添えよう」と遼。「関所の『顔』――挨拶、説明、旗の振り方。短く評価して、星で貼る。星は小さいが、貼られると背筋が伸びる」
ガルドは鼻を鳴らし、最後に小さく笑った。「星は、面子になるのか」
「面子を数字にする。数字にした面子は、揉め事に負けない」
教授が片眼鏡を光らせ、「面子を定量化した詩」とつぶやいた。賢者は杖の先を床に軽く当て、笑いを堪えた。
遼はエイダの膝に新しい布を巻き、結び目を“また解ける”形にした。結び目の形は手順の形だ。ほどける結びは、戻る道だ。
「明日は、抽出率を一割から八分へ下げる。――今日の実績なら、下げられる。下げた分、夜の“旗の練習”に回す」
「旗の練習は夜に?」とロック。
「夜に。――夜の旗は星を覚える。星の位置を覚える旗は、昼の人に優しい」
サラが板に短い詩を足した。
――旗は色。
――色は息。
――息は道。
詩は注に。注は読みやすさを守る。遼は詩の横に小さく「注」と書き、白墨を置いた。
◆
翌日から、関所は呼吸の仕方を覚え始めた。列は長くならず、長くなる前に旗が動く。刻印石は冷たいまま温度を保ち、指の痕は増え続ける。石は忘れない。忘れない石に、人は甘えない。甘えるのは板と人の間だ。
灰手の会は、抽出の小屋に二度呼ばれた。二度とも一致。彼らは券を指で弾き、指で弾けない“星”をじっと見た。
「星、侮れないな」と男が言った。
「侮れないのは、星の『連続』だ」と遼。「続いた星は、詩より長い」
ガルドは“成果報酬”の算定表に自分の名を短く書いた。彼の名は震えない。震えのなさは、今まで“悪い”とされてきたが、位置を変えれば“安定”だ。安定は速度の姉妹だ。速度が姉なら、安定は妹だ。妹は姉の髪の乱れを直す。
遼は板の端に、行動の小さな箱を一つ足した。「現地迂回の“描き”。――現場指揮に権限」。箱の中に二行。
――現場で描いた線は、板に転記。
――転記印は“責任”の印。
彼は転記印を自分の掌で温め、印面を布で拭いた。印は冷やすにも温めるにも理由がいる。理由のない温度は、熱だ。熱は火事に似ていて、喜びにも似ている。喜びは、星の位置を変える。
◆
夕暮れ、魔灯が二度目の光を放つ頃、エイダが杖を突きながら板の前に来た。顔は少し青いが、目はいつもより明るい。
「関所の前で倒れるのは、詩のオチとしてはありがちだね」
「ありがちは、覚えやすい」と遼。「覚えやすいことは、役に立つ」
「役に立つオチなんて、詩人が怒る」
「詩人は注に行った」
「注で怒る」
ふたりは笑い、そして黙った。黙り方が似ているのは、数度の危機を一緒に潜ったからだ。危機の後は、静けさが重い。重い静けさは、板に吸わせる。
サラが走ってきて、遼の袖を引いた。「“峠”の報せ」
峠の向こうで、断路獣の群れが巣に戻るような動きを見せているという。戻る獣は、道を忘れ、匂いを濃くする。濃い匂いは、旗の色を曇らせる。
「峠ハブの“匂いの旗”、急ごう」と遼。「今夜は関所の旗の練習を早めに切り上げる。――ガルド」
関所長は即答した。「やる。俺の“成果報酬”は、峠の風にも乗る」
遼は胸の中のT字を撫でた。貸方に“物語”、その横に“仕組み”、さらに小さく“旗”。借方に“命”、隣に“責任”。――二本の線の間で、指がすべらないように。
「覚えておこう」と彼は小さく言った。「通す、抜く、出す、直す。――止めるな、止まるな」
関所の灯は淡く、均一で、予定通り。刻印石は箱の中で静かに息をし、旗は竿で眠り、星は板の上で硬く光る。硬い光は柔らかい背中を守り、柔らかい背中は遠くの峠へ向かう準備をする。
エイダは杖をついたまま、板の星を指で弾いた。星は鳴らない。鳴らないのに、音がした気がした。彼女は笑い、息を一つ吐いた。
「……三十日の“祝う”、早めてもいい」
「早めよう」と遼。「祝うのは結果じゃない。続けた手順だ」
彼は板に、今日の最後の一行を書いた。
――通行券、魔印化:稼働。待機ゼロ。抽出三。迂回、旗、機能。負傷一、責任:転記済。
字は短い。短い字の隣で、魔灯が一度だけ揺れた。揺れは風ではない。誰かの胸の内の、網の張力だ。
夜が落ちる。関所は眠る。眠るが、網は眠らない。網は張っている。張っている網の上で、明日の足音が小さく並び始める。遼は《路標》を落とし、棒を壁に立てかけ、印を掌で確かめ、息を整えた。
――詩は注に、数字は前に。
――関所は通し、石は抜き、板は覚える。
――責任は背に、星は壁に。
そして、峠の風が、関所の灯を一瞬だけ揺らした。甘い匂いは薄く、石粉の匂いは遠い。遼は目を閉じ、次の線を心の中で引いた。細い線は、長い道を怖がらない。長い道は、細い線を許す。許し合う場所に、明日の網が掛かる。
列の先頭で、関所長ガルドが太い指を鳴らした。金の指輪が小さく鳴り、合図もなく列が止まる。止まるのは慣れだ。慣れは罪ではないが、罪に体温を貸す。
「待て。積み荷の目録が足りん」
「昨日と同じ荷だ」と商人が叫ぶ。声は高く、顔は赤い。声が高くなるのは、相手が遠ざかって見えるからだ。
「昨日は昨日だ」
ガルドは無表情のまま、手を開いて閉じた。掌の皺が銀の形で記憶している。列の後ろで誰かが咳をし、別の誰かが荷車の柄をきつく握った。握られた木は、汗の塩を覚える。
遼は列の横を歩き、関所の梁を見上げた。梁には古い焼印――関、通、許――が煤で黒く沈んでいる。黒は重みだが、重みは位置を間違えると重石になる。
「最大の渋滞源は、関所だ」と遼はエイダに言った。「なら、関所に“速度”を返す」
「速度なんて、返せるのかい」団長エイダは腰の帯を締め直しながら、片眉を上げた。髪は相変わらず煤で黒く、片膝には新しい布が巻かれている。半壊した団をもう一度縒り直した指が、今日も落ち着かずに動く。
「返せる。“手順の場所”を変えるだけで」
遼は板を二枚用意した。一枚は関所の外に、一枚は関所の内側に。二枚の間に人の流れがある。流れは細いが、流れがある。板は流れの記憶だ。
外の板の上部に、太く書く。
――通行券、魔印化(試験)
黒い字に、ざわめきが集まる。ガルドの目が細くなる。商人は首を伸ばし、飛脚は喉を鳴らし、護衛は腕組みを解く。
「通行券は紙じゃない。石にする。――刻印石」
遼は腰袋から小さな板状の石を取り出した。灰白色、角は丸く、中央に指の腹ほどの窪み。窪みは触れるためにあり、触れた痕が残る。石の縁には魔道工房の刻み――二度だけ光る魔灯と同じ、一次と二次の印。
「通過時刻、積載量、護衛数。この三つを“刻印石”に刻む。刻は“触れる”で起動、“押す”で確定、“引く”で差戻し。――関所の検閲は“後追い抽出”に切り替える。通るときは止めない。止めずに通し、後で抜き取って調べる」
静寂は短く、すぐに怒号が追いかけてきた。
「後で調べる? “今”見なきゃ意味がないだろう!」と誰かが言い、また別の誰かが「賄賂がいらなくなる」と呟き、呟きは笑いにならず、地面に落ちた。
ガルドが一歩前に出た。大きな腹の上で鎧のベルトが鳴り、指輪が光る。彼の目は濁っていない。濁っていないからこそ、厄介だ。
「待機をゼロに? だが、“見ない”で通すなど、我らの権威が……」
「“観る”と“見る”は違う」と遼。「権威は“観る”で守る。――“あとで観る”ために、“今は見ない”。抽出は偏りを嫌う。だから、魔印の“抽出印”を使う」
遼は刻印石の裏面を見せた。そこに薄い線の格子と、小さな窓。窓を指でなぞると、石の表に銀色の砂が集まり、点が三つ、四つ、任意の場所に浮かぶ。
「抽出用の乱数印だ。関所はこの印に従って、通過した記録から後追いで“抜く”。――“抜き方”は石が決める。人は抜かない」
ガルドの鼻が鳴った。「抜き方まで、石が……」
「人の意思と石の印――両方あれば、片方の過ちを片方が止める。君の手を信じるほど、石を置きたい。石を信じすぎないように、君の目を残したい」
遼は板に図を描いた。関所の前で止まっていた時間の帯――黒く太い帯――を、関所の後ろに薄く移す。薄さは“抽出率”。最初は一割。実績が出れば、下げる。下げすぎれば、上げる。
「待機はゼロへ。検閲は“後追い抽出”。――手順の位置を変えるだけで、流れは速くなる」
ガルドは唇を噛み、指輪を回し、最後に低く言った。「そんなことをしたら、関所の収入は……」
「賄賂のことなら、たしかに減る」と遼は乾いた笑いをひとつ。そして指でT字を空に描き、借方に“命”、貸方に“物語”、その下に小さく“仕組み”と書いたつもりで指を下ろした。「代わりに“成果報酬”を置く。――遅延削減×税収増。関所の取り分は、待機時間が減り、通行量が増え、税収が増えるほど上がる。賄賂より、長い」
「長いものは、今日の腹に入らない」
「今日の腹は、今日の椀で満たす。――“試験期間、三十日”。期間中は“基礎金”を保証する。基礎金+成果報酬。成果報酬は板に貼る。貼れば、誰でも読む。読むなら、誰でも考える」
ガルドの目がほんの少しだけ泳いだ。泳ぐ目は、海を思い出している。泳いだ後に戻る目は、岸を探している。
「成果報酬の算定は誰が?」
「監査院の賢者と商人学舎の教授。第三者だ。――君の部下にも計算に加わってもらう。その代わり、結果は板に貼る。『今月の遅延削減』『今月の税収増』『今月の関所取り分』。字は大きく、短く」
「……字は短く」
「詩は注に、数字は前に」
エイダが横で肩をすくめ、ロックが短剣の柄で柱を軽く叩き、サラが白墨を握り直した。ダルは胸の小札を一度撫で、関所の扉の縁に手を置いた。
「関所は“止める場所”から“通す場所”に変わる」と遼。「通して、後で抜く。抜いたら、出す。出したら、直す」
ガルドは長く吐息を吐き、最後にうなずいた。「三十日だ。三十日で、俺が笑えなければ、やめる」
「三十日で、誰かが笑う。――笑いが板に残る」
◆
運用初日。魔灯が朝の一度目の光を放ち、刻印石の箱が関所の卓の上に置かれた。石はひんやりとしていて、触る人の体温を好む。窪みは指を待ち、指は窪みに落ちる。落ちた指は、印を残す。
最初の通行券は、エイダの団の便だった。刻印石の表に軽く触れ、窪みに指を押し当てる。石が微かに光り、時刻が刻まれ、石の縁に三つの小さな点。点は護衛数、積載量、便種を示す。護衛数は二、積載量は“薬草と布”。便種は“定時”。
ガルドの副官が石を受け取り、裏面の抽出窓を撫でる。窓は静かだ。抽出なし。――通過。
列が動く。動いた列は止まらない。止まらない列は、人の背を伸ばす。伸びた背に、太陽が当たる。
遼は《路標》を視界の隅で起動し、ヒートマップの朝の緑を確認した。緑は細いが、細いものほど張力に強い。黄の帯は関所の外に薄く残り、赤は遠い。赤が遠い日は、研修に向いている。手順を変える日は、天気を選ぶ。
ガルドの眉間の皺はゆるみ、指輪は回るのをやめた。彼もまた、速度の快感を知る。
「……悪くない」
「悪くないものを、悪くないと言えるのが、改革の始まりだ」
遼は板の端に「待機時間:今朝ゼロ」と書き、横に小さな星を一つ貼った。星は小さい。だが、数で光る。
午前の終わり、抽出の第一回が行われた。石が箱から三つ、乱数印に従って選ばれる。選ばれた石の持ち主は、関所の横の小屋へ。小屋では監査院の賢者が杖を壁に立て、老教授が片眼鏡を光らせ、関所の書記が羽根ペンを整えている。検証は短い。荷の実物、護衛の人数、刻印の一致。嘘がないなら、嘘は生まれない。嘘が生まれるとき、人は視線を落とす。落とした視線は、板に映る。
「午後も、この調子で」と遼が言いかけたとき、関所の外から低い唸りが届いた。空の色は変わらない。変わらないのに、影が深くなる。地面が薄く震える。震えは短く、続いて、長い。
エイダが顔を上げる。「今か」
「今だ」
《路標》が視界の隅で激しく脈を打つ。ヒートマップの緑が細り、黄が濃くなり、赤が波のように押し寄せる。波は地中を走る。地表に出るのは、兆しだけ。――低温。甘香。石粉。今日は、そこに“乾いた布の焦げる匂い”が混じった。
「断路獣の群れ」
関所前の空気が割れた。叫び声、荷車の軋み、子どもの泣き声。泣き声は悪くない。泣き声が上がる場所が悪くない場所なら、そこは安全を思い出す。
「止めるな、通せ!」とガルドが叫んだ。彼は覚えている。今は通す。後で抜く。抜くには、通した記録がいる。
だが、人は揺れる。揺れる列は、交差点で詰まる。詰まる交差は、事故の形を思い出す。
「ロック!」遼は叫んだ。「交差点制圧。――四角に切る」
「了解」
関所前の広場には、四つの交差がある。宿場へ、森際へ、川沿いへ、峠へ。遼は棒の先で地に線を引き、四つの“交差点”に番号を振った。1、2、3、4。番号は言葉だ。言葉が短ければ、動作が速い。
「護衛を交差点に“固定”する。1番は“止める旗”。2番は“通せ”。3番は“待て”。4番は“回れ”。――旗は色で。赤、緑、黄、白。『止め』『通せ』『待て』『回れ』」
魔灯の紐に結んであった色紐を引き裂き、旗に結ぶ。旗は薄布でいい。薄布は風に応じ、風が教える。教えられた動作は、体の深いところへ降りる。
「サラ、板に“迂回路”を書く。――川沿いの浅瀬は、今は深い。森際の倒木は、昨日の雨で動いた。峠の手前の窪地は、乾きかけ。――《路標》の線を薄く見せる」
「見る、書く、叫ぶ。分かった」
サラは白墨を持ち、板の端に新しい線を素早く引いた。線は細いが、切れない。矢印は小さいが、鋭い。
「飛脚は“二列”。交差点に来たら『待て』の旗に耳を貸す。護衛は『止め』の旗に従い、人の流れに“空白”を入れる。空白は呼吸だ。呼吸がなければ、道は窒息する」
遼は棒を振り、低い青い音を地面に沈めた。音膜は薄く広がり、地面の“鳴り”を抑える。断路獣は音を好む。音を“整える”音は、獣の好みでない。
群れの最初の波が来た。地表の砂が立ち、波紋の縁が冷え、甘い匂いが襲い、石粉が鼻の奥を焼く。遼は右に五歩、左に二歩、後ろに一歩――合図を刻む。隊列は合図通りに薄くなり、薄くなった列が“止め”の旗の前で呼吸を取り戻す。
交差点1でロックが旗を上げ、彼の声が短く広場を走る。「止め! 通せ! 待て! 回れ!」
単語は足の筋肉に直行する。言葉の複数形は、混乱の誘いだ。短い言葉は、体に届く。
広場の端で、エイダが飛脚の肩を押し上げ、荷車の軸を蹴って向きを変え、叫んだ。「こっち、回れ!」
次の瞬間、地面が割れた。割れ目は口で、口の縁が灰で、灰の中に光が瞬いた。浅い。浅いが、足首には深い。
エイダの足が滑った。膝が捻られ、彼女の体が横に流れ、荷の角が肩を打つ。音は小さく、痛みは大きい。
「団長!」と誰かが叫び、遼の耳に血の音が流れ込む。《路標》の表示が一瞬だけ滲み、ヒートマップの線が揺れる。揺れる線は、嘘ではない。嘘ではない揺れは、現場だ。
「後退!」と遼。「二、四、前へ! 交差点2、3は“待て”を長く!」
ロックは旗を切り替え、ダルが関所の柵を開け、ガルドが自分で腕を巻き上げて“通せ”の合図を補強する。彼は賄賂の指輪で場を回した男だ。だが今、彼は旗を振る。権威は手順に居場所を変えられる。
遼はエイダに膝をついた。膝の布が紅く濡れ、肩の布が歪んでいる。彼女は歯を食いしばり、笑った。「……走る足が多いなら、私が休んでもいい」
「休め。走りは板がやる」
「板が走る?」
「“網”が走る」
遼は彼女の足の下に小さな板を滑り込ませ、固定用の皮ひもを結んだ。結び目は一度だけ。緩めやすい。緩めやすい結びは、痛みの逃げ場だ。
再び棒を振る。低い音が地面に落ち、断路獣の波が方向を変える。薄い膜は、獣の歯を滑らせる。滑った歯は、別の場所で噛む。別の場所――遼が描いた“迂回路”の外側。
「1番、二呼吸で“通せ”! 2番、“待て”。3番、“回れ”の旗、高く! 4番、逆流に注意!」
命令は短く、続く。続く命令は、習慣に変わる。習慣は速度だ。速度は生存だ。
混乱は波で来て、波で去る。最初の波が去り、二度目の波が浅く、三度目の波は遠い。遠い波は、音を嫌う。音が整うと、波は獣の内側へ戻る。
やがて、地面の震えが細くなり、砂が立たなくなり、甘い匂いが消え、石粉が鼻の奥から薄れた。広場の空気が落ち着くと、人々の呼吸が一斉に音を取り戻す。音は小さい。小さい音が増えると、静けさは厚くなる。
遼は棒を下ろし、額の汗を腕で拭った。エイダは息を整え、膝を伸ばすのを諦め、布を巻き直す。彼女は苦笑した。
「……私は、現場で転ぶのが似合うね」
「似合わない。似合うのは板の前の笑いだ」
ガルドが近づいた。顔に煤と汗が線を作り、指輪は土で曇った。「後追い抽出の石、抜くぞ」
「今か?」
「今だ。――『勤めた』を、板に貼りたい」
彼は箱から石を三つ抜いた。乱数印が示した“抜き”。選ばれた三つは、エイダの便、商人の便、灰手の会の便。選ばれた順に小屋へ入り、荷を見せ、護衛を数え、時刻を照らし合わせる。嘘はなかった。嘘がなくて、皆、驚いた。驚きは、自分への不信から生まれる。不信は、制度の位置を間違えていた証拠だ。
「午後の遅延は?」と遼。
サラが板を見て指を置いた。「――〇・一。“待機ゼロ”じゃない。でも、ほとんどゼロ」
「〇・一は、涙の量だ」とロック。「泣いたが、溺れてない」
ガルドは頷き、意外なほど柔らかい声で言った。「遅延削減が“数”になれば、俺の取り分も増えるわけだな」
「税収増と掛け算だ」と遼。「どちらか一方だけでは動かない。――掛け算は“網”の足し算だ」
彼は午後の終わりに板へ向かった。板の端に三行を書き、星をひとつ貼る。
――待機:ゼロ(朝)/〇・一(午後)
――抽出:三/三一致
――迂回路:有効(旗運用:良)
星は小さい。小さい星を、エイダが指先で撫でる。撫でる指の動きに、彼女の痛みに耐える呼吸が重なる。遼は彼女の肩に手を置き、短く言った。
「現場判断の責任は、俺が持つ」
「あなたが?」
「あなたではない。――“仕組み”を動かす判断は、仕組みの番人が背負う。今は、俺だ」
彼は胸の中のT字の貸方に“責任”と書き、借方に“命”の横へ小さな点を打った。点は涙の大きさに似ている。涙は悪くない。涙は塩だ。塩は保存を助ける。
◆
夜、関所の横の小屋で、ガルドは賢者と教授を相手に粗い帳面をめくっていた。彼の指先は思いのほか丁寧だ。丁寧な指は、賄賂の数を数える指でもある。数は裏切らない。裏切るのは位置だ。
「遅延削減×税収増……掛け算だけじゃ、俺の部下の“顔”が見えない」
「なら、“顔指数”を添えよう」と遼。「関所の『顔』――挨拶、説明、旗の振り方。短く評価して、星で貼る。星は小さいが、貼られると背筋が伸びる」
ガルドは鼻を鳴らし、最後に小さく笑った。「星は、面子になるのか」
「面子を数字にする。数字にした面子は、揉め事に負けない」
教授が片眼鏡を光らせ、「面子を定量化した詩」とつぶやいた。賢者は杖の先を床に軽く当て、笑いを堪えた。
遼はエイダの膝に新しい布を巻き、結び目を“また解ける”形にした。結び目の形は手順の形だ。ほどける結びは、戻る道だ。
「明日は、抽出率を一割から八分へ下げる。――今日の実績なら、下げられる。下げた分、夜の“旗の練習”に回す」
「旗の練習は夜に?」とロック。
「夜に。――夜の旗は星を覚える。星の位置を覚える旗は、昼の人に優しい」
サラが板に短い詩を足した。
――旗は色。
――色は息。
――息は道。
詩は注に。注は読みやすさを守る。遼は詩の横に小さく「注」と書き、白墨を置いた。
◆
翌日から、関所は呼吸の仕方を覚え始めた。列は長くならず、長くなる前に旗が動く。刻印石は冷たいまま温度を保ち、指の痕は増え続ける。石は忘れない。忘れない石に、人は甘えない。甘えるのは板と人の間だ。
灰手の会は、抽出の小屋に二度呼ばれた。二度とも一致。彼らは券を指で弾き、指で弾けない“星”をじっと見た。
「星、侮れないな」と男が言った。
「侮れないのは、星の『連続』だ」と遼。「続いた星は、詩より長い」
ガルドは“成果報酬”の算定表に自分の名を短く書いた。彼の名は震えない。震えのなさは、今まで“悪い”とされてきたが、位置を変えれば“安定”だ。安定は速度の姉妹だ。速度が姉なら、安定は妹だ。妹は姉の髪の乱れを直す。
遼は板の端に、行動の小さな箱を一つ足した。「現地迂回の“描き”。――現場指揮に権限」。箱の中に二行。
――現場で描いた線は、板に転記。
――転記印は“責任”の印。
彼は転記印を自分の掌で温め、印面を布で拭いた。印は冷やすにも温めるにも理由がいる。理由のない温度は、熱だ。熱は火事に似ていて、喜びにも似ている。喜びは、星の位置を変える。
◆
夕暮れ、魔灯が二度目の光を放つ頃、エイダが杖を突きながら板の前に来た。顔は少し青いが、目はいつもより明るい。
「関所の前で倒れるのは、詩のオチとしてはありがちだね」
「ありがちは、覚えやすい」と遼。「覚えやすいことは、役に立つ」
「役に立つオチなんて、詩人が怒る」
「詩人は注に行った」
「注で怒る」
ふたりは笑い、そして黙った。黙り方が似ているのは、数度の危機を一緒に潜ったからだ。危機の後は、静けさが重い。重い静けさは、板に吸わせる。
サラが走ってきて、遼の袖を引いた。「“峠”の報せ」
峠の向こうで、断路獣の群れが巣に戻るような動きを見せているという。戻る獣は、道を忘れ、匂いを濃くする。濃い匂いは、旗の色を曇らせる。
「峠ハブの“匂いの旗”、急ごう」と遼。「今夜は関所の旗の練習を早めに切り上げる。――ガルド」
関所長は即答した。「やる。俺の“成果報酬”は、峠の風にも乗る」
遼は胸の中のT字を撫でた。貸方に“物語”、その横に“仕組み”、さらに小さく“旗”。借方に“命”、隣に“責任”。――二本の線の間で、指がすべらないように。
「覚えておこう」と彼は小さく言った。「通す、抜く、出す、直す。――止めるな、止まるな」
関所の灯は淡く、均一で、予定通り。刻印石は箱の中で静かに息をし、旗は竿で眠り、星は板の上で硬く光る。硬い光は柔らかい背中を守り、柔らかい背中は遠くの峠へ向かう準備をする。
エイダは杖をついたまま、板の星を指で弾いた。星は鳴らない。鳴らないのに、音がした気がした。彼女は笑い、息を一つ吐いた。
「……三十日の“祝う”、早めてもいい」
「早めよう」と遼。「祝うのは結果じゃない。続けた手順だ」
彼は板に、今日の最後の一行を書いた。
――通行券、魔印化:稼働。待機ゼロ。抽出三。迂回、旗、機能。負傷一、責任:転記済。
字は短い。短い字の隣で、魔灯が一度だけ揺れた。揺れは風ではない。誰かの胸の内の、網の張力だ。
夜が落ちる。関所は眠る。眠るが、網は眠らない。網は張っている。張っている網の上で、明日の足音が小さく並び始める。遼は《路標》を落とし、棒を壁に立てかけ、印を掌で確かめ、息を整えた。
――詩は注に、数字は前に。
――関所は通し、石は抜き、板は覚える。
――責任は背に、星は壁に。
そして、峠の風が、関所の灯を一瞬だけ揺らした。甘い匂いは薄く、石粉の匂いは遠い。遼は目を閉じ、次の線を心の中で引いた。細い線は、長い道を怖がらない。長い道は、細い線を許す。許し合う場所に、明日の網が掛かる。



