朝の風は、焼け跡の匂いではなく、濡れた木と穀物の匂いを運んできた。宿場の前に立てた黒い板は、昨夜の白墨を薄く吸い込み、指で触ると少し温い。遼は板の角を撫で、そこに新しい題を記した。
――宿場ハブ化計画(試験)
字に人が集まる。エイダは腕を組み、ロックは短剣の柄を軽く叩き、サラは脇で白墨を握りしめている。関所のダルは「検数刻」の小札束を胸ポケットに戻し、ため息を一つ、置いた。
「道はまだ細いけど、細い糸は縒(よ)れば太くなる。宿場を“縒る手”にします」
遼は板に三つの絵を描いた。四角い木枠の中に、丸い樽と、四角い台、そして背の高い灯。
「ハブの標準装備。給水樽、修繕台、魔灯です」
「魔灯?」とサラ。
「火じゃない灯。魔道工房の“二度だけ光る灯”を転用する。夜明け前と夕暮れ前、点灯。薄明かりで荷の判別と書類の記入ができる程度の明るさに抑える。灯に頼る時間を決めると、走る時間も揃えられる」
給水樽は、飛脚の肺と脚を守る。修繕台は、荷車の車輪と靴底を守る。魔灯は、帳面の字と予約の印を守る。守るものが揃えば、滞在に意味が生まれる。
「泊地の品質を揃えます。……この一言で軽く聞こえるけど、揃ってないものを揃えるのが一番の仕事だ。だから、滞在コストを可視化する」
黒板に新しい欄。
――滞在コスト掲示(宿泊/椀一杯/修繕/灯)
その右に、短く「目安」。さらに端に、小さな箱。「実績」。
「“目安”と“実績”を並べる。差が広がるところには説明を。説明が増えるところは、値段ではなく手順の見直しを。……言い訳と説明の境目は短さで決める」
周囲にさざめき。宿場の主が半歩前に出て、頷く。「同じ椀で、同じ値段で、同じ味。できるかい?」
「同じ味は詩の話。同じ“量”はできる。同じ“塩味”もできる。魔灯の下で、匙の形を揃えよう」
笑いが一つ、二つ。笑いの後には、きまって不安が来る。
「護衛の報酬はどうする」とロック。彼は笑っていない。笑わない顔は、良い質問をする顔だ。
「距離×危険度×時間で明文化します」
遼は板の下段に式を書いた。距=里数、危=ハザード指数、時=拘束時間(最小単位:半刻)。危険度は《路標》のヒートマップを切り出して数値に変える。赤は3、黄は2、緑は1。夜は+1の補正、明け方は0。
「たとえば、宿場から森際まで一里、黄。夜の二刻拘束――なら、報酬は一×二×四=八。基準貨で“八”。小銀換算で“〇・八”。」
「黄が赤に変わったら?」とエイダ。
「危険は歌に変わる。数字だけで動かない。現場判断で“危険度上振れ報酬”を+二まで付けられるようにする。付けたら、翌朝、板に理由を三語で貼る」
板の脇で、ロックが頷く。頷くとき、人は胸のどこかが軽く鳴る。
「そして、指名予約を可能にします。護衛も飛脚も“指名”を受け、受けた側が断る権利も持つ」
「“指名”は諍いの種になるよ」と古参飛脚がひとり、渋い顔をした。「仲間外れの匂いがする」
「仲間外れの匂いを“手順”の香で消す。予約は板を介す。前金は板の“袋”に入れて紐で結ぶ。結び目の形で便種と距離が分かるようにする。“断った理由”も三語で書く。“疲労”“装備不備”“危険過大”。理由が濁るときは、板の“調停欄”に回す」
遼は板の端に小さな袋を打ち付け、試しに紐を二度違う結びで結んだ。片方は二回巻いて一回ひねる、もう片方は三回巻いて十字に。
「結び目が言葉になる。遠目に分かる言葉だ」
「……あたしら古参の足が遅いのは、結び目で隠せる?」と別の飛脚が茶化す。笑いの波。遼は笑って頷く。
「試験運用に“時限契約”をつける。三十日。途中でやめたければ、やめていい。標準装備の台や樽を使うなら、“借り方の札”にサインを。返すときは借りた人と別の人がサインを。二重サインは面倒だけど、耳は二つ、目も二つだ」
「賛成だ」とエイダ。声は低いが、芯が通っている。「半壊した団をもう一度組み直すには、置くところと戻るところがいる。宿場がそれになるなら、やる」
古参の何人かは腕を組んだまま目を伏せた。人は怖いとき、足ではなく視線を閉じる。遼は押さない。押す前に、置く。
「時限契約だ。三十日で一度、板の前で“祝う”。祝うのは結果じゃない。続けた手順を祝う」
◆
昼過ぎ、宿場の外側で、別の動きが起きた。
盗賊ギルド――“灰手(はいで)の会”。灰のように、誰の袖にも、どの荷にも付着し、払うと舞い上がる。舞い上がると、別の場所で落ちる。落ち方は知られていて、嫌われる。だが、嫌われるほど強い匂いはない。
彼らは圧をかけてきた。宿場の裏手に三人、裏口に二人。前に出るのは一人。飾りの少ない灰色の外套。顔は綺麗だが、目の力は悪くない。
「路は路の者が決める。宿場に色を付けられては困る」
遼は板の前に立ったまま、相手の声の高さで返した。「色は付けない。形を揃える」
「護衛の報酬、指名、予約……それは“買い”。買うということは、売るということだ。――おれたちは“買う”。便を」
ギルドが金で“便”を買い占め、荷が動かないようにする――よくある。希少なものは高く売れる。便が希少なら、人は便を買う。
遼は頷いた。「希少性は、武器だ」
ギルドの首領格の目が細くなる。「分かっているなら話は速い」
「便の“希少性”を武器にするのは、こちらも同じです。――初回限定の“荷受け枠”を設けます」
ざわめき。ギルドの背中にも、飛脚の背中にも。
「“荷受け枠”?」
「定時便一本につき、荷受け枠を三つだけ。初回限定。前金で買ってもらう。買った枠はその便でしか使えない。払い戻しは“券”で。券は定時便にしか使えず、転売禁止。――買えば買うほど、“現金”が板の袋に溜まって、“券”があなた方の手元に残る。券は便でしか息ができない」
ギルドの男が笑った。「ひどい」
「希少性はひどい。だから、ひどくしすぎないために“上限”をつける。ギルドの“買い”は一便一枠まで。残り二枠は商人の“名札制”。先着と抽選を混ぜる。抽選の鐘は魔灯の点灯に合わせる」
「それでは、うちの“面子”が立たない」
「面子は数字で支える。――あなた方が買った枠の荷が“無事”に着けば、黒板の“OTIF(オンタイム・インフル)”に星をつける。遅れれば、星が剥がれる。星は小さいけど、数で光る。光らなければ、あなた方の買いは“損”だ」
「OTIF?」とロックが首を傾げる。
「“予定通りに、全部”。――遅れず、欠けず。星はひとつずつ」
ギルドの背後で、ざわ、と衣擦れ。彼らは金で語るが、人の顔を見る。星は顔を照らし、照らされた顔は、次に金を持ってくる手だ。
灰手の会は短く協議し、頷いた。「買う。枠を」
「初回限定価格は、やや高い。――希少性の“初日効果”を使う。二巡目には落ち着く。落ち着いた後の価格は板に貼る」
遼は板の袋に金を受け取り、紐で結び、結び目の形を変えた。初回は二重、次回は一重。誰の目にも違いが分かる。
彼は続ける。「“券”は現金に戻らない。――が、例外が一つ。あなた方が“護衛”に協力した場合、その便の券は現金化できる。条件は板に書く。魔灯の下で、字は嘘を嫌う」
ギルドの男が息を飲む音がした。賄賂ではなく、協力を現金にする手。彼らは“敵”ではない。路の外側にいる“隣”。隣が手を伸ばすなら、掴む前に条件を決めておく。
「面子は、協力で立つ」と遼。「そして、現金は板の袋に吸い上がる。袋の金は、魔灯と樽と台に変わる。あなた方が買った枠は、あなた方の道を広くする。――悪くない交換だ」
ギルドは舌打ちをしなかった。舌打ちをしたいとき、人は唇を合わせる。合わせた唇の隙間から、短い笑いが洩れた。「初回限定、買わせてもらう」
◆
午後、遼は宿場の内側に手を入れ始めた。
給水樽は三つ。井戸からの引き上げと注ぎを分け、樽の側面に三本の線――“満水/標準/予備”。樽は飲み水だけのものと、洗いものに回すものを結界の紐で区別した。紐は青と金。青は“飲む”、金は“洗う”。紐は色に言葉を宿す。色は行動を早くする。
修繕台には工具を固定した。槌、釘抜き、皮ひも、補修用の麻布。工具は借り出し制で、名を刻む小札を差し替える。紛失は罪ではない。だが、返さないのは罪だ。
魔灯は、軒先の柱に二つ。灯は二度だけ光り、二度目の光の後は眠る。眠る灯に人は手を出しにくい。眠ったものに触れるのは、祈りの領分だ。
板の右下に新しい欄を足した。「滞在指数」。宿泊+椀+修繕+灯の合計から“基準”を引いたもの。指数が0なら目安通り。+なら高い、-なら安い。出しっぱなしにしない。毎夕刻の鐘の後に一回、更新する。更新の端に、サラの字でメモがつく。
――今夜は隣町の客が多い。+〇・二。明日は鍋を一つ増やす。
――修繕台に行列。皮ひもが残り少ない。入荷予定を書き出し板に。
――魔灯の柱に子が手を伸ばす。紐を低く結び直す。
文字は短い。短いが、動作を促す。促された動作の数が、宿場の“息”になる。
◆
夕方、板の前に古参飛脚たちが戻ってきた。汗で髪が額に貼り付き、目は疲れ、足取りは重い。だが、板を見上げた首の角度は真っ直ぐだった。
「時限契約、サインする」と一人。
「三十日なら、飲み込める」と別の一人。
「……結び目の練習は、いまからか?」と笑いが起きた。
遼は用意した紙片に契約の条項を短く書く。借りるもの、返すときの二重サイン、途中離脱の手順、板の“調停欄”の使い方。そして最後に一行。
――“祝う”は義務ではないが、習慣。
エイダが横から紙を覗き込み、「義務じゃない祝祭ほど強いものはない」と言った。ライエルなら詩にするところだ。彼はいま、別の宿場に“標準装備の歌”を書きに行っている。
指名予約も動き始めた。護衛の名簿に、ロックの名の横に、短い条件が書かれる。
――森際まで。夜は二刻まで。左からの突風に弱い。
弱さを表明しても、指名は減らなかった。むしろ、指名の文は具体的になった。
――荷は薬草。振動に弱い。左の突風が来ない時間に出たい。
板は人の弱さと強さを揃える場だ。揃えると、合う。合うと、速い。速いと、安い。安いと、続く。
◆
日が落ち、魔灯が二度目の光を放った時、広場の別の板――“荷受け枠”の前に群れができた。灰手の会の男が一歩先に立ち、商人たちが後ろに並ぶ。鐘が一度、鳴る。抽選の札が箱に入れられ、サラの細い指が一枚ずつ引く。引くたびに、名前が呼ばれる。呼ばれた名が板に書かれ、結び目が結ばれる。
初回限定の枠は、すぐに尽きた。金は板の袋に入った。袋は重くなるほど、魔灯の柱の影が濃くなる。影が濃くなると、人は立ち止まる。立ち止まると、字が読める。
灰手の会は、一枠を取った。彼らは敬礼のように顎を上げ、現金を置いた。置いた手の筋が硬い。硬い筋を、遼は嫌わない。筋は鍛えれば役に立つ。柔らかい筋は、書くときに役に立つ。
「初回限定、見事だ」とギルドの男。「だが、二度目はどうする」
「二度目は、価格が落ち着く。――あなた方の現金は、今日、板に吸い上がった。明日は“券”が残る。券は便に化ける。便が走ると、路は強くなる。路が強くなると、あなた方の“逃げ場”も増える。……悪い話ではない」
「逃げ場、か」
「逃げることは悪じゃない。逃げる先を用意しないのが悪だ。……あなた方が逃げる先に、板が立っていれば、板が記録する。記録は忘れない。忘れないなら、また戻れる」
ギルドの目が、珍しく笑った。笑うとき、彼らは昔の名前を思い出す。灰手の会――灰のように顔を変え、手の色だけ残す。その手に紐を結ぶのは、結構、難しい。
◆
夜半、遼は宿場の屋根の上に上がり、魔灯の光の広がりを上から見た。魔灯の輪は二つとも小さい。小さいが、決まった時間に、決まった形で広がる。そのリズムが、人の足を合わせる。
視界の隅で《路標》が淡く脈を打った。ヒートマップは昨夜より緑が多い。赤は遠く、黄は細い。緑の筋は、宿場を中心に繋がり始めている。
「網、にする」
遼は屋根の上に膝をつき、板に描いた線を頭の中でもう一度なぞった。一本の道は、途切れると何も運べない。“網”は、一本切れても別の線で繋ぐ。繋ぐためには、節――ハブが必要だ。ハブの規格が揃っていれば、節と節は勝手に絡む。絡み、絡まれ、負担を分け合う。
翌朝、遼は“網”を板に描いた。中心に宿場、周囲に小さな印。“水”“台”“灯”の小印を等しく書く。そこから、短い線が四方に伸びる。線の端には、予定時刻。線の色は、緑と黄の二色。赤は描かない。描かない赤は、注に落とす。
サラが板の前に立ち、口ずさむ。「“網の歌”、作ろうか」
「短くね」
「短く。――『点が節、節が網』」
「いいね」遼は笑い、サラの頭上の魔灯を指差した。「灯が歌に影をつける」
指名予約は板の端で回り始めた。名札の右に小さな穴。穴には色糸の短片――青は飲み水が必要、金は洗い物が多い、白は“急ぎ”。紐は情報だ。情報は紐でいい。紐は、結びやすい。
午後、王都側から若い商人がやって来た。彼は板の前で立ち止まり、数字を読んで、指で空中に線を引いた。
「滞在指数、いい数字ですね」
「良い数字は、人の“良い癖”の集まりだ」と遼。「悪い数字は、悪い癖の結果――というと怒る人がいるけど、怒ると直らない。直すのは癖。数字は癖を映す鏡」
「鏡は嫌いだ」と、古参の一人が笑いもせずに言った。「だが、剃るには鏡が要る」
「剃ると風が通る」とロック。肩で風を感じながら、短剣の柄に粉を吹いた。「風が通ると、走りやすい」
灰手の会の男も、板の前に立っていた。彼は“券”を指で弾き、その軽さに微かに眉を動かした。券は軽い。軽いが、使うと重くなる。重くなるのは、路のほうだ。
◆
雨が一度、来た。雨は魔灯には影響を与えず、樽に水を増やし、修繕台の木を膨らませ、板の白墨を少しだけぼかした。ぼけた数字の上から、サラが薄くなぞる。字は二度書くと強くなる。強くしたい字だけ、二度書く。
関所の「検数刻」は日毎に整い、理由は相変わらず三語で足りていた。ダルの名は震えず、止める数は減り、通す数は増えた。増えたのは賄賂ではない。板の前での予約と、護衛の登録と、指名。関所は“止めるための場所”から“通すための場所”に座り替え始めている。
宿場の主は魔灯の下で匙を並べ、椀の縁を揃え、滞在指数は夜ごとに小さく上下する。大きくは動かない。大きく動くのは、悪いとき。悪いときには、少しだけ詩が増える。詩は“読みやすさ”を温める。
灰手の会が買った初回枠の荷は、無事に届き、OTIFの星は一つ増えた。増えた星の横で、彼らは護衛に二度だけ出た。二度の便は“券”の現金化条件を満たし、板の袋から金が出た。出た金はすぐに樽に化け、台の足に化け、魔灯の油に化けた。化けたものは、残る。現金は、残らない。残らないものを、残るものへ。交換は、儀式だ。
◆
三十日のうち、半分が過ぎた夜、遼はエイダと屋根に上がり、魔灯を見下ろした。灯の輪は、昨日より少し広く、薄く、しかし均一だ。網の線は、板の中ではなく、地面に引かれたように見える。
「古参は戻ってきた?」と遼。
「半分は戻って、半分はまだ睨んでる」とエイダ。「睨むのは悪くない。睨む目は、道を見逃さない」
「灰手は?」
「初回の勢いは、落ちた。二度目の値は見た。三度目の券は懐にある。……けど、彼らも分かってる。網に穴を開けるより、網の縁を広げたほうが自分の逃げ場が増えるって。彼らの“賢さ”を侮っちゃいけない」
「賢さは武器だ。武器は収めるためにある」
エイダは笑った。「あんたの“剣を収める”は、いつも物騒だね」
「収めた剣で治める。――王女の言葉だ」
「王女も、魔灯の下が好きになるよ」
「詩は注に、数字は前に」
「網は、注でも前でもない。背骨だ」
背骨が伸びると、呼吸が深くなる。深い呼吸は、一歩を長くする。長い一歩は、遠くを近くする。
◆
三十日目の朝、板の前に人が集まった。時限契約の更新の日。更新は強制ではない。だが、板の端に貼られた小さな紙片――「更新希望」の列は長かった。
古参のひとりが紙を剥がし、代わりに「更新」の紙を張った。紙の縁は少し濡れている。濡れ方が、雨ではない。人の手の汗と、水の違いは、紙の重さで分かる。
「網、悪くない」と古参。「道の“眺め”が変わる」
「眺めが変わると、足の置き場が増える」と遼。「足の置き場が増えると、喧嘩が減る」
灰手の会の男も、板の前に立った。彼は券を一枚、二枚、三枚……ポケットから出し、板の袋に一部を戻し、残りを指で弾いた。
「券は不便だ」と彼。「不便だけど、嫌いじゃない。嫌いじゃないのは、網が広がるからだ」
「不便を“習慣”にすると、便利に勝つ」と遼。「便利は魔法で、不便は技術。技術は人のものだ」
彼は頷き、顔を上げた。「じゃあ、網をもう一つ広げよう。――北の峠だ。断路獣の巣がある」
エイダが息を飲む。ロックは短剣の柄から指を離し、サラは白墨を握り直した。ダルは小札を胸から取り出した。
「断路獣の巣――なら、魔灯は眠る。眠る灯の下で、数字は効く。……まずは“峠のハブ”の規格を決めよう」
遼は板の端に新しい欄を足し、題を書いた。
――峠ハブ規格(案)
「給水樽は二倍、修繕台は“靴専用”を追加。魔灯は“一度だけ光る灯”。避難の合図は音ではなく、匂い。……“匂いの旗”を作る」
サラの目が輝き、ロックは短剣ではなく鼻を指で弾いた。灰手の会の男は券をポケットの奥にしまい、言った。
「網は、やっぱり悪くない」
遼は頷き、《路標》を視界の隅で静かに上げた。ヒートマップの緑は細いが、細いものほど、縒れば強い。網は伸びる。伸びた網は、断路の上に静かに架かる。
魔灯が一度、光った。光は薄く、均一で、予定通り。板の前で人々は動き、紐は結ばれ、札は書かれ、券は弾かれ、銀は袋に入り、樽は満ち、台は刃物の音を返し、灯は眠り、また目を覚ます。
宿場は、もう宿場ではない。ハブだ。ハブは“点”だが、点は節だ。節が増えれば、網になる。網は、誰かの手の中だけのものではない。網は、皆の背中にかかる。
遼は板の隅に小さく書いた。
――点が節、節が網。
字は短い。短い字に、長い道が詰まっている。詰まった道は、走り出すのを待っている。
そして、遠くの峠の上で、誰かが小さくくしゃみをした。石粉の匂いが風に混じり、甘い匂いが薄く尾を引く。断路獣の巣は、まだ生きている。網の上に、黒い影がうっすら落ちる。
遼は胸の中のT字の貸方に、薄く“網”と書き、借方に“息”と書いた。息は網を動かし、網は道を守る。道は人を運び、人は数字を運ぶ。数字は詩に注で座り、詩は器を温める。
明日の“峠案”は、朝の魔灯の前で討つ。討つために、今夜は眠る。眠るのは、剣。眠らないのは、板。
板は、夜の間も人の目で見られている。誰もいないときも、魔灯の柱の影が板を見ている。影の目は厳しくない。優しい。優しさは、網の強度だ。
風が少し強くなり、紐の結び目が軽く揺れた。揺れはほどけなかった。ほどけない結びは、よく使う結びだ。
宿場――いや、ハブの朝は、また来る。網は今日より一段、広い。広い網の上で、人は小さく、しかし確かに動く。動くことが、祝祭だ。祝祭は、続けられる喜びだ。
そして“峠”が、次の章の題になる。
――宿場ハブ化計画(試験)
字に人が集まる。エイダは腕を組み、ロックは短剣の柄を軽く叩き、サラは脇で白墨を握りしめている。関所のダルは「検数刻」の小札束を胸ポケットに戻し、ため息を一つ、置いた。
「道はまだ細いけど、細い糸は縒(よ)れば太くなる。宿場を“縒る手”にします」
遼は板に三つの絵を描いた。四角い木枠の中に、丸い樽と、四角い台、そして背の高い灯。
「ハブの標準装備。給水樽、修繕台、魔灯です」
「魔灯?」とサラ。
「火じゃない灯。魔道工房の“二度だけ光る灯”を転用する。夜明け前と夕暮れ前、点灯。薄明かりで荷の判別と書類の記入ができる程度の明るさに抑える。灯に頼る時間を決めると、走る時間も揃えられる」
給水樽は、飛脚の肺と脚を守る。修繕台は、荷車の車輪と靴底を守る。魔灯は、帳面の字と予約の印を守る。守るものが揃えば、滞在に意味が生まれる。
「泊地の品質を揃えます。……この一言で軽く聞こえるけど、揃ってないものを揃えるのが一番の仕事だ。だから、滞在コストを可視化する」
黒板に新しい欄。
――滞在コスト掲示(宿泊/椀一杯/修繕/灯)
その右に、短く「目安」。さらに端に、小さな箱。「実績」。
「“目安”と“実績”を並べる。差が広がるところには説明を。説明が増えるところは、値段ではなく手順の見直しを。……言い訳と説明の境目は短さで決める」
周囲にさざめき。宿場の主が半歩前に出て、頷く。「同じ椀で、同じ値段で、同じ味。できるかい?」
「同じ味は詩の話。同じ“量”はできる。同じ“塩味”もできる。魔灯の下で、匙の形を揃えよう」
笑いが一つ、二つ。笑いの後には、きまって不安が来る。
「護衛の報酬はどうする」とロック。彼は笑っていない。笑わない顔は、良い質問をする顔だ。
「距離×危険度×時間で明文化します」
遼は板の下段に式を書いた。距=里数、危=ハザード指数、時=拘束時間(最小単位:半刻)。危険度は《路標》のヒートマップを切り出して数値に変える。赤は3、黄は2、緑は1。夜は+1の補正、明け方は0。
「たとえば、宿場から森際まで一里、黄。夜の二刻拘束――なら、報酬は一×二×四=八。基準貨で“八”。小銀換算で“〇・八”。」
「黄が赤に変わったら?」とエイダ。
「危険は歌に変わる。数字だけで動かない。現場判断で“危険度上振れ報酬”を+二まで付けられるようにする。付けたら、翌朝、板に理由を三語で貼る」
板の脇で、ロックが頷く。頷くとき、人は胸のどこかが軽く鳴る。
「そして、指名予約を可能にします。護衛も飛脚も“指名”を受け、受けた側が断る権利も持つ」
「“指名”は諍いの種になるよ」と古参飛脚がひとり、渋い顔をした。「仲間外れの匂いがする」
「仲間外れの匂いを“手順”の香で消す。予約は板を介す。前金は板の“袋”に入れて紐で結ぶ。結び目の形で便種と距離が分かるようにする。“断った理由”も三語で書く。“疲労”“装備不備”“危険過大”。理由が濁るときは、板の“調停欄”に回す」
遼は板の端に小さな袋を打ち付け、試しに紐を二度違う結びで結んだ。片方は二回巻いて一回ひねる、もう片方は三回巻いて十字に。
「結び目が言葉になる。遠目に分かる言葉だ」
「……あたしら古参の足が遅いのは、結び目で隠せる?」と別の飛脚が茶化す。笑いの波。遼は笑って頷く。
「試験運用に“時限契約”をつける。三十日。途中でやめたければ、やめていい。標準装備の台や樽を使うなら、“借り方の札”にサインを。返すときは借りた人と別の人がサインを。二重サインは面倒だけど、耳は二つ、目も二つだ」
「賛成だ」とエイダ。声は低いが、芯が通っている。「半壊した団をもう一度組み直すには、置くところと戻るところがいる。宿場がそれになるなら、やる」
古参の何人かは腕を組んだまま目を伏せた。人は怖いとき、足ではなく視線を閉じる。遼は押さない。押す前に、置く。
「時限契約だ。三十日で一度、板の前で“祝う”。祝うのは結果じゃない。続けた手順を祝う」
◆
昼過ぎ、宿場の外側で、別の動きが起きた。
盗賊ギルド――“灰手(はいで)の会”。灰のように、誰の袖にも、どの荷にも付着し、払うと舞い上がる。舞い上がると、別の場所で落ちる。落ち方は知られていて、嫌われる。だが、嫌われるほど強い匂いはない。
彼らは圧をかけてきた。宿場の裏手に三人、裏口に二人。前に出るのは一人。飾りの少ない灰色の外套。顔は綺麗だが、目の力は悪くない。
「路は路の者が決める。宿場に色を付けられては困る」
遼は板の前に立ったまま、相手の声の高さで返した。「色は付けない。形を揃える」
「護衛の報酬、指名、予約……それは“買い”。買うということは、売るということだ。――おれたちは“買う”。便を」
ギルドが金で“便”を買い占め、荷が動かないようにする――よくある。希少なものは高く売れる。便が希少なら、人は便を買う。
遼は頷いた。「希少性は、武器だ」
ギルドの首領格の目が細くなる。「分かっているなら話は速い」
「便の“希少性”を武器にするのは、こちらも同じです。――初回限定の“荷受け枠”を設けます」
ざわめき。ギルドの背中にも、飛脚の背中にも。
「“荷受け枠”?」
「定時便一本につき、荷受け枠を三つだけ。初回限定。前金で買ってもらう。買った枠はその便でしか使えない。払い戻しは“券”で。券は定時便にしか使えず、転売禁止。――買えば買うほど、“現金”が板の袋に溜まって、“券”があなた方の手元に残る。券は便でしか息ができない」
ギルドの男が笑った。「ひどい」
「希少性はひどい。だから、ひどくしすぎないために“上限”をつける。ギルドの“買い”は一便一枠まで。残り二枠は商人の“名札制”。先着と抽選を混ぜる。抽選の鐘は魔灯の点灯に合わせる」
「それでは、うちの“面子”が立たない」
「面子は数字で支える。――あなた方が買った枠の荷が“無事”に着けば、黒板の“OTIF(オンタイム・インフル)”に星をつける。遅れれば、星が剥がれる。星は小さいけど、数で光る。光らなければ、あなた方の買いは“損”だ」
「OTIF?」とロックが首を傾げる。
「“予定通りに、全部”。――遅れず、欠けず。星はひとつずつ」
ギルドの背後で、ざわ、と衣擦れ。彼らは金で語るが、人の顔を見る。星は顔を照らし、照らされた顔は、次に金を持ってくる手だ。
灰手の会は短く協議し、頷いた。「買う。枠を」
「初回限定価格は、やや高い。――希少性の“初日効果”を使う。二巡目には落ち着く。落ち着いた後の価格は板に貼る」
遼は板の袋に金を受け取り、紐で結び、結び目の形を変えた。初回は二重、次回は一重。誰の目にも違いが分かる。
彼は続ける。「“券”は現金に戻らない。――が、例外が一つ。あなた方が“護衛”に協力した場合、その便の券は現金化できる。条件は板に書く。魔灯の下で、字は嘘を嫌う」
ギルドの男が息を飲む音がした。賄賂ではなく、協力を現金にする手。彼らは“敵”ではない。路の外側にいる“隣”。隣が手を伸ばすなら、掴む前に条件を決めておく。
「面子は、協力で立つ」と遼。「そして、現金は板の袋に吸い上がる。袋の金は、魔灯と樽と台に変わる。あなた方が買った枠は、あなた方の道を広くする。――悪くない交換だ」
ギルドは舌打ちをしなかった。舌打ちをしたいとき、人は唇を合わせる。合わせた唇の隙間から、短い笑いが洩れた。「初回限定、買わせてもらう」
◆
午後、遼は宿場の内側に手を入れ始めた。
給水樽は三つ。井戸からの引き上げと注ぎを分け、樽の側面に三本の線――“満水/標準/予備”。樽は飲み水だけのものと、洗いものに回すものを結界の紐で区別した。紐は青と金。青は“飲む”、金は“洗う”。紐は色に言葉を宿す。色は行動を早くする。
修繕台には工具を固定した。槌、釘抜き、皮ひも、補修用の麻布。工具は借り出し制で、名を刻む小札を差し替える。紛失は罪ではない。だが、返さないのは罪だ。
魔灯は、軒先の柱に二つ。灯は二度だけ光り、二度目の光の後は眠る。眠る灯に人は手を出しにくい。眠ったものに触れるのは、祈りの領分だ。
板の右下に新しい欄を足した。「滞在指数」。宿泊+椀+修繕+灯の合計から“基準”を引いたもの。指数が0なら目安通り。+なら高い、-なら安い。出しっぱなしにしない。毎夕刻の鐘の後に一回、更新する。更新の端に、サラの字でメモがつく。
――今夜は隣町の客が多い。+〇・二。明日は鍋を一つ増やす。
――修繕台に行列。皮ひもが残り少ない。入荷予定を書き出し板に。
――魔灯の柱に子が手を伸ばす。紐を低く結び直す。
文字は短い。短いが、動作を促す。促された動作の数が、宿場の“息”になる。
◆
夕方、板の前に古参飛脚たちが戻ってきた。汗で髪が額に貼り付き、目は疲れ、足取りは重い。だが、板を見上げた首の角度は真っ直ぐだった。
「時限契約、サインする」と一人。
「三十日なら、飲み込める」と別の一人。
「……結び目の練習は、いまからか?」と笑いが起きた。
遼は用意した紙片に契約の条項を短く書く。借りるもの、返すときの二重サイン、途中離脱の手順、板の“調停欄”の使い方。そして最後に一行。
――“祝う”は義務ではないが、習慣。
エイダが横から紙を覗き込み、「義務じゃない祝祭ほど強いものはない」と言った。ライエルなら詩にするところだ。彼はいま、別の宿場に“標準装備の歌”を書きに行っている。
指名予約も動き始めた。護衛の名簿に、ロックの名の横に、短い条件が書かれる。
――森際まで。夜は二刻まで。左からの突風に弱い。
弱さを表明しても、指名は減らなかった。むしろ、指名の文は具体的になった。
――荷は薬草。振動に弱い。左の突風が来ない時間に出たい。
板は人の弱さと強さを揃える場だ。揃えると、合う。合うと、速い。速いと、安い。安いと、続く。
◆
日が落ち、魔灯が二度目の光を放った時、広場の別の板――“荷受け枠”の前に群れができた。灰手の会の男が一歩先に立ち、商人たちが後ろに並ぶ。鐘が一度、鳴る。抽選の札が箱に入れられ、サラの細い指が一枚ずつ引く。引くたびに、名前が呼ばれる。呼ばれた名が板に書かれ、結び目が結ばれる。
初回限定の枠は、すぐに尽きた。金は板の袋に入った。袋は重くなるほど、魔灯の柱の影が濃くなる。影が濃くなると、人は立ち止まる。立ち止まると、字が読める。
灰手の会は、一枠を取った。彼らは敬礼のように顎を上げ、現金を置いた。置いた手の筋が硬い。硬い筋を、遼は嫌わない。筋は鍛えれば役に立つ。柔らかい筋は、書くときに役に立つ。
「初回限定、見事だ」とギルドの男。「だが、二度目はどうする」
「二度目は、価格が落ち着く。――あなた方の現金は、今日、板に吸い上がった。明日は“券”が残る。券は便に化ける。便が走ると、路は強くなる。路が強くなると、あなた方の“逃げ場”も増える。……悪い話ではない」
「逃げ場、か」
「逃げることは悪じゃない。逃げる先を用意しないのが悪だ。……あなた方が逃げる先に、板が立っていれば、板が記録する。記録は忘れない。忘れないなら、また戻れる」
ギルドの目が、珍しく笑った。笑うとき、彼らは昔の名前を思い出す。灰手の会――灰のように顔を変え、手の色だけ残す。その手に紐を結ぶのは、結構、難しい。
◆
夜半、遼は宿場の屋根の上に上がり、魔灯の光の広がりを上から見た。魔灯の輪は二つとも小さい。小さいが、決まった時間に、決まった形で広がる。そのリズムが、人の足を合わせる。
視界の隅で《路標》が淡く脈を打った。ヒートマップは昨夜より緑が多い。赤は遠く、黄は細い。緑の筋は、宿場を中心に繋がり始めている。
「網、にする」
遼は屋根の上に膝をつき、板に描いた線を頭の中でもう一度なぞった。一本の道は、途切れると何も運べない。“網”は、一本切れても別の線で繋ぐ。繋ぐためには、節――ハブが必要だ。ハブの規格が揃っていれば、節と節は勝手に絡む。絡み、絡まれ、負担を分け合う。
翌朝、遼は“網”を板に描いた。中心に宿場、周囲に小さな印。“水”“台”“灯”の小印を等しく書く。そこから、短い線が四方に伸びる。線の端には、予定時刻。線の色は、緑と黄の二色。赤は描かない。描かない赤は、注に落とす。
サラが板の前に立ち、口ずさむ。「“網の歌”、作ろうか」
「短くね」
「短く。――『点が節、節が網』」
「いいね」遼は笑い、サラの頭上の魔灯を指差した。「灯が歌に影をつける」
指名予約は板の端で回り始めた。名札の右に小さな穴。穴には色糸の短片――青は飲み水が必要、金は洗い物が多い、白は“急ぎ”。紐は情報だ。情報は紐でいい。紐は、結びやすい。
午後、王都側から若い商人がやって来た。彼は板の前で立ち止まり、数字を読んで、指で空中に線を引いた。
「滞在指数、いい数字ですね」
「良い数字は、人の“良い癖”の集まりだ」と遼。「悪い数字は、悪い癖の結果――というと怒る人がいるけど、怒ると直らない。直すのは癖。数字は癖を映す鏡」
「鏡は嫌いだ」と、古参の一人が笑いもせずに言った。「だが、剃るには鏡が要る」
「剃ると風が通る」とロック。肩で風を感じながら、短剣の柄に粉を吹いた。「風が通ると、走りやすい」
灰手の会の男も、板の前に立っていた。彼は“券”を指で弾き、その軽さに微かに眉を動かした。券は軽い。軽いが、使うと重くなる。重くなるのは、路のほうだ。
◆
雨が一度、来た。雨は魔灯には影響を与えず、樽に水を増やし、修繕台の木を膨らませ、板の白墨を少しだけぼかした。ぼけた数字の上から、サラが薄くなぞる。字は二度書くと強くなる。強くしたい字だけ、二度書く。
関所の「検数刻」は日毎に整い、理由は相変わらず三語で足りていた。ダルの名は震えず、止める数は減り、通す数は増えた。増えたのは賄賂ではない。板の前での予約と、護衛の登録と、指名。関所は“止めるための場所”から“通すための場所”に座り替え始めている。
宿場の主は魔灯の下で匙を並べ、椀の縁を揃え、滞在指数は夜ごとに小さく上下する。大きくは動かない。大きく動くのは、悪いとき。悪いときには、少しだけ詩が増える。詩は“読みやすさ”を温める。
灰手の会が買った初回枠の荷は、無事に届き、OTIFの星は一つ増えた。増えた星の横で、彼らは護衛に二度だけ出た。二度の便は“券”の現金化条件を満たし、板の袋から金が出た。出た金はすぐに樽に化け、台の足に化け、魔灯の油に化けた。化けたものは、残る。現金は、残らない。残らないものを、残るものへ。交換は、儀式だ。
◆
三十日のうち、半分が過ぎた夜、遼はエイダと屋根に上がり、魔灯を見下ろした。灯の輪は、昨日より少し広く、薄く、しかし均一だ。網の線は、板の中ではなく、地面に引かれたように見える。
「古参は戻ってきた?」と遼。
「半分は戻って、半分はまだ睨んでる」とエイダ。「睨むのは悪くない。睨む目は、道を見逃さない」
「灰手は?」
「初回の勢いは、落ちた。二度目の値は見た。三度目の券は懐にある。……けど、彼らも分かってる。網に穴を開けるより、網の縁を広げたほうが自分の逃げ場が増えるって。彼らの“賢さ”を侮っちゃいけない」
「賢さは武器だ。武器は収めるためにある」
エイダは笑った。「あんたの“剣を収める”は、いつも物騒だね」
「収めた剣で治める。――王女の言葉だ」
「王女も、魔灯の下が好きになるよ」
「詩は注に、数字は前に」
「網は、注でも前でもない。背骨だ」
背骨が伸びると、呼吸が深くなる。深い呼吸は、一歩を長くする。長い一歩は、遠くを近くする。
◆
三十日目の朝、板の前に人が集まった。時限契約の更新の日。更新は強制ではない。だが、板の端に貼られた小さな紙片――「更新希望」の列は長かった。
古参のひとりが紙を剥がし、代わりに「更新」の紙を張った。紙の縁は少し濡れている。濡れ方が、雨ではない。人の手の汗と、水の違いは、紙の重さで分かる。
「網、悪くない」と古参。「道の“眺め”が変わる」
「眺めが変わると、足の置き場が増える」と遼。「足の置き場が増えると、喧嘩が減る」
灰手の会の男も、板の前に立った。彼は券を一枚、二枚、三枚……ポケットから出し、板の袋に一部を戻し、残りを指で弾いた。
「券は不便だ」と彼。「不便だけど、嫌いじゃない。嫌いじゃないのは、網が広がるからだ」
「不便を“習慣”にすると、便利に勝つ」と遼。「便利は魔法で、不便は技術。技術は人のものだ」
彼は頷き、顔を上げた。「じゃあ、網をもう一つ広げよう。――北の峠だ。断路獣の巣がある」
エイダが息を飲む。ロックは短剣の柄から指を離し、サラは白墨を握り直した。ダルは小札を胸から取り出した。
「断路獣の巣――なら、魔灯は眠る。眠る灯の下で、数字は効く。……まずは“峠のハブ”の規格を決めよう」
遼は板の端に新しい欄を足し、題を書いた。
――峠ハブ規格(案)
「給水樽は二倍、修繕台は“靴専用”を追加。魔灯は“一度だけ光る灯”。避難の合図は音ではなく、匂い。……“匂いの旗”を作る」
サラの目が輝き、ロックは短剣ではなく鼻を指で弾いた。灰手の会の男は券をポケットの奥にしまい、言った。
「網は、やっぱり悪くない」
遼は頷き、《路標》を視界の隅で静かに上げた。ヒートマップの緑は細いが、細いものほど、縒れば強い。網は伸びる。伸びた網は、断路の上に静かに架かる。
魔灯が一度、光った。光は薄く、均一で、予定通り。板の前で人々は動き、紐は結ばれ、札は書かれ、券は弾かれ、銀は袋に入り、樽は満ち、台は刃物の音を返し、灯は眠り、また目を覚ます。
宿場は、もう宿場ではない。ハブだ。ハブは“点”だが、点は節だ。節が増えれば、網になる。網は、誰かの手の中だけのものではない。網は、皆の背中にかかる。
遼は板の隅に小さく書いた。
――点が節、節が網。
字は短い。短い字に、長い道が詰まっている。詰まった道は、走り出すのを待っている。
そして、遠くの峠の上で、誰かが小さくくしゃみをした。石粉の匂いが風に混じり、甘い匂いが薄く尾を引く。断路獣の巣は、まだ生きている。網の上に、黒い影がうっすら落ちる。
遼は胸の中のT字の貸方に、薄く“網”と書き、借方に“息”と書いた。息は網を動かし、網は道を守る。道は人を運び、人は数字を運ぶ。数字は詩に注で座り、詩は器を温める。
明日の“峠案”は、朝の魔灯の前で討つ。討つために、今夜は眠る。眠るのは、剣。眠らないのは、板。
板は、夜の間も人の目で見られている。誰もいないときも、魔灯の柱の影が板を見ている。影の目は厳しくない。優しい。優しさは、網の強度だ。
風が少し強くなり、紐の結び目が軽く揺れた。揺れはほどけなかった。ほどけない結びは、よく使う結びだ。
宿場――いや、ハブの朝は、また来る。網は今日より一段、広い。広い網の上で、人は小さく、しかし確かに動く。動くことが、祝祭だ。祝祭は、続けられる喜びだ。
そして“峠”が、次の章の題になる。



