年次契約の朝、黒板の白は祭礼の金より静かに光っていた。白は誇らない。誇らない白は、結果をよく抱く。上段にサラが太く書いた。
――年次契約:飛脚団=勝
その下に、判が並ぶ。商隊連合の代表印、関所の顔印、監査の賢者印、教授の注印。最後に、飛脚団の団印。印は大きくない。大きくないのは、長持ちするからだ。長持ちする印は、日常の指で撫でられ、角が丸くなる。丸い角は、未来に向いている。
決済板では「眠り賃」の欄が細い線になり、基金の袋は緊急・予防・平時の三兄弟で穏やかに揺れた。透明の革は朝の薄い冷気を受け、金の輪郭が「まだ走れる」と言っている。王女印の笛箱は、昨夜の湿りを乾かし、口の縁が少しだけ白くなっていた。白くなる口は、嘘を飲み込まない。
契約の文言は短い。「区分契約」「公開入札」「遅延保険」「朗読参加」。詩は注に。数字は前に。注の欄にライエルの短歌が添えられる。
――剣の間に旗の角度を置き
――角度の間に声を置く
――声の間に道が生まれる
拍手は控えめで、足音は準備の方向へ散っていく。散りながら、確かに繋がっている。繋がりの中心で、エイダが杖を軽く掲げた。
「団長の座は――譲らない。二枚看板でいく」
広場に笑いが走る。笑うと、数字に体温が戻る。二枚看板。顔は二つでも、看板は一枚。板は一つだ。板が一つである限り、声は割れない。割れない声を、道は好む。
遼は肩をすくめ、少しだけ頭を下げた。「看板の角度は二度だけ、俺が持つ。あとは顔に任せる」
「顔は角度より難しい」とエイダ。「だから分け合う」
トオマは端でお辞儀をした。薄青の紐が手首で目立つ。「新しいハブ――峡谷市場(きょうこくいちば)の責任者、拝命します」
「“責任者”の一行目は、『遅延ゼロ』じゃない」と遼。「『遅延の理由が二行で言える』だ」
「心得ました」
彼の返事は短く、空欄を増やす音がした。空欄は器。器が多い拠点は、遅れない。
◆
暁の便。夜明けの手前、魔灯が一度だけ息を吐き、決済板の袋が朝の気圧を一さじ飲み込む。黒板の上段には、新しい見出しが載る。
――暁の便:国境越え試走
路標の緑が遼の視界の端に薄く滲む。峠の肩を越え、鉱山街の尾根を撫で、旧関税小屋の影を擦り、国境の線に細い点が連なる。点はまだ灯らない。灯らない点は、未来の約束だ。
「関所との連動、再確認」とガルド。「決済板→顔→関所箱。――順序は“板が先”。詩は注に」
「抽選の朗読は、トオマが持つ」とロック。「“角度二度”“戻せ”“手を見せ”。」
教授が薄い羊皮紙を二枚、遼に手渡した。一枚は「国境税の注」、もう一枚は「二重取り防止の図」。図はT字を縦に二つ重ね、間に細い横棒で橋を架けてある。上下の貸借を片側だけ濃くする悪い癖を、橋が止める。橋は注の出身だ。注は橋をよく産む。
「では――行ってくる」
遼は荷台に足を掛け、指で鉛筆を弾いた。音は鳴らない。鳴らない音が、胸のT字を一つ進める。借方に“命”、貸方に“物語”。間に“新路線”。点を打つのは、走ってからだ。
エイダは杖で地面を二度打ち、顔で旗を立てる。「『通せ』『息して』」
暁の路は、夜の残り香を脇に置き、薄い冷気を前から吸い込み、足音と車輪の音と旗の布の擦過音を層にする。層は積層だ。積層は、物語の語り口だ。物語は一層目で終わらない。二層目がある。そのことを、道は知っている。
◆
峠の肩は無風。柵は二度だけ角度を持ち、雪溜めは空だ。風洞の注は、あとで詩の欄に短く復習されるだろう。峠を抜け、鉱山街に降りる。鉱山街の空は煤の味だが、今日の煤は薄い。薄い煤は、税の匂いが濃い日だ。
旧関税小屋の前で、相手国の徴税吏が待っていた。顔は若い。若い顔は、制度の重さにまだ肩慣らしがいる。肩慣らしには、朗読が効く。
「『手を見せ』『角度二度』『戻す』」
トオマの声が滑り、抽選箱の上で指の角が二度だけ止まる。止まると、動きすぎない。動きすぎない手は、賄賂に向かない。向かないものは、習慣になる。
「国境税は、片側一回。『関所箱→決済板→名札』で連結。二重取りは『黒点固定』」と遼。「注に詩を付けるなら、『橋は二回渡らない』」
相手国の吏が眉を上げ、頷く。「詩は……注に」
「数字は前に」
交換した羊皮紙は短く、注は長めだ。長い注は、後で短くする。短くするのは国境の芸だ。違いを消すのではなく、違いを訳す。訳は橋だ。
関税小屋の裏手で、古い杭に“断路獣除け”の刻印が消えかけているのを見つけた。地脈の乱れは国境を選ばない。選ばないものは、道の仕事だ。遼は棒で青い音を薄く流し、刻印の上に朗読を置いた。「『待て』『通せ』」。詩ではない。刻印の仮置き。仮置きでも、一度は効く。
「ライオットの影は?」とロック。
「今朝は薄い」と遼。「滞留の熱は夜より朝に弱い。朝に“決済板”で吸ったから」
「逃げ延びてはいるが、金は座らない」とサラ。「座らない金は、裏路地が嫌い」
「嫌いな場所に居座るのは、無理の兆しだ」と教授。
◆
国境の線を越えた先には、やせた市場があった。柱の間隔が広く、屋根は低く、値札はばらけ、声は小さめ。声が小さい市場は、黒板を欲しがる。欲しがるものを先に置くのが、ハブ化の第一手だ。
遼は荷台の下から分解式の小黒板を出し、柱と柱の間に立てた。白墨は薄く削っておく。薄い白は、知らない目に優しい。
――“暁の便”(予告)
――(本日)到着/(明日)出発
――通関→決済→積替(朗読付)
――名札:……(空欄)
空欄を見せると、名は勝手に集まる。名は責任の最小単位。責任の集まりは、路線の足場。足場が整えば、路線は勝手に走るように“見える”。見えるのは、仕組みが働いている証拠だ。
トオマは木箱を積み直し、軽い嚢を抱えた少女に「郵便は命の貨物」と言って薄青の紐を渡した。少女の指は、その細い色を生涯忘れないだろう。忘れない色は、裏切らない。
相手国の年寄り商人が白髭を撫で、「“遅延ゼロ”が聞こえた」と笑った。
「聞こえるなら、半分は届いている」と遼。「残り半分は、あなたが朗読する番です」
年寄りは頷き、「『息して』『通せ』」と真似た。声はかすれているが、響きが深い。深い声は、風に勝つ。
◆
試走の帰り道、峠の肩に薄い雲が列を作っていた。雪ではない。匂いのない薄い布のような雲。布は風と仲良しだ。仲良しが過ぎると、渦になる。渦は道を弄ぶ。弄ばれないために、角度を二度だけ変える。
「柵の“角度二度”、午後の向きに調整」とロック。
「風洞の“捨雪”は今日は不要」とサラ。「雪溜めゼロ。――詩にすると、『風は偏食せず』」
「詩は注に」とトオマが笑う。笑う顔が責任者の顔に近づいている。近づきすぎないのが、いい。責任者は威厳を要らない。要るのは“空欄”だ。
宿場に戻ると、黒板の右下に新しい欄が増えていた。
――“峡谷市場”臨時掲示板(遠隔)→暁の便:予告済/朗読者:現地募集
遠隔の黒板。紙の呼吸で繋がる。深呼吸のあいだを、郵便が縫う。薄青の紐は国境でも青い。青は空の色であり、戻る道の色でもある。
◆
年次契約の祝祭は、派手ではなかった。鍋は大きすぎず、星は光りすぎず、詩は短く、数字は前に、笑いは横に流れた。エイダは杖を抱え、壇に上らない。上らず、中央の黒板に手を置く。
「看板は二枚。顔は二つ。――だが、板は一つ」
彼女の言葉に、板は少しだけ鳴った。板が鳴ると、道が喜ぶ。道は“誰か”のものではない。“誰も”のものでもない。“誰もの”だ。日本語はこの折り重なりをうまく扱う。うまく扱える言語の土地は、道に向いている。
ロックは旗の束を倉へ戻し、ガルドは関所の顔指数に今日の加点を小さく貼った。「清算短明+1」「連動良+1」。教授は注を二行削り、賢者は袋の底の紐を一度だけ締めた。締めすぎないのが、約束の呼吸だ。
ミナは白刻印の塩を薄い木匙で盛り、「昼に座る椅子」を二脚、国境行きの便へ預けた。椅子は物語だ。道の脇で、いつでも人が話せるように。話す声は、税を軽くする。
◆
ライオットは捕縛されなかった。捕まらない話は、物語には合う。合うが、数字には合わない。数字は捕まえる。何を? “現金の滞留”を。眠り賃の欄は彼の名の横で細り、代わりに“昼商売”の欄で小さな星が増えた。星は罪を赦さない。赦さないが、戻る道を示す。戻る道は薄青だ。薄青は誰にでも似合う。
夜の裏路地の霜柱は背を低くし、庇の内側で笑いの線は作られず、その代わりに「朝の板」に目が向いた。朝の板の冷たさは、暴力の熱を吸い取る。吸い取りすぎないのが、良い設計だ。吸い取りすぎると、詩が凍る。凍った詩は、注にさえ置けない。
遼は追わない。追わないことが、板の教えだった。追えば遅れる。遅れれば泣く。泣けば洗う。洗えば時間が過ぎる。時間は、路線の燃料だ。燃料を浪費するな。彼はそれを胸のT字の端に小さく書いた。「追わない=未来を遅らせない」。
◆
暁の便は習慣になった。習慣は祝祭を食べて栄養にする。食べ過ぎないのが肝心だ。食べ過ぎると眠くなる。眠い道は、賊の子守歌になる。子守歌は詩だ。詩は注に。
黒板の「呼吸」欄は、朝朗読・夕朗読の二行だけで息をしていた。加えて、新しい細い行が一本。
――“遠隔朗読”:峡谷市場→『通せ』『息して』
遠隔でも朗読は三語で足りる。三語で足りるのは、手順が先に置かれているからだ。先に置くのは、運用だ。運用は剣より早い。
トオマは峡谷市場の柱の影で、初めての“反省会(短)”を開いた。柱は秘密を吸い、翌朝吐く器だ。彼は三語で締めた。「“角度二度”」「“戻る道”」「“遅延理由”」。参加者は頷き、名札の横で鉛筆を削り、薄い粉が陽光で細かく踊る。粉は踊るが、舞台は板である。
◆
季節が半歩進み、柵の角度は冬の二度から春の一度へと緩み始めた。その頃、王都から一枚の薄い書が届いた。王女の私印は小さく、文も短い。「“二枚看板”、良い。詩は注に、数字は前に。――王城の黒板は静か。『遅れませんでした』の報告が、今も好き。顔で挨拶したいが、顔は遠くても働く」
サラはそれを「注」に貼り、詩を付けた。
――遠い顔、近い板。
――近い板、長い道。
遼は返書を出さなかった。返書は道を遅らせる。代わりに、暁の便を一本増やした。返事は走る方が早い。
◆
ある朝、黒板の端に“鉛筆”が一本、立てかけられていた。誰のものか、名はない。名のない鉛筆は、顔を持たない。顔を持たない筆記具は、板の所有ではない。板は道具。道具は誰もの。
遼はそれを指で弾き、音を聞かずに置いた。「鉛筆は武器であり、楽器だ」。彼はエイダの顔を見た。顔は笑い、少しだけ泣いた。泣く顔は、朗読の席にふさわしい。
「看板は二枚。――今日は、あなたが前」
「了解。前に立つのは、後ろに板があるから楽だ」
「板がなければ、前はない」
ガルドは関所の欄で「顔指数」に新しい項目を加えた。「“遠隔顔”」。顔は距離を縮める。縮めすぎないのが、呼吸だ。
ロックは旗の角度を一度だけ増やし、峠の春風を撫でる。「風は偏食をやめた。――詩にすると、『風は気まぐれを忘れた』」
「詩は注に」と皆が笑う。笑いの層の下で、数字は前に進む。
◆
夜。宿場は静かだった。静かな夜は、学びの夜だ。決済板の袋は軽く、眠り賃の欄は細く、笛箱は空だった。空は誇らない。誇らない空は、明日の便を軽くする。
遼は黒板の最下段に、最後の見出しを置いた。
――“暁の便、道は物語になる”
手を止め、胸のT字に点を打つ。借方に“命”。貸方に“物語”。間に“道”。点は一つだが、線になる。線は、網に変わる。網は、誰かの生活を受け止める。生活を受け止める網の上に、詩は注として柔らかく敷かれる。
彼は静かに独白した。
「剣が守るのは“今”。――道が守るのは“これから”だ」
今は瞬きの長さ。これからは、朗読の長さ。朗読は三語で足りる。「『息して』『通せ』『待て』」。三語のあいだに、生活が住む。住んだ生活が、税を軽くする。軽くなった税が、道を太らせる。太った道が、戦を遅らせる。遅らせた戦の分だけ、暁の便は早くなる。
エイダが隣に立った。看板は二枚。顔は二つ。板は一つ。
「団長、そろそろ“暁の便”の号令を」
「団長は二人だ」と遼。
「なら、二人で。――『通せ』」
彼らの声は、同じ深さで重なった。重なる声は、風に強い。強い声の上で、魔灯が二度だけ小さく瞬き、路標の緑が遠くで一つ、点った。
トオマは峠の肩の向こうで、峡谷市場の柱に手を置いた。薄青の紐は固く結ばれ、解けるのが“戻る道”の合図だ。彼は諳んじる。「“遅延理由を二行で言える”」。それが、彼の“遅延ゼロ”だ。
ガルドは新しい関所箱の透明度を確かめ、朗読者の声を整える。ロックは旗の角度を春向きに一度だけ傾け、サラは黒板の余白を薄く磨いた。賢者は袋の紐を一度、教授は注を一行削り、ミナは白刻印の塩を小袋に分け、ゴードンはほうきの柄を撫で、子ども番人は星を一枚余らせて“明日の星”にした。
ライオットは、どこかで朝の冷気を吸い、笑いもしないで吐いただろう。吐いた息は霜にならず、ただの水蒸気になって空へ消える。消えるということは、終わりではない。薄まって、見えなくなって、循環へ戻る。見えないものは、板が嫌う。板は、見えるを好む。見えるは、守る。守るは、続ける。
暁の風が、柵の角度を撫でた。角度は二度から一度へ、季節に従って微笑み、風洞は今日も働き、雪溜めは空のまま、関所の顔は短文で説明し、遠隔の黒板は薄い白で息をして、決済板の袋は透明で、笛箱は王女印の封を誇らずに持ち、詩は注に、数字は前に、旗は二度だけ角度を変え、道は拍を打った。
拍は心臓。心臓は道の比喩。比喩は物語。物語は、今日から明日へ橋を架ける。橋は二回渡らない。二回渡らないから、往復が生まれる。往復が生まれるから、生活は厚みを増す。厚みを増した生活の端で、誰かが小さな声で言った。
「遅れませんでした」
その四文字が、広場の底にゆっくり沈み、地脈の浅いところで柔らかく光った。光は誰のものでもない。誰ものだ。誰もの光に照らされて、路標がまた一つ、点る。
暁。荷台の脇で、遼は鉛筆を空に掲げ、音を出さずに降ろした。鉛筆は武器であり、楽器だ。今日は楽器として使う。音は鳴らないが、拍は続く。拍が続けば、道は物語になる。物語になった道を、剣はもう守らなくていい。守るのは、仕組みだ。仕組みは、皆の手の癖に宿る。癖は美しい。美しさは、詩の領分だ。
詩は注に。数字は前に。
――そして道は、朝の白の上で、確かに、次の一行を走り始めた。
――年次契約:飛脚団=勝
その下に、判が並ぶ。商隊連合の代表印、関所の顔印、監査の賢者印、教授の注印。最後に、飛脚団の団印。印は大きくない。大きくないのは、長持ちするからだ。長持ちする印は、日常の指で撫でられ、角が丸くなる。丸い角は、未来に向いている。
決済板では「眠り賃」の欄が細い線になり、基金の袋は緊急・予防・平時の三兄弟で穏やかに揺れた。透明の革は朝の薄い冷気を受け、金の輪郭が「まだ走れる」と言っている。王女印の笛箱は、昨夜の湿りを乾かし、口の縁が少しだけ白くなっていた。白くなる口は、嘘を飲み込まない。
契約の文言は短い。「区分契約」「公開入札」「遅延保険」「朗読参加」。詩は注に。数字は前に。注の欄にライエルの短歌が添えられる。
――剣の間に旗の角度を置き
――角度の間に声を置く
――声の間に道が生まれる
拍手は控えめで、足音は準備の方向へ散っていく。散りながら、確かに繋がっている。繋がりの中心で、エイダが杖を軽く掲げた。
「団長の座は――譲らない。二枚看板でいく」
広場に笑いが走る。笑うと、数字に体温が戻る。二枚看板。顔は二つでも、看板は一枚。板は一つだ。板が一つである限り、声は割れない。割れない声を、道は好む。
遼は肩をすくめ、少しだけ頭を下げた。「看板の角度は二度だけ、俺が持つ。あとは顔に任せる」
「顔は角度より難しい」とエイダ。「だから分け合う」
トオマは端でお辞儀をした。薄青の紐が手首で目立つ。「新しいハブ――峡谷市場(きょうこくいちば)の責任者、拝命します」
「“責任者”の一行目は、『遅延ゼロ』じゃない」と遼。「『遅延の理由が二行で言える』だ」
「心得ました」
彼の返事は短く、空欄を増やす音がした。空欄は器。器が多い拠点は、遅れない。
◆
暁の便。夜明けの手前、魔灯が一度だけ息を吐き、決済板の袋が朝の気圧を一さじ飲み込む。黒板の上段には、新しい見出しが載る。
――暁の便:国境越え試走
路標の緑が遼の視界の端に薄く滲む。峠の肩を越え、鉱山街の尾根を撫で、旧関税小屋の影を擦り、国境の線に細い点が連なる。点はまだ灯らない。灯らない点は、未来の約束だ。
「関所との連動、再確認」とガルド。「決済板→顔→関所箱。――順序は“板が先”。詩は注に」
「抽選の朗読は、トオマが持つ」とロック。「“角度二度”“戻せ”“手を見せ”。」
教授が薄い羊皮紙を二枚、遼に手渡した。一枚は「国境税の注」、もう一枚は「二重取り防止の図」。図はT字を縦に二つ重ね、間に細い横棒で橋を架けてある。上下の貸借を片側だけ濃くする悪い癖を、橋が止める。橋は注の出身だ。注は橋をよく産む。
「では――行ってくる」
遼は荷台に足を掛け、指で鉛筆を弾いた。音は鳴らない。鳴らない音が、胸のT字を一つ進める。借方に“命”、貸方に“物語”。間に“新路線”。点を打つのは、走ってからだ。
エイダは杖で地面を二度打ち、顔で旗を立てる。「『通せ』『息して』」
暁の路は、夜の残り香を脇に置き、薄い冷気を前から吸い込み、足音と車輪の音と旗の布の擦過音を層にする。層は積層だ。積層は、物語の語り口だ。物語は一層目で終わらない。二層目がある。そのことを、道は知っている。
◆
峠の肩は無風。柵は二度だけ角度を持ち、雪溜めは空だ。風洞の注は、あとで詩の欄に短く復習されるだろう。峠を抜け、鉱山街に降りる。鉱山街の空は煤の味だが、今日の煤は薄い。薄い煤は、税の匂いが濃い日だ。
旧関税小屋の前で、相手国の徴税吏が待っていた。顔は若い。若い顔は、制度の重さにまだ肩慣らしがいる。肩慣らしには、朗読が効く。
「『手を見せ』『角度二度』『戻す』」
トオマの声が滑り、抽選箱の上で指の角が二度だけ止まる。止まると、動きすぎない。動きすぎない手は、賄賂に向かない。向かないものは、習慣になる。
「国境税は、片側一回。『関所箱→決済板→名札』で連結。二重取りは『黒点固定』」と遼。「注に詩を付けるなら、『橋は二回渡らない』」
相手国の吏が眉を上げ、頷く。「詩は……注に」
「数字は前に」
交換した羊皮紙は短く、注は長めだ。長い注は、後で短くする。短くするのは国境の芸だ。違いを消すのではなく、違いを訳す。訳は橋だ。
関税小屋の裏手で、古い杭に“断路獣除け”の刻印が消えかけているのを見つけた。地脈の乱れは国境を選ばない。選ばないものは、道の仕事だ。遼は棒で青い音を薄く流し、刻印の上に朗読を置いた。「『待て』『通せ』」。詩ではない。刻印の仮置き。仮置きでも、一度は効く。
「ライオットの影は?」とロック。
「今朝は薄い」と遼。「滞留の熱は夜より朝に弱い。朝に“決済板”で吸ったから」
「逃げ延びてはいるが、金は座らない」とサラ。「座らない金は、裏路地が嫌い」
「嫌いな場所に居座るのは、無理の兆しだ」と教授。
◆
国境の線を越えた先には、やせた市場があった。柱の間隔が広く、屋根は低く、値札はばらけ、声は小さめ。声が小さい市場は、黒板を欲しがる。欲しがるものを先に置くのが、ハブ化の第一手だ。
遼は荷台の下から分解式の小黒板を出し、柱と柱の間に立てた。白墨は薄く削っておく。薄い白は、知らない目に優しい。
――“暁の便”(予告)
――(本日)到着/(明日)出発
――通関→決済→積替(朗読付)
――名札:……(空欄)
空欄を見せると、名は勝手に集まる。名は責任の最小単位。責任の集まりは、路線の足場。足場が整えば、路線は勝手に走るように“見える”。見えるのは、仕組みが働いている証拠だ。
トオマは木箱を積み直し、軽い嚢を抱えた少女に「郵便は命の貨物」と言って薄青の紐を渡した。少女の指は、その細い色を生涯忘れないだろう。忘れない色は、裏切らない。
相手国の年寄り商人が白髭を撫で、「“遅延ゼロ”が聞こえた」と笑った。
「聞こえるなら、半分は届いている」と遼。「残り半分は、あなたが朗読する番です」
年寄りは頷き、「『息して』『通せ』」と真似た。声はかすれているが、響きが深い。深い声は、風に勝つ。
◆
試走の帰り道、峠の肩に薄い雲が列を作っていた。雪ではない。匂いのない薄い布のような雲。布は風と仲良しだ。仲良しが過ぎると、渦になる。渦は道を弄ぶ。弄ばれないために、角度を二度だけ変える。
「柵の“角度二度”、午後の向きに調整」とロック。
「風洞の“捨雪”は今日は不要」とサラ。「雪溜めゼロ。――詩にすると、『風は偏食せず』」
「詩は注に」とトオマが笑う。笑う顔が責任者の顔に近づいている。近づきすぎないのが、いい。責任者は威厳を要らない。要るのは“空欄”だ。
宿場に戻ると、黒板の右下に新しい欄が増えていた。
――“峡谷市場”臨時掲示板(遠隔)→暁の便:予告済/朗読者:現地募集
遠隔の黒板。紙の呼吸で繋がる。深呼吸のあいだを、郵便が縫う。薄青の紐は国境でも青い。青は空の色であり、戻る道の色でもある。
◆
年次契約の祝祭は、派手ではなかった。鍋は大きすぎず、星は光りすぎず、詩は短く、数字は前に、笑いは横に流れた。エイダは杖を抱え、壇に上らない。上らず、中央の黒板に手を置く。
「看板は二枚。顔は二つ。――だが、板は一つ」
彼女の言葉に、板は少しだけ鳴った。板が鳴ると、道が喜ぶ。道は“誰か”のものではない。“誰も”のものでもない。“誰もの”だ。日本語はこの折り重なりをうまく扱う。うまく扱える言語の土地は、道に向いている。
ロックは旗の束を倉へ戻し、ガルドは関所の顔指数に今日の加点を小さく貼った。「清算短明+1」「連動良+1」。教授は注を二行削り、賢者は袋の底の紐を一度だけ締めた。締めすぎないのが、約束の呼吸だ。
ミナは白刻印の塩を薄い木匙で盛り、「昼に座る椅子」を二脚、国境行きの便へ預けた。椅子は物語だ。道の脇で、いつでも人が話せるように。話す声は、税を軽くする。
◆
ライオットは捕縛されなかった。捕まらない話は、物語には合う。合うが、数字には合わない。数字は捕まえる。何を? “現金の滞留”を。眠り賃の欄は彼の名の横で細り、代わりに“昼商売”の欄で小さな星が増えた。星は罪を赦さない。赦さないが、戻る道を示す。戻る道は薄青だ。薄青は誰にでも似合う。
夜の裏路地の霜柱は背を低くし、庇の内側で笑いの線は作られず、その代わりに「朝の板」に目が向いた。朝の板の冷たさは、暴力の熱を吸い取る。吸い取りすぎないのが、良い設計だ。吸い取りすぎると、詩が凍る。凍った詩は、注にさえ置けない。
遼は追わない。追わないことが、板の教えだった。追えば遅れる。遅れれば泣く。泣けば洗う。洗えば時間が過ぎる。時間は、路線の燃料だ。燃料を浪費するな。彼はそれを胸のT字の端に小さく書いた。「追わない=未来を遅らせない」。
◆
暁の便は習慣になった。習慣は祝祭を食べて栄養にする。食べ過ぎないのが肝心だ。食べ過ぎると眠くなる。眠い道は、賊の子守歌になる。子守歌は詩だ。詩は注に。
黒板の「呼吸」欄は、朝朗読・夕朗読の二行だけで息をしていた。加えて、新しい細い行が一本。
――“遠隔朗読”:峡谷市場→『通せ』『息して』
遠隔でも朗読は三語で足りる。三語で足りるのは、手順が先に置かれているからだ。先に置くのは、運用だ。運用は剣より早い。
トオマは峡谷市場の柱の影で、初めての“反省会(短)”を開いた。柱は秘密を吸い、翌朝吐く器だ。彼は三語で締めた。「“角度二度”」「“戻る道”」「“遅延理由”」。参加者は頷き、名札の横で鉛筆を削り、薄い粉が陽光で細かく踊る。粉は踊るが、舞台は板である。
◆
季節が半歩進み、柵の角度は冬の二度から春の一度へと緩み始めた。その頃、王都から一枚の薄い書が届いた。王女の私印は小さく、文も短い。「“二枚看板”、良い。詩は注に、数字は前に。――王城の黒板は静か。『遅れませんでした』の報告が、今も好き。顔で挨拶したいが、顔は遠くても働く」
サラはそれを「注」に貼り、詩を付けた。
――遠い顔、近い板。
――近い板、長い道。
遼は返書を出さなかった。返書は道を遅らせる。代わりに、暁の便を一本増やした。返事は走る方が早い。
◆
ある朝、黒板の端に“鉛筆”が一本、立てかけられていた。誰のものか、名はない。名のない鉛筆は、顔を持たない。顔を持たない筆記具は、板の所有ではない。板は道具。道具は誰もの。
遼はそれを指で弾き、音を聞かずに置いた。「鉛筆は武器であり、楽器だ」。彼はエイダの顔を見た。顔は笑い、少しだけ泣いた。泣く顔は、朗読の席にふさわしい。
「看板は二枚。――今日は、あなたが前」
「了解。前に立つのは、後ろに板があるから楽だ」
「板がなければ、前はない」
ガルドは関所の欄で「顔指数」に新しい項目を加えた。「“遠隔顔”」。顔は距離を縮める。縮めすぎないのが、呼吸だ。
ロックは旗の角度を一度だけ増やし、峠の春風を撫でる。「風は偏食をやめた。――詩にすると、『風は気まぐれを忘れた』」
「詩は注に」と皆が笑う。笑いの層の下で、数字は前に進む。
◆
夜。宿場は静かだった。静かな夜は、学びの夜だ。決済板の袋は軽く、眠り賃の欄は細く、笛箱は空だった。空は誇らない。誇らない空は、明日の便を軽くする。
遼は黒板の最下段に、最後の見出しを置いた。
――“暁の便、道は物語になる”
手を止め、胸のT字に点を打つ。借方に“命”。貸方に“物語”。間に“道”。点は一つだが、線になる。線は、網に変わる。網は、誰かの生活を受け止める。生活を受け止める網の上に、詩は注として柔らかく敷かれる。
彼は静かに独白した。
「剣が守るのは“今”。――道が守るのは“これから”だ」
今は瞬きの長さ。これからは、朗読の長さ。朗読は三語で足りる。「『息して』『通せ』『待て』」。三語のあいだに、生活が住む。住んだ生活が、税を軽くする。軽くなった税が、道を太らせる。太った道が、戦を遅らせる。遅らせた戦の分だけ、暁の便は早くなる。
エイダが隣に立った。看板は二枚。顔は二つ。板は一つ。
「団長、そろそろ“暁の便”の号令を」
「団長は二人だ」と遼。
「なら、二人で。――『通せ』」
彼らの声は、同じ深さで重なった。重なる声は、風に強い。強い声の上で、魔灯が二度だけ小さく瞬き、路標の緑が遠くで一つ、点った。
トオマは峠の肩の向こうで、峡谷市場の柱に手を置いた。薄青の紐は固く結ばれ、解けるのが“戻る道”の合図だ。彼は諳んじる。「“遅延理由を二行で言える”」。それが、彼の“遅延ゼロ”だ。
ガルドは新しい関所箱の透明度を確かめ、朗読者の声を整える。ロックは旗の角度を春向きに一度だけ傾け、サラは黒板の余白を薄く磨いた。賢者は袋の紐を一度、教授は注を一行削り、ミナは白刻印の塩を小袋に分け、ゴードンはほうきの柄を撫で、子ども番人は星を一枚余らせて“明日の星”にした。
ライオットは、どこかで朝の冷気を吸い、笑いもしないで吐いただろう。吐いた息は霜にならず、ただの水蒸気になって空へ消える。消えるということは、終わりではない。薄まって、見えなくなって、循環へ戻る。見えないものは、板が嫌う。板は、見えるを好む。見えるは、守る。守るは、続ける。
暁の風が、柵の角度を撫でた。角度は二度から一度へ、季節に従って微笑み、風洞は今日も働き、雪溜めは空のまま、関所の顔は短文で説明し、遠隔の黒板は薄い白で息をして、決済板の袋は透明で、笛箱は王女印の封を誇らずに持ち、詩は注に、数字は前に、旗は二度だけ角度を変え、道は拍を打った。
拍は心臓。心臓は道の比喩。比喩は物語。物語は、今日から明日へ橋を架ける。橋は二回渡らない。二回渡らないから、往復が生まれる。往復が生まれるから、生活は厚みを増す。厚みを増した生活の端で、誰かが小さな声で言った。
「遅れませんでした」
その四文字が、広場の底にゆっくり沈み、地脈の浅いところで柔らかく光った。光は誰のものでもない。誰ものだ。誰もの光に照らされて、路標がまた一つ、点る。
暁。荷台の脇で、遼は鉛筆を空に掲げ、音を出さずに降ろした。鉛筆は武器であり、楽器だ。今日は楽器として使う。音は鳴らないが、拍は続く。拍が続けば、道は物語になる。物語になった道を、剣はもう守らなくていい。守るのは、仕組みだ。仕組みは、皆の手の癖に宿る。癖は美しい。美しさは、詩の領分だ。
詩は注に。数字は前に。
――そして道は、朝の白の上で、確かに、次の一行を走り始めた。



