焦げた麦の匂いで目が覚めた。
 遼は喉の奥に砂を感じながら上体を起こし、半壊した宿場の軒を仰いだ。瓦は歯欠けのように剥がれ、梁には黒い舌の跡が残っている。風が吹くたび、炭になりかけた荷駄の木片がかさり、と鳴った。道はそこから先で途切れている。土は抉られ、谷のような裂け目が口を開け、縁には灰色の砂がうっすら積もる。砂は塩のように細かいのに、触れると指先が痺れるという。

 「断路獣が出た夜は、道そのものが食われるんだ」

 声の主は宿場の奥で腕を組む女――飛脚団の団長エイダだった。短く刈った栗毛の髪は煤で黒ずみ、片膝には即席の布が巻かれている。背後には半分焼けた荷車が三台、残った車輪を空しく回していた。
 遼は頷き、立ち上がりながら視界の「奥」に軽く意識を向ける。そこにいつも通り、青白い文字と細い線が浮かぶ。《路標》。彼がこの世界に目を開けた日から、視界の脇に付き添う奇妙な相棒。
 ――安全度ヒートマップ、起動。
 遼が心の中で呟くと、荒んだ街道の上に半透明の色が重なった。赤は危険、黄色は要注意、緑が通行可。赤の帯は断路の縁から枝のように延び、黄色がその外側を縁取る。緑は遠い。まるで海が引いて砂地に残る波紋のように、緑は点々としか見えない。

「……ひどいな」
「ひどいよ」エイダは潰れた額当てを指で弾いて、乾いた笑いを零した。「飛脚は疲弊、護衛は離散、関所は賄賂漬け。昨夜なんて、刻限の印を持って走った子が、門で紙を破られた。『危険だから通すわけにいかん』ってさ」
「危険だから止めるのは分かる。でも賄賂で通すなら、危険はその場しのぎになる」
「もっと悪いのは、今は誰も“全体”を見ないってことさ。私は飛脚、護衛は護衛、関所は関所。道は誰のものでもなくなった」

 遼は無意識に空にT字を描き、そこで指先を止めた。違う。ここは王城じゃないし、出納板もない。けれど――やるべきことは変わらない。
「まずは“見える化”だ。頭の中でバラバラな危険や便の情報を一枚にする」
「紙は燃えたよ」
「なら板を借りる。宿の外壁でもいい」

 遼は宿場の前庭に転がっていた木戸を持ち上げた。煤で真っ黒だが、反りは少ない。井戸の縄、焼け残りの釘、紐。手伝いの飛脚二人が目を丸くしたまま立ち尽くしているので、遼は片手を挙げて笑った。
「板はね、道の顔になる」

 板を立てかけ、表面を小刀で削って炭を落とす。指先で撫で、ざらつきが減ったら、炭片を砕いて小さな袋に入れ、油で溶いた。簡易の黒墨ができる。
 遼は板の上に三つの欄を描いた。
 ――今夜の安全時間帯。
 ――護衛の空き。
――便の発着時刻。
 そして端に、小さな目印。「断路兆候メモ」。
「線は太く書け。遠目に読める字は、近くでも読みやすい」
 炭のにおいのする字が板に生まれ、宿の前に列のように立つ人々の視線を引いた。

 《路標》が遼の視界の隅で、微かに震える。ヒートマップの赤は夕刻に濃くなり、夜半に最高潮、その後、明け方に向けて薄くなる傾向。過去二日のログから予測した“安全時間帯”は、今夜は未明の二刻(四時間)だ。
「今夜、二刻。未明の前半。緑がわずかに繋がる」
 遼が板にそう書くと、ざわめきが起きた。
「二刻で何を運ぶってんだ」
「まず一本だけ。“定時便”を復活させる」
「一本だけ?」
「一本だけが、明日の二本になる。三本にはならない。三本にするには、二本の“無事”がいる」

 板にはさらに、護衛の空きを書いた。誰が手を挙げるか、いくらで、どこまで。
 護衛の名が書ける者は少なかった。腕に覚えのある者の多くは昨夜の戦いで傷を負い、あるいは断路に飲まれた。
 それでも、一人、名乗り出た男がいた。肩口の鎖帷子はところどころ欠けているが、刃こぼれの少ない短剣を腰に差し、目は疲れていない。
「ロック。森際までなら付き合う」
「助かる」
 遼は黒板に“護衛:ロック/森際まで/謝礼:銀二枚(帰路で一枚)”と書き、板の端に括り付けた袋から銀片を二つ出す。目の前で一枚を渡し、もう一枚は板に紐で括り付ける。
「この一枚は“帰還の証”。戻ってきたら、紐を切って取ってくれ」
「逃げる奴は?」
「紐が残る。それで十分だ」

 関所の話になると、空気が重たくなる。
 賄賂は即効性のある潤滑油だが、やがて機械の中で焦げて固まる。
「関所には“検数刻”を置こう」
「ケンスウ?」
「出入りの数を毎刻書く小札だよ。通行を止めるなら止めるで、止めた数を書く。理由も三語で。『断路兆候』『魔物出没』『橋修繕』。賄賂で通したら――通した自分の名も書く」
「名を晒すのは……」とエイダが眉を寄せた。
「名は責任の最小単位だ。晒すのが怖いなら、行いを変える」
 遼は関所へ向かう少年飛脚に小札の束を渡し、王都から使ってきたやり方を簡潔に教えた。三行ルール――日付/数/理由。理由は詩でもいい。長くしない。長い詩は、理由にならない。

 夕刻、板は人で囲まれた。遼は自分で第一便に乗ると告げた。
「無茶だ」と誰かが言い、エイダは苦笑して肩をすくめた。「うちの飛脚の前で、それを言う?」
「うちの団は半壊でも、気骨は残ってる」とロックが言い、短剣の鞘を軽く弾いた。

 出発までの間、遼は《路標》に目を走らせた。
 ヒートマップの赤の縁がざわつく時間帯、風向きが変わる。空気の匂いが焦げた果実のように甘くなる。温度は一度、下がる。下がった後、小刻みに上がり、また下がる――断路獣は熱を嫌うのではない。振動を好むのだ。
 《路標》が示す細い線は、森の手前で右に折れ、古い宿の塀に沿って流れ、潰れた石橋を避けて浅瀬を渡る。
 最短路は最善路ではない。最善路は、その場の「人」と「獣」と「風」の総和で決まる。

 夜が落ち、湿った冷気が土の上に薄い膜を張った。
 遼は先頭に立つ。背には軽い荷、腰には短い棒。棒の先には薄く青い鉱石を削りつけてある。振れば、淡い音が出る。波長は低く、人にはあまり聞こえず、獣にはよく聞こえる。
「走る前に、聞く。嗅ぐ。感じる」
 エイダは飛脚五人を選び、整列させる。足の具合、肺の強さ、目の反射。遼はそれを見て、二番手に背の低い少女を置いた。足の回転が速く、呼吸が深い。
 ロックは三番手。彼の役目は戦いではない。合図と、最後尾の押し上げ。
 板の前に残った人々が、息を呑んだ。誰も声を出さない。声は風に残る。風は断路に伝わる。

 走る。
 走り出しの三歩は地面の感触を確かめる足に任せ、四歩目から踵を意識して押す。呼吸は二歩で吸い、二歩で吐く。木々は近づき、土の匂いが濃くなる。
 《路標》が遼の視界を淡い緑で縁取る。右へ折れ、塀に沿って進む。
 風の中に、低い唸りが混じった。遼は棒をひと振りし、青い音を空に溶かす。音は遠くへ行かず、路の上に薄い膜となって留まる。
 膜が震えた。
 遼は左手を上げ、隊列を細くする合図を送る。
 前方、土の表面に波紋。
 断路獣は地を食う。目で見える形はない。あるのは兆しだ。
 波紋の縁が冷たくなる。温度が、ひやりと落ちる。
 甘い匂いが強くなり、次いで、石粉の匂いが鼻の奥を刺す。
 遼は右に五歩、左に二歩、後ろに一歩――と、手で合図を刻む。隊列は合図に従い、詰まらずに形を変える。
 波紋は隊列の左をかすめ、土が小さく崩れた。崩れた縁に、灰色の砂が芽のように立つ。
 ――記録。
 遼は頭の中のメモに短く印をつけた。「低温→甘香→石粉」「音反応:低周波+」。
 呼吸を整え、再び走る。

 森際の暗さは凶暴ではなかった。暗いだけで、人を拒む色ではない。
 浅瀬の手前で、遼は棒をもう一度振り、音の膜を広げた。水面が一瞬だけ細かく震え、すぐに収まる。
 「今」
 遼の呟きに、飛脚たちの足が同時に水へ入った。
 冷たさは脛を刺したが、冷たいほど筋肉は規則を思い出す。浅瀬の底は砂ではなく丸い小石。足の裏が嫌う感触だが、嫌いだからこそ普段の推進に頼らず、足の指が働く。
 渡り切る直前、上流から流れてきた小さな流木が水面で跳ねた。遼は青い音を短く打ち、跳ねの波を潰す。
 背後でロックが短く息を吐いた。「今のは?」
 「振動を消した。波が立つと、道が鳴る」
 「道が鳴ると?」
 「断路獣が寄る。音が好きなんだ」

 森を抜けてからの平地が、今夜の緑の最長区間だった。《路標》のヒートマップで見た通り、緑は点ではなく線になっている。
 遼は速度を一段上げ、呼吸のリズムを変えた。
 その直後、空気の温度が、不自然に一度上がった。
 上がるのは、獣が近い合図ではない。獣の咀嚼が遠い場所で起きている合図だ。
 遼は足を止めないまま、指先で合図を送る。
 ――広がれ。
 隊列が扇形に開く。
 土の割れ目が、夜の光に照らされずに口を開いた。その口の縁に灰の砂が寄り、砂に混じって光の粒がわずかに瞬いた。
 遼はそれを見ながら、心の中で言葉を選ぶ。
 ――今のは「断路獣の咀嚼跡」。
 ――温度上昇→遠咀嚼→安全は相対。
 記録は短い方がいい。複雑なことの中心だけを、後で拾えるようにする。

 一本目の便は、予定より四半刻早く、森際の中継所に辿り着いた。中継所には小さな灯りが一つ。エイダがそこに先回りしており、両手で拍を一つ打った。
 拍は静かで、深かった。
 遼は荷を降ろし、ロックに銀片の残りを渡し、紐を切らせた。ロックは笑い、短剣の鞘で紐を刃にかけないように慎重に切った。
「帰還の証、受け取った」
「次は?」
「次は――板の前で話す」



 夜明け前、宿場の前に戻った遼たちは、板の前に人が群れているのを見た。
 板には、誰かが勝手に書き足した細い線がある。
 ――渡河時の石の配置。
 ――森際の倒木位置。
 ――関所の“検数刻”最初の記録。
 関所の小札には、丁寧すぎる字でこう書かれていた。
 日付:今夜
 数:止め二、通し一
 理由:断路兆候/護衛不足/上意
 名:……
 最後の「名」だけが空白で、薄い線で後から名前の幅が描かれている。
 遼はエイダを見やり、エイダは肩をすくめた。「名は、朝に書かせる。夜の名は、夜の風に消える」

 遼は板の「断路兆候メモ」に、自分たちの記録を短く書き込んだ。
 ――低温→甘香→石粉で接近。
 ――遠咀嚼は温度上昇。
 ――音膜有効。波を殺す。
 文字が乾くのを待たず、遼は指先で線を引き、今日の緑がどこで繋がるかを描いた。《路標》が示した最短路は、森を二度横切る。だが避けるべき波紋は朝に弱くなる。ならば――
 「二便目は、午前の後半だ。関所は検数を続けろ。理由は三語から増やすな。増やすと嘘が混ざる」
 「護衛は?」
 「護衛は“登録制”にする。板に名をかけ。条件をかけ。弱さもかけ。弱さは恥じゃない。戦えない夜は、戦えないと書け」
 人の中で、誰かが短く笑い、やがて頷きが続いた。

 ロックが遼の肩を叩いた。「お前の《路標》は便利だな」
 遼は首を振る。「便利なのは道だよ。俺は道が好きなだけ。道は、見たがってる」
 「見たがってる?」
 「うん。人が見るほど、道は強くなる。道は踏まれるほど、逃げない」

 朝の空気が、炭の匂いから麦の匂いへと転がり始める。
 宿の裏手で、炊き直した粥が湯気を立てる。湯気は薄く、しかし筋が太い。
 遼は椀を受け取り、背の低い少女――二番手で走った子に渡した。
「君の回転は綺麗だった。名前は?」
「サラ」
「サラ、君は“時間”を見られる。後ろに流れる風の速さを、目が覚えてる。黒板に数字を書く役、やってみないか」
 サラは椀を見つめ、顔を上げて頷いた。目が少し長い。長い目は、長い道を見る。
 「三語だけでいい。『出発』『到着』『理由』。理由は詩でもいい。長くしないで」
 サラは笑った。「詩は短い方が好き」

 関所から、足音が近づいた。
 布に包んだ小札が差し出される。
 日付:夜明け
 数:通し一、止め一
 理由:護衛不足
 名:ダル
 名前は震えず、しかし躊躇もない字で書かれていた。
 遼はダルに言った。「止めるのは悪じゃない。書かないのが悪だ」
 ダルは肩を張って頷き、深く息を吐いた。「書くのは怖い。けど、書かない方がもっと怖い」

 エイダが板の端に指を添えた。「定時便は一本だけって言ったね」
「一本から二本にする。今日の夕刻に、短い“町内便”を挟む。宿場から関所まで。理由は三つだ。関所の検数癖を定着させる。護衛の登録を板の前でやる。あと――」
「あと?」
「サラに、板の前で人を待たせる」
 サラは照れたように笑い、すぐに真面目な顔に戻った。板の前に立つ人は、板を人にする。板が人になれば、道は人になる。人になった道は、獣に食べられにくい。

 《路標》が、遼の視界の隅で、朝のヒートマップを揺らす。赤は昨夜より薄い。緑はまだ細いが、細いものは伸びやすい。
 遼は深呼吸し、板に新しい線を加えた。
 ――避けるルート。
 森の縁で右へ折れる前に、三歩、左へ膝を使って沈む。その後、浅瀬の石の列を二つ飛ばす。
 文字に矢印を添え、端に小さく、こう書いた。
 ――音は低く。匂いは甘く。温度は揺れる。
 書き終えたとき、遼の耳にざわ、と草の鳴る音が入った。
 宿場の外、焼け跡のさらに外、断路の縁に小さな影が動く。
 人でも獣でもない。道の形をした何か――断路獣の残り香。
 遼は棒を持ち上げ、青い音を、薄く、遠くへ伸ばした。
 音は道の上に留まり、震え、やがて静かになる。
 影は動きを止め、砂は立たず、縁は崩れない。
 「記録」
 遼はつぶやき、板にもう一行。
 ――夜明けの断路は、音に眠る。
 エイダが肩で笑った。「詩だね」
「詩は短い方が効くんだ」



 午前の終わり、二便目が板の前で準備を整える。護衛の登録札は十と少し集まり、職人、狩人、元兵士が各自の弱さと強みを書いた。
 ――弓、遠くは苦手。
 ――剣、左腕弱い。
 ――足は速い、長くは持たない。
 弱さを晒す字は、強さの筆圧を持っていた。
 サラは黒板に「出発」を書く。
 遼は彼女の字の横に立ち、白い粉のついた指で二本の線をそっと整える。字の綺麗さは、合意の速さ――王都で学んだことは、焼けた宿場でも通用した。

「遼」
 エイダが声を低くした。
「定時便が二本になったら、次は?」
「次は、“誰がいなくても回る”を確かめる。――俺が」
 エイダは目を細め、うなずいた。「分かった。置いていく。置いていっても、戻ってくるなら、もっといい」
「戻る色は決めてある」
 遼は手首に巻いた薄青の紐を掲げた。紐は、戻る道の色。
 サラが笑い、ロックが短剣の柄を軽く叩き、ダルは小札を胸に入れた。
 板の前に集まった人々は、遼がいなくとも板の端を真っ直ぐに保てるだろう。板は人だ。人は板だ。道は人が見て、人は道で考える。

 遼は《路標》の表示を静かに落とした。
 ヒートマップは朝の緑を保ったまま、薄い呼吸のような揺らぎを見せる。
 彼は鉛筆を持ち、板の隅に短く書いた。
 ――今日の便は、今日で終わらない。
 ――明日の便は、今日の線から始まる。
 字は小さいが、消えにくい。
 鉛筆は武器であり、楽器だ。武器は収めるためにあり、楽器は合わせるためにある。

 空は高く、風は穀物の匂いを運び、焼け跡の黒は、もう崩れない。
 二便目が走り出し、板の前に残った人々が遠くへ手を振る。
 遼は振り返らず、板の影が地面に落ちる角度を見て、短く笑った。
 道は、見たがっている。
 見られた道は、獣に食べられにくい。
 そして――道は、走る者に優しくなる。

 その夜、関所の「検数刻」は三枚になり、理由の欄には新しい言葉が一つ増えた。
 ――団結。
 詩に似たその一語は、三語の規則を破ってはいない。理由は短く、しかし厚かった。
 遼はその紙を読み、板の端に手を置き、目を閉じた。
 断路獣の気配は遠い。
 音は低く、匂いは薄く、温度は揺れない。
 明日の便は、今日より一本多い。
 一本多い便は、明後日の一本を楽にする。
 道は、そうやって増える。

 遼が目を開けると、《路標》の薄い光が、彼の視界の端で穏やかに脈を打った。
 ――記録、保存。
 ――安全度ヒートマップ、更新。
 ――避けるルート、共有。
 《路標》は道具だ。けれど道具は、人の指から外れて初めて道になる。
 遼はそっと指を下ろし、板の前から下がった。
 板は人で囲まれ、道は人の足音で満たされる。
 焼けた宿場は、もう焼けた宿場ではない。
 道の始点だ。
 遼は胸の中のT字に小さく点を打ち、心の奥で呟いた。
 ――借方は命、貸方は物語。
 そして、注にこう足す。
 ――路は、見えるほど強くなる。