王城大広間は朝の冷気を飲み込みきれず、石の柱の根本にうっすらと白い靄が残っていた。高窓から差し込む光は細く、塵は粉雪のように舞い、床の黒い石は蝋で磨かれて鏡めいていた。毎年の儀式――“建国神話決算”の日である。
壇上には竪琴、銀の口縁をもつ杯、黄金の仮面を支える檀。詩人の列がゆっくりと入場し、銀糸の裾を引く衣が石を撫でる。第一王女レティシアは中央の椅子に静かに腰を下ろし、真珠色の瞳を半眼にして群衆のざわめきを吸い取った。
最初の詩は古い旋律で、海の神が波を刈り取り、砂漠の神が風を鎖で縛り、山の神が大地を肩で押して王国の輪郭を整える物語だった。詩人たちは丁寧に韻を繋ぎ、最後の句で声を重ねる。
「今年も赤字だが、神話は我らを守る」
拍手。手のひらが石壁で反響して、多くの春と秋とが重なった音のように聞こえる。
だが、音の最後の薄い余韻に、ひと叩き分だけ遅れて届く緊張が混じった。人は知っている。“守る”という言葉が、空腹と寒さを先送りにする時の響きを。
新名タクトは、背に板を負い、左右に会計兵を従えて壇上へ進んだ。彼は深呼吸を一度。借方は命、貸方は物語――胸の中でT字を撫でる。今日は、その真ん中に一本の線を引き直す日だ。
銀の杯の横、詩人たちの巻物の隣に、彼は羊皮紙一枚を置いた。いつもの装飾はない。黒い線と薄墨の影だけが、紙の上に静かに立っている。
線は一本に結ばれていた。実収、実出、未収、未払、そして特別会計。脇に、薄墨で“神話分”――詩により持ち出され、詩により埋められたと見做されてきた額――が注記されている。
大広間に、紙の擦れるような沈黙が落ちた。
タクトは声を上げない。声を立てたがるのは、恐れだ。数字は、静かに立つ。
「本日より、真実ベースで決算します」
石の壁がわずかに冷たさを増した気がした。
「“建国神話決算”は、美しい詩です。だが詩は、注の席に移ります。本文は、実の線で書く」
彼はまず、隠れ負債を示した。
聖戦特別会計――礼拝堂の地下で眠っていた穀物、祈祷の名目で動いた油と布。
王城維持費の外出し――王城の壁の修繕が“神前修繕”として詩に隠れ、財務の本文から抜けていた例。
公的倉庫の損耗――焼印板が切り裂かれ、時刻の刻みが消えた夜の損失。
薄墨が意味を持つ。墨の濃淡は、臆病と勇気の濃淡ではない。見え方の濃淡だ。
王女は静かに息を呑んだ。彼女の瞳に、線の細さが映る。逸らさない。
「嘘を剥がして、立て直す」
レティシアの言葉は低く、壇上の金が僅かに身じろぎしたような響きになった。
吟遊会計官ライエルは詩の巻物をそっと閉じ、指先で紙の端を撫でた。詩は今日、壇を降り、注の席に座る。呼吸の位置を変えるだけだ。
◆
議場は静かではいられなくなった。
怒号が飛ぶ。
「国を売るのか!」
「詩を殺すのか!」
元財務卿オルベックは指輪の嵌った拳で卓を叩く。短い音が何度も重層的に響き、古い合意の埃がわずかに舞い上がる。
教会騎士団長は沈黙の圧を前に押し出すだけで、大広間の温度を一度下げた。黒衣の列は動かない。動かないことが、時に最も強い動きになると彼らは知っている。
タクトは怒りの温度を見計らい、紙の別頁を静かにめくった。
“赤字の地図”。
赤字は悪ではない。見えないのが悪だ――と、彼はすでに幾度も言ってきた。今日、その地図を国中の前で広げる。
どこで生まれ、誰が支え、どこで消えるか。
王城の倉から村の倉へ、村の黒板から王都の黒板へ、黒板から人の腹へ。矢印は細く、曲がる場所には丸い節が描かれ、節の横に小さく“原因の色”が重ねられている。青は物流、茶は飢饉、黒は汚職、金は祈祷、薄青は“戻る道”。
彼は棒読みを避け、しかし物語的な抑揚をつけすぎない声で、矢印の往還をなぞった。
そして、増税なき再建の三カ年計画を掲げる。
“まず小さく試す。回るものを広げる”。
公共調達の透明化――刻印灯の件で行った仕様公開と競争入札の全国展開。
重複機関の統合――“詩の棚”と“数字の棚”の連絡通路を明示し、反復作業を一箇所に集める。
教育と道路への集中投資――学校の壁と危険箇所の赤布、秤の校正と黒板の更新を、基金で束ねる。
計画は詩ではない。だが、詩の呼吸を邪魔しない。
場内に、わずかに、呼吸の置き場ができた。
◆
ライエルが立った。
彼は竪琴に触れず、巻物を抱えたまま、壇の端に出る。
「詩の席は、最初ではなく、最後に」
彼は注釈詩を短く読む。
「冷たいものほど、器を温めよう。
器は数字。温めるのは、言葉。
言葉は鍋の縁で湯気を受け取り、
湯気を見せる――それが詩の役目」
詩は飾りではなく、理解の器へ降りてくる。
数字の皿を、詩がそっと手で支える。
議場の空気が僅かに変わった。怒りの矢が、標的が移動したのを知って速度を失い、空中で角を失う。
旧来派のある貴族が、苦い顔の皺を和らげた。「器を温める、か」
レティシアは頷いた。「冷たいものほど、器を丁寧に」
タクトは紙の端で指を拭き、次の頁をめくる。薄墨の注が、今日の主役のひとつに昇格する瞬間だ。
◆
最後に、彼は“連結の予告”を出した。
羊皮紙の下段。これまで薄墨に置かれ、詩の影に入っていた数字の列を、太い線で本文へ引き上げる宣言。
「来期より、聖戦特別会計を含む関連資金を、決算に連結します」
教会騎士団長の肩が微かに動いた。
オルベックは嘲笑したが、その笑いはどこか乾いている。
「祈りを数えるのか」
タクトは首を振る。「祈りの“量”を棚に置く。祈りの“価値”は詩に置く。棚を分ける。連結は、棚を並べることだ」
議員の幾人かは、薄墨の注に頷いた。彼らは自分の郷里の黒板に“白流通率”が掲げられたときに感じた安堵の記憶を思い出していた。可視化は恐怖ではない。未知が恐怖だ。
王女が立ち上がった。
「詩は残す。注に移す。数字は前へ」
採決の手は、最初の数名の躊躇を超えると、雪崩のように上がった。
賛成多数。
神話決算は終わる。
大広間に、見えない地鳴りが走った。石の床が、長い夢から目覚めるみたいに一度だけ呼吸したように感じたのは、気のせいではない。
◆
外の空気は思いのほか穏やかだった。
民衆はざわめく。ざわめくが、走らない。
王都の黒板価格は動かない。
パンの列は伸びず、塩の袋は昨日と同じ重さで手渡される。
パニックは起きない。透明さは“予測可能性”を生む。人は、明日の天気が雨だと知っていれば、洗濯物を今日干す。
アマリは胸に小さく息をため、細く吐いた。安堵の息は、決して大きな音を立てない。
タクトは壁の工程表へ行き、朱の小印をひとつ押す。
――決算注化:完了。
印の音は軽く、しかし彼の内側でずっしりと鳴った。借方は命、貸方は物語。物語は注へ。注は、現実を飲みやすくする薄い蜜だ。
ライエルが工程表の余白に、鉛筆で小さな二行を書き足した。
――嘘は甘すぎる。
――蜜は、ほどよい甘さでいい。
王女はタクトの横顔を見上げ、小声で言った。「怖いのは、知らないこと」
「知れば、選べる」
タクトは頷き、王女の言葉の重さを確かめるように一度だけ目を閉じた。
「選べることは、責任です。でも、呼吸がしやすくなる」
王女は小さく笑った。「器を温めたから?」
「ええ。器が冷たいと、熱い真実はこぼれます」
◆
日が傾き、石の大広間は夜の準備を始める。
タクトは会計兵に指示を出し、出納板の“特別会計”欄に小さな枠を足させた。黒板の端には“連結準備”の目印が立ち、各部署の棚には“注の移動”の矢印が描かれた。
彼の指先に白墨の粉が残る。粉は冷たいが、粉があると線が引ける。
アマリは笛箱の蝶結びを結び直し、薄青の糸の端を揃えて、箱の上に手を置いた。「戻ってきていい箱」は今日も三度、静かに開いた。
――「計算違いの報告」
――「過去の“借り置き”の返納」
――「今日、誰かを守った」
詩欄に「守った」と書かれた一行は短く、けれど厚かった。制度は、人の背の厚みで持ちこたえる。
◆
夜。
王城の小礼拝堂は、人の気配の少ない場所だ。金の糸で縁取られた布が祭壇の端に畳まれ、燭台の蝋は半ばで止まっている。
誰かの足音が、絨毯の上で消え、石の床に入ってまた現れ、扉の前で止まる。
金の糸の束が、一角で小さく光った。
次の瞬間、藁の束のように燃えた。
音はほとんどない。光だけが、礼拝堂の内側を白くし、その白が金に変わって、やがて黒に沈む。
翌朝、煙の匂いは薄く、しかし確かに残り、壁に焦げの指の跡が一つ、二つ、三つ。
礼拝堂の扉には、一枚の文書が黒い短剣で刺さっていた。
文書は王城の正式な紙で、上端には王家の紋、下端には余白。真ん中に太い字で――監査院設置。
短剣は黒く、刃は厚く、柄には誰のものでもない紋様が彫られている。
タクトは黒い刃の冷たさを目で量り、紙の文字の重さを指で測った。
監査院――第三者の目で数字を守る。
王女は文書を読み、短く頷いた。「外の目を招く」
ライエルは剣の影を見て、眉を寄せ、「影の詩は、韻を踏まない」と呟いた。
アマリは文書の端を押さえ、薄い震えを掌で押し止めた。「小さな黒字を……」
「小さな黒字が、国を救う」
タクトは言い切り、白墨を握った手をもう一度強く握り直した。
彼の胸の内のT字の貸方には“物語”の文字、注の隣に“監査”の小さな点。借方の“命”の横に“呼吸”。
数字は冷たくない。数字は、温度計だ。器を温めたなら、数字は体温を映す。
体温の集まりが、国の温度を作る。国の温度が、人の明日の歩幅を決める。
朝の鐘がひとつ。
石壁が、音を覚えたように小さく震えた。
物語は前に立たない。前に立つのは、数と、背中だ。
詩は注で待つ。注は、読みやすさを守る。
そして、監査院の扉の前で、短剣の影が短くなっていく。
影は短く、線は長く。
線は、今日も引かれる。
――第10話「小さな黒字が国を救う」。監査院、外部監査、第三者の目で数字を守るへ。
壇上には竪琴、銀の口縁をもつ杯、黄金の仮面を支える檀。詩人の列がゆっくりと入場し、銀糸の裾を引く衣が石を撫でる。第一王女レティシアは中央の椅子に静かに腰を下ろし、真珠色の瞳を半眼にして群衆のざわめきを吸い取った。
最初の詩は古い旋律で、海の神が波を刈り取り、砂漠の神が風を鎖で縛り、山の神が大地を肩で押して王国の輪郭を整える物語だった。詩人たちは丁寧に韻を繋ぎ、最後の句で声を重ねる。
「今年も赤字だが、神話は我らを守る」
拍手。手のひらが石壁で反響して、多くの春と秋とが重なった音のように聞こえる。
だが、音の最後の薄い余韻に、ひと叩き分だけ遅れて届く緊張が混じった。人は知っている。“守る”という言葉が、空腹と寒さを先送りにする時の響きを。
新名タクトは、背に板を負い、左右に会計兵を従えて壇上へ進んだ。彼は深呼吸を一度。借方は命、貸方は物語――胸の中でT字を撫でる。今日は、その真ん中に一本の線を引き直す日だ。
銀の杯の横、詩人たちの巻物の隣に、彼は羊皮紙一枚を置いた。いつもの装飾はない。黒い線と薄墨の影だけが、紙の上に静かに立っている。
線は一本に結ばれていた。実収、実出、未収、未払、そして特別会計。脇に、薄墨で“神話分”――詩により持ち出され、詩により埋められたと見做されてきた額――が注記されている。
大広間に、紙の擦れるような沈黙が落ちた。
タクトは声を上げない。声を立てたがるのは、恐れだ。数字は、静かに立つ。
「本日より、真実ベースで決算します」
石の壁がわずかに冷たさを増した気がした。
「“建国神話決算”は、美しい詩です。だが詩は、注の席に移ります。本文は、実の線で書く」
彼はまず、隠れ負債を示した。
聖戦特別会計――礼拝堂の地下で眠っていた穀物、祈祷の名目で動いた油と布。
王城維持費の外出し――王城の壁の修繕が“神前修繕”として詩に隠れ、財務の本文から抜けていた例。
公的倉庫の損耗――焼印板が切り裂かれ、時刻の刻みが消えた夜の損失。
薄墨が意味を持つ。墨の濃淡は、臆病と勇気の濃淡ではない。見え方の濃淡だ。
王女は静かに息を呑んだ。彼女の瞳に、線の細さが映る。逸らさない。
「嘘を剥がして、立て直す」
レティシアの言葉は低く、壇上の金が僅かに身じろぎしたような響きになった。
吟遊会計官ライエルは詩の巻物をそっと閉じ、指先で紙の端を撫でた。詩は今日、壇を降り、注の席に座る。呼吸の位置を変えるだけだ。
◆
議場は静かではいられなくなった。
怒号が飛ぶ。
「国を売るのか!」
「詩を殺すのか!」
元財務卿オルベックは指輪の嵌った拳で卓を叩く。短い音が何度も重層的に響き、古い合意の埃がわずかに舞い上がる。
教会騎士団長は沈黙の圧を前に押し出すだけで、大広間の温度を一度下げた。黒衣の列は動かない。動かないことが、時に最も強い動きになると彼らは知っている。
タクトは怒りの温度を見計らい、紙の別頁を静かにめくった。
“赤字の地図”。
赤字は悪ではない。見えないのが悪だ――と、彼はすでに幾度も言ってきた。今日、その地図を国中の前で広げる。
どこで生まれ、誰が支え、どこで消えるか。
王城の倉から村の倉へ、村の黒板から王都の黒板へ、黒板から人の腹へ。矢印は細く、曲がる場所には丸い節が描かれ、節の横に小さく“原因の色”が重ねられている。青は物流、茶は飢饉、黒は汚職、金は祈祷、薄青は“戻る道”。
彼は棒読みを避け、しかし物語的な抑揚をつけすぎない声で、矢印の往還をなぞった。
そして、増税なき再建の三カ年計画を掲げる。
“まず小さく試す。回るものを広げる”。
公共調達の透明化――刻印灯の件で行った仕様公開と競争入札の全国展開。
重複機関の統合――“詩の棚”と“数字の棚”の連絡通路を明示し、反復作業を一箇所に集める。
教育と道路への集中投資――学校の壁と危険箇所の赤布、秤の校正と黒板の更新を、基金で束ねる。
計画は詩ではない。だが、詩の呼吸を邪魔しない。
場内に、わずかに、呼吸の置き場ができた。
◆
ライエルが立った。
彼は竪琴に触れず、巻物を抱えたまま、壇の端に出る。
「詩の席は、最初ではなく、最後に」
彼は注釈詩を短く読む。
「冷たいものほど、器を温めよう。
器は数字。温めるのは、言葉。
言葉は鍋の縁で湯気を受け取り、
湯気を見せる――それが詩の役目」
詩は飾りではなく、理解の器へ降りてくる。
数字の皿を、詩がそっと手で支える。
議場の空気が僅かに変わった。怒りの矢が、標的が移動したのを知って速度を失い、空中で角を失う。
旧来派のある貴族が、苦い顔の皺を和らげた。「器を温める、か」
レティシアは頷いた。「冷たいものほど、器を丁寧に」
タクトは紙の端で指を拭き、次の頁をめくる。薄墨の注が、今日の主役のひとつに昇格する瞬間だ。
◆
最後に、彼は“連結の予告”を出した。
羊皮紙の下段。これまで薄墨に置かれ、詩の影に入っていた数字の列を、太い線で本文へ引き上げる宣言。
「来期より、聖戦特別会計を含む関連資金を、決算に連結します」
教会騎士団長の肩が微かに動いた。
オルベックは嘲笑したが、その笑いはどこか乾いている。
「祈りを数えるのか」
タクトは首を振る。「祈りの“量”を棚に置く。祈りの“価値”は詩に置く。棚を分ける。連結は、棚を並べることだ」
議員の幾人かは、薄墨の注に頷いた。彼らは自分の郷里の黒板に“白流通率”が掲げられたときに感じた安堵の記憶を思い出していた。可視化は恐怖ではない。未知が恐怖だ。
王女が立ち上がった。
「詩は残す。注に移す。数字は前へ」
採決の手は、最初の数名の躊躇を超えると、雪崩のように上がった。
賛成多数。
神話決算は終わる。
大広間に、見えない地鳴りが走った。石の床が、長い夢から目覚めるみたいに一度だけ呼吸したように感じたのは、気のせいではない。
◆
外の空気は思いのほか穏やかだった。
民衆はざわめく。ざわめくが、走らない。
王都の黒板価格は動かない。
パンの列は伸びず、塩の袋は昨日と同じ重さで手渡される。
パニックは起きない。透明さは“予測可能性”を生む。人は、明日の天気が雨だと知っていれば、洗濯物を今日干す。
アマリは胸に小さく息をため、細く吐いた。安堵の息は、決して大きな音を立てない。
タクトは壁の工程表へ行き、朱の小印をひとつ押す。
――決算注化:完了。
印の音は軽く、しかし彼の内側でずっしりと鳴った。借方は命、貸方は物語。物語は注へ。注は、現実を飲みやすくする薄い蜜だ。
ライエルが工程表の余白に、鉛筆で小さな二行を書き足した。
――嘘は甘すぎる。
――蜜は、ほどよい甘さでいい。
王女はタクトの横顔を見上げ、小声で言った。「怖いのは、知らないこと」
「知れば、選べる」
タクトは頷き、王女の言葉の重さを確かめるように一度だけ目を閉じた。
「選べることは、責任です。でも、呼吸がしやすくなる」
王女は小さく笑った。「器を温めたから?」
「ええ。器が冷たいと、熱い真実はこぼれます」
◆
日が傾き、石の大広間は夜の準備を始める。
タクトは会計兵に指示を出し、出納板の“特別会計”欄に小さな枠を足させた。黒板の端には“連結準備”の目印が立ち、各部署の棚には“注の移動”の矢印が描かれた。
彼の指先に白墨の粉が残る。粉は冷たいが、粉があると線が引ける。
アマリは笛箱の蝶結びを結び直し、薄青の糸の端を揃えて、箱の上に手を置いた。「戻ってきていい箱」は今日も三度、静かに開いた。
――「計算違いの報告」
――「過去の“借り置き”の返納」
――「今日、誰かを守った」
詩欄に「守った」と書かれた一行は短く、けれど厚かった。制度は、人の背の厚みで持ちこたえる。
◆
夜。
王城の小礼拝堂は、人の気配の少ない場所だ。金の糸で縁取られた布が祭壇の端に畳まれ、燭台の蝋は半ばで止まっている。
誰かの足音が、絨毯の上で消え、石の床に入ってまた現れ、扉の前で止まる。
金の糸の束が、一角で小さく光った。
次の瞬間、藁の束のように燃えた。
音はほとんどない。光だけが、礼拝堂の内側を白くし、その白が金に変わって、やがて黒に沈む。
翌朝、煙の匂いは薄く、しかし確かに残り、壁に焦げの指の跡が一つ、二つ、三つ。
礼拝堂の扉には、一枚の文書が黒い短剣で刺さっていた。
文書は王城の正式な紙で、上端には王家の紋、下端には余白。真ん中に太い字で――監査院設置。
短剣は黒く、刃は厚く、柄には誰のものでもない紋様が彫られている。
タクトは黒い刃の冷たさを目で量り、紙の文字の重さを指で測った。
監査院――第三者の目で数字を守る。
王女は文書を読み、短く頷いた。「外の目を招く」
ライエルは剣の影を見て、眉を寄せ、「影の詩は、韻を踏まない」と呟いた。
アマリは文書の端を押さえ、薄い震えを掌で押し止めた。「小さな黒字を……」
「小さな黒字が、国を救う」
タクトは言い切り、白墨を握った手をもう一度強く握り直した。
彼の胸の内のT字の貸方には“物語”の文字、注の隣に“監査”の小さな点。借方の“命”の横に“呼吸”。
数字は冷たくない。数字は、温度計だ。器を温めたなら、数字は体温を映す。
体温の集まりが、国の温度を作る。国の温度が、人の明日の歩幅を決める。
朝の鐘がひとつ。
石壁が、音を覚えたように小さく震えた。
物語は前に立たない。前に立つのは、数と、背中だ。
詩は注で待つ。注は、読みやすさを守る。
そして、監査院の扉の前で、短剣の影が短くなっていく。
影は短く、線は長く。
線は、今日も引かれる。
――第10話「小さな黒字が国を救う」。監査院、外部監査、第三者の目で数字を守るへ。



