南東の辺境に近い高台から、海は一枚の硝子板のように見えた。陽が上がるたび、板は角度を変えて白く光り、その白さがやがて陸へ押し寄せる。塩の村は、その白い波の終点にあった。
地面は薄く粉をまぶした菓子のようで、靴底が歩くたびにきゅっきゅと鳴る。塩田は幾何学の練習帳めいて規則正しく、風が片側から吹けば鏡面がさざめき、もう片側は固まった白を鈍く光らせる。
白い風。白い田。白い息。
だが、村の蔵だけは黒かった。扉は二重三重に施錠され、錠の上からさらに縄で結ばれている。帳場の壁には棒グラフならぬ棒線――乾いた葦筆で引いた「だいたい」の線が並び、その下に「昔からこれくらい」とだけ書かれていた。
塩税は重い。密売は常態化。王都の黒板で価格が落ち着いたあとも、この村の塩だけは高止まりのまま、白から灰への中間色で売られている。
村長は身幅の広い男で、皮膚は風に焼け、目だけが濡れていた。彼は新名タクトを一瞥し、潮の匂いで言葉を洗うように低く言った。
「王都の理屈は潮騒で消える」
タクトは笑わなかった。「潮で消えない線を引きに来ました」
王女レティシアは隣に立ち、真珠色の瞳で塩田を眺める。ライエルは風上で口元を覆い、詩を逃がさないように舌で押さえた。アマリは村の子どもたちに囲まれて、靴底の白い粉を指でなぞり、「これは“味の粉”」と囁くと、子たちは頷き、舌の上で粉の形を確かめた。
◆
村役場に見立てられた民家の座敷に、薄い板が持ち込まれた。タクトは白墨で三つの枠を描く。
「三点、持ってきました」
一つ目――軽減税率。「生活用塩は税率を下げます。料理に使う塩、保存のための塩。生きるための塩と、遠くで贅沢に使われる塩は別の棚に置く」
二つ目――免税点。「小規模家内は一定量まで免税。つまり、家の鍋を満たす程度の塩は“税の棚”に載せない」
三つ目――魔法刻印。「塩の袋に、一度だけ光る刻印を押す。合法の流通を可視化する。刻印は二度目は光らない。再販で横流しすれば、光らない袋が紛れる。すぐ、ばれる」
座敷の空気がさざめき、白い風が障子紙を細く震わせた。
「光る?」村長が眉をひそめる。
「刻印灯の魔術は単純です。月と潮位に同期させた“ひと夜だけの光”。押された瞬間、銀の粉が目を覚まし、翌朝には眠る。眠った銀はもう起きない」
会計兵のベルトが、手のひらサイズの刻印灯を取り出し、板の端に押した。白い室内に、短く清潔な光が走る。
座の奥、腕を組んだ若い女商人が、光に目を細めた。
ミナ、と周囲が囁く。村の塩の道を半分は一人で担ってきた女らしい。髪は海風で乾いた黒、目は岩塩のように固い灰。
彼女は腕をほどかず、冷たく言った。「王都の正義で村を壊さないで」
レティシアは顔を上げ、反論のために息を吸った。しかしタクトは手を軽く振り、即答を避けた。
「今日は机上の正義を置いてきた。君の一日に同行させてほしい」
◆
夜明けの塩出しは、静かで厳しい儀式だった。
ミナは籠を担ぎ、塩田の縁でしゃがみ、塩の皮膜を木の匙でそっと起こす。起こした膜は薄い皿のようで、陽に当たってざらりと音を立てる。
壊れた荷車の車輪は、布と麻紐で縛って保たせる。タクトは車輪の縁に指を当て、木目の割れに膠の匂いを嗅いだ。「冬を越えた膠は疲れている」
ミナは無言で頷き、車輪の下へ小石を噛ませ、紐を二重にした。
検問は丘の切れ目にあり、兵が二人。片方の兵の袖口には、塩の粉とは違う汚れ――油の筋がある。
ミナは荷の一袋をそっと横に置く。兵の指が袋の口に触れ、ほつれを確かめるふりをして重みを測り、黙ってうなずく。
王都へ通じる街道の細い影で、また別の“袖の下”。
タクトはその都度、短く数字を記した。――袋一、袋半、銅貨四。
村へ戻る頃には、日が高い。ミナは汗で額の毛を張り付かせ、舌を鳴らした。「見たでしょう。これが“正義”よ」
タクトは板の裏に、素早く計算を走らせた。
「“袖の下の総額”を実負担として足す」
粗末な卓上に数字が立った。
――今日の売上に対する“袖の下”比率:一五%。
――検問二回、関所一回、街道の影一回。
――正規の税率に、上乗せ十五。
「君は、正規の税率より高い税を払っている」
ミナの灰の瞳がわずかに揺れた。
「でも、“通れる”」
「通れるのは、運が良いからだ。運は制度ではない。運は、君の背中を永遠に疲れさせる」
言葉が塩の粒のように舌の上で解けるのを、ミナは感じた。解けるのは遅いが、解け始めれば速い。
「……白い線を、引ける?」
「引ける。君と一緒に」
◆
白色流通ルートの設計は、村の地図を白く塗る作業から始まった。
検問所は、丘の陰から見える場所へ移し、刻印灯は人目に立つ位置へ。刻印は“見えないところで押す”ほど腐る。光は人目で意味を持つ。
荷車は共同所有にする。村の共同箱から小銀貨を出し、職人に新しい車輪を二つ、古い車輪を二つ修理させ、四台を村の名で登録した。車輪の芯には小さな白い印が刻まれる――白い印章。
巡回日の公開。
検問の兵は前夜に明日の巡回時刻を黒板に書く。“不意打ち”の文化をやめ、予定を守る文化へ。予定は詩の韻のように、息を合わせる道具だ。
ミナは、刻印の押し方を覚えるのに一刻もかからなかった。押す位置、袋の口の固さ、光が一番よく見える角度。
「光らない袋は、私が見つける」
彼女はそう言い、白い印章を胸に掛けた――女性商人ギルドの“白の印章”。
王城の黒板には、新しい欄が増えた。
――塩の白流通率。
日に一度、村からの使いが白流通の数字を掲げ、王都の市場はそれを見て頷いた。高すぎる価格の名札の横に、白流通率の数字が添えられると、冒険者酒場の話題は「誰が高い」から「なぜ白が少ない?」へ移る。
白で勝つ――村の誇りが、少しずつ方向を変えた。
◆
変化は、別の影を呼び寄せた。
王都の重商会が圧力をかけてきたのだ。
「刻印灯の魔法は我らの独占技術」
彼らは鼻で笑い、単価表を卓に叩きつける。
タクトは単価表を反転させ、仕様書の公開を宣言した。
「刻印灯の仕様を公にします。複数工房の競争入札。名札制で行う。高値は悪名。悪名は詩になる。詩は長く残る」
名札制の効果は速かった。
重商会は名を晒すことを嫌がったが、名を出さない者は黒板に触れない。触れないことが、市場では触れられないことと同義になっていった。
単価は下がった。
さらに、タクトは“白流通”への小さな信用枠――王城の短期融資を付けた。
返済は黒板に掲示する。利息も掲示する。利息は詩ではないが、詩の隣に置けば、人は読む。
ミナが最初の貸付を受けた。銀貨二十。返済予定は四十日。利息は銀貨一。
彼女は黒板の前で利息の一を指で叩き、「これなら、眠れる」と笑った。
村の酒場は拍手で揺れた。拍手は硬い木の天井に跳ね返り、塩の粉が梁から落ちた。
「白い塩は、白い紙から」
王女レティシアが静かに言い、会計兵のシオンが黒板の「白流通率」に今日の数字を足した。
ライエルは詩を二行、黒板の端に置く。
――白は、隠れるための色ではない。
――白は、見せるための色だ。
◆
白の流れは、村の動きを変えた。
検問所の改築は三日で終わった。刻印灯は高い柱に取り付けられ、夕暮れどきに短く点灯する。光は刻印の跡に反応し、袋が白い息をひとつ吐くように一瞬だけ明るむ。
荷車の共有台帳には、誰が、いつ、どの車を、どこへ、何袋運んだかが三行ルールで並んだ。三行は、村の声の拍子になった。
巡回日の公開は、最初こそ兵の不満を招いたが、やがて兵は自分たちの予定が村の予定と組み合わさって軽くなるのを理解した。
白い印章を持つ女性商人ギルドの集会は、塩倉の裏で開かれた。
ミナは印章を掲げ、「白の印章は、塩を軽くする」と言い、子どもたちに袋の持ち方を教えた。
子どもが袋を持ち上げると、刻印の跡が薄く光る。
アマリは跡の上に手をかざし、子どもに説明する。「一度だけ光るのは、“もう押したよ”って合図。二度目は光らないのは、“ここで寝てる”って印」
子どもはすぐ歌を作った。
――ひとひかり ふたねむり
――みしるし しろの道
ライエルはその歌を書き留め、「刻印歌」と名づけて紙片を壁に貼った。
◆
白い流れに乗り切れない者もいた。
村外から来た男たちが、夜の酒場で声を荒げた。「白で勝つ? 笑わせる。名札は鎖だ。刻印は首輪だ」
ミナは振り返らずに言った。「鎖を外しても、あんたは走らない」
男たちは舌打ちをし、黒板の前に立った。そこには名札と数字と利息と白流通率が並び、足元には子どもの描いた刻印の絵が貼ってある。
数字は冷たい、と誰かが呟いた。
タクトは酒場の隅から静かに応じた。「冷たいのは嘘です。数字は温度計。塩の味の温度を、測るためにある」
◆
数日後、村の空気が少し軽くなった。
白流通率が四割を越えた日、王城の黒板の端に細い飾り罫が加えられた。
子どもたちは刻印歌を早口で歌い、ミナは白い刻印の袋を肩に担いで「胸を張って売れる」と言った。
「誇りは税率に宿らない。見える手続きに宿る」
タクトが答えると、ミナは短く笑った。「詩みたいに言わないで」
「詩は最後の句読点。今は本文」
レティシアは白い風の中で瞼を細め、頬に塩の粉を受けて微笑んだ。「白い塩は、白い紙から」
タクトは頷き、胸の内のT字の貸方を指で撫でた。――物語は注に、注は白で。借方は命、貸方は物語。物語の余白に、白の規則。
アマリは村の子に刻印灯の仕組みをもう一度説明し、「一度だけ光る理由」を図に描いた。起きる、寝る、起きない。子どもは図の隅に小さな星を描き足した。
夜、風が塩田を渡る。白い田の表面が黒に沈み、星の欠片のような家々の灯りが散らばる。鍛冶場の火は低く、酒場の笑いは短く、倉の鍵は静かだ。
◆
変事は、静けさのど真ん中で起きた。
夜半、刻印灯が、勝手に三度、光った。
仕様上、不可能。ひと夜に一度だけ。二度目は眠り、三度目は夢も見ない。
光は短く、しかし確かに三度。村の犬が二回目の光で吠え、三回目で黙った。
アマリは寝所から飛び起き、外に出て刻印灯を仰いだ。灯はもう眠っている。柱の根元に、薄紙がひらりと落ちているのを風が押し上げ、一歩遅れて地面に戻した。
薄紙には、短い文字。
――聖戦特別会計。
紙の端には、古い祈祷文字の短冊が重ねられ、銀粉が指に移る。
朝になって、刻印灯の根元から、その短冊が正式に見つかった。
村長は顔をしかめ、ミナは眉を吊り上げ、兵は剣に手をかけかけて、王女の視線で止まった。
タクトは短冊を両手で持ち、光に透かした。銀の粉は白い。白いのに、光り方が違う。
「仕様を曲げる手がある」
レティシアは低く言った。「物語が、制度の上に乗ってくる」
タクトは黒板の端に、細く、しかし読める字で書いた。
――特別会計の棚を、決算に連結する準備。
――真実ベース決算。
ライエルが息を吸い、吐いた。
――詩は、注で待つ。
村は静かに眠る――はずだった。
だが塩の風は白く、風の中に微かな金の匂いが混じった。
白い線は、白いだけでは守れない。白い線が刺繍のように美しく見えるほど、黒い糸は忍びやすくなる。
タクトは胸の内のT字の上で、貸方に小さく書き足した。――決算。
借方には――命。
数字は、鏡を磨く布だ。地方は国の鏡。鏡が曇れば、顔を疑う。曇りを拭くのは、水ではない。布だ。布は、人の手。
人の手は、明日また、板を持つ。紙を持つ。鍛冶場の火の横で、詩の欄に一行を置く。
――第9話「物語と決算」。真実ベース決算、特別会計の影、議会の騒然へ。
地面は薄く粉をまぶした菓子のようで、靴底が歩くたびにきゅっきゅと鳴る。塩田は幾何学の練習帳めいて規則正しく、風が片側から吹けば鏡面がさざめき、もう片側は固まった白を鈍く光らせる。
白い風。白い田。白い息。
だが、村の蔵だけは黒かった。扉は二重三重に施錠され、錠の上からさらに縄で結ばれている。帳場の壁には棒グラフならぬ棒線――乾いた葦筆で引いた「だいたい」の線が並び、その下に「昔からこれくらい」とだけ書かれていた。
塩税は重い。密売は常態化。王都の黒板で価格が落ち着いたあとも、この村の塩だけは高止まりのまま、白から灰への中間色で売られている。
村長は身幅の広い男で、皮膚は風に焼け、目だけが濡れていた。彼は新名タクトを一瞥し、潮の匂いで言葉を洗うように低く言った。
「王都の理屈は潮騒で消える」
タクトは笑わなかった。「潮で消えない線を引きに来ました」
王女レティシアは隣に立ち、真珠色の瞳で塩田を眺める。ライエルは風上で口元を覆い、詩を逃がさないように舌で押さえた。アマリは村の子どもたちに囲まれて、靴底の白い粉を指でなぞり、「これは“味の粉”」と囁くと、子たちは頷き、舌の上で粉の形を確かめた。
◆
村役場に見立てられた民家の座敷に、薄い板が持ち込まれた。タクトは白墨で三つの枠を描く。
「三点、持ってきました」
一つ目――軽減税率。「生活用塩は税率を下げます。料理に使う塩、保存のための塩。生きるための塩と、遠くで贅沢に使われる塩は別の棚に置く」
二つ目――免税点。「小規模家内は一定量まで免税。つまり、家の鍋を満たす程度の塩は“税の棚”に載せない」
三つ目――魔法刻印。「塩の袋に、一度だけ光る刻印を押す。合法の流通を可視化する。刻印は二度目は光らない。再販で横流しすれば、光らない袋が紛れる。すぐ、ばれる」
座敷の空気がさざめき、白い風が障子紙を細く震わせた。
「光る?」村長が眉をひそめる。
「刻印灯の魔術は単純です。月と潮位に同期させた“ひと夜だけの光”。押された瞬間、銀の粉が目を覚まし、翌朝には眠る。眠った銀はもう起きない」
会計兵のベルトが、手のひらサイズの刻印灯を取り出し、板の端に押した。白い室内に、短く清潔な光が走る。
座の奥、腕を組んだ若い女商人が、光に目を細めた。
ミナ、と周囲が囁く。村の塩の道を半分は一人で担ってきた女らしい。髪は海風で乾いた黒、目は岩塩のように固い灰。
彼女は腕をほどかず、冷たく言った。「王都の正義で村を壊さないで」
レティシアは顔を上げ、反論のために息を吸った。しかしタクトは手を軽く振り、即答を避けた。
「今日は机上の正義を置いてきた。君の一日に同行させてほしい」
◆
夜明けの塩出しは、静かで厳しい儀式だった。
ミナは籠を担ぎ、塩田の縁でしゃがみ、塩の皮膜を木の匙でそっと起こす。起こした膜は薄い皿のようで、陽に当たってざらりと音を立てる。
壊れた荷車の車輪は、布と麻紐で縛って保たせる。タクトは車輪の縁に指を当て、木目の割れに膠の匂いを嗅いだ。「冬を越えた膠は疲れている」
ミナは無言で頷き、車輪の下へ小石を噛ませ、紐を二重にした。
検問は丘の切れ目にあり、兵が二人。片方の兵の袖口には、塩の粉とは違う汚れ――油の筋がある。
ミナは荷の一袋をそっと横に置く。兵の指が袋の口に触れ、ほつれを確かめるふりをして重みを測り、黙ってうなずく。
王都へ通じる街道の細い影で、また別の“袖の下”。
タクトはその都度、短く数字を記した。――袋一、袋半、銅貨四。
村へ戻る頃には、日が高い。ミナは汗で額の毛を張り付かせ、舌を鳴らした。「見たでしょう。これが“正義”よ」
タクトは板の裏に、素早く計算を走らせた。
「“袖の下の総額”を実負担として足す」
粗末な卓上に数字が立った。
――今日の売上に対する“袖の下”比率:一五%。
――検問二回、関所一回、街道の影一回。
――正規の税率に、上乗せ十五。
「君は、正規の税率より高い税を払っている」
ミナの灰の瞳がわずかに揺れた。
「でも、“通れる”」
「通れるのは、運が良いからだ。運は制度ではない。運は、君の背中を永遠に疲れさせる」
言葉が塩の粒のように舌の上で解けるのを、ミナは感じた。解けるのは遅いが、解け始めれば速い。
「……白い線を、引ける?」
「引ける。君と一緒に」
◆
白色流通ルートの設計は、村の地図を白く塗る作業から始まった。
検問所は、丘の陰から見える場所へ移し、刻印灯は人目に立つ位置へ。刻印は“見えないところで押す”ほど腐る。光は人目で意味を持つ。
荷車は共同所有にする。村の共同箱から小銀貨を出し、職人に新しい車輪を二つ、古い車輪を二つ修理させ、四台を村の名で登録した。車輪の芯には小さな白い印が刻まれる――白い印章。
巡回日の公開。
検問の兵は前夜に明日の巡回時刻を黒板に書く。“不意打ち”の文化をやめ、予定を守る文化へ。予定は詩の韻のように、息を合わせる道具だ。
ミナは、刻印の押し方を覚えるのに一刻もかからなかった。押す位置、袋の口の固さ、光が一番よく見える角度。
「光らない袋は、私が見つける」
彼女はそう言い、白い印章を胸に掛けた――女性商人ギルドの“白の印章”。
王城の黒板には、新しい欄が増えた。
――塩の白流通率。
日に一度、村からの使いが白流通の数字を掲げ、王都の市場はそれを見て頷いた。高すぎる価格の名札の横に、白流通率の数字が添えられると、冒険者酒場の話題は「誰が高い」から「なぜ白が少ない?」へ移る。
白で勝つ――村の誇りが、少しずつ方向を変えた。
◆
変化は、別の影を呼び寄せた。
王都の重商会が圧力をかけてきたのだ。
「刻印灯の魔法は我らの独占技術」
彼らは鼻で笑い、単価表を卓に叩きつける。
タクトは単価表を反転させ、仕様書の公開を宣言した。
「刻印灯の仕様を公にします。複数工房の競争入札。名札制で行う。高値は悪名。悪名は詩になる。詩は長く残る」
名札制の効果は速かった。
重商会は名を晒すことを嫌がったが、名を出さない者は黒板に触れない。触れないことが、市場では触れられないことと同義になっていった。
単価は下がった。
さらに、タクトは“白流通”への小さな信用枠――王城の短期融資を付けた。
返済は黒板に掲示する。利息も掲示する。利息は詩ではないが、詩の隣に置けば、人は読む。
ミナが最初の貸付を受けた。銀貨二十。返済予定は四十日。利息は銀貨一。
彼女は黒板の前で利息の一を指で叩き、「これなら、眠れる」と笑った。
村の酒場は拍手で揺れた。拍手は硬い木の天井に跳ね返り、塩の粉が梁から落ちた。
「白い塩は、白い紙から」
王女レティシアが静かに言い、会計兵のシオンが黒板の「白流通率」に今日の数字を足した。
ライエルは詩を二行、黒板の端に置く。
――白は、隠れるための色ではない。
――白は、見せるための色だ。
◆
白の流れは、村の動きを変えた。
検問所の改築は三日で終わった。刻印灯は高い柱に取り付けられ、夕暮れどきに短く点灯する。光は刻印の跡に反応し、袋が白い息をひとつ吐くように一瞬だけ明るむ。
荷車の共有台帳には、誰が、いつ、どの車を、どこへ、何袋運んだかが三行ルールで並んだ。三行は、村の声の拍子になった。
巡回日の公開は、最初こそ兵の不満を招いたが、やがて兵は自分たちの予定が村の予定と組み合わさって軽くなるのを理解した。
白い印章を持つ女性商人ギルドの集会は、塩倉の裏で開かれた。
ミナは印章を掲げ、「白の印章は、塩を軽くする」と言い、子どもたちに袋の持ち方を教えた。
子どもが袋を持ち上げると、刻印の跡が薄く光る。
アマリは跡の上に手をかざし、子どもに説明する。「一度だけ光るのは、“もう押したよ”って合図。二度目は光らないのは、“ここで寝てる”って印」
子どもはすぐ歌を作った。
――ひとひかり ふたねむり
――みしるし しろの道
ライエルはその歌を書き留め、「刻印歌」と名づけて紙片を壁に貼った。
◆
白い流れに乗り切れない者もいた。
村外から来た男たちが、夜の酒場で声を荒げた。「白で勝つ? 笑わせる。名札は鎖だ。刻印は首輪だ」
ミナは振り返らずに言った。「鎖を外しても、あんたは走らない」
男たちは舌打ちをし、黒板の前に立った。そこには名札と数字と利息と白流通率が並び、足元には子どもの描いた刻印の絵が貼ってある。
数字は冷たい、と誰かが呟いた。
タクトは酒場の隅から静かに応じた。「冷たいのは嘘です。数字は温度計。塩の味の温度を、測るためにある」
◆
数日後、村の空気が少し軽くなった。
白流通率が四割を越えた日、王城の黒板の端に細い飾り罫が加えられた。
子どもたちは刻印歌を早口で歌い、ミナは白い刻印の袋を肩に担いで「胸を張って売れる」と言った。
「誇りは税率に宿らない。見える手続きに宿る」
タクトが答えると、ミナは短く笑った。「詩みたいに言わないで」
「詩は最後の句読点。今は本文」
レティシアは白い風の中で瞼を細め、頬に塩の粉を受けて微笑んだ。「白い塩は、白い紙から」
タクトは頷き、胸の内のT字の貸方を指で撫でた。――物語は注に、注は白で。借方は命、貸方は物語。物語の余白に、白の規則。
アマリは村の子に刻印灯の仕組みをもう一度説明し、「一度だけ光る理由」を図に描いた。起きる、寝る、起きない。子どもは図の隅に小さな星を描き足した。
夜、風が塩田を渡る。白い田の表面が黒に沈み、星の欠片のような家々の灯りが散らばる。鍛冶場の火は低く、酒場の笑いは短く、倉の鍵は静かだ。
◆
変事は、静けさのど真ん中で起きた。
夜半、刻印灯が、勝手に三度、光った。
仕様上、不可能。ひと夜に一度だけ。二度目は眠り、三度目は夢も見ない。
光は短く、しかし確かに三度。村の犬が二回目の光で吠え、三回目で黙った。
アマリは寝所から飛び起き、外に出て刻印灯を仰いだ。灯はもう眠っている。柱の根元に、薄紙がひらりと落ちているのを風が押し上げ、一歩遅れて地面に戻した。
薄紙には、短い文字。
――聖戦特別会計。
紙の端には、古い祈祷文字の短冊が重ねられ、銀粉が指に移る。
朝になって、刻印灯の根元から、その短冊が正式に見つかった。
村長は顔をしかめ、ミナは眉を吊り上げ、兵は剣に手をかけかけて、王女の視線で止まった。
タクトは短冊を両手で持ち、光に透かした。銀の粉は白い。白いのに、光り方が違う。
「仕様を曲げる手がある」
レティシアは低く言った。「物語が、制度の上に乗ってくる」
タクトは黒板の端に、細く、しかし読める字で書いた。
――特別会計の棚を、決算に連結する準備。
――真実ベース決算。
ライエルが息を吸い、吐いた。
――詩は、注で待つ。
村は静かに眠る――はずだった。
だが塩の風は白く、風の中に微かな金の匂いが混じった。
白い線は、白いだけでは守れない。白い線が刺繍のように美しく見えるほど、黒い糸は忍びやすくなる。
タクトは胸の内のT字の上で、貸方に小さく書き足した。――決算。
借方には――命。
数字は、鏡を磨く布だ。地方は国の鏡。鏡が曇れば、顔を疑う。曇りを拭くのは、水ではない。布だ。布は、人の手。
人の手は、明日また、板を持つ。紙を持つ。鍛冶場の火の横で、詩の欄に一行を置く。
――第9話「物語と決算」。真実ベース決算、特別会計の影、議会の騒然へ。



