夜の王城は、石の壁が音を呑み込む。廊下を渡る風さえ、自分の影を連れて歩くのをためらうほど静かだった。
 出納板の前で、アマリが指先で札の縁を揃える。緑、黄、赤――そして黒。
 黒は「未収(汚職疑義)」に割り当てられた小札で、ここ数日で三枚、増えた。
 不意に増えたのではない。朝には一枚、昼には一枚も増えず、夕刻に一枚、そして――深夜に二枚。
 どの札の裏にも、同じ位置に、同じ角度で小さな点が打ってある。墨の粒よりわずかに濃い、打音の残り香を持つ点だ。
 タクトは裏の点を見てすぐにアマリへ視線を投げた。
「時間帯別に、増減の記録を付けよう。札の裏の点の位置と角度も写しておく。会計兵は輪番で張り付き、交代の刻に必ず“影の空白”が生まれないように」
 アマリは頷く。白い札の束を胸に抱え、時の印――砂時計を二つ、板の足元に据えた。
 その晩、砂は深夜の刻で最も早く落ちた。黒札は深夜帯に集中して差し替えられている。つまり、城の内部の人間が、板に触れている。

 王女レティシアは報告を聞くと、目の中に灯した光をひとつ落とした。真珠色の瞳が曇るのを見るのは、タクトには辛い。
 けれど彼は落ち着いて言った。
「罰から入れば、沈黙が増えます。沈黙は孤立を肥やす。まず、孤立を減らす設計を前に置く」
 ライエルが壁にもたれ、低く口笛を吹く。「罰の詩は、耳が痛い。……では耳あたりの良い詩を?」
「耳ざわりじゃなく、“戻れる音”を作る」
 タクトは板の脇に新しい枠を描いた。小さな箱の絵。口に封をした笛の絵。
「匿名告発窓口――“笛箱”を設けます」
 さらに二つ、線を引く。
「誤り申告の減罪規定。事前自主申告は行政処分で済ませる」
「職務の再設計。汚職が起きやすい動線の分離と、交代制の導入」
 ライエルは眉を上げた。「罪を軽くする歌?」
「再発しない歌だ」
 王女は短く頷き、私印を取り出した。「権威は“守る側”の顔でいなきゃいけない。笛箱は私印で開封時刻を定める。……“毎夕刻”」
 薄青の印が、王女の指先から紙に降りた。印璽の音は小さかったが、廊下の空気が少しだけ柔らかくなった。



 笛箱の場所は、タクトが執拗なまでにこだわった。
 人目にさらしはしない――けれど、必ず通る導線上。
 王城の北回廊、出納庫へ向かう角の向こう。記録文書庫と礼拝室の間、昼も夜も水汲みの従者が行き交う水瓶の横。
 人は見られたくないが、誰かに見守られたがってもいる。陰ではない、狭間に置くのがいい。
 箱の木地は堅い欅(けやき)。投入口は小さく、笛一本がやっと落ちる幅。側面には「開封は毎夕刻。王女の私印にて」と墨書し、その上にレティシアの朱が押された。鍵は二つ。王女と、出納局の若い会計兵・シオンが交代で持つ。
 会計兵の若手たちは不安を漏らした。「……本当に、告白してくるんですか」
 タクトはゆっくり首を振った。「告白という言葉は重い。“やり直しの始まり”を入れる箱だ」
 初日の夕刻、王女は箱の前に立ち、鍵を差した。
 箱の蓋は、礼の作法のように静かに開いた。
 ――空。
 誰も驚かなかった。
 二日目の夕刻、箱の底に白いものがひとつ転がっていた。
 笛。
 真っ白な、小さな笛。吹き口は削り減っていない。
 アマリが手袋をはめ、そっと笛を持ち上げた。中には細く巻いた紙が入っている。
 紙には、震えない筆致で「やり直したい」とだけ書かれていた。
 もう一枚――手描きの地図。
 夜間倉庫から出納庫へ向かう廊下、礼拝室の裏口、鍵番の詰所。矢印は、影の動線を丁寧になぞっている。
 タクトは地図に指を置き、王女の視線と交わした。「始まった」



 地図の線を起点に、影の職務を洗った。
 夜間倉庫の鍵番と仕入れ検収が同一人物になっている。――“影の職務”。
 鍵と印と目が、一つの手に集まれば、悪意がなくても歪む。
 タクトは、夜間倉庫の鍵番を二名交代制に切り替えた。交代の刻には必ず二人が揃う。鍵は互いに別の輪に通す。
 仕入れ検収は昼間の別班へ移し、受入票と出庫票は別の机、別の筆、別の印。
 さらに、職務日誌に新しい欄を設けた。「承認詩」。
 ライエルが笑った。「詩をチェック欄に?」
 タクトは笑い返す。「一行でいい。『見た』『顔を合わせた』『すれ違った風に塩の匂いがした』――なんでも。短い詩は“関わった印”になる。詩が糊になる」
 詩が欄を柔らかくし、欄が人と人の間を柔らかくする。紙は堅いが、詩は紙をたわませる。
 初日、半分の詩は「見た」。
 第三日には、「渡した」「遅れた」「笑った」「怒りの色が薄い」が並んだ。
 日誌は、孤立をにじませない。

 笛箱からは、次の夕刻にも小さな音がした。
 灰色の笛。
 中には、短い告知と地図。
 ――「横流しではありません。……ですが、怖くなりました」
 「怖くなった」は“やめたい”と同じ文法だ。
 タクトは王女の前で、告発の読み取りの順序を明示した。
 「事実」と「意図」を分ける。
 意図が“戻りたい”なら、一回目は配置替えと教育。
 二回目は減給。
 三回目で罷免。
 可視化した段階処分は、恐れを薄め、戻る道を生んだ。
 会計兵の若者たちは、笛箱の前で目を伏せて通り過ぎる者に声をかけない訓練をした。見て見ぬふりも、制度の一部だ。



 それでも、城のどこかには嘲笑があった。
 旧来派の貴族たちが、評議会で鼻を鳴らした。「甘い。罪は罪、詩で薄めるな」
 タクトは肩を竦めもせずに答えた。「塩は薄める。罪は薄めない。薄めるのは“孤立”です」
 王女は静かにうなずき、議場の空気を一拍だけ止めた。止まった空気は、嘲笑の速度を落とす。

 一方で、笛箱には“自白に近い申告”が続けざまに届いた。
 夜間の受入印の代押し。
 パン券の切り欠きの向きの取り違え。
 霊香の棚からの“借り置き”。
 タクトは事実を確かめ、意図を聞き出し、最初の一回には配置替えと短い教育の課題を渡した。
 教育の課題は、ただの講話ではない。動線図を書き換える訓練、詩欄に一行を置く練習、焼印板を炙って押す手つきの反復。
 ――手が正しさを覚えると、心は手に従う。
 二回目は減給。数字が痛点を教える。
 三回目は罷免。その場で「戻り道」が閉ざされる代わりに、城下の工房や孤児院といった“別の棚”への橋が提示された。
 更生は、排除ではない。棚替えだ。



 ところが、穏やかに回る歯車に砂を噛ませる男がいた。
 元財務卿オルベック。
 彼は「軟弱」を合言葉に、評議会の床に小さな火をいくつも点けて歩いた。
 そしてある夕刻、笛箱に“告発”が放り込まれた。
 厚い紙。太い筆致。名前がはっきりと記されている――特定の下級吏。
 内容は具体で、陰湿だった。
 ――夜間、○○の倉で鍵をねじ曲げ、受入印を盗用。
 ――パン券を偽造。
 ――「王女の名を軽んずる言葉」を吐いた。
 アマリの手は、紙を持ちながら微かに震えた。
 タクトは震えの速さを見て、深く息を吸う。「裏取りは“三点一致”で」
 帳簿。
 動線。
 証言。
 この三つが一致しない限り、制度は動かない。感情に引かれない。
 王女は目を閉じて頷いた。「彼を守って、と言う前に、制度で守って」
 タクトは調べた。
 帳簿に“彼”の名で押された印は確かにあった――が、押印した筆圧が普段と違う。
 動線図には、彼の持ち場から夜間倉庫へ至る“短い道”がない。扉は内側から閉じられ、鍵は彼の輪には通っていない。
 証言は二つに割れた。彼をかばう声と、彼を嫌う声。割れ方が整いすぎている――“用意された割れ”。
 笛箱の紙を光に透かすと、墨の濃いところに、見覚えのある細点が浮かんだ。
 黒札の裏の点と、同じ位置、同じ角度。
 タクトは評議会で、穏やかな声のまま紙を掲げた。
「制度は、悪意を想定した強度で作る」
 紙を裏返す。
「筆跡は太いが、“点”は小さい。同じ手の癖が残る。黒札の裏の点と一致しています」
 議場がざわめき、ライエルがすっと手を挙げて囁いた。「三点一致、詩にしようか?」
「詩にしよう。“帳簿・動線・証言”。三拍子で覚える」
 オルベックは歯ぎしりし、指輪がこつん、と卓に当たった。
 王女は短く告げた。「濡れ衣への処罰は、告発者の等価で」
 等価――制度は、重みを測る秤を二つ持たない。一本だ。
 オルベックの顔は、砂に水を垂らしたように崩れかけた。



 制度は、動き出すと腰が座る。
 笛箱の前に、薄青の紐が結ばれた。アマリが持っていた小さな布箱から、青い糸を一本取り、「戻ってきていい箱」の印として蝶結びにした。
 ライエルは紐の色に短い詩を添える。
 ――薄青は、戻るための空の色。
 王女は詩の下に小さく私印を押した。詩は注、印は道しるべ。
 夕刻、箱は開かれ、笛は一本、白。紙には短い文。
 ――「昼、二刻分、工房で作業を抜けた。嘘をついた。……やり直したい」
 タクトは詩欄に小さく書き足す。「嘘を自分で嘘と呼べた」
 戻る背中の数が、日々少しずつ増えた。
 会計兵の若者のひとりが、夜番明け、板の前で立ち止まり、ぽつりと告げた。
「実は俺、昔“ちょろまかし”を……」
 タクトは静かに首を振った。
「言葉を直そう。“ちょろまかし”じゃない。“誤り”。“誤り”は直る。直す仕組みを一緒に作る」
 若者は笑って、泣いた。泣き笑いは、背中を未来へ押す。
 アマリは笛箱を撫で、「戻ってきていい箱だよ」と囁いた。箱は黙っていたが、蝶結びの薄青が、廊下の風に柔らかく鳴った。



 夜は、制度の上から手が伸びてくる時間でもあった。
 出納板の前で、仮面の司祭が立ち止まる――と、アマリが思ったのは、後に振り返っての言葉だ。
 その夜、板の前に立った影は、黒衣の裾を石の上で擦り、指先で黒い小札を撫でた。
 札は、音もなく灰に変わった。
 灰は細かく、指の腹の皺に吸いつき、床の白い粉の上に円形の痕を残した。
 翌朝、出納板には「神前にて解決済」の朱印が二枚、勝手に押されていた。
 王女の顔に、あの薄い光の影が戻る。
 タクトは灰の跡に膝をつき、指で輪郭をなぞった。
 「祈りは棚に残す。――板の上に祈りで消す権利は、ない」
 ライエルが低く詠む。
 ――祈りは、声だ。声は、隣に置け。
 王女は頷いた。「教会騎士団が、制度の上から手を伸ばしている」
 タクトは白墨を握り直し、板の“注”に二行を書いた。
 ――祈祷の介入は、祈祷の棚へ転記。
 ――板の数字は、現場の声。声は、燃やさない。
 彼は王女に向き直る。
「地方へ行くべきです。城内での整備は一定の成果を見せた。けれど、城の外――塩の村で、税と流通の白色化を」
 王女は静かに目を閉じ、開いた。「地方は国の鏡」
 タクトは頷く。
「鏡に曇りが出れば、顔を疑う。曇りを拭くのは、水ではなく、布です。――布は、人の手」
 出納板の前で、会計兵たちが朝の札を差し替える。
 薄青の紐が、小さく揺れる。戻る背中のための空は、まだ広い。



 夕刻、笛箱の前で、アマリは蝶結びを結び直した。指先の感覚が、少しずつ熟れていく。
 ライエルが笑う。「君の結びは、詩の終わり方に似ている」
「どこが?」
「ほどけやすく、ほどけにくい」
 アマリは照れたように肩をすくめ、笛箱の蓋に軽く触れた。
 箱は静かだ。
 静けさは、制度の呼吸だ。
 王女は箱の前に立ち、鍵を差す。開いた蓋の向こうに、白い笛が三つ、並んでいた。
 紙には、短い言葉。
 ――「印の押し忘れを報せます」
 ――「パン券の切り欠きを逆に切りました。訂正します」
 ――「倉の灯を消し忘れました。罰は要りません。次から詩を書きます」
 タクトは笑って、詩欄の空白を指さした。「詩は罰じゃない。詩は“見た”の印だ」
 白い笛の音は、吹かれないまま、制度の中で鳴っていた。



 夜が来る。
 廊下の角を曲がると、出納板の影が長く伸びている。
 薄青の紐は、風がないのにほんのわずか揺れた。
 遠くの礼拝堂の鐘が、低く二度鳴る。
 タクトは心の中にT字を描き、貸方の欄外に小さく一語を添えた。
 ――“孤立”。
 そして、その反対側に、もう一語。
 ――“橋”。
 橋があれば、人は戻る。
 橋を作るには、板が要る。
 板は、詩を嫌わない。詩は、板を嫌わない。
 人は、板と詩の間で呼吸を整え、薄青の空に戻る道を探す。

 ――第8話「地方は国の鏡」。塩の村で、税と流通の白色化へ。