北境の空は薄青く、乾いた鉄の匂いが風に混じっていた。丘陵を這う塹壕の線は、子どもが震える手で引いた鉛筆のように波打って、ところどころで途切れている。前線基地と呼ばれる一角は、土嚢と木柵で囲まれ、真ん中に石の竈(かまど)が三つ、どれも火は弱い。
 兵たちの頬はこけ、目は落ちくぼみ、声は喉の奥でひっかかっている。硬パンは両手の親指で割るのに苦労し、やっと割れた破片を湯で戻し、塩肉を千切って放り込む。鍋の表面に浮く油は薄く、匂いはよそよそしい。
 補給馬車の行方不明が続き、あるいは来ても塩肉がすでに傷み始めている。砦の片隅では、昨夜届いた樽から酸敗のじっとりした匂いが滲み、兵士が顔をしかめて蓋を戻した。

 新名タクトは、会計兵の若い二人とアマリを連れ、木製の箱を二つ、地面に置いた。箱の蓋を外すと、中には白墨、粗い格子を刻んだ板、そして薄い羊皮紙が束になっている。
「臨時の兵站会計所を、ここに置きます」
 兵のひとりが呆然とした顔で問う。「……戦場に、帳簿?」
 タクトは頷いた。「腹が空いては勝てない。数字は胃袋の地図だ」
 アマリは板を立てかけ、白墨で太い枠を引く。左から「在庫」「入」「出」「残」、その下にさらに細く「穀」「肉」「油」「水」「薪」「包帯」。横には「今日」「明日朝」「三日先」。会計兵のシオンが墨壺に筆を浸し、小さく日付を書き込む。
「まず在庫表」タクトは言い、近くの納屋から樽と袋を運び出させた。「次に動線図。搬入口、調理場、食堂、兵舎、便所、井戸。それぞれの矢印を書きます。矢印が絡まっていたら、人と物がぶつかる」
 将軍は低い声で命じた。「書け。読む」
 兵たちは半信半疑のまま、樽の数を数え、袋の口を結び直し、割れた桶を脇に除ける。数字が板に吸い込まれ、薄い粉の線と一緒に基地の空気に馴染んでいく。

 初日の集計で、歪みはすぐに顔を出した。
 在庫回転率――タクトが板の隅に小さく書いた未知の言葉が、すぐに読み替えられる。「腐るまでの速さ」「使い切る速さ」。
 塩肉は過剰、穀物は欠乏。
 塩肉は重く、腐りやすい。穀物は軽く、長持ち。
 負担配分の逆転が起きていた。
 タクトは胸の内にT字を描く。借方は命、貸方は物語。戦場では、物語は勝利と呼ばれる。だが、その行の手前に、必ず「腹」の小計がある。
「現地調達を許可します」
 将軍が眉を上げる。「掠奪はさせんぞ」
「掠奪ではなく“市場”です。近隣三村の穀物と乾燥豆、そして葱。支払いは王城のパン券と小銀貨の組み合わせ。受け渡しは二重サイン。村の年寄りと会計兵」
 会計兵のベルトが首を縦に振る。「村側の名札箱は持ってきた。黒板も立てられる」
「塩肉は中継基地で小分けに。届いた樽ごと配れば腐りは一気に広がる。五斤ずつの袋に詰め替え、受渡しは午前と午後で立会人を変える」
 将軍の頬の筋肉がわずかに緩んだ。「兵は鍋の前に並ぶ。列が崩れれば、心が崩れる。列を短くしろ」
「“汁鍋”部隊を作ります」
「汁鍋?」
「硬パンと塩肉を、統一レシピで栄養化する鍋です。塩と酢と葱と豆。水は三段階に分けて入れる。煮立ちをまたがず、沸く前の温度で一度、塩肉の塩を抜く。硬パンは砕いてから投入。最後に油を少し、香りで腹を先に満たす」
 兵たちの目が、半信半疑のまま、しかしわずかに広がった。「……腹が先に満ちると?」
「怒りの滞留が減る」
 アマリが笑って鍋の縁に手を置いた。「溢れそうな怒りは、溢れそうな煮汁に似てる。火加減で引き戻せる」
 将軍は短く頷いた。「汁鍋、三つ。班を割る。配給列は弓隊から。歩兵はその後、斥候は戻り順」

 午後、鍋は湯気を太くした。匂いは薄くなかった。
 兵士が木椀を手に取り、一口すする。最初は疑いの皺が額に寄り、次の瞬間、それがほどけた。
「……熱い」「塩が舌を刺さない」
 眠っていた顔色が、湯気のように戻り始める。数時間後、タクトが簡易の記録に「疲労の訴え」を刻むと、昨日より数が減っていた。
 数字は胃袋の地図。地図に“帰路”が描かれれば、心は戻る。



 第二日、在庫板の「入」の列に、奇妙な穴が続いた。
 補給馬車のうち、王都経由の荷に限定して、途中で消える。積荷明細を洗い出すと、いくつかの伝票に徴税官ギルドの印が混じっていた。手数料の印。
 タクトは経路図を広げた。王都から北境へ向かう道。分岐は三つ、橋は二つ、関所が一つ。盗難リスクの高い曲がり角に、赤墨で印をつけ、受入帳の様式をその場で書き換える。
「“受入サイン二名+時刻”を追加します。受入場所に焼印板を置く。サインは板に押す。羊皮紙は燃えるし破れる。木は切れるが、燃やすと匂いが残る。匂いは記憶だ」
 焼印板は楢(なら)の一枚板。端に小さく王城の印、その隣に「受」「渡」「刻」の凹み。鉄の印を焚き火で炙り、押す。
 最初の夜、その焼印板が切り裂かれて見つかった。板目に沿って、鋭い刃で二度。印の「刻」の部分がごっそり失われている。
 アマリは切り口を指で撫でた。「綺麗に切ってる。切り慣れた手」
 タクトは切り口を鼻に近づけた。焦げの匂いが薄い。「焼いてない。冷たい刃。痕跡を消す仕事に長けている」
 将軍は目を細めた。「誰だ」
「板が答える場所を作る」タクトは落ち着いて言った。「“時刻”を消すなら、代わりに“灯”を残させます。受入場に行軍灯を吊るす。灯の煤(すす)は触ればつく。触っていれば、手に煤が残る。門の出口で手を拭かせる。煤の拭き跡は、嘘をつかない」



 第三夜は風が弱く、砂が眠っていた。
 会計兵の若者シオンが、倉の裏手でしゃがみ込んだ。「粉……?」
 地面に、細い筋。
 穀物袋からこぼれる微粉が、風のない夜だけ、地面に薄い線を描く。微粉は月明かりには見えにくいが、灯に照らすと鈍く光る。
 タクトは行軍灯を地面すれすれに掲げさせた。光は低い位置で強くなる。夜の地面は星の裏側。
 粉の線は、基地の外に続き、低い丘を回り込んで、古い礼拝堂の裏庭へ消えた。
 礼拝堂は石組みが崩れかけ、屋根は苔に覆われ、扉は鍵が重たそうに光っていた。
 粉の線は、扉の下の隙間に吸い込まれている。
 タクトは扉の前に膝をつき、地面の粉を指で拾って舌に乗せた。――麦。湿り気は薄く、昨日の粉だ。
 扉は外からは開かない。礼拝堂の硝子窓のひとつが、内側から外れる仕掛けになっていた。
 中は冷たい。
 地下へ降りる石段があり、息を吸うたび石の粉を肺に貼りつけるような感覚がある。
 最下段で、灯が広い空間を舐めた。
 倉。
 壁に焼印が押されている――「聖戦特別会計」。
 穀物袋が、祈祷の名目で眠っていた。袋は新しいが、焼印は古い。
 会計兵のベルトが反射で腰の短剣に手をかける。
 タクトは手で止めた。「剣は後回し。まずは会計を一本化」
 アマリが灯を高く掲げる。影が棚の隙間で揺れ、袋の口の結び方の不揃いが浮かび上がる。右端の列の袋だけ、会計兵が使う結びと同じだ。――昨日、誰かが運び込んだ。
 粉の線は、数字の声。声は、壁に跳ね返っても、消えない。



 礼拝堂の奥に、黒衣の列が音もなく現れた。
 教会騎士団。
 先頭の団長は、慈恵院で見たときよりも夜の色を濃くまとい、眼差しは灯を嫌う獣のように細い。彼は一歩、二歩と進み、タクトの前で止まった。
「戦は聖なるもの。糧秣は神が守る。汝らの板が天に届くか」
 タクトは答えず、巻物を広げた。兵站フローの図。王都の倉、中継基地、前線基地、鍋。矢印は細く、交点には丸。
 もう一枚。
 特別会計の棚。金の糸の印、祈祷の数、祈祷の季(とき)。
 タクトは二枚を重ね、中央で一本の線で結んだ。
「連結します。祈りを否定しない。祈りを仕訳する」
 団長の眉が、ほんのわずかに動いた。
「仕訳?」
「棚を分ける。金の糸は祈りの棚へ。青い糸は兵の棚へ。今は青い糸が足りない。だから“転記”する。祈祷倉から兵站倉へ」
 将軍がひとつ息を吐き、剣の柄に置いた手を離した。王女レティシアは一歩前へ出て、静かに首を振った。
 沈黙が数秒。長い。
 タクトは袋の口のひとつを指さす。「この結びは、昨日の会計兵の結び。誰かが“信じた”。信じて、ここに置いた。――ならば、その善意の行き先を、今日だけ変える。明日は戻す。今日は、兵が飢えている」
 団長の目は、タクトの顔を越えて、背後の暗がりを見た。そこに、二人の若い兵がいた。顎は痩せ、眼は乾いている。若い兵の一人が、灯の明るさに眩しそうに目を細めたとき、頬にほんのわずか血の色が戻った。――鍋の湯気の記憶。
 タクトは焼印の棚の柱に、木槌で小さな板を打ちつけた。板には王城の小印、その隣に「転記」。
 鉄印を炙り、焼き、押す。
 “転記印”。
 祈祷倉は兵站倉に振替。
 会計兵が掛け声を合わせ、袋を肩に担ぐ。鍋を担ぐ兵が続く。
 騎士団長は剣を抜かなかった。
 彼もまた、兵の頬に血色が戻るのを見たからだ。
 「祈りは痩せぬか」団長の声は低かった。
 「痩せません。祈りの棚には“数”が残ります。転記した“量”も残します。戻す日取りも書きます。祈りに嘘は混ぜない」
 団長は目を閉じ、開いた。
「……祈りの棚を、見せろ」
「王城にあります。あなたの祈りの数も、残っています」
 王女が静かに頷いた。「祈りの詩の欄に、今夜の“記録”を一行、置く。詩は注に。注は祈りを傷つけない」



 夜は鍋の音で満ちた。
 “汁鍋”部隊は三つの鍋を交互に回し、塩抜き、煮沸、投入、油の順で循環させる。葱は最後に。香りは最後の兵だ。
 配給列は短く、速かった。列の前で兵士が「二杯目」と言いかけ、後ろの兵が自然に「あとで」と肩を押さえる。
 アマリは板の前で白墨を走らせ、在庫板の「ロス率」の欄に、昨夜からの数字の落ち込みを記す。半減。
 将軍は鍋の前で短く敬礼した。「数字で勝つ戦もある」
 タクトは頷き、板の隅に小さく線を引いた。――「在庫回転・穀:三・一日/肉:七・八日」。
 王女は鍋を覗き込み、湯気で頬を赤くして笑った。「湯気は詩みたいね。熱さが、見える」
 ライエルは鍋の縁に指を置き、唇で一行つぶやいた。
 ――鍋の詩。腹は歌い、歌は剣を眠らせる。
 前線の笑いは稀だ。だが今夜、笑いはあった。鍋の周りに輪ができ、輪は崩れず、湯気は高く上がった。
 アマリはその音を覚えた。木椀が卓に触れる軽い音、湯をすする小さな吸気、遠くで見張りが槍の石突きをコツンと鳴らす合図。それらが重なって、戦場の夜にやわらかな拍を刻んだ。



 明け方、前線の点呼の声は太かった。
 “在庫・朝”の欄に、白い数字が並ぶ。水、塩、乾パン、包帯、油。前夜の“入”と“出”が揃えられ、残が、計算が合う心地よい直線で結ばれている。
 タクトは板の最後に「回復指標」と細く記し、休息時間帯の脈、歩哨交代時のふらつき回数、鍋の列の長さを刻ませた。数字は、兵の頬と同じ速度で温かくなる。
 将軍は静かに板の前から離れ、白墨を一本、タクトに渡した。「続けろ」
 タクトは白墨を指の腹で回し、にやりとした。「白墨は、剣ほど重くないので」
 将軍の口角が一瞬だけ上がった。
 王女はアマリの記した「ロス率」を覗き込み、頷く。「数字は温度計。温度計は、熱の味を消さない」
 ライエルが朝の薄光のなかで、板のわきに二行足した。
 ――静かな勝利。握られた椀の重みが、旗より低いところで風を掴む。
 ――旗は、あとでいい。まずは椀だ。



 午前、前線を離れる使いの馬が準備された。鞍袋が二つ、紐でしっかりと固定されている。ひとつは“在庫板・写”。もうひとつは将軍の書状。
 将軍は封をし、蝋を落とし、印を押す前に一言添えた。「数字の男は、戦場で嘘をつかなかった」
 タクトは半歩退き、敬礼を受けずに小さく頷いた。受け取るべき礼は、鍋の湯気が受け取っている。
 馬が土を蹴り、北境の草原が薄く波打つ。
 アマリは黒板の「今日の危ないところ」の欄を消し、新しい赤布の設置予定を書き込んだ。会計兵は“焼印板・予備”を二枚、受入所に据え、門の脇に小さな水桶と布を置いた。――煤の検め。
 騎士団長は礼拝堂の前で短く祈り、振り返ってタクトに言った。「祈りは棚に残る。剣は鞘に残る。……板は、残るか」
「板は壁に残ります。壁は人の背に残ります。背は、よく覚えます」
 団長は首をわずかに傾げ、口角をほとんど目に見えないほど持ち上げた。
 「板の詩は、韻を踏まないな」
「読みやすいのが取り柄です」



 昼過ぎ、風が変わった。北境の空に雲が増え、土の匂いが湿りを帯びる。
 タクトは在庫板の隅に小さく「雨用・段取り」と記し、天幕下に鍋を移す矢印を描いた。火は消すな、灰を厚く、薪は乾いたものを底へ。
 会計兵がうなずき、兵が動く。
 数字は命令書ではない。数字は、合図だ。
 合図は、戦を静かに進める。



 夕刻、王城。
 使いの馬が石畳を叩き、城門をくぐって中庭の砂を蹴った。
 伝令は汗の塩で顔を白くし、鞍袋から書状を取り出す。
 侍従が走り、王女レティシアが受け取りに出る。タクトは在庫板の写を片手で受け取り、もう片方で封蝋の温度を確かめた。温い――途中、一度火のそばに置かれた。
 将軍の書状は短かった。
 ――横流しの黒幕は、元財務卿オルベックと教会騎士団長に連なる。
 ――証拠は道の途中にある。焼印板の切り口は、王城の刃物と同じ癖。
 ――戦は今、静かだ。静かなうちに、板を整えよ。
 レティシアの睫毛がわずかに震えた。
 ライエルが口元に手を当て、言葉を噛み、飲み込んだ。
 アマリは息を呑み、そして気づいた。
「出納板……」
 王城の長い廊下の曲がり角。出納板の前に、人影はなかった。
 昼にアマリが整えた列は、まだ整っている。緑の札は今日の“入”、黄は“回収中”、赤は“未収”。
 ――黒が、一枚、ない。
 未収(黒)の小札が一枚、どこにも見当たらなかった。
 タクトは板に詰め寄り、札の縁の跡を指で追う。札を差した微少な傷が、ひとつだけ新しい。札は抜かれた。抜かれた跡は、薄い笑い傷のように残る。
 王女の声は低かった。「誰が」
 廊下の陰に、黒衣の影が立っていた。教会騎士――ではない。黒衣の内側に、銀の細い鎖。オルベックの側仕えがつける印。
 影は一瞬だけ板を振り返り、音もなく消えた。
 タクトは胸の内にT字を描き直した。借方は命、貸方は物語。物語に“汚職”の脚注がついた。
 数字の“優しさ”は、人を戻すための武器だ。だが、その優しさを食い物にする手がある。
 優しさを守るには、孤立を減らす。孤立は、闇の会計科目だ。
 タクトは白墨を握り、出納板の注の欄に小さく書いた。
 ――匿名窓口、開設。
 ――告発者の棚を、作る。
 ライエルが隣で囁く。「詩は、匿名でも詩だろうか」
「詩は名前の前に立たない。前に立つのは、震えた手だ」
 王女は頷き、印璽を渡した。「震えた手の印を、王城が守る」
 風が廊下を渡り、数字の札が微かに鳴った。
 遠くの塔の鐘が、一度。
 静かな戦が、城内に始まる。

 ――第7話「汚職は孤立から生まれる」。告発者保護、匿名窓口、更生プログラム。数字の“優しさ”で人を戻す戦いへ。