朝の鐘が一度、低く石壁を撫でた。二度目の鐘が来る前に、王城の東翼に新しい机が運び込まれる。四角、厚い、重い。若い兵が片側を持ち上げたとき、木口から薄い樹脂の匂いが立って、廊下の空気を少し甘くした。
机は“卓”と呼ぶのにふさわしい威容だった。上面は黒く磨かれ、周囲に白い罫が刻まれている。数と名と目的が並ぶ、まだ何も書かれていないグリッド。
新名タクトは、卓の右奥に小さなインク壺を置き、深呼吸した。借方は命、貸方は物語。今日は、その「物語」を未来に置く日だ。
やがて各部門の面々が入ってくる。将軍は革の匂いと鉄の鈍色を連れて、民政は塵のついた地図の筒を抱え、教育局は子どもの絵の束を胸に、王女レティシアは真珠色の瞳に薄い光を蓄えて席につく。
希望は山のように卓上へ積もった。
将軍は言う。「国境の兵装更新、弓二百、槍三百、投槍器十」。
民政は言う。「南北街道の舗装、橋の増設、排水溝の改修」。
教育は言う。「教室の増築、師範の育成、読み書き板の新規」。
ライエルは肩をすくめて詩稿を置いた。「士気の詩。巡回演奏団の編成」。
紙が擦れる音が、最初のざわめきのリズムになった。
タクトは、複写した雛形の束を配った。薄い羊皮紙に細い罫、左に「目的」、中央に「方法」、右に「費」、欄外に小さく「指標」。
「プログラム予算です。物語は目的、予算は方法。逆にしない」
旧来派の貴族たちが渋い顔をそろえて見せる。「詩が数字に従うのか」
タクトは首を振る。「詩は前に立たない。最後の句読点に置く」
ライエルが笑って言う。「句読点は、呼吸を整える。つまり、詩は呼吸の位置取りだ」
王女は、卓上の罫の一つを細い指でなぞり、短く頷いた。「続けて」
◆
合意は、当然難航した。
将軍の「いますぐ必要」と民政の「いま手を入れなければ冬に死者が出る」がぶつかる。教育は「子の文字は来年の収穫を増やす」と言い、財務の旧参は「来年の収穫は今年の腹を満たさない」と返す。
卓上の空気が重くなりかけたところで、タクトは方針を変えた。
「三村パッケージで試す」
視線が集まる。
「学校×市場×道をセットにする。三つが回れば、村の“声”が揃う。半年レビューで、増やすか止めるか決める」
王女は即座に支持した。「試すことに許可を要らない制度がほしいと思っていた」
将軍は眉間に皺を寄せたが、「兵の子も学べるなら」と渋々ながら頷く。
タクトは壁一面に工程表を貼った。線は細く、分岐が多い。失敗の線も、途中離脱の線も、最初から描かれている。
「失敗の席も、卓に最初から用意します」
会議室に、息のしやすい空気が流れた。誰もが、失敗の椅子が自分の背中を刺さないことを知ったからだ。
タクトは欄外の「指標」に小さな文字で「KPI」と書き、その右に「合図」と小さく訳を添えた。
「成果指標は、旗じゃない。合図です。間違っていたら、進路を変える合図」
旧来派の一人が鼻で笑う。「横文字で酔わせようとしても、年寄りは酔わない」
「酔わせません。起こします」
◆
三村は、王都から半日の距離に散らばっていた。
北丘の村は石灰岩の白い肌を持ち、南谷の村は川霧の湿り気を湛え、西林の村は風の影が低く走る。
タクトは会計兵とともに現地の公会堂に卓を運び、村の者たちを集めた。村長、粉挽き、橋守、若い母親、学校に通えない年頃の子。白髪の祖父は杖を立て、石の椅子に腰掛ける。
最初、数字の紙を見ただけで、何人かが顔を引きつらせた。
「線が多いと、息が上がる」と祖父。
タクトは頷き、言葉を変換する。
「KPIは“合図”。レビューは“お祝い会”。合図に灯りをつけて、三日ごとに一つ、何かを祝う」
「祝い?」祖父の目が丸くなる。
「壁が一面塗れたら。一つの秤が正しく刻まれたら。道の危ない角に赤布が結ばれたら。三日ごとに一つ」
アマリは絵カードを用意していた。道が短くなる絵、橋に赤布が揺れる絵、黒板に数字が並ぶ絵。子どもに見せると、子どもが祖父の手を引いた。
「お祝い会に行こうよ」
数字は言葉になり、抵抗は薄まる。固いパンにスープが注がれるように、意味は喉を通る形に変わった。
◆
“試し”は、小さく始まった。
北丘の学校では、壁塗りから。粗い漆喰が、白い息を吸い込んで固まっていく。子どもの手も大人の手も、最初の塗り跡はぎこちない。
アマリは袖を捲り、小さなコテを持つ。塗って、滑らせて、角を丸くする。塗り終えた面に、子どもが指で小さな丸を描いた。
「あ」
アマリは微笑んだ。「あとで消そう。今は印にしておく」
三日目、壁が一面分、真っ白になった。タクトは卓から青い紙を一枚取り、壁に貼る。
「祝」
王女レティシアがふいに現れて、袖を括って壁に手を当てた。白い壁に、王女の指の跡がふたつ、つく。
村はざわめき、子どもの笑い声が後ろから駆け上がってくる。
「三日ごとに一つ祝う」規則が、村の呼吸になり始めた。
南谷の市場では、まず秤。
将軍が無言で現れ、兵に持たせた砥石で秤の刃を軽く撫でた。振り子の先が真っ直ぐに止まると、将軍は顎で合図し、次の秤を指す。
商人は背筋を伸ばした。
「剣が秤を守った」
その噂は、夕方までに市場の端から端へ広がった。
タクトは秤の校正済み印に小さな王城の印を押し、横に「次の点検日」を書いた。数は未来に向かう矢印だ。
価格は声。声は、正確な秤でよく通る。
西林の道では、危険箇所の赤布。
崩れやすい崖の上に、少女たちが細い腕で布を結ぶ。布は風を見せる。風向きが変われば、布の揺れ方が変わる。
橋守の男が言う。「赤い布を見ると、馬が足をゆっくり置く」
タクトは道の端に小さな黒板を立て、「今日の危ないところ」を書いていく。
誰かが消して、書き換える。
見える化は敵を作るが、味方も作る。道の黒板は、村の会話を少しだけ前に進めた。
◆
三日ごとに祝う日々は、杖のリズムを軽くした。
壁の一面。秤の一台。赤布の一枚。
王女は時々現れて壁塗りを手伝い、タクトは黒板を整え、アマリは子どもにカードを見せ、会計兵は帳面を丁寧に回す。
祝う日は、小さな音楽があった。
ライエルが詩を合わせた。
――白い壁に、白い息。正しい秤は、沈黙で歌う。赤い布は、風の手紙。
誰かが口ずさみ、誰かが笑い、誰かが涙を袖で拭く。
詩は最後の句読点。句読点の位置が決まると、人は安心して語り出す。
◆
中間レビューの日、王城の予算卓に人が詰めかけた。
壁一面の工程表に、小さな「済」の印が並んでいる。まだらだが、美しいまだらだ。
旧来派の貴族のひとりが、立ち上がった。
「詩でしか表せない価値がある。宮廷演奏団を拡充したい。人は詩で生きる。詩は国の顔だ」
タクトは否定しなかった。
「詩は必要。ただ、どの目的に効く詩かを教えてほしい」
貴族は言葉に詰まった。
ライエルが助け舟を出す。「士気だよ」
士気。
タクトは「目的」の欄に「士気向上」と書き換え、方法に「学校行事×演奏団巡回」と記す。
「学校の“祝う日”に、演奏団が一曲を置いていく。子どもが二行を覚えるたび、次の村へ行く。半年で一巡。」
欄外の合図(KPI)は「出席率」「翌朝の登校時刻」「市場の朝の声の高さ」。
詩は席を得て、数字と握手した。
貴族の顔に奇妙な安堵が浮かぶ。古い椅子が、まだ使えることを確かめた老人の顔だ。
◆
六月(むつき)と葉月(はづき)の間に、三村は小さな変化を積み上げ続けた。
学校の壁は、全部塗り終わる前に、新しい落書きで埋められた。落書きは消されたが、痕跡は残り、痕跡は子どもの笑いの跡になった。
市場の秤は、正しい重みに慣れた指で、少しだけ軽やかに動くようになった。重さが合えば、口論が減る。
道の赤布は、古くなる前に新しい布へ結び替えられ、布切れは子どもの髪飾りになった。
王女は時折、予告なく現れた。泥に指を入れ、肩に白い粉をつけ、子どもの質問に一つずつ答え、帰り際に黒板の隅へ細い字で祝辞を書いた。
将軍は、市場で秤の蓋を閉め忘れている店に黙って蓋をして回り、誰にも褒められずに去った。
「剣が秤を守った」は、やがて「剣は秤の横に立つ」に変わり、さらに「秤は剣の背を軽くする」に変わった。
噂は更新された。噂は通貨だ。
◆
半年後のレビュー。
予算卓の上に、三つの束が並ぶ。
学校:通学率+七%、遅刻減少、読字の平均速度向上。
市場:不正申告件数−三割、成約価格の分散縮小、朝の列長短縮。
道:事故件数−四割、通行時間短縮、馬の鞍擦れ報告減少。
壁一面の工程表の完了印が、美しい列を作っている。列の乱れは、次の期の計画の余白になった。
王女が囁く。「物語は未来に置く……好き」
タクトは小さく頷いた。胸の中のT字の上に、細い線が一本増える。
「予算は“願いの現金化”です」
会議室に拍手はなかった。代わりに、ため息の質が変わった。
重い息が軽くなり、浅い息が深くなった。
ライエルは卓の隅に「ため息の詩」と題して二行だけ書いた。
――願いは、机の上で温度を得た。
――温度は、人の足を前へ押す。
旧来派の貴族のひとりが、卓の罫にそっと指を置いた。
「詩は、注に置くのだな」
「ええ。注は、本文を嘘にしないためにある」
貴族は頷き、椅子に深く座り直した。
将軍は黙って工程表を眺め、ひとつだけ印の押し忘れを見つけて、無言で朱を加えた。
王女は「半年」を捲り、「次の半年」に指先で折り目をつけた。
◆
その時だった。
扉が、礼儀を忘れた音で開いた。
兵が駆け込み、胸甲に砂塵をつけたまま片膝をつく。「国境、小競り合い。補給路が焼かれ、兵站が崩れています。前線から急報」
空気が、瞬時に剣の温度になった。
将軍が立ち上がる。「人数と地名」
「二百。北境。小丘一帯、畑に火」
タクトは立ち上がり、卓上の雛形を一枚、裏返した。裏は白い。
借方は命、貸方は物語。
物語のために、命を減らさない。
将軍が叫ぶ。「数字の男、前線に来い」
彼の声は怒号ではなく、招集の合図だった。
タクトは頷き、インク壺の蓋を閉めた。
「戦場に、勘定科目を持って行きます。ロス率、在庫回転、現地調達。剣を抜かずに、戦場を静める」
王女は、短く息を吐き、タクトの外套の襟を直した。
「戻ってきて。詩の句読点は、あなたが置く」
ライエルが苦く笑う。「戦場の詩は、韻を踏まない」
「踏まなくていい。読めればいい」
アマリは素早く小さな鞄に帳票の束と針金綴じを詰め、ペン先を三本、油紙に包んだ。
会計兵の若い二人が、鍵と目と耳を持った。剣は持たない。持たないことが、今日の武装だ。
石段を降りる風は、秋の手前の匂いを運んでいた。
王城の外に、黒板が立つ。
黒板の「入札予定」の欄の隣に、タクトは小さく新しい欄を描いた。
――前線補給・今日の在庫。
――水、塩、乾パン、包帯、油。
数字は、剣の隣で立つ。
声は、戦場でも聞こえるべきだ。
タクトは黒板の木枠を軽く叩き、前線への道へ踏み出した。
――第6話「戦場に勘定科目を」。ロス率、在庫回転、現地調達。剣を抜かずに戦場を静める。
机は“卓”と呼ぶのにふさわしい威容だった。上面は黒く磨かれ、周囲に白い罫が刻まれている。数と名と目的が並ぶ、まだ何も書かれていないグリッド。
新名タクトは、卓の右奥に小さなインク壺を置き、深呼吸した。借方は命、貸方は物語。今日は、その「物語」を未来に置く日だ。
やがて各部門の面々が入ってくる。将軍は革の匂いと鉄の鈍色を連れて、民政は塵のついた地図の筒を抱え、教育局は子どもの絵の束を胸に、王女レティシアは真珠色の瞳に薄い光を蓄えて席につく。
希望は山のように卓上へ積もった。
将軍は言う。「国境の兵装更新、弓二百、槍三百、投槍器十」。
民政は言う。「南北街道の舗装、橋の増設、排水溝の改修」。
教育は言う。「教室の増築、師範の育成、読み書き板の新規」。
ライエルは肩をすくめて詩稿を置いた。「士気の詩。巡回演奏団の編成」。
紙が擦れる音が、最初のざわめきのリズムになった。
タクトは、複写した雛形の束を配った。薄い羊皮紙に細い罫、左に「目的」、中央に「方法」、右に「費」、欄外に小さく「指標」。
「プログラム予算です。物語は目的、予算は方法。逆にしない」
旧来派の貴族たちが渋い顔をそろえて見せる。「詩が数字に従うのか」
タクトは首を振る。「詩は前に立たない。最後の句読点に置く」
ライエルが笑って言う。「句読点は、呼吸を整える。つまり、詩は呼吸の位置取りだ」
王女は、卓上の罫の一つを細い指でなぞり、短く頷いた。「続けて」
◆
合意は、当然難航した。
将軍の「いますぐ必要」と民政の「いま手を入れなければ冬に死者が出る」がぶつかる。教育は「子の文字は来年の収穫を増やす」と言い、財務の旧参は「来年の収穫は今年の腹を満たさない」と返す。
卓上の空気が重くなりかけたところで、タクトは方針を変えた。
「三村パッケージで試す」
視線が集まる。
「学校×市場×道をセットにする。三つが回れば、村の“声”が揃う。半年レビューで、増やすか止めるか決める」
王女は即座に支持した。「試すことに許可を要らない制度がほしいと思っていた」
将軍は眉間に皺を寄せたが、「兵の子も学べるなら」と渋々ながら頷く。
タクトは壁一面に工程表を貼った。線は細く、分岐が多い。失敗の線も、途中離脱の線も、最初から描かれている。
「失敗の席も、卓に最初から用意します」
会議室に、息のしやすい空気が流れた。誰もが、失敗の椅子が自分の背中を刺さないことを知ったからだ。
タクトは欄外の「指標」に小さな文字で「KPI」と書き、その右に「合図」と小さく訳を添えた。
「成果指標は、旗じゃない。合図です。間違っていたら、進路を変える合図」
旧来派の一人が鼻で笑う。「横文字で酔わせようとしても、年寄りは酔わない」
「酔わせません。起こします」
◆
三村は、王都から半日の距離に散らばっていた。
北丘の村は石灰岩の白い肌を持ち、南谷の村は川霧の湿り気を湛え、西林の村は風の影が低く走る。
タクトは会計兵とともに現地の公会堂に卓を運び、村の者たちを集めた。村長、粉挽き、橋守、若い母親、学校に通えない年頃の子。白髪の祖父は杖を立て、石の椅子に腰掛ける。
最初、数字の紙を見ただけで、何人かが顔を引きつらせた。
「線が多いと、息が上がる」と祖父。
タクトは頷き、言葉を変換する。
「KPIは“合図”。レビューは“お祝い会”。合図に灯りをつけて、三日ごとに一つ、何かを祝う」
「祝い?」祖父の目が丸くなる。
「壁が一面塗れたら。一つの秤が正しく刻まれたら。道の危ない角に赤布が結ばれたら。三日ごとに一つ」
アマリは絵カードを用意していた。道が短くなる絵、橋に赤布が揺れる絵、黒板に数字が並ぶ絵。子どもに見せると、子どもが祖父の手を引いた。
「お祝い会に行こうよ」
数字は言葉になり、抵抗は薄まる。固いパンにスープが注がれるように、意味は喉を通る形に変わった。
◆
“試し”は、小さく始まった。
北丘の学校では、壁塗りから。粗い漆喰が、白い息を吸い込んで固まっていく。子どもの手も大人の手も、最初の塗り跡はぎこちない。
アマリは袖を捲り、小さなコテを持つ。塗って、滑らせて、角を丸くする。塗り終えた面に、子どもが指で小さな丸を描いた。
「あ」
アマリは微笑んだ。「あとで消そう。今は印にしておく」
三日目、壁が一面分、真っ白になった。タクトは卓から青い紙を一枚取り、壁に貼る。
「祝」
王女レティシアがふいに現れて、袖を括って壁に手を当てた。白い壁に、王女の指の跡がふたつ、つく。
村はざわめき、子どもの笑い声が後ろから駆け上がってくる。
「三日ごとに一つ祝う」規則が、村の呼吸になり始めた。
南谷の市場では、まず秤。
将軍が無言で現れ、兵に持たせた砥石で秤の刃を軽く撫でた。振り子の先が真っ直ぐに止まると、将軍は顎で合図し、次の秤を指す。
商人は背筋を伸ばした。
「剣が秤を守った」
その噂は、夕方までに市場の端から端へ広がった。
タクトは秤の校正済み印に小さな王城の印を押し、横に「次の点検日」を書いた。数は未来に向かう矢印だ。
価格は声。声は、正確な秤でよく通る。
西林の道では、危険箇所の赤布。
崩れやすい崖の上に、少女たちが細い腕で布を結ぶ。布は風を見せる。風向きが変われば、布の揺れ方が変わる。
橋守の男が言う。「赤い布を見ると、馬が足をゆっくり置く」
タクトは道の端に小さな黒板を立て、「今日の危ないところ」を書いていく。
誰かが消して、書き換える。
見える化は敵を作るが、味方も作る。道の黒板は、村の会話を少しだけ前に進めた。
◆
三日ごとに祝う日々は、杖のリズムを軽くした。
壁の一面。秤の一台。赤布の一枚。
王女は時々現れて壁塗りを手伝い、タクトは黒板を整え、アマリは子どもにカードを見せ、会計兵は帳面を丁寧に回す。
祝う日は、小さな音楽があった。
ライエルが詩を合わせた。
――白い壁に、白い息。正しい秤は、沈黙で歌う。赤い布は、風の手紙。
誰かが口ずさみ、誰かが笑い、誰かが涙を袖で拭く。
詩は最後の句読点。句読点の位置が決まると、人は安心して語り出す。
◆
中間レビューの日、王城の予算卓に人が詰めかけた。
壁一面の工程表に、小さな「済」の印が並んでいる。まだらだが、美しいまだらだ。
旧来派の貴族のひとりが、立ち上がった。
「詩でしか表せない価値がある。宮廷演奏団を拡充したい。人は詩で生きる。詩は国の顔だ」
タクトは否定しなかった。
「詩は必要。ただ、どの目的に効く詩かを教えてほしい」
貴族は言葉に詰まった。
ライエルが助け舟を出す。「士気だよ」
士気。
タクトは「目的」の欄に「士気向上」と書き換え、方法に「学校行事×演奏団巡回」と記す。
「学校の“祝う日”に、演奏団が一曲を置いていく。子どもが二行を覚えるたび、次の村へ行く。半年で一巡。」
欄外の合図(KPI)は「出席率」「翌朝の登校時刻」「市場の朝の声の高さ」。
詩は席を得て、数字と握手した。
貴族の顔に奇妙な安堵が浮かぶ。古い椅子が、まだ使えることを確かめた老人の顔だ。
◆
六月(むつき)と葉月(はづき)の間に、三村は小さな変化を積み上げ続けた。
学校の壁は、全部塗り終わる前に、新しい落書きで埋められた。落書きは消されたが、痕跡は残り、痕跡は子どもの笑いの跡になった。
市場の秤は、正しい重みに慣れた指で、少しだけ軽やかに動くようになった。重さが合えば、口論が減る。
道の赤布は、古くなる前に新しい布へ結び替えられ、布切れは子どもの髪飾りになった。
王女は時折、予告なく現れた。泥に指を入れ、肩に白い粉をつけ、子どもの質問に一つずつ答え、帰り際に黒板の隅へ細い字で祝辞を書いた。
将軍は、市場で秤の蓋を閉め忘れている店に黙って蓋をして回り、誰にも褒められずに去った。
「剣が秤を守った」は、やがて「剣は秤の横に立つ」に変わり、さらに「秤は剣の背を軽くする」に変わった。
噂は更新された。噂は通貨だ。
◆
半年後のレビュー。
予算卓の上に、三つの束が並ぶ。
学校:通学率+七%、遅刻減少、読字の平均速度向上。
市場:不正申告件数−三割、成約価格の分散縮小、朝の列長短縮。
道:事故件数−四割、通行時間短縮、馬の鞍擦れ報告減少。
壁一面の工程表の完了印が、美しい列を作っている。列の乱れは、次の期の計画の余白になった。
王女が囁く。「物語は未来に置く……好き」
タクトは小さく頷いた。胸の中のT字の上に、細い線が一本増える。
「予算は“願いの現金化”です」
会議室に拍手はなかった。代わりに、ため息の質が変わった。
重い息が軽くなり、浅い息が深くなった。
ライエルは卓の隅に「ため息の詩」と題して二行だけ書いた。
――願いは、机の上で温度を得た。
――温度は、人の足を前へ押す。
旧来派の貴族のひとりが、卓の罫にそっと指を置いた。
「詩は、注に置くのだな」
「ええ。注は、本文を嘘にしないためにある」
貴族は頷き、椅子に深く座り直した。
将軍は黙って工程表を眺め、ひとつだけ印の押し忘れを見つけて、無言で朱を加えた。
王女は「半年」を捲り、「次の半年」に指先で折り目をつけた。
◆
その時だった。
扉が、礼儀を忘れた音で開いた。
兵が駆け込み、胸甲に砂塵をつけたまま片膝をつく。「国境、小競り合い。補給路が焼かれ、兵站が崩れています。前線から急報」
空気が、瞬時に剣の温度になった。
将軍が立ち上がる。「人数と地名」
「二百。北境。小丘一帯、畑に火」
タクトは立ち上がり、卓上の雛形を一枚、裏返した。裏は白い。
借方は命、貸方は物語。
物語のために、命を減らさない。
将軍が叫ぶ。「数字の男、前線に来い」
彼の声は怒号ではなく、招集の合図だった。
タクトは頷き、インク壺の蓋を閉めた。
「戦場に、勘定科目を持って行きます。ロス率、在庫回転、現地調達。剣を抜かずに、戦場を静める」
王女は、短く息を吐き、タクトの外套の襟を直した。
「戻ってきて。詩の句読点は、あなたが置く」
ライエルが苦く笑う。「戦場の詩は、韻を踏まない」
「踏まなくていい。読めればいい」
アマリは素早く小さな鞄に帳票の束と針金綴じを詰め、ペン先を三本、油紙に包んだ。
会計兵の若い二人が、鍵と目と耳を持った。剣は持たない。持たないことが、今日の武装だ。
石段を降りる風は、秋の手前の匂いを運んでいた。
王城の外に、黒板が立つ。
黒板の「入札予定」の欄の隣に、タクトは小さく新しい欄を描いた。
――前線補給・今日の在庫。
――水、塩、乾パン、包帯、油。
数字は、剣の隣で立つ。
声は、戦場でも聞こえるべきだ。
タクトは黒板の木枠を軽く叩き、前線への道へ踏み出した。
――第6話「戦場に勘定科目を」。ロス率、在庫回転、現地調達。剣を抜かずに戦場を静める。



