夜明けの鐘が一度鳴る。二度目が鳴る前に、王都の角を曲がると、パン屋の店先にすでに列が伸びていた。
 小麦の匂いが薄い。炭火の熱はあるのに、粉の香りが軽い。生地を叩く音より先に、財布の口金の触れ合う音が聞こえた。
 新名タクトは足を止め、列の最後尾から店先までを視線で測った。列は蛇腹、吐く息は白く、子どもの背に吊された布袋は空だ。
 店主が表に出て、手で横線を描く。「今日のぶんは、これで終いだよ!」
 まだ焼けていない。まだ日の位置は早い。それでも終いの声は、列を一斉にざわめかせた。誰かが舌打ちし、誰かが肩をすくめ、誰かが泣きそうな顔で子をあやす。
 穀物価格が急騰した。王都の貧しい地区の空気は軽くさざめき、さざめきはすぐ不穏に変わる。
 タクトは胸の内に小さなT字を描き、呼吸を整えた。借方は命、貸方は物語。物語は後に回す。今、救うのは、朝の空腹だ。



 王城の出納板の前では、緑と黄と赤が夜のうちに少しだけ場所を変えていた。慈恵院で見つかった穀物入札表――あの“予定価格”は、特定の商会の見積もりと見事に一致していた。
 王女レティシアに報告すると、彼女は黙って紙を受け取り、端から端まで目を走らせた。真珠色の瞳に、数字の淡い影が一瞬だけ映る。
「市場の声を取り戻す必要があります」タクトは言った。
「声?」
「プライスです。価格は声。誰かが押し殺しているなら、板に掲げて取り戻す」
 王女は短く頷いた。「詩の前に、掲示板を」



 昼前、城門広場に人足が集められた。
 会計兵が案内し、木工の職人が四角い大きな板を組む。表面は煤で黒く塗られ、縁には王城の小印が焼き付けられた。手の幅で十数枚分の行が取れる、巨大な黒板だ。
 タクトはチョークの粉を指に付け、最上段に大きく三つの欄を書いた。
 今日の小麦。昨日の小麦。入札予定。
 その下に細い線で段を刻む。産地、量、条件。黒板の左端に小さな欄――仲買人名札の挿し口――を作り、板の桟に小さな金具で留めた。
「公開入札。仲買人の名札制。価格掲示板。三点セットで回します」
 タクトが声を張ると、広場は一瞬静かになり、それからざわめきが戻った。
 古参の商人のひとりが腕を組む。「名を晒せと?」
 別の男が唇を歪めた。「王城の黒板は、商売の腹に手を突っ込む気か」
 タクトは振り返らない。チョークの粉で白くなった指で、黒板の端を軽く叩く。「名は責任の最小単位です」
 人垣の後ろで、吟遊会計官ライエルが肩をすくめ、黒板の隅に小さな文字で詩を書き始めた。
 ――名が見えれば、声が届く。影の値は、影のまま上がらない。
 アマリは名札の箱を抱えて、列に並ぶ仲買人一人ひとりに札を配った。薄木の札に名前を墨で記す。読めるように、真っ直ぐに。震える手には、彼女がそっと手を添えた。
 「字が下手でもいいです。読めれば、合意は速い」
 「合意?」
 「値段で頷くことです」



 黒板は、最初の一時間で効果を示した。
 “今日の小麦”の欄に、初値の列が白く並ぶ。産地は北の丘陵、量は百俵、条件は即納。成約価格の欄に、ぱん、と一つ白い数字が入る。
 “昨日の小麦”の欄には、前日の最高・最低・成約が並べられ、線で結ばれた。線は、昨日の温度計だ。
 “入札予定”には、午後と明日の予定を分けて書く。時間、場所、最低数量、応札の窓。
 名札は列の左、各行の先頭に差し込まれた。見慣れない名前もあれば、古参の商会の名もある。
 「名を出せぬ者は、出さないでいい。出さぬ者は、黒板に触れない」
 タクトは穏やかに言い、広場の空気に新しい規則を落とした。
 規則は、ふたつの効果を持った。
 ひとつ、値札のすり替えが成り立たなくなる。名札と値段が紐づき、差し替えれば誰の手かが残る。
 ふたつ、仲買人同士の目が互いを見張る。名は、嘘を嫌う。

 だが、古参商会は黙って見てはいなかった。
 夕方近く、黒板の前で高い声が上がった。
「王城の介入は自由の敵!」
 煽動屋は声を張る技術に長け、言葉の選び方に長け、群衆の音の谷を見つけることに長けていた。彼は「黒板は税だ」「名札は鎖だ」「自由は値札の影に住む」と叫び、安い芝居のように手を広げた。
 同時に、裏で買い占めが走る。古参商会は倉庫の扉を内から閉め、少しのあいだ市場へ穀物を出さない。夕刻に薄く放出する。値は跳ね、列は乱れる。
 タクトは正面から殴らない。
「パン券を出します」
 王城の屋台が広場の端に立ち、白い紙券が素早く配られた。券には日付と時間帯、受給者名の欄、そして小さな切り欠き。
 「現金の代わりにこれでパンを」
 パン屋は券を持って王城で換金できる。換金のとき、券は王城に残る。券は紙のくせに重い――使用記録が残るからだ。
 買い占めに向かない。券は現金のように溶けない。券は持ち逃げしても城外で価値を持たない。
 パン屋の窓口で、券が受け渡されるたび、王城の小印が押される。アマリは受け渡しの列の端で、券の番号を読み上げ、レシートを小袋に入れ、時間帯ごとの束に分ける。
 「午後一の列が長い」
 「なら、午後一に粉を厚く回します」
 会計兵が走り、粉挽きへ指示が飛んだ。
 煽動屋の声は、列の短縮とともにしぼんだ。人は、空腹が満たされると、自分の声を少しだけ遅らせる。



 黒板は、価格の声を大きくするために、さらに一段階ギアを上げた。
 タクトは黒板の上段に小さな枠を増やし、「最良の悪役」と手書きした。
 最高価格、最低価格、成約価格。三つを並べ、極端な価格にだけ小さな黒丸を付ける。黒丸の横に、名札の写しを掲げる。
 ――誰が、どこで、なぜ、極端なのか。
 名が出ると、冒険者酒場の話題が変わった。
 「あいつ高すぎ」から、「なぜ高い?」へ。
 高すぎる値の背後には、遅れた船があり、潰れた倉庫があり、病に倒れた馬がいた。
 最低の値の背後には、明日の雨予報があり、急いで粉にしたい粉挽き屋の事情があり、傷んだ袋を早く処分したい商人の都合があった。
 値段は、理由の影だ。黒板はその影の形を、誰もが見られるようにした。
 ライエルは黒板の脇で、粉じんを吸いながら短い詩を重ねる。
 ――値は言葉、声は息。息は人から出て、人へ戻る。
 人々は立ち止まり、詩を声に出して笑い、頷き、指を差し、次の行に目を移した。



 午後。黒板前に、ゆらりとした影が揺れた。
 元財務卿オルベックが、人に支えられて現れた。白い髭は以前よりも薄く、指輪は指に余る。
 彼は黒板の前で足を止め、薄い唇を開いた。
「数字は冷たい。民は詩で生きる。詩は腹を満たさぬが、心を満たす。心が満ちれば、腹の空きにも耐えられる。昔からそうだ」
 タクトはチョークを持ったまま、静かに振り返った。
「詩は合意の記憶に残る。価格は今の合意だ」
 「合意?」
 「今ここで、誰と誰が、何を、いくらで、どんな事情で手渡したか。それが、合意。今の温度」
 オルベックは袖から羊皮紙を抜き取った。裏の契約書だ。旧来の商会と王城の古い合意。そこには、予定価格が“慣例”として記されている。
 「慣例は、詩だ。詩は繰り返される」
 タクトは頷いた。「繰り返される詩は美しい。だが、雨は詩を読まない」
 黒板の端に立っていたアマリが、素早く成約価格のグラフを追記した。白い粉の線が、午後の陽を受けて細く光る。
 彼女は異常値の横に小さなメモを添えた。
 ――北の港、船四隻足止め。
 ――南倉庫、梁崩落。
 ――午前、粉挽きの軸が折れる。
 群衆の空気が変わるのが、音で分かった。
 「冷たいのは嘘だ」
 誰かが言い、別の誰かが頷いた。
 「数字は温度計」
 ライエルが柔らかく詠む。
 ――温度計の詩。冷たさは、熱を測るためにある。
 オルベックは、羊皮紙を握る手を静かに下ろした。彼の眼は、黒板の端に書かれた「最良の悪役」の欄で止まる。そこに、自分の古い友の名があった。過去の栄光は、今日の腹を満たさない。
 老人は、ほんの一瞬だけ笑った。自嘲ではなく、理解の笑いだった。
「詩は注に。数字は板に」
 彼はそう言い、踵を返した。人々が道を開け、彼はゆっくりと広場を去った。



 三日目の朝、風は粉の匂いを運んできた。
 パン屋の窓から、焼きたての白い湯気が溢れる。子どもの背の布袋は、今朝は半分ほど膨らんでいる。列は短い。短い列は、街の歩幅を広くする。
 黒板の“成約価格”の列は、最初の朝より落ち着いた高さで並び、昨日と今日の線は緩やかに寄り添っていた。
 王女レティシアが黒板の端に近づき、チョークを受け取る。
 彼女は小さくサインを書いた。
 ――声を奪わない統治。
 タクトは黒板の上段に明日の入札予定を整え、横に“供給予報”の小さな欄を付け足した。粉挽きの稼働予定、港の出入り、倉庫の修繕。
 アマリが囁いた。
「黒板、綺麗に書けるようになりましたね」
 タクトは笑った。「字の綺麗さは、合意の速さ」
 「合意が早いと?」
 「怒りの滞留が減る」
 会計兵の若い二人が、黒板の足元の砂を掃き、名札箱の中身を数え、折れたチョークをまとめて紙に包む。作業の所作ひとつひとつが、街の呼吸に合っていく。



 その日の夕方、黒板の前の空気は、昼間よりも柔らかかった。
 煽動屋は数度姿を見せて叫んだが、列が伸びず、声は遠くで解けた。
 古参商会は倉庫の扉を開け、帳合所の窓を開け、名札を胸につけ直した。名は、恥ではない。名は、矢印だ。
 ライエルが黒板の端に、最後の一行を記した。
 ――値の声は、腹へ行き、腹の声は、心へ行く。
 タクトはそれを横目で見て、 chalk の粉を払った手で額の汗を拭った。粉は白く、汗は塩辛い。
 彼は心の中のT字を撫でる。借方は命。貸方は物語。今日は、物語が板の上で声を持った。



 夜更け。
 黒板の裏側は、表の賑わいが嘘のように静かだ。杭の影、板の木目、風に擦れる薄い音。
 会計兵がひととおり見回り、鍵を確かめ、灯りが遠ざかる。
 タクトは、黒板の裏に違和感を覚えた。
 木目の節の間、封蝋で口を閉じた書簡が一通、差し込まれている。
 蝋印は簡素だが見慣れない。封の紙は、村の製紙の粗い肌を持っていた。
 彼は書簡を取り、蝋印を割った。
 差出人は、“塩の村の娘ミナ”。
 紙には震える字で、しかしはっきりと、短く書かれていた。
 ――教会騎士団の倉に、“聖戦特別会計”の名で穀物が眠っています。
 ――鍵は、祈りと同じに開きます。祈りの時間に動きます。
 ――わたしの父は、その倉で働いていました。病で倒れ、パンは“神に先に差し出す”と言って、家に戻りません。
 タクトは紙の端を指先で押さえ、目を閉じた。
 “聖戦特別会計”。
 穀物は、祈りの名で倉に眠る。価格は、声を出せない。
 アマリが背後から息を潜めて立った。「……教会?」
「名は仮面にもなる。仮面が善意の顔をしていても、腹は減る」
 タクトは封書を折り、内ポケットに収めた。
 黒板の表へ回る。板面は月明かりで灰色に光り、今日の数字は薄い粉の影に変わっている。
 タクトは板の隅に小さく書いた。
 ――特別会計の棚を作る。
 ――祈りの名で眠る穀物の“声”を、板に出す。
 月は欠けかけ、風は秋の匂いを含む。
 価格は声だ。声は、奪われることも、返すこともできる。
 返すには、名が要る。棚が要る。注が要る。
 タクトは黒板の枠を軽く叩き、歩き出した。
 遠くで塔の鐘が、ひとつ。
 声の速さで、鐘の余韻が広がる。

 ――第5話「予算とは未来の物語」。プログラム予算、実験計画、王国の合意の作り方へ。