朝いちばんの鐘が鳴る前、王城の内庭には冷えた香草の匂いがたまる。石の葉の上に夜露がかすかな曲線を描き、東から差す細い光がそこだけ白墨の線のように明るい。新名タクトはその細線を指でなぞるみたいに、廊下の角を左へ折れた。
待っていたのは、慈恵院からの使いだ。灰色の衣、緊張して乾いた手。差し出された嘆願状には、端的に要件が記されていた――寄付が減り、薬が足りない。
おかしい、とタクトは思う。出納板の“寄付(緑)”札はむしろ増えている。王女レティシアも眉を曇らせて言った。
「善意が、迷子になってる」
◆
慈恵院は王都の南、古い石橋のたもとにある。低く長い建物の屋根に、朝の光がまだ届かない。門をくぐると、咳の音が空気に小石のように跳ねた。
廊下で、侍女が古い布で子どもの額を拭いている。布はよく洗われているが、時間の匂いが染みついていた。
院長は、痩せた背をしゃんと伸ばして出迎えた。白髭は短く、目尻に深い皺が刻まれている。
「王女様にご足労を……」
「足労のうちに入らないわ」とレティシア。「薬の棚を見せて」
棚――と呼ぶには心許ない木組みの枠に、布袋と小瓶が並んでいた。並んでいる、というより、置いてある。空いている場所が多すぎる。
タクトは瓶のいくつかを取り上げ、ラベルを確認した。咳止め、解熱剤、消毒用の酒。いずれも量が少ない。
「寄付は減りましたか?」とタクト。
「帳面では増えています」院長はため息を飲んだ。「ですが、薬は……」
「帳面を見せてください」
院長室の机に、厚い帳簿が開かれた。羊皮紙の頁には、美しい文字が流れ、詩のような科目名が連なる。
――神前修繕。霊香。巡礼者もてなし。慰撫の歌。
タクトは数頁を繰り、ぺらり、ぺらりとめくる手の速度を落とした。金額はある。だが、目的と支出が紐づいていない。寄付の合計は確かに増えているのに、薬という具体に落ちない。
詩人の筆致で書かれた収支報告は、読む者の心を温める。だが、温かさは腹を満たさない。
廊下ではまた咳がした。
レティシアはそっと目を伏せる。「善意が、やっぱり迷子になってる」
◆
「帳簿を、敵にしない」
タクトは院長の前で、細長い羊皮紙を広げた。雛形。列が走り、欄が並び、余白には細い注の位置。
「優しくするんです」
院長は目を瞬かせた。「帳簿を、優しく?」
「ええ。寄付の“目的”をはっきり抱きしめる帳簿。目的別補助簿です」
タクトは列に小さく見出しを記した――薬、食、寝具、施設。目的ごとに入金、使用、残高を一目で追える。
「さらに寄付者名簿を作る。定期報告は“ありがとう”から始めましょう。詩は冒頭に。詩は靴べらです。靴を履かせるために使う」
院長の喉が、細く鳴った。
「ありがとうを、可視化する……」
レティシアが頷く。「詩が先、数字が後じゃなくて、詩が入口で、数字が廊下と部屋になる」
院長の目にうっすら光が差した。
「やらせてください。年寄りの手は震えますが、震える手は正しいと、王城の方がおっしゃった」
◆
棚卸しから始めた。
アマリは青い紐を肩に掛け、子どもたちと一緒に棚の段に番号札を貼っていく。シオンとベルト――会計兵の若い二人は、入庫票と出庫票の雛形を配りながら、院の者たちの名前を聞き、癖を見た。
最初の半刻で、ひとつの凸が見つかった。
霊香の購入が、突出している。
しかも、使用記録は曖昧だ。
タクトは入庫と出庫の票を分け、二重サインに切り替えることを提案した。受け取る者と渡す者が別、そして双方が署名する。
「面倒だ」と誰かが言った。
「面倒は、悪い匂いの虫を追い払う香だ」とタクトは答えた。「香を焚かない場所に虫は寄る」
夕刻、青い影が浮かび上がった。
夜ごと霊香を“教会騎士団の儀式”に運んでいたのは、院の守衛長だった。
堂々と、善意の顔で。
タクトは怒鳴らなかった。
「祈りを否定しません」
守衛長の目がわずかに揺れる。
「ただ、薬の行き先は変えません。香は祈りへ。薬は患者へ。混ぜないでください。混ぜ物は、味を分からなくする」
「祈りは、病を遠ざける」
「遠ざけたいのは同じです。だから棚を分けましょう」
◆
タクトは糸を出した。二巻。
ひとつは青。もうひとつは金。
「寄付品に“青い糸”を結ぶ。青は“患者のもの”の印。祈祷用の品は“金の糸”で結ぶ。糸が違えば棚も違う。混ざれば、子どもでも気づく」
アマリが子どもたちに糸の意味を教えた。
「青は、あなたの咳止め。金は、お祈りの煙。混ぜると、あなたの咳止めが煙になる」
子どもは混ぜ物の危険を、甘い飴を辛子に変える遊びに置き換え、すぐに覚えた。
やがて、子どもたちが棚の番人になった。
番人には青のバッジ――裏に小さく「ありがとう」と刻まれた小板――が渡される。
子どもが棚の番をすることは、慈恵院の誇りになっていった。
レティシアはその光景を見て、小声で言った。
「優しさが制度になった」
ライエルが隣で、詩句をメモに落とす。
――糸が分かれて、心がほどけた。
◆
目的別補助簿は、最初の週で形になった。
表紙には、院の印と数字の小さな花飾り。冒頭に詩。そして目的ごとの頁が続く。
「薬」には、現物寄付の入庫欄と、使用の出庫欄。受け渡しは二重サイン。残高が目で追える。
「食」には、寄付のパン券、穀物、干し肉。王城厨房からの余剰の受け入れ欄には、搬入・受入の役割分離のメモが付く。
「寝具」には、毛布一枚ごとに、青糸の結び目の数が小さく記されている。
「施設」には、修繕の見積と実際の支払。詩では「神前修繕」だった科目は「屋根の雨漏り直し」「床板の張替え」に変わった。
扉の裏に“寄付者名簿”の索引。名と、寄付の目的と、次回報告予定日。
「ありがとう」の定期報告は、詩の一行で始まり、写真(二枚)で続き、数字で終わる。
「透明は冷たいと思われがちだけど、説明は温度だ」
タクトが言うと、アマリはメモに書き写した。その字はまだ少し震えていたが、震えは、芯を持ち始めていた。
◆
その日の午後、院の門に黒衣の列が現れた。教会騎士団。
先頭に立つのは団長。背は高く、刈り込んだ髪に僅かな白。外套の下の鎧は簡素だが、磨き抜かれている。
「神の香を奪うのか」
団長は、まっすぐにタクトを射抜く視線で言った。
タクトは肩を落とさず、胸も張らず、平らな声で答えた。
「香は奪っていません。棚を分けました。祈りは金の糸、薬は青い糸。混ぜるから争いになる」
「香を減らせば、祈りは痩せる」
「香を痩せさせず、薬を痩せさせない道を作るのが、帳簿の仕事です」
騎士団長は退かない。背後の騎士たちの足は、床の節目の上で微動だにしない。
沈黙を、青い小さな手が割った。
青糸のバッジを胸につけた子どもが、布包みを抱えて立っていた。
「これは、わたしの咳止め」
包みの結び目に、青い糸がきゅっと結ばれている。
院長が進み出て、静かに言った。
「祈りは残ります。数字も残ります。どちらも、消えないように」
テーブルには、目的別補助簿が置かれていた。詩と数字が同居する綴じ方に変わっている。詩の一行が、数字の欄の上に薄く影を落とし、数が詩の行に小さな脚を伸ばす。
ライエルがその頁に、そっと詩句を添えた。
――糸が分かれて、心がほどけた。香は高く、薬は近く。
団長の目が一瞬だけ揺れ、その揺れはすぐに硬さに戻った。
「祈りの数は減らさない」
「祈りの数は“金の糸の棚”に書きます」タクトは補助簿の空白を指先で叩いた。「祈祷の効果を数字で語るつもりはありませんが、祈祷の“量”は数にできます。数えることは、軽んじることではない」
団長は、言葉を噛むみたいに黙り、それから一歩下がった。
「貴様らの板の前で、我らの祈りの数を侮辱するな」
「侮辱しません。板は侮辱を宿さない。宿したがるのは、人の声です」
レティシアの視線が団長から院長へ、そしてタクトへ移る。王女は小さくうなずいた。
「王城の詩の欄に、“祈りの棚”を追加するわ。祈りの数は詩の言葉の隣に置く。違うものは、隣り合うときに美しくなる」
騎士団長は、それ以上は踏み込まなかった。黒衣の列は踵を揃え、去った。
アマリが、小さく息を吐く音をタクトは聞いた。
◆
仕組みは、生き物のように回り始めた。
青い糸は患者のものを守り、金の糸は祈りの領域を整え、子ども番人は棚を見上げながら背筋を伸ばす。
補助簿の端は使い込まれて柔らかくなり、詩の欄には季節の一行が増えていく。
「この毛布は、昨日届いた。今朝の冷えに、背中が驚かなかった」
「この薬は、夜の咳を二回で終わらせた」
「このパンは、隣に半分、置いていく」
詩と数字は寄り添い、善意の行き先は迷わなくなった。
結果は、すぐに表れた。
報告書の末尾に“使い道の写真”と一行詩が添えられると、寄付は逆に増えた。
王都北のパン屋がおとといの残りを毎朝寄付し、南の薬種商は卸値での提供を申し出、東の仕立て屋は毛布の縁取りに青い糸を使うことを約束した。
タクトは、出納板の緑が増えるのを確かめながら、アマリに言った。
「透明は冷たいと思われがちだが、説明は温度だ」
アマリはまた書いた。字の震えは、もう線の中におとなしく住んでいる。
レティシアはタクトの横顔を見て、ふっと笑った。その笑いは音にならず、出納板の木目の隙間に吸い込まれていった。
◆
夕刻、タクトは慈恵院の屋根裏へ上がった。
梁の間を渡る埃の糸が、暮れかかる光で金色に見える。ここにも糸がある、と彼は思った。青い糸の結び目が、薬包の束ごとに結ばれている。
アマリが後ろから灯りを持って上がってくる。
「棚の奥に、青い糸で束ねた包みがもうひとつ……」
梁の根元、乾いた木の匂いの奥に、小さな包みがあった。青い糸。結び目は、今日アマリが子どもたちに教えた形そのまま。
タクトは包みを膝の上に置き、糸をほどいた。
中には、薬包と、小さな封書。
封書の蝋印に、見慣れぬ刻印――穀物商の、だが王都のものではない印。
封を切ると、細長い紙が出てきた。
穀物の入札表。
予定価格。
タクトは一度瞬きをし、もう一度、数字を追った。
予定価格は、市場価格よりも高すぎる。
紙の端には、小さな文字でこうあった――「教会の加護の下に」。
アマリの喉が、細く鳴った。
「高い……ですね」
「高い」タクトは簡潔に言い、封書を薬包に戻した。
屋根裏の空気は、夕立の前のように張り詰めていた。
青い糸は、患者のものを守る。金の糸は、祈りを守る。では、価格の糸は、誰の手にある。
梁の外、空がゆっくりと藍に沈む。
タクトは膝の上に、頭の中のT字を描いた。
――借方は命、貸方は物語。物語の欄外に、価格の声。
「明日から、買い入れの“声”を板にする」
アマリが灯りを持ち直す。「板?」
「価格は声だ。声は、掲げないと届かない」
背後の階段の暗がりで、足音がひとつ――そして消えた。
黒衣の影がそこにいたのか、梁の影が人の形をしていたのか、分からない。
タクトは包みを丁寧に結び直した。青い糸の結び目は、さっきよりも硬く、確かだ。
◆
その夜、王城に戻ったタクトは、出納板の“注”欄に小さく書き加えた。
――慈恵院、青糸の棚、充足。寄付増加。
――霊香、金糸の棚、祈祷数掲示開始。
そして最後に、もう一行。
――穀物入札、予定価格の掲示を要す。
ライエルが横で首を傾げる。
「価格の詩は、韻が合いづらい」
「合わなくていい。読めればいい」
「読める詩は、固い」
「固いパンでも、腹は膨れる」
レティシアが笑った。「詩を固く、数字を柔らかく。両方、歯が要るのね」
タクトは鍵を確かめ、板の前から離れた。
遠くの塔の鐘が、ひとつ。
廊下の匂いは、昼よりも軽い。
見える化は反感を呼んだ。反感は、糸の色を分けることでほどけた。ほどけるとき、人は自分の手を見つめる。
明日、人は“価格”という見えない紐を、どんな色で結びたがるだろう。
タクトは心の中のT字の端を、そっと撫でてから、歩き出した。
――第4話「価格は声だ」。穀物談合、価格掲示板、名札制の闘いへ。
待っていたのは、慈恵院からの使いだ。灰色の衣、緊張して乾いた手。差し出された嘆願状には、端的に要件が記されていた――寄付が減り、薬が足りない。
おかしい、とタクトは思う。出納板の“寄付(緑)”札はむしろ増えている。王女レティシアも眉を曇らせて言った。
「善意が、迷子になってる」
◆
慈恵院は王都の南、古い石橋のたもとにある。低く長い建物の屋根に、朝の光がまだ届かない。門をくぐると、咳の音が空気に小石のように跳ねた。
廊下で、侍女が古い布で子どもの額を拭いている。布はよく洗われているが、時間の匂いが染みついていた。
院長は、痩せた背をしゃんと伸ばして出迎えた。白髭は短く、目尻に深い皺が刻まれている。
「王女様にご足労を……」
「足労のうちに入らないわ」とレティシア。「薬の棚を見せて」
棚――と呼ぶには心許ない木組みの枠に、布袋と小瓶が並んでいた。並んでいる、というより、置いてある。空いている場所が多すぎる。
タクトは瓶のいくつかを取り上げ、ラベルを確認した。咳止め、解熱剤、消毒用の酒。いずれも量が少ない。
「寄付は減りましたか?」とタクト。
「帳面では増えています」院長はため息を飲んだ。「ですが、薬は……」
「帳面を見せてください」
院長室の机に、厚い帳簿が開かれた。羊皮紙の頁には、美しい文字が流れ、詩のような科目名が連なる。
――神前修繕。霊香。巡礼者もてなし。慰撫の歌。
タクトは数頁を繰り、ぺらり、ぺらりとめくる手の速度を落とした。金額はある。だが、目的と支出が紐づいていない。寄付の合計は確かに増えているのに、薬という具体に落ちない。
詩人の筆致で書かれた収支報告は、読む者の心を温める。だが、温かさは腹を満たさない。
廊下ではまた咳がした。
レティシアはそっと目を伏せる。「善意が、やっぱり迷子になってる」
◆
「帳簿を、敵にしない」
タクトは院長の前で、細長い羊皮紙を広げた。雛形。列が走り、欄が並び、余白には細い注の位置。
「優しくするんです」
院長は目を瞬かせた。「帳簿を、優しく?」
「ええ。寄付の“目的”をはっきり抱きしめる帳簿。目的別補助簿です」
タクトは列に小さく見出しを記した――薬、食、寝具、施設。目的ごとに入金、使用、残高を一目で追える。
「さらに寄付者名簿を作る。定期報告は“ありがとう”から始めましょう。詩は冒頭に。詩は靴べらです。靴を履かせるために使う」
院長の喉が、細く鳴った。
「ありがとうを、可視化する……」
レティシアが頷く。「詩が先、数字が後じゃなくて、詩が入口で、数字が廊下と部屋になる」
院長の目にうっすら光が差した。
「やらせてください。年寄りの手は震えますが、震える手は正しいと、王城の方がおっしゃった」
◆
棚卸しから始めた。
アマリは青い紐を肩に掛け、子どもたちと一緒に棚の段に番号札を貼っていく。シオンとベルト――会計兵の若い二人は、入庫票と出庫票の雛形を配りながら、院の者たちの名前を聞き、癖を見た。
最初の半刻で、ひとつの凸が見つかった。
霊香の購入が、突出している。
しかも、使用記録は曖昧だ。
タクトは入庫と出庫の票を分け、二重サインに切り替えることを提案した。受け取る者と渡す者が別、そして双方が署名する。
「面倒だ」と誰かが言った。
「面倒は、悪い匂いの虫を追い払う香だ」とタクトは答えた。「香を焚かない場所に虫は寄る」
夕刻、青い影が浮かび上がった。
夜ごと霊香を“教会騎士団の儀式”に運んでいたのは、院の守衛長だった。
堂々と、善意の顔で。
タクトは怒鳴らなかった。
「祈りを否定しません」
守衛長の目がわずかに揺れる。
「ただ、薬の行き先は変えません。香は祈りへ。薬は患者へ。混ぜないでください。混ぜ物は、味を分からなくする」
「祈りは、病を遠ざける」
「遠ざけたいのは同じです。だから棚を分けましょう」
◆
タクトは糸を出した。二巻。
ひとつは青。もうひとつは金。
「寄付品に“青い糸”を結ぶ。青は“患者のもの”の印。祈祷用の品は“金の糸”で結ぶ。糸が違えば棚も違う。混ざれば、子どもでも気づく」
アマリが子どもたちに糸の意味を教えた。
「青は、あなたの咳止め。金は、お祈りの煙。混ぜると、あなたの咳止めが煙になる」
子どもは混ぜ物の危険を、甘い飴を辛子に変える遊びに置き換え、すぐに覚えた。
やがて、子どもたちが棚の番人になった。
番人には青のバッジ――裏に小さく「ありがとう」と刻まれた小板――が渡される。
子どもが棚の番をすることは、慈恵院の誇りになっていった。
レティシアはその光景を見て、小声で言った。
「優しさが制度になった」
ライエルが隣で、詩句をメモに落とす。
――糸が分かれて、心がほどけた。
◆
目的別補助簿は、最初の週で形になった。
表紙には、院の印と数字の小さな花飾り。冒頭に詩。そして目的ごとの頁が続く。
「薬」には、現物寄付の入庫欄と、使用の出庫欄。受け渡しは二重サイン。残高が目で追える。
「食」には、寄付のパン券、穀物、干し肉。王城厨房からの余剰の受け入れ欄には、搬入・受入の役割分離のメモが付く。
「寝具」には、毛布一枚ごとに、青糸の結び目の数が小さく記されている。
「施設」には、修繕の見積と実際の支払。詩では「神前修繕」だった科目は「屋根の雨漏り直し」「床板の張替え」に変わった。
扉の裏に“寄付者名簿”の索引。名と、寄付の目的と、次回報告予定日。
「ありがとう」の定期報告は、詩の一行で始まり、写真(二枚)で続き、数字で終わる。
「透明は冷たいと思われがちだけど、説明は温度だ」
タクトが言うと、アマリはメモに書き写した。その字はまだ少し震えていたが、震えは、芯を持ち始めていた。
◆
その日の午後、院の門に黒衣の列が現れた。教会騎士団。
先頭に立つのは団長。背は高く、刈り込んだ髪に僅かな白。外套の下の鎧は簡素だが、磨き抜かれている。
「神の香を奪うのか」
団長は、まっすぐにタクトを射抜く視線で言った。
タクトは肩を落とさず、胸も張らず、平らな声で答えた。
「香は奪っていません。棚を分けました。祈りは金の糸、薬は青い糸。混ぜるから争いになる」
「香を減らせば、祈りは痩せる」
「香を痩せさせず、薬を痩せさせない道を作るのが、帳簿の仕事です」
騎士団長は退かない。背後の騎士たちの足は、床の節目の上で微動だにしない。
沈黙を、青い小さな手が割った。
青糸のバッジを胸につけた子どもが、布包みを抱えて立っていた。
「これは、わたしの咳止め」
包みの結び目に、青い糸がきゅっと結ばれている。
院長が進み出て、静かに言った。
「祈りは残ります。数字も残ります。どちらも、消えないように」
テーブルには、目的別補助簿が置かれていた。詩と数字が同居する綴じ方に変わっている。詩の一行が、数字の欄の上に薄く影を落とし、数が詩の行に小さな脚を伸ばす。
ライエルがその頁に、そっと詩句を添えた。
――糸が分かれて、心がほどけた。香は高く、薬は近く。
団長の目が一瞬だけ揺れ、その揺れはすぐに硬さに戻った。
「祈りの数は減らさない」
「祈りの数は“金の糸の棚”に書きます」タクトは補助簿の空白を指先で叩いた。「祈祷の効果を数字で語るつもりはありませんが、祈祷の“量”は数にできます。数えることは、軽んじることではない」
団長は、言葉を噛むみたいに黙り、それから一歩下がった。
「貴様らの板の前で、我らの祈りの数を侮辱するな」
「侮辱しません。板は侮辱を宿さない。宿したがるのは、人の声です」
レティシアの視線が団長から院長へ、そしてタクトへ移る。王女は小さくうなずいた。
「王城の詩の欄に、“祈りの棚”を追加するわ。祈りの数は詩の言葉の隣に置く。違うものは、隣り合うときに美しくなる」
騎士団長は、それ以上は踏み込まなかった。黒衣の列は踵を揃え、去った。
アマリが、小さく息を吐く音をタクトは聞いた。
◆
仕組みは、生き物のように回り始めた。
青い糸は患者のものを守り、金の糸は祈りの領域を整え、子ども番人は棚を見上げながら背筋を伸ばす。
補助簿の端は使い込まれて柔らかくなり、詩の欄には季節の一行が増えていく。
「この毛布は、昨日届いた。今朝の冷えに、背中が驚かなかった」
「この薬は、夜の咳を二回で終わらせた」
「このパンは、隣に半分、置いていく」
詩と数字は寄り添い、善意の行き先は迷わなくなった。
結果は、すぐに表れた。
報告書の末尾に“使い道の写真”と一行詩が添えられると、寄付は逆に増えた。
王都北のパン屋がおとといの残りを毎朝寄付し、南の薬種商は卸値での提供を申し出、東の仕立て屋は毛布の縁取りに青い糸を使うことを約束した。
タクトは、出納板の緑が増えるのを確かめながら、アマリに言った。
「透明は冷たいと思われがちだが、説明は温度だ」
アマリはまた書いた。字の震えは、もう線の中におとなしく住んでいる。
レティシアはタクトの横顔を見て、ふっと笑った。その笑いは音にならず、出納板の木目の隙間に吸い込まれていった。
◆
夕刻、タクトは慈恵院の屋根裏へ上がった。
梁の間を渡る埃の糸が、暮れかかる光で金色に見える。ここにも糸がある、と彼は思った。青い糸の結び目が、薬包の束ごとに結ばれている。
アマリが後ろから灯りを持って上がってくる。
「棚の奥に、青い糸で束ねた包みがもうひとつ……」
梁の根元、乾いた木の匂いの奥に、小さな包みがあった。青い糸。結び目は、今日アマリが子どもたちに教えた形そのまま。
タクトは包みを膝の上に置き、糸をほどいた。
中には、薬包と、小さな封書。
封書の蝋印に、見慣れぬ刻印――穀物商の、だが王都のものではない印。
封を切ると、細長い紙が出てきた。
穀物の入札表。
予定価格。
タクトは一度瞬きをし、もう一度、数字を追った。
予定価格は、市場価格よりも高すぎる。
紙の端には、小さな文字でこうあった――「教会の加護の下に」。
アマリの喉が、細く鳴った。
「高い……ですね」
「高い」タクトは簡潔に言い、封書を薬包に戻した。
屋根裏の空気は、夕立の前のように張り詰めていた。
青い糸は、患者のものを守る。金の糸は、祈りを守る。では、価格の糸は、誰の手にある。
梁の外、空がゆっくりと藍に沈む。
タクトは膝の上に、頭の中のT字を描いた。
――借方は命、貸方は物語。物語の欄外に、価格の声。
「明日から、買い入れの“声”を板にする」
アマリが灯りを持ち直す。「板?」
「価格は声だ。声は、掲げないと届かない」
背後の階段の暗がりで、足音がひとつ――そして消えた。
黒衣の影がそこにいたのか、梁の影が人の形をしていたのか、分からない。
タクトは包みを丁寧に結び直した。青い糸の結び目は、さっきよりも硬く、確かだ。
◆
その夜、王城に戻ったタクトは、出納板の“注”欄に小さく書き加えた。
――慈恵院、青糸の棚、充足。寄付増加。
――霊香、金糸の棚、祈祷数掲示開始。
そして最後に、もう一行。
――穀物入札、予定価格の掲示を要す。
ライエルが横で首を傾げる。
「価格の詩は、韻が合いづらい」
「合わなくていい。読めればいい」
「読める詩は、固い」
「固いパンでも、腹は膨れる」
レティシアが笑った。「詩を固く、数字を柔らかく。両方、歯が要るのね」
タクトは鍵を確かめ、板の前から離れた。
遠くの塔の鐘が、ひとつ。
廊下の匂いは、昼よりも軽い。
見える化は反感を呼んだ。反感は、糸の色を分けることでほどけた。ほどけるとき、人は自分の手を見つめる。
明日、人は“価格”という見えない紐を、どんな色で結びたがるだろう。
タクトは心の中のT字の端を、そっと撫でてから、歩き出した。
――第4話「価格は声だ」。穀物談合、価格掲示板、名札制の闘いへ。



