王城の回廊に朝の風が通ると、出納板の緑と赤と黄が、ほんの一拍だけ色を深める。
 見える化は、光と同じで遠くの物をはっきりさせるが、同時に影も濃くする。朝食前の廷臣、伝票を抱えた侍従、用もないのに立ち止まる若い兵。みんなが一度は板の前で歩を緩めた。
 未収は赤。回収中は黄。回収済は緑。
 赤が多い日は、石の廊下がどことなく湿って見えた。人は数字の匂いを嗅ぎ分ける。それが正しいかどうかは別にして、匂いは気分に効く。

 新名タクトは、腰の皮袋から小さな木札束を取り出し、アマリに渡した。
「原因札。青は“物流”、茶は“飢饉”、黒は“汚職”。重ねて差せるように薄く作らせた。朝のうちに貼り替えておこう」
 アマリはうなずき、札束を胸に抱え直す。薄茶の瞳が板面をなぞり、どこに何色を差し込むか、目だけで試算する。
 板の前には、いつもよりも多くの人だかりができていた。ひそひそ声、わざとらしい咳払い、ため息が折り重なる。赤が、いつもより一列分多い。
「評議会のあとで、みんな“見て”るんだ」アマリは声を潜める。「昨日のうちに赤が増えました」
「増えることはある。見えたなら、やり方を変えられる」
 タクトは板の前から一歩退き、王城正門へ視線を滑らせた。門外の坂道を、徴税官ギルドの使いの者が上ってくるのが見える。昨日、王城発で出した協力要請への返答だ。
 文面は簡潔だった――徴税の督促を原因別の色札に切り替える。飢饉と汚職と物流混乱を同じ督促文で叩かない。色が違えば、介入も違う。
 王女レティシアは賛同した。出納板の“注”欄に詩を残すアイデアに、吟遊会計官ライエルも乗ってきた。詩は靴べらであって、靴そのものではない――彼の言い回しは洒落ていて、伝わりやすい。
 問題は、剣と印章で税を回してきたギルドだ。

 面会は、王城の側庭にある小さな会見所で行われた。
 斜め格子の窓から、ハーブの匂いが入る。長椅子に座ったギルド長は、肩幅の広い男で、胸に銀の徽章を光らせている。口髭は短く刈り揃えられ、眼差しは鷹のように鋭い。
「色札の督促?」ギルド長は鼻先で笑った。「王城の遊びに、現場を巻き込まないでもらおう。徴税は剣と吏の権威だ。赤札で殴るのも、黄札で撫でるのも、同じ稼業の落ちぶれだ」
 レティシアが視線を落とす。板挟みのときの、彼女特有の静けさが部屋に広がった。
 タクトは、会見卓に薄い羊皮紙を広げた。
「殴る相手が“飢饉”で、撫でるべき相手が“汚職”のとき、剣は逆向きに振られる。色は方向を間違えないための矢印です。……協力がいただけないなら、王城から“質問で進める部隊”を出す。名は会計兵。剣は持ちません。羽根ペンと聞き取り票を武器にする」
「羽根ペンで税が払えるか?」
「払えません。でも、間違いなく集まります」
 ギルド長の目が、やや細まる。「どこで実験するつもりだ」
 レティシアが代わって口を開いた。「赤の濃い村へ。最初の任務を命じます」
 ギルド長は短く鼻を鳴らし、立ち上がった。「好きにするがいい。剣ではなく札をかざして歩けば、子どもには受けるだろうさ」



 出立の朝、王城の石段に並んだのは、奇妙な四人組だった。
 新名タクト。侍女アマリ。会計兵の若い二人――元書記のシオンと、元小商人のベルト。どちらも剣は帯びず、腰に革製の小さな鞄。中には聞き取り票、インク、携帯用の小印、そして色札。
 外套の背中には、王城の小さな印。その脇に、羽根ペンと鍵を交差させた新しい徽章――即席の会計兵章。
 城門をくぐると、幼子が声を上げ、指をさす。
「剣、ない!」
 笑いが起きる。笑いは悪くない。人は、笑うものに石を投げづらい。

 道は南へ。王都を抜け、麦畑とオリーブの並木を横目に進むと、やがて丘陵地帯に入る。赤土の斜面、ところどころに乾いた川床。
 目的地の村は、古い橋で知られていた。雨季の洪水に耐え、一年に一度の祭りで塩の荷車が誇らしげに渡る。その橋が、先月の長雨で崩れた――未収の原因札に“物流(青)”が幾枚も重なっていた村だ。
 村の入口で、一行は立ち止まった。
 門は開いているが、人の足が少ない。外れの小屋には、乾いたトウモロコシが壁に吊るされ、窓枠には欠けた皿が伏せてある。
 村長の屋敷に向かう前に、タクトは指で輪を描くように視線を走らせた。人影が薄い。市場らしき広場には屋台が二つだけ。薪の値が高いのか、炉の煙が少ない。
「門前払いの匂いがする」ベルトが小声で言う。
 アマリが苦笑した。「どうして分かるの?」
「小商人は、門で分かる。門が“外へ”開いている村は、客を入れる気がある。これは“内へ”向けて開いている。よそ者の靴底を見てる目だ」
 言葉通り、村長は門前で手を上げた。
「遅れているのは承知の上だ。剣も持たずに何をしに来た。説教なら教会へ行け」
 シオンが震える手で、聞き取り票を広げる。紙の上で、羽根ペンが心臓のように脈打って見える。
 タクトは正面突破を避け、軽く頭を下げた。
「ならば酒場をお借りします。音のある場所の方が、耳が開く」
 村長は不承不承、顎で奥を指した。「昼の鐘までだ」



 酒場は薄暗く、冷えた麦粥の匂いが居座っていた。
 壁には乾いたトウモロコシ、棚に欠けた皿、炉の煤。
 タクトは卓に布を敷き、三色の小札と聞き取り票を並べる。
「質問は三つ。足りないのは何か。誰が困っているか。直す順番はどれか。――それだけ答えてほしい」
 沈黙は、時に嘆きより重い。
 最初は誰も口を開かなかった。椅子のきしみだけが数を刻む。
 しばらくして、皿洗いの少女が、皿を抱えたままぽつりと言った。
「橋。雨で落ちた。塩の荷が渡れない。塩が来ないと、肉が腐る。塩田の人がこっちに来られない」
 タクトは青札を少女の前に滑らせた。「物流、青」
 少女は目を丸くしたが、札を指でつまみ、卓の端に置いた。
 続いて、年寄りの男が咳払いを一つ。「畑は、まあ何とかなる。ただ、粉挽きの水車が回らん。水路が塞がった」
「水車、青」
 シオンの震えは、少し収まっていた。ペン先が数字ではなく言葉を追い、点を打つように短く記す。
 ベルトが外に出て、川筋と水路を見に行く。戻ってきた顔は、乾いていた。
「橋梁の基部は片側が流失。反対側は生きてる。水路は土砂と流木で詰まり。仮橋なら三日。水路の掃除と木枠の補修で二日」
 タクトは卓上に簡単な図を描いた。仮設橋は丸太三本を桁とし、上に板を渡す。支承は土嚢と石で代用。工程を三日×三工程に分け、昼と夕に区切る。
「橋は、金じゃなく“手”で立つ。村の手が空く時間帯に合わせる。報酬は“パン券+小銀貨”。パンは王城厨房の余剰から。受け渡しは会計兵と村の年寄りの二重サイン」
 村長の眉が吊り上がった。「食い物で釣る気か」
「腹が満ちると、怒りの音が小さくなる」タクトは微笑んだ。「それに、厨房で余って廃棄されるパンなら、二度得する」
「横流しは?」
「受け渡しの場で“見える化”。午前と午後の配給に立会人を変える。名は詩の欄に注記する」
 ベルトがさらに言葉を足す。「パン券は翌日以降にも使える。貨幣と違って持ち逃げしても王都で換金しづらい。村の中でしか“力”を持たない札は、村の中を回る」
 しぶしぶだった村長の目が、わずかに揺れた。「……やってみろ。三日だ」



 一日目。
 仮設橋のための丸太を、丘の小林から切り出す。男手は半分、女手も出た。子どもは小枝を拾い、年寄りは縄を撚る。
 シオンは、聞き取り票を片手に作業の列の脇を歩く。誰が、どの時間に、どれだけの手を出したか。書き慣れない手つきでも、線の意味は分かる。
 アマリはパン券の配布を担当した。券の下端には小さな切り欠き――午前と午後で向きを変えて切る。二重サイン。
 ベルトは、搬入・受入の役割を分け、仮の“搬入口”に木札を掛けた。誰かがパンを手早く懐に入れようとすると、彼は怒らず、ゆっくりと札を指差すだけだった。見えると、手は止まる。

 二日目。
 水路の掃除。流木を引き上げ、土砂を掻き出す。
 少女が裸足で水に入り、冷たさに小さな悲鳴を上げた。アマリは裾をたくし上げ、その隣で泥を掬う。
「王城の人が、泥?」少女は目を丸くする。
「数字は匂いを持つから」とアマリは笑った。「匂いを覚えるには、泥が早い」
 水車は、午後遅くに一度だけ回った。きしきしと音を立て、やがて音が滑らかになった。粉挽きの男が涙を拭ったのを、誰も見なかったふりをした。

 三日目。
 仮設橋に板を渡す。留め具は木栓。最後に縄を斜めに張り、踏み板の端に白い印を描く――足の幅を揃えさせ、転落を防ぐためだ。
 昼過ぎ、塩の荷車が村の外れに現れた。
 荷車の車輪は泥で重く、牛は息を荒げる。橋の手前で一度止まり、息を整えるように鼻から熱を吐いてから、ゆっくりと板の上に乗った。
 橋は、鳴らなかった。
 足元で水が走る。子どもが歓声を上げ、誰かが手を叩いた。
 荷車が渡り切ったとき、タクトは青い札を黄に、黄を緑に、順に差し替えた。
 酒場では、小さな乾杯が起きた。麦粥に塩をひとつまみ足すだけで、味は変わる。
 少女は、タクトの手元を見ていて、ぽんと手を打った。
「色って、分かる。うちにも板を作る。家計の板」
 アマリは目を細めた。「いい名前だ。“家計板”」
 少女は、帰り道で拾った小枝を大事そうに抱えた。板の枠に使うつもりなのだろう。



 村での成功は、火の手のように広がった。
 翌朝には、隣村の使いが王城へ来て、会計兵の巡回を頼んだ。さらにその翌日、南の葡萄園の村が「収穫期に人手が足りぬ」と訴え、交換条件に“未収の一部即納”を提示してきた。
 徴税官ギルドは眉をひそめた。
「権威の侵食だ」と、城内の会議でギルド長は言い切った。「徴税は剣でなければ舐められる。札で回るなら、誰でも徴税官になれる」
 評議会の間に、ざわめきが走る。
 タクトは、羊皮紙の板二枚を壇上に立てた。一枚には回収率の推移グラフ。もう一枚には村の満腹率――パン券の消化率。
「怖がらせる徴収は短期で効く。翌年の収穫が落ちる。質問で整える徴収は翌年の収穫が伸びる」
 ギルド長は、鼻で笑った。「詩のようなことを言い出したな。詩は詩人に任せろ。人を動かすのは詩だ」
 横から、ライエルがわずかに肩を竦めた。
「詩が人を動かすのは本当だ。ただ、詩には“続き”が要る。続かない詩は、花火で終わる」
 レティシアの視線がライエルに向く。王女は静かな口調で言った。
「詩は続きがある方が美しい。続く徴収を選びます」
 場が割れた。
 旧来派の貴族は顔をしかめ、若い役人は目を輝かせ、教会騎士の列は動かなかった。
 タクトは、壇上の板に小さな印を付けた。
「会計兵は剣の代わりにはならない。違う武器を持つ。剣の隣で、鍵と目と耳で戦う。――徴税官ギルドとは、敵にも味方にもならない。結果で話しましょう」



 評議会のあと、アマリは出納板の前で札を差し替えていた。
 黄が、緑に変わる。緑が増えると、廊下の匂いが変わる。
「赤が減る日は、廊下の匂いが違います」
 アマリの囁きに、タクトはうなずいた。
「数字は匂いを持つ。だから現場へ行く」
 アマリは、勇気を出して言葉を足した。
「未収の横に“原因の色”を小札で重ねましょう。遠目でも複合原因が分かるように。青と黒が重なってたら“物流の乱れに汚職が乗ってる”って、ひと目で」
 タクトは、思わず笑った。
「副官に向いてる」
 アマリは耳まで赤くした。「まだ、字が震えるけど」
「震えは正しい。大事なことをしている手は、震える」
 ライエルが回廊の端から歩いてきた。
「詩の欄に“匂い”のことを書いておこうか。“塩の匂いが戻ると、人はパンを半分で済ます”とか」
「上等の詩だ」タクトは頷く。「匂いの詩は、きっと続く」



 その夜。
 王城の出納板は、昼間よりも重い顔をしていた。蝋燭の光が板面を撫で、札の影が床に長く伸びる。
 タクトは最後の巡回で、札の位置と数を確認した。
 アマリが指先で札の縁を揃え、黄と緑の列の隙間を整える。
「鍵、閉めます」
 留め金が噛む音が、あたりの静けさをいっそうはっきりさせた。
 二人が一歩退いたその時、小さな違和感が視界の端を引っかいた。
 ――黒。
 未収“汚職(黒)”の小札が一枚、緑の下に潜っている。昼にはなかった。
 タクトは近づいた。札は、緑の本札の裏に重ねるように差し込まれ、上から朱印で“神前にて解決済”と押されている。
「……勝手に緑になっている」アマリの声が揺れた。
 タクトは、札の裏をそっと剥いだ。蝋の下に、見覚えのある刻印――教会騎士団の祈祷印。
 蝋は新しい。印の縁には祈祷油の匂い。
 ライエルが、静かに近づいてきた。夜の詩人の顔で、板面を眺める。
「詩の届かぬところに、別の祈り」
 タクトは札を元に戻し、鍵穴を見た。壊されてはいない。
「板の前での“儀式”は、一つ増えたらしい」
 アマリは、唇を噛んでうなずいた。「どうします」
「明日、補助簿を作る。寄付と祈祷の“注”を、詩の隣に並べる。祈りが数字を消すのではなく、数字の“意味”に寄り添うように」
「補助簿?」
「優しさの棚だよ」タクトは笑った。疲れた笑いではなく、明日の段取りを思い描く者の笑いだった。「誰のどんな善意が、どこへ置かれているか、見える棚」
 アマリの目が、夜の光で少しだけ大きく見えた。
 廊下の陰で、黒衣の教会騎士が一瞥し、足音を残さず消えた。

 風が通り、蝋燭の背がひとつ低くなる。
 板の前で三人は立ったまま、短い沈黙を共有した。
 見える化は反感を呼ぶ。反感は、敵だけでなく、味方の中にもある。
 タクトは、自分の胸の内に小さなT字を描いた。借方は命、貸方は物語。物語は注に。注の隣に、祈り。
 そして数字は、匂いを持つ。匂いは現場でしか嗅げない。

 ――第3話「補助簿という優しさ」。寄付金の行方、祈りと数字の重ね方へ。