夜の王都は、海ではないのに、灯の波で満ちていた。広場じゅうに、小さな炎が等高線のように並び、黒板の前だけひときわ明るい。板の上には白墨で大きく書かれている――「今月:実質黒字」。
 文字は派手ではないのに、近くで見ると微かに震えている。人が読み、頷き、読み直し、また頷くたび、板そのものが呼吸しているようだった。
 王城の長い廊下でも、ささやかな儀式が続いていた。アマリが小箱を抱え、金の星を一枚、最後の一枚、指先でそっと拾い上げる。星の裏には薄い膠(にかわ)が塗られ、指に体温で馴染む。彼女は出納板の右下、緑札の列の端に、星を貼った。
「……これで、全部」
 囁きと同時に、背後から明るくない拍手がひとつ。振り返ると、ライエルが口元に指を当てて笑っている。「星は小さく、数で光る」
 王女レティシアは廊下の窓から広場の灯海を眺め、薄く息を吸った。「ここまで来た」
 新名タクトは、出納板の隅に立てかけてあった一本の鉛筆を指で軽く弾いた。芯の先がかすかに震え、木の匂いが立つ。彼はそのまま鉛筆を掌で受け止め、板の縁へ静かに置く。
「鉛筆は武器であり、楽器だ」
 武器――線を引き、嘘を断ち、曖昧を斬る。楽器――板を打てば合図になり、紙の上で拍を刻めば人の足並みが揃う。



 翌朝、監査院の前の硝子扉に小さな貼り紙が増えた。薄青の紐で結わえられた紙に、タクトが書いた文字が並ぶ。
 ――自走のチェックリスト。
 ひとつ、出納板は人が見ずとも回るか。
 ふたつ、笛箱は空白の日が続くか。
 みっつ、黒板の議論は数字→理由→合意に自然に流れるか。
 よっつ、監査人の席は“怖い席”から“相談の席”へ変わったか。
 紙の下には、小さな欄――「報告」。ここに、会計兵たちが短い文を貼っていく。
 午前のうちに、四つの欄が埋まった。

 会計兵・シオンの字。
 ――出納板、回っています。朝に二人、昼に一人、夕に一人。差し替えに迷いが出たときは注欄に矢印を書きました。
 会計兵・ベルトの字。
――笛箱、三日連続で白。四日目に「印の押し忘れ」の短文。翌日からはまた白。
 監査院・賢者の字。
――黒板の前での議論、最初に数字を読み上げ、次に「理由」を尋ねる人が増えました。最後に「次の手」。自然にそうなる場面が増加。
 商人学舎・老教授の字。
――監査人の席、昨日はパン屋の親方が「秤の校正」で相談に来た。怒られに来たのではないという顔だった。
 掲示板の前で立ち止まった石工が頷き、「読める」と二度目を言った。読めることは、続けられることだ。続けられることは、仕組みの自走の第一条件だ。

 城の厨房にも、小さな変化が定着していた。
 “余剰食材でスープ”は、余剰の偶然に頼らない。仕込み表の端に「余裕」という欄が新設され、前日の在庫から「持ち越すべき量」「使ってよい量」「余裕として確保する量」が三色で分けられている。
 汁鍋の火番は日に二人。交代の度に木べらの持ち手に小さな刻み目(きざみめ)を一つ入れる。刻み目は詩の韻のように、火加減を身体に覚えさせる。
 清掃班のゴードンが鍋の蓋を持ち上げ、湯気を一口吸って言う。「今日の余裕は、匂いで分かる」
 アマリが笑い、「匂いの詩」を詩欄に一行書き足す。
 ――湯気が薄く手の甲に触れたら、余裕がある。



 灯の海の熱気と、王城の静けさの間で、たった一つの音が大きくなり始めていた。
 “英雄待望”。
 広場の片隅で誰かが言う。「タクトを宰相に」。
 市場の黒板の前で、別の誰かが頷く。「タクトなら」
 酒場の隅では囁きが噂に変わり、噂が短い詩になり、詩が扉の外へ滲み出る。
 英雄は甘い。甘さは、仕組みを緩ませる。

 その日の午後、王女から正式な書状が届いた。
 ――国政参与の申し出。
 タクトは封を開け、読み、机の上に置き、鉛筆を一本、くるりと転がした。鉛筆は机の縁で止まった。
「一晩、考えます」
 王女は頷いた。「一晩は、丁度いい。短すぎず、長すぎず」
 夜、広場では祝祭の準備が進む。屋台の木枠が組まれ、塩の村のミナが白刻印の袋を肩に担いで到着する。
 子ども番人たちは青い糸の棚を誇らしげに磨き、刻印灯の柱に早口の刻印歌を貼る。
 清掃班は“祝祭のあと片付け”の算段を黒板配信に載せ、視聴者からの投げ銭で新しいほうきが二本、三本と届く。
 「ほうきにも星を」
 誰かが言い、アマリが金の星を一本一本の柄に貼っていく。
 祝うことが、次の整備を呼ぶ。整備は、次の祝祭を呼ぶ。



 朝。
 タクトは王女レティシアの執務室にいた。窓の外には広場の端が見え、昨夜の灯の余熱が瓦の上に微かに残っている。
「答えを」
 王女の声は平らだが、言葉の下に細い緊張が走っている。
 タクトは頷き、短く言った。
「仕組みが自走したら、俺は要らない。俺が長居すると、また“人”に寄りかかる」
 王女は笑って――そして、少し泣いた。泣き方は貴族のそれではなく、鍋の湯気に目が潤むのと同じ速度だった。
「じゃあ、最後の二つのお願いをさせて」
「どうぞ」
「詩の席を守ること。……詩は注に置くって約束、誰もが忘れないように」
「承認」
「会計兵の学舎を作ること。職人と学び手が混ざる場所がほしい」
「承認」
 ライエルがいつの間にか窓辺に立ち、短い詩を書いた紙片を持っていた。
 ――校歌。
 ――数の歌、生活の調べ。
 「長くない校歌がいい」
「長くないと覚える」
 アマリが笑う。「長くなくても、口ずさめる」
 ライエルはしばし考え、さらに一行足した。
 ――うなずきの数で合唱する。



 日が高くなると、評議会が開かれた。
 旧来派の数名が再び立ち、声の高さで空気を押し上げようとする。
「彼を要職に」
「彼なくしては」
 タクトは壇に上がらない。黒板の前に立ち、白墨を取って、板の上を軽く叩いた。
「ここが宰相です」
 板の表面がわずかに鳴る。
 彼は続けた。
「ここには、王都の声が集まり、帰っていきます。出納板、黒板、監査院、笛箱。――権力を“壁に分散”させたので」
 彼が手を挙げる。合図は音より速い。
 会計兵が前へ出て、緑札の列に金の星を貼る。
 監査人が前へ出て、要約メモの端に小さな星を貼る。
 王女が前へ出て、詩欄の「注」に銀の小星を貼る。
 民が前へ出て、質問票の壺の縁に紙の星を挟む。
 星は小さい。だが、壁いっぱいに散れば、天井が低くても空に見える。
 王女は剣の柄にそっと触れた――抜かない。
「収めた剣で治める」
 拍手が一拍遅れて、波のように広がる。波の高さは低く、しかし途切れない。
 オルベックは列にいない。彼の影は、今や壁の注の欄にも残らない。
 教会騎士団長は静かに祈り、祈りが短いことを祈った。祈りは注で十分に長い。



 祝祭が始まる。
 広場の端から端までが、ほどよい混み具合で満たされる。
 屋台の一つでは、ミナが白刻印の塩を指先で摘み、焼いた薄パンの上からさらさらと振る。
「白でうまい!」
 彼女が言うと、客の少年が胸を張って真似をする。
 「白でうまい!」
 笑いが輪を作り、その輪の中心で清掃班が星のついたほうきを肩に担ぎ、軽く踊る。ほうきの柄が床を打ち、リズムが生まれる。
 会計兵は羽根ペンを手に、合唱の拍を取る。拍の間に、紙の上で数字の草書が生まれては消える。
 王女は灯を高く掲げ、静かに、しかしよく通る声で言う。
「詩は注に、数字は前に」
 ライエルは最後の詩を読む。
 ――黒字は静けさ。
 ――静けさは、人を話し合わせる。
 ――話し合いは、祭の音を小さくする。
 ――小さくなった音で、遠くの声が聞こえる。
 詩は短い。短いから、最後の言葉が残る。

 タクトは広場の端に立ち、人の背中の高さを確かめた。背は伸びている。伸びた背の間に、黒板の白が覗く。
 彼は鉛筆を空に掲げた。
 鉛筆の影が、短い塔の影に重なる。
 ゆっくり、鉛筆を降ろす。
「ここからは、君たちの物語」
 アマリが駆け寄り、薄青の紐を手首に結ぶ。結び目は小さく、解けにくい形。
「戻る道の色ですよ」
 タクトは笑い、「じゃあ、また“注”で会おう」
 彼らは握手をしない。握手は大仰だ。代わりに、アマリが彼の手の甲に白墨で小さな点を一つ描いた。
 ――“見た”。
 それで十分だ。



 夜が深まり、星は壁の中に残り、灯は壁の外で徐々に減る。
 王城の廊下は静かだが、静かさは空虚ではない。器を温めた後の温もりが、石の内側でゆっくりと落ち着いていく。
 監査院の硝子扉に、人影が一つ映る。
 賢者が杖の小さな鐘を鳴らさずに通り過ぎ、老教授は片眼鏡を外して胸ポケットに納める。
 彼らはもう“第三者”ではない。壁の一部だ。壁は動かないが、壁は息をする。

 タクトは連結決算室の灯を最後に落とし、赤い糸の結び目を指先で撫でた。結び目はゆるまない。
 机の上に、転記印と署名印を並べ、印面を布で拭く。印は冷やして片づける。熱い印は、夜に似合わない。
 広場の片隅で、ミナが残りの塩を瓶に戻し、白い印章を胸の前で外す。「明日も白」
 清掃班がほうきで星をすくい、袋に入れ、明日の朝にまた貼れるように膠を温める。
 会計兵は羽根ペンの先を水で洗い、ペン立ての一番手前に差し込む。手前は「明日、最初に使うペン」の席だ。



 そして、物語の“余白”が訪れる。
 王都の片隅、石畳の段差を二つ降りた細い小路に、小さな扉がある。扉は新しい木の匂いがするが、取っ手は古い。古い取っ手は人の手の油を吸い、握ったとき、過去の温度を返してくれる。
 扉の上には、小さな看板――会計学舎。
 扉が音を立てずに開く。
 室内は白い。壁には「最初の出納板」の複製が掛かり、隅に小さな黒板、窓際に鉛筆削り、机には削りたての鉛筆が等間隔に置かれている。鉛筆の先は、まるで朝の塔の影のように静かに尖っている。
 新入生が席に座る。年齢はまちまち。市場の娘、鍛冶見習い、元・徴税吏の若者、孤児院出の少年――髪の油の匂いも靴底の音も、少しずつ違う。
 講師が前に立つ。
 黒板に白墨でT字を引き、静かに言う。
「借方は命、貸方は物語」
 ライエルが後ろの席で微笑み、短い詩の紙片を膝の上に隠す。校歌は長くない。
 鐘が鳴る。
 鐘の音は、小さな黒字の祝祭のように、短く、しかし確かに、室内の空気を温めた。
 扉の外で、朝の風が最初の紙を捲る。
 物語は続く。
 仕組みはもう、走っている。
 鉛筆は並び、手は伸びる。
 詩は注に、数字は前に――その順番のまま、誰かの一日が始まる。

 広場の黒板は、今日も「実質黒字」を書くかもしれないし、書かないかもしれない。書かない日が来ても、誰も慌てない。器は温まっている。
 そして、タクトがどこにいるかを探す声は、やがて薄れる。薄れた後に残るのは、薄青の紐の結び目と、壁の星と、削りたての鉛筆の匂いだ。
 ――黒字とは祝祭。祝祭とは、続けられる喜び。
 その喜びの上で、国は静かに、今日も呼吸している。