朝の王城は、いつもより線が多かった。石床に差し込む光は細長い罫に分かれ、壁の継ぎ目は列となって奥行きを指し示し、廊下を渡る人々の影までもが、一行の文章のように行儀よく並んでいた。
 東翼の一室――扉に新しく刻まれた銘は「連結決算室」。その中で、新名タクトは長机を四つ島に組み、上面いっぱいに羊皮紙を広げていた。紙はそれぞれ、王城・軍・教会・公庫の帳簿を写したもの。別々に書かれたはずの物語が、一本の物語になるための机だ。

 会計兵の若い二人が、紙の端を押さえる。アマリは糸巻きから赤い糸を引き出し、震える指で端を結んだ。
「入出金――同じ日付、同じ額、違う名義」
 タクトが低く言う。
「……スルー口座」
 アマリの喉が、名を出した瞬間に小さく鳴った。
 赤い糸は、紙から紙へ、角から角へ、静かに橋を渡していく。昨日はただの点だったものが、今朝は線になる。線が二本、三本と重なる地点がある。そこに、薄墨で丸を描く。輪の内部に、小さく「鏡」と記す。
 タクトは胸の内でT字を撫でた。借方は命、貸方は物語。物語は注に移した。だが今、注さえも数の前に立つことがある。注を祓い、数を先に出す。
 王女レティシアは椅子を引き、机の縁に腰を寄せ、赤い糸の交差を見つめていた。
 糸が最後の結びを受け取ったとき、彼女の唇がごく小さく動く。
「……繋がった」

 壁の黒板には、王城の出納/軍の糧秣/教会の祈祷支出/公庫の融資――それぞれの流れが細線の地図になっている。各線は別の色粉で引かれていたが、赤い糸が横断し始めると、色は相対化された。
 ライエルは窓辺に立ち、光の角度を測るように指を広げ、詩の巻物ではなく薄い紙片を手にしていた。注釈詩のための紙だ。今日は最初ではなく、最後に読む。
 賢者と老教授は、監査院から借りた小さな印を机の端に置き、必要な時に押せるように印面を温めている。印面を温めるのは、器を温める行為に似ている。冷たい印は、紙を傷つける。



 評議会の大広間は、人の目という目が線の先端になっていた。
 王宮書記が冒頭の儀文を読み上げ、古い金の飾りが一度だけ薄く鳴る。
 タクトが壇上に上がると、紙と紙の間、糸と糸の交差点が頭の中でもう一度結ばれた。彼は羊皮紙一枚――連結の核心図――を銀の杯の手前に置き、深呼吸した。
「本図は、王城・軍・教会・公庫の資金フローを一本の線に落としたものです」
 ひとつの指が、実収から実出へ、未収から未払へ、そして特別会計へ小さな矢を描く。
 薄墨で記した楕円の中には、三つの文字。――“同日”“同額”“他名義”。
 タクトはそこに指を置き、静かに言葉を落とした。
「スルー口座」

 ざわめきが一度、屋根に跳ね返った。
「戦費は祈りで清められても、支払は現金です」
 タクトの声は低く、しかし隠さない。
「聖戦特別会計から公庫へ、表向きは“祈祷費の補助”。公庫から軍需へ“融資”。軍需から王城へ“寄進”。同じ額、同じ日付、違う名義。名義の衣替えは、支出の魂を変えない」
 羊皮紙の左下、薄墨で書かれた注に指を滑らせる。
「さらに――祈祷費の一部が、私邸の修繕に流れています」
 静寂は、形を持った。
 教会騎士団長の拳が震えた。脈が走る拳は、剣よりも雄弁だ。
 オルベックは嘲笑を選んだ。「で、君は剣で来たのか?」
 タクトは視線を下げ、腰のあたりに僅かに触れ――触れない。
 代わりに、胸元から小さな木板を取り出し、高く掲げた。
 “転記印”。
「剣は収めて。数字は逃げない」
 空気が、刃の形から、印の形へと変わる。
 ライエルが一行だけ詠む。
 ――刃なき声が、壁を裂く。
 声は、裂傷ではなく切開だ。見えなかったものを見せるための切り目。



 武装した補佐が数人、議場に入った。床が一度鳴り、革と鉄の匂いが薄く広がる。
 王女レティシアは椅子を押し、ほんの半歩だけ前へ出た。真珠色の瞳は濁らず、彼女の指は卓の縁に軽く置かれた。
 会計兵が羽根ペンを掲げる。
 “武器は書く側にもある”。
 タクトは図の余白に小さな欄を追加し、粉飾の手口の名を三つ、箇条書きにした。
 「手口を、物語にします。理解は、名前から始まる」
 板書の文字は、角を丸めていた。

 ひとつめ――「名前の衣替え」。
 「費目を詩的に変える。民の耳に甘く、数字の目に辛い言葉へ。――たとえば“神前修繕”」
 ふたつめ――「鏡の回廊」。
 「同額の資金を回し、滞在時間を最小化して“存在した風”にする。鏡に映る自分を増やし、数に見せかける」
 みっつめ――「祝祭の影」。
 「民の祝祭に便乗して臨時費を膨らませる。祝う声は大きい。大きい声は、余計な荷物を隠す」
 タクトは続けた。
「対策です。名称の固定表――“詩名”と“会計名”を対応表にして公開。時系列での相殺禁止――同日に同額が往還したら、同一行で自己相殺しない。祝祭費の上限――祝うことは必要、上限も必要」
 議員の何人かが、初めての種類の頷き方をした。理解の頷き。頷きは詩ではない。だが、詩より人を動かすときがある。

 オルベックが机の縁を指で叩く。「詩を縛る気か」
 ライエルは穏やかに返す。「詩は縛らない。位置を決める。……注に」
 王女が補った。「注は、本文を守るために置くの」
 教会騎士団長の視線がタクトの指先へ落ちる。そこには転記印。印の焼き色は、昨夜、連結決算室で炙ったばかりの温度をまだ残している。
 タクトは印を羊皮紙の右下――“聖戦特別会計元帳”の写しに押した。
 ぱちり、と小さな音。
 賢者が杖の先で床を一度叩く。老教授は片眼鏡を上げ、連結の署名欄に短く自名を書いた。
 外部監査人の署名――数字の血を薄めるための他者の視線。
 剣は抜かれない。抜けば、数字が血に濡れる。血のついた数字は、信用を失う。



 議場の中央、詩人たちの列の端で、黒い影がひとつ、崩れるように座を落とした。
 オルベックの袖口から、硬いものが転がり出る。
 灰色の薄板。板の片面に小さな刻印が刻まれている。――黒札の粉の匂い。
 タクトはそれを拾い、指の腹で撫で、鼻先に近づけた。
 「……“灰に変わる札”の仕掛け」
 板の端には、細工の爪があり、札に触れるだけで塗り混ぜた粉が反応する。
 出納板で視たものが、ここで繋がる。
 オルベックは歯ぎしりをし、片手で床を探る。探る先は、もはやどこにもない椅子の脚。
 王女は、彼に向かって一歩も踏み出さない。その代わり、視線の高さをオルベックに合わせた。
「詩は、あなたの椅子を守るために使わない」
 男の肩の線が、一拍遅れて折れた。
 ライエルが巻物の端を押さえ、短く付け足した。
 ――嘘に塗る粉は、指に残る。
 ――指は、板に触れる。

 教会騎士団長が立ち上がる。「神の名で黙りたまえ」
 王女は静かに返す。「神の名は、民の名と並ぶ」
 騎士団長の喉が、知らない温度を通過した。彼は剣の柄から手を離し、代わりに腰の短い祈祷書に指を置く。
 タクトはその瞬間を逃さず、特別会計の元帳に押した転記印の横に、さらに小さな印を重ねた。
 ――“開示”。
 賢者と教授が順に署名する。外部の目が、内側の棚に差し込まれた。
 議場に立った鉄と革の匂いが、すこしずつ紙の匂いに置き換わっていく。
 騎士団長は息を吐き、剣を床に置いた。
 音は静かで、長かった。
「祈りは、注に置こう」
 それは敗北の文句ではない。席替えの宣言だ。
 王女は瞬き一つで応え、ライエルが巻物の最後に、今日の二行を書き加えた。
 ――注の祈り。
 ――本文の数。



 評議会は、採決に落ち着いた。
 聖戦特別会計の開示・連結は賛成多数で可決。
 王都の外では、風が黒板を揺らし、数字は一日ぶんだけ位置を変えた。
 タクトは壇を降りる前に羊皮紙の端を撫で、赤い糸の結び目を指で押し直した。
 アマリが背伸びをして、壇の裏から彼を見上げた。瞳の色は、薄青の紐とよく似ている。
「……怖かった」
「怖いのは、知らないこと」
「知れば、選べる」
 ふたりの声が、議場の石の隅まで届いたかはわからない。ただ、言葉は自分の耳のためにまず発される。耳は内側にある。
 会計兵の若い二人が羽根ペンを握り直し、背筋を伸ばした。
 数字は逃げない。背が逃げるとき、数字は追ってこない。ならば、背を逃がさない。



 日が傾き、城の影が広場へ伸び始めたとき、王都のあちこちに灯がともり始めた。
 誰の指示でもない。
 小さな灯だ。
 油皿に火がひとつ、二つ。
 子どもが持つ紙燈籠に、短い光。
 露店の端に置かれた煉瓦の上で、火が丸くなる。
 人々は黒板の前に立ち、小さな灯で今日の数を照らす。照らすことで、数の上に自分の顔が薄く映る。
 映る顔は、昨日までより少しだけ落ち着いている。
 黒板の端に、白い紙が一枚。
 ――実質黒字・速報。
 王城出納の単月に続き、全体の指標でも、わずかな黒が光ったという知らせ。
 歓声は上がらない。
 代わりに、誰かの喉が鳴り、誰かの肩が落ち、誰かの背が伸びた。
 祝うべきときに、喉は鳴る。喉は楽器だ。

 タクトは王城の廊下を歩き、出納板の前で足を止めた。
 板の隅――鉛筆が一本、立てかけられている。
 普段は箱にまとめる。今夜に限って、一本だけ、立てかけ。
 アマリが気づいて駆け寄る。「誰が」
 タクトは鉛筆を手に取り、指先で重さを測り、匂いを嗅いだ。
 木の香り、石の粉、微かな油。
 鉛筆の先は、まだ鋭い。――書く前の緊張。
 彼は鉛筆を、板の隅に戻した。倒れないように、ほんの少し角度を変えて。
 「書くつもりの手が、ここを通った」
 「書かなかった?」
 「書くのを、待っている」
 誰かの“最後の粉飾”は、名の代わりに鉛筆を立てかけることで始まるのかもしれない。
 あるいは、最後の粉飾は、書かれないことで終わるのかもしれない。
 タクトは胸の中のT字の貸方に小さく一語を置いた。――“別れ”。
 何かとの、誰かとの、方法との。



 夜更け、連結決算室の灯だけが遅くまで残っていた。
 赤い糸はもう張り詰めてはいない。ゆるやかに緩み、しかしほどけない。
 机の端に、転記印と署名印が並び、印面は冷え、しかし不吉ではない。
 ライエルが最後の紙片を机に置いた。
 ――刃は柄に、祈りは注に、数は前に。
 王女は窓の外――広場の小さな灯の群れを見て、ため息のかわりに言葉を吐いた。
 「祝祭が、始まってる」
「黒字とは祝祭です」
 タクトは微笑んだ。
「派手ではなく、小さく、しかし連鎖する。各所に一時間ずつ。厨房は余剰でスープを。板の隅には星を。……明日、やりましょう」
 アマリは頷き、薄青の紐を指に巻き付ける仕草で気持ちを落ち着かせた。
 賢者は杖の先の小さな鐘を揺らさず、教授は片眼鏡を外して布で拭く。
 皆、明日の祝祭を知っているようで、知らない。知らないままでも祝えるように、やり方を紙にしたのが、今日までの仕事だ。

 窓の外で、塔の鐘が一つ。
 響きは短く、尾を引かない。
 数字は逃げない。
 剣は鞘にある。
 鉛筆は、まだ立っている。
 明日、誰かがそれで何かを書く。
 粉飾のためではなく、祝祭のために。
 ――最後の粉飾に、最後の句読点を。
 詩は注で待つ。注は、読みやすさを守る。
 連結の線は一本になり、今夜は眠る。
 明日、その線の上を、人が歩く。

 ――第12話「黒字とは祝祭」。自走する仕組み、別れの予感、祝祭へ。