朝の光は王城の中庭を斜めに切り、石畳にうすい矩形を並べていった。新しい扉は、その光を正面から受け止めていた。透明硝子。王城の建具に硝子の扉は珍しい。通りすがる廷臣は足を止め、息を整え、硝子に映る自分の顔を一瞬だけ改めてから、通り過ぎる。
 扉の上には小さな真鍮の飾り板。――会計監査院。
 扉の内側、正面の壁には黒い枠で区切られた公開掲示板。枠の中にはまだ白い紙がゆったりと張られている。紙の右下に、王女レティシアの小さな私印が朱で押され、注のように静かな赤を添えていた。

 新名タクトは、硝子の指紋を布で拭きながら、来訪者の足音を聞いた。
 ひとりはギルドの賢者。灰色の外套を羽織り、杖の先に吊るされた小さな鐘が歩みに合わせてほとんど音を立てないほど微かに揺れる。
 もうひとりは商人学舎の老教授。白い髭は短く刈り込まれ、片眼鏡の縁には古い擦り傷。手に持つのは分厚い講義録ではなく、小さな革の手帳だけだ。
 タクトは彼らを迎え、笑って言った。「権威の貸し借りはしません。異質な視点を、ここに組み込みます」
 王女は硝子の前で頷く。「王城に“第三者”が来た日ね」
 ライエルは壁の隅、まだ何も書かれていない掲示板を眺め、囁いた。「ここに詩が貼られたら怒る?」
「怒らない。詩は注に。注は読みやすさのためにある」
 アマリは受付に座り、来客簿の横に小さな壺を置いた。薄青の紐で結ばれた小さな紙片――“質問票”。質問を書けば、展示の隅に貼って返事を出す。黒板と同じやり方だ。書けば、返る。



 監査院は初日から立ち止まらない。
 タクトは三つの早期監査を掲げた。調達、人事、倉庫。
 抜き打ちではなく、予告監査――これが基本だ。
 「怖くないけど逃げられない」。
 予告は、逃げ道の先を塞ぐためにある。
 監査の手順は短く明示された。
 ――前日、対象部署へ“監査票”を送る。
 ――当日、監査人が現場の机に座る。
 ――翌日、要約メモを公開掲示板に貼る。
 要約メモは黒板の文体で書かれた。三行ルール。日付/対象/見つかったこと。
 最初のメモが貼られたとき、通りがかった石工が口をぽかんと開けた。「読める」
 往来の女主人が腕組みを解いて近づく。「あたしたちにも、読める」
 “読める”は、“守れる”の前提だ。

 調達監査の日、賢者は杖を壁に立てかけ、納入名簿と仕様書を並べて目を走らせた。
 老教授は見積書の数字を声に出して追い、仕様書の文の曖昧さを赤鉛筆で丸で囲む。
 「“ほぼ同等”は“ほぼ同価”と同じではない」と教授。
 「“名札が出る”は“顔が出る”だ」と賢者。
 彼らの指摘は、罵りでも嘲りでもない。普段使っている道具を、角度だけ変えて見せるような指摘だった。
 人事監査では、交代制の穴が一箇所だけ空いているのを見つけた。夜番の終わりと朝番の始まりが十五分重ならない。十五分は、悪意にも善意にも吸われる。
 倉庫監査では、焼印板の予備が一枚、油紙に包まれず裸で置かれているのを見つけた。裸は、匂いを失いやすい。匂いは記憶と同義だ。



 監査が動き出すと、現場も動く。
 動くのは良いこと――のはずだったが、すぐに別の動きが浮かんだ。
 “監査用帳簿”。
 形式は完璧、数字は真面目、だが呼吸がない。
 紙は白く清潔、しかし作業の汗の匂いを拒んでいる。
 タクトは苦笑し、賢者と教授を並ばせて言った。
「“現場で一緒に付ける監査”をやりましょう」
 監査人が一日だけ現場の机に座る。監査の紙と現場の紙に同じ墨を通す。
 清掃班のゴードンは汗を拭き拭き言った。「俺の字、読みにくいぞ」
 教授は笑った。「読めればいい。君の字は、“床のほこりの量”に似ている。多いときは多く、少ないときは少なく」
 賢者はゴードンの横に座り、日誌の余白に小さな丸を描いた。「ここに“感じたこと”を一行。『今日の廊下は湿っていた』『桶の木が鳴いた』『石鹸が小さくなった』」
 ゴードンは首をひねり、太い指で一行書いた。
 ――桶の木が鳴いた。
 笑いが生まれた。紙の匂いが違う、と誰かが言った。
 守らせるから守りたくなるへ。
 監査は締め付けではなく、呼吸の位置を合わせる行為だ。



 王城出納は、その月の終わりに、小さな奇跡を示した。
 単月黒字。
 緑の札が、赤と黄をわずかに追い越し、出納板の右端に薄い列を作った。
 アマリが指先で札の縁を揃え、ほっと息を漏らした。「……初めて」
 タクトは浮かれなかった。
 黒字は“余剰”ではない。次の投資の種だ。
 彼はワークショップを開いた。
 再投資の優先順位を、部署横断で決めるための“合意の練習”。
 テーマは三つ。照明、教育、工具。
 各部署から代表が集まり、壁に大きな紙を貼る。付箋を配る。意見を書き、貼る。
 「台所の灯りを油皿から改良灯に」
 「読み書き板の更新」
 「秤の分銅の予備を増やす」
 部署ごとでも、身分ごとでもなく、関心ごとで席を分けた。
 ライエルは隅で“合意の詩”を書いた。
 ――うなずきの数が、予算の色。
 ――色は薄く、しかし増える。
 紙の上の色は、けっして派手ではない。だが、色があると、視線はそこに戻ってくる。

 議論は揺れたが、沈みはしなかった。
 照明に半分、教育に三割、工具に二割。
 「合意の速さは字の綺麗さ」とタクトが言うと、アマリは笑って字をゆっくり、しかし真っ直ぐに書いた。



 黒字は、誰かの喉に刺さる。
 潰したい勢力が動いた。
 “監査人買収”。
 ある夕刻、賢者の前に重商会の使いが現れ、鞄の口をわずかに開いた。
 賢者は涼しい顔で、杖の頭に仕込まれた小さな録音石を掲げた。
 「続けて」
 使いは言葉を飲み込み、喉仏が上下し、そして逃げた。
 翌朝、録音石は監査院の公開掲示板に貼られた要約メモの隣に置かれ、誰でも聞けるようになった。
 ――「銀貨百。名は出さぬ」
 ――「監査の目を鈍らせてほしい」
 ――「名は出さぬ」
 老教授は片眼鏡を押し上げ、「名は出さぬ、は、名が出たいの反語だ」と短く言った。
 ギルドの信用は地に落ちた――ではない。賢者の家の信用は上がり、買収側の商会は入札停止となった。
 オルベックは苛立って杖を鳴らし、教会騎士団長は沈黙をさらに深くした。
 王女は呟いた。「第三者が守るのは、数字だけじゃない」
 守られたのは、やり取りの“筋”だった。筋が通ることは、人の背を少しだけ楽にする。



 小さな黒字を、祝う。
 派手な宴ではなく、一時間の感謝会。
 厨房は余剰食材で大鍋のスープを作る。前線の汁鍋に譲ったレシピを、城の舌に合わせて少しだけ薄く。
 出納板の緑札が多い項目に、小さな金の星を貼る。
 アマリが星の入った小箱を抱え、札の端に一枚ずつ、丁寧に貼っていく。
 一枚貼るたび、小さな拍手。
 拍手は波にならない。点で鳴り、点で消える。そのリズムが、城の呼吸に合う。
 清掃班のゴードンがスープをよそい、「桶の木は、今日は鳴らなかった」と笑う。
 ライエルは壁の隅に短い詩を増やす。
 ――祝うことは、続ける力。
 ――星は小さいほど、数で光る。
 王女は星の反射を指先で受け、「器を温め続けるのが、王の仕事」と小さく言った。
 タクトは頷き、胸の中のT字に細い線を一本足した。――“習慣”。
 習慣は、黒字を小さく重ねる方法論の別名だ。



 祝祭の終わり。
 人影がひとつ、ふたつ、廊下から消える。
 監査院の公開掲示板の前に、アマリが残り、今日のメモの端をまっすぐに揃える。
 その時、箱の中――質問票の壺ではなく、掲示板の下に据えた“長文用投函口”から重みのある紙束が落ちる音がした。
 アマリは周囲を見渡し、手袋をはめ、紙束を持ち上げる。
 表紙には太い字。
 ――連結されざるもの。
 匿名。
 中には、聖戦特別会計の資金移動図が添付されていた。
 矢印は礼拝堂から出て、騎士団の倉を通り、王城の外れの古い塔へ、さらにそこから“学寮資金”と記された箱へと流れている。
 注釈には小さく、「来期の連結は遅い」と挑発する一行。
 紙の端に、あの小さな点。黒札の裏にあった点と似ているが、角度が違う。――別の手。
 タクトは紙束を受け取り、目を閉じた。
 「連結の線を、もう一本。早めに引く」
 王女は紙束に目を通し、言葉を選ぶように息を吐く。「詩は、注で待っている」
 ライエルは頷いた。「待つ詩は、長く残る」
 賢者は杖の先を軽く床に当て、教授は片眼鏡を外して布で拭いた。
 タクトは公開掲示板の一段を空け、端に細く書いた。
 ――“連結”の予定を、前倒し。
 ――監査院は、外の目をもう一つ増やす。
 アマリは金の星の小箱を抱えたまま、薄青の紐を指に巻きつけた。「星は、数で光る」
 タクトは笑った。「黒字も、数で光る」
 扉の硝子に、夜の灯が映る。
 “第三者”の影も、映る。
 影は短く、線は長い。線は明日も引かれる。
 小さな黒字は、今日も小さい。だが、小さいものは、重ねやすい。
 重なりは、国を救う。
 塔の鐘が、ひとつ。
 監査院の朝は、もう次の朝へつながっていた。

 ――第11話「最後の粉飾」。連結決算、剣を収める台詞、決別へ。