心拍計アプリは、とっくに停止済みだったはずだ。
真夜中の本社ビル、蛍光灯の白が紙面の粉塵を浮き上がらせる。新名タクトは、過年度遡及の修正仕訳を四本目まで切って、赤と黒の行儀良い列を画面上で眺めた。その時、机の上のスマホが勝手に鼓動を打った。――ピ、ピ、ピ。
再起動の音。ありえない。アプリのアイコンは、心臓ではなく古い天秤に変わっている。ぎょっとして目を上げかけた瞬間、背もたれのきしみが遠くへ離れ、体は紙束の雪崩より軽く、落ちた。
◆
目覚めは紙の匂いだった。けれど、それは木パルプではない。乾いた動物性の匂い――羊皮紙。
タクトは反射で上体を起こし、見慣れぬ天井の格子と、淡い薄青の光に目を細めた。窓はない。高い壁いっぱいに巻物が栽植のように並んでいる。机は石、椅子は硬く、インクは鉄の匂い。
正面に人がいた。真珠の粒のような瞳をした少女――いや、若い女性。髪は黒曜石をほぐしたように艶めき、肩までの長さで切りそろえられている。衣は白と青、控えめな刺繍。その背後には金の印璽を抱えた侍従たち。
女性はゆっくりとタクトの顔を覗き込んだ。「――お目覚めですか、財務卿代理補殿」
財務卿代理、補。どこかで聞いたような肩書を、タクトの脳は「係長代理心得」の端っこに紐づけてしまい、次の瞬間には猛然と反発した。
「すみません、僕は課の代理の代理でも、国の財務の代理でもないんですけど」
女性は目を瞬かせ、それから、微笑を作る。珠目がわずかに光量を増した。
「第一王女レティシア・ヴァルデン。ここは《オルド帝国》王城・書記院。閣下は神託により招かれました」
神託。閣下。
タクトは乾いた喉を鳴らした。机上の巻物が一つ、ぬらりと広げられている。装飾写本のように美しい罫線、金泥の見出し。タイトルは「国庫報告書」。
彼は本能に従って、一番端の数字を追った。……が、ない。どこにも、ない。美辞麗句。韻律。比喩。王都の豊穣、国境の栄光、空に飛ぶ竜の蔭影、民の歌。
数値の裏付けゼロ。
「吟遊会計の伝統にございます」と、側に控えた老人が誇らしげに言う。鼻梁が高く、短いひげをきれいに撫で揃えている。「数字は人心を冷やします。詩は人心を温める。温まった人心はいずれ税となって戻る。ゆえに詩を以て数に替える」
替えるな。
タクトは一度、深く息を吸った。徹夜明けの脳は砂漠のようにからりと乾いているのに、舌だけが冷静に動いた。
「第一王女、状況は分かりました。……いや、分かってないですが、分かりました。ひとつ、確認を。国は赤字なんですよね?」
レティシアは、ためらいも虚飾もなく頷いた。「剣は多い。でも、国は赤字のまま」
タクトの指は、机の露のような粉を集めて勝手に動いた。水平線、中央の縦線。紙の上にT字が生まれる。借方、貸方。
「借方は命、貸方は物語。物語は後です。命から救う」
彼の言葉に、侍従たちの背がこわばった。老人は眉を吊り上げる。
レティシアだけが、ふっと息を吐いた。安堵の気配。彼女は印璽を抱えた侍従から小さな箱を受け取り、タクトに差し出した。
「権限が要るでしょう。財務卿代理補の印。三日後の評議会までに、王城経費の実態把握を。それから、赤字の正体を一枚の図で説明してほしい。政治的な後ろ盾は……」
「要りません」タクトは即答した。「現場の自由だけ、ください」
王女の微笑は、少しだけ強くなった。「任せます。アマリ」
呼ばれて進み出た侍女は、まだ十代のように見えた。栗の髪を後ろで括り、薄茶の瞳がよく動く。両腕いっぱい、領収書の束と紐の巻き物を抱えている。
「書記院の鍵と、出納庫の印章。あとは……山ほどの、詩のような領収書です」
詩のような領収書。タクトは砂漠に雨が落ちる音を聞いたような気がした。やることは、無限にある。
◆
出納庫は涼しく、暗かった。厚い石の壁の中に、袋や箱や木札が整然と――いや、雑然と、積まれている。
硬貨は袋単位で並び、その口には小さな金属片が通されている。袋を振れば「チリン」と短い音がする。
「“音勘定”です」と、アマリが囁く。「袋ごとに音が違うので、数えなくても分かるんです」
天才的だが、致命的だ。袋の音の真似はできる。
物納は印章だけで管理されていた。大麦二十俵、鹿皮十枚、銀の釘千本、いずれも「受領済」と墨字の印がある。実物はない。
未払は――祈祷済みの紐。祝詞が刻まれた細紐が束になって、板の釘に掛けられている。一本外すと、祈祷の効力が発現して未払が消える、ということになっているらしい。
タクトは額を押さえ、深呼吸。それからインク壺と羽根ペンを取り出し、羊皮紙の隅に矩形を描いた。
「現金出納帳です。入金、出金、残高。日付、相手先、金額――三行ルールで書く。簿記は詩より短い」
アマリの目が面白いほど大きくなった。「三行……覚えやすいです」
「覚えやすさは、正しさへの近道です」
そこへ、柔らかな足音。布の擦れる音が近づき、男が姿を見せた。長身、細身。眠たげな灰青の瞳。衣の袖口には繊細な刺繍。
「やあ、数字を詩に変える仕事場へようこそ」
自分で言った。タクトは心の中で突っ込んだ。
男は一礼し、気取らない笑みを浮かべる。「吟遊会計官、ライエル。詩は士気を上げる。数は士気を下げる。貴下はどちらを好む?」
「詩は締めの花火です」とタクト。「花火の前に消火器を置きます」
ライエルは片眉を上げ、面白そうに首を傾げた。「では、これは花輪代だ。士気高揚費」
差し出された紙片には、流麗な書体で「勇士のための花輪」と記され、金額欄には――詩。
タクトは丁寧に付箋を貼った。用途不明。のちほど確認。
「用途別補助簿を作ります。花輪は花輪、剣は剣、パンはパン。混ぜない。混ぜれば味は分からない」
アマリが小さく笑って、すぐ真顔に戻った。書記院の空気がわずかに軽くなる。
「いいね」と、ライエルは唇の端で言った。「だが、人は“混ぜ物”が好きでもある。甘さは中毒だ」
「だからこそ、ラベルを貼るんです」
◆
厨房は、湯気と香りの渦だった。
パンの山が二度三度と運び込まれ、その度に山はあっという間に低くなる。肉は大きな台の上で手際よく切り分けられ、吊るされ、煮込まれ、焼かれる。
タクトは人の流れの端に立って、壁際に簡易の在庫表を書いた。朝、昼、夜――三つの枠。投入、消費、残。
「記録は歌だよ」と、ライエルが背後で口ずさむ。「リズムがなければ誰も覚えない」
「では、三拍子で」とタクトは返し、アマリにペンを渡した。「書いて。朝、パン二十籠。昼、パン十五籠。夜、パン十籠」
数字は、すぐに偏りを示した。パンは外部搬入。肉は城内屠畜。パンの消える速度が、肉の消える速度よりも異様に速い。
搬入口から厨房に至る通路で、人と籠が交錯する。受入と調理の役割が曖昧で、同じ人が受け取り、同じ人が切り分け、同じ人が指示を出す。――盗みやすい配置。
タクトは厨房頭と向き合った。大柄で腕の太い男。口の両端に古傷。
「盗みだなんて、心外だ」と男は唸る。「料理人は腹一杯食って当然よ」
「責める気はありません。盗みづらくします」
タクトは通路に紐を張り、受入側と厨房側に木札を掛けた。受入記録は二名のサインに変更。搬入口には小さな机を置き、受領印を押すだけの簡易台帳。
職人たちは最初、露骨に不満を顔に出した。だが、作業の手戻りが減り、肉の廃棄が少なくなり、厨房頭が自分の段取りにだけ集中できるようになると、怒りは薄膜を剥がすように消えた。
アマリが小さな声で言う。「……見えるって、喧嘩の種かと思ってたけど、手間が減るなら、いいかもしれない」
「見える化は、敵を作るけれど、味方も作る」
タクトは振り向き、王城の壁――長い回廊の一角を指さした。そこには、石の壁に据え付けられた巨大な板。
「“出納板”を作ります。入は緑、出は赤。今日の城の出入りを札で見せる」
板はすぐに噂になった。通りがかる廷臣が足を止め、緑と赤の配置に眉をひそめ、あるいは唇を歪める。
「数字が読める……」誰かが驚いた声で言う。「詩が要らないのか?」
「要るさ」とライエル。「詩は最後に置く。花火は、見えるときが一番美しい」
アマリは、札を差す手つきがだんだん速く、正確になっていった。日付、相手先、金額――三行ルールが板の周りの空気に染みる。
◆
三日目、評議会の間は香草の匂いで満ちた。
旧来派の貴族たちは、まるで刺繍のように豪奢な衣をまとい、列をなして腰を下ろした。壁際には教会騎士が黒い外套で無言の列を作る。
最初に立ったのは、元財務卿オルベック。白い髭に指輪を三つ。
彼は深く息を吸い、詩を吟じた。
王都の空に鳥が舞い、皇祖の涙が大地を潤し、民は歌い、川は金貨を運ぶ――美の洪水。
最後に彼は言った。「今年も赤字だが、神話は我らを守る」
拍手。拍手。拍手。
タクトは立った。心臓は静かだ。奇妙なほどに。
彼は巻物でも詩でもなく、一枚の板を壇上に置いた。羊皮紙に緻密な線。左に税(実収)、右に支出(実出)、中央に未収・未払・物納。さらに薄墨で、詩によって「消えたはずの数字」を淡く重ねる。
「赤字は悪じゃない。見えないのが悪だ」
ざわ、と空気が揺れた。
「まずは王城だけで現金主義に切り替え、未収未払を別立てにします。詩は残す。“注”に移しましょう」
オルベックが机を叩く音は、思ったよりも軽かった。「伝統を捨てるのか!」
「詩は嘘の味付けに使いません。真実を飲みやすくするために使う。――その方が詩にとっても、名誉です」
静寂。
沈黙を破ったのは、意外にもライエルだった。詩人上がりの吟遊会計官は、いつもの半分ほどの声音で言った。
「詩は場所を得た方が美しい」
彼の灰青の目は、タクトの板の薄墨をじっと見ている。詩の領域が切り分けられたことを、むしろ喜んでいる顔だ。
レティシアが立ち上がった。王女の声は高くはない。けれど、よく通る。
「王城会計は今日より出納板に従う。詩は注に、花火は夜に」
笑いが――小さな笑いが、どこかから生まれた。それは嘲りではなく、息の抜ける音だった。
教会騎士の列の中で、ひとりの黒衣が微かに動いた。視線だけが、板に差された札の緑と赤をなぞり、すぐに逸れた。
◆
会議後、書記院の一室。
アマリが震える手で、初めての“当日集計”を差し出した。羊皮紙の隅は少し汚れて、数字の五と三が時々入れ替わっている。だが、線は繋がっている。残高は、昨日の残と今日の入出の差と一致している。
タクトは朱で穏やかに修正を入れ、余白に小さく「良」と書いた。
「最初の黒字は、線ではなく習慣から生まれる」
アマリは口元をかすかに歪めた。「字が、震えちゃって……」
「震えは正しい。大事なことをしている手は、震える」
窓際ではライエルが短い詩を紙片に刻んでいた。
――数の歌、見えるものほど静かなる。
彼はそれを誰にも見せず、くるりと巻いて袖に挟んだ。
レティシアが扉口から顔を覗かせる。「新名――タクト。あなたの戦いは、剣無しでも怖い?」
タクトは少しだけ考えて、うなずいた。
「怖いのは“都合のいい曖昧さ”です。それさえ斬れれば、剣は要りません」
王女は満足げに頷くと、扉の外の侍従に短い指示を与えた。印璽がいくつかの文書に押され、出納板と現金出納帳の効力が公式に認められる。
◆
夜。王城の回廊は、蝋燭の炎が語尾を揺らしながら続いていた。
出納板の前に、タクトとアマリの影が二つ並ぶ。
緑の札は「入」。赤は「出」。
今日の未収の数は――赤い札が四枚。徴税官ギルドの遅延が二、王都南門の通行税の未入金が一、王城内の貸与品未返却が一。タクトは指先で赤札の材質を確かめ、裏面の蝋印を見た。問題ない。
「鍵、閉めますね」アマリが木枠の留め金を確かめる。
二人が踵を返した、その瞬間だった。
カシン、と小さな音がした。
振り向くと、赤い札が――一枚、緑に差し替わっている。
タクトは、歩幅を変えずに戻り、板の前に立った。
鍵は閉まっている。留め金も壊れていない。札の裏面には、見慣れぬ刻印が押されていた。小さな祈祷文字。
「……誰かが触った?」アマリの声は細い。
「板そのものが“触られた”」タクトは札の縁を爪で軽く叩いた。木の音は乾いて、清らかだ。
緑の札の裏――祈祷刻印。数字は改竄されていない。帳簿上も未収は未収のまま。だが板上では、未収が消えた。
アマリが小さく叫び、口を押さえる。
回廊の向こうで、黒衣の影が一つ、音もなく角を曲がった。
タクトは札から指を離し、ゆっくり息を吐いた。
「……数字だけの問題じゃない、か」
彼はアマリに向き直る。
「明日、徴税官ギルドにも出納板を置く。反感は呼ぶ。でも“見える化”は敵と味方を同時に炙り出す。詩は注、祈祷は欄外。――“会計兵”が要るかもしれない」
「会計兵?」
「数字を守る兵隊。剣は、要らないかもしれないけど、鍵と目は要る」
アマリはこくりと頷いた。震えは、もうほとんどない。
夜風が石の廊下を渡り、蝋燭の炎が一列、同時に低くなった。
遠い鐘が二度鳴る。
出納板の緑と赤が、風の息にかすかに触れて、色だけが、ほんのわずかに滲んだ。
――第2話「見える化は反感を呼ぶ」へ。徴税官ギルドの抵抗と、会計兵創設の戦いが始まる。
真夜中の本社ビル、蛍光灯の白が紙面の粉塵を浮き上がらせる。新名タクトは、過年度遡及の修正仕訳を四本目まで切って、赤と黒の行儀良い列を画面上で眺めた。その時、机の上のスマホが勝手に鼓動を打った。――ピ、ピ、ピ。
再起動の音。ありえない。アプリのアイコンは、心臓ではなく古い天秤に変わっている。ぎょっとして目を上げかけた瞬間、背もたれのきしみが遠くへ離れ、体は紙束の雪崩より軽く、落ちた。
◆
目覚めは紙の匂いだった。けれど、それは木パルプではない。乾いた動物性の匂い――羊皮紙。
タクトは反射で上体を起こし、見慣れぬ天井の格子と、淡い薄青の光に目を細めた。窓はない。高い壁いっぱいに巻物が栽植のように並んでいる。机は石、椅子は硬く、インクは鉄の匂い。
正面に人がいた。真珠の粒のような瞳をした少女――いや、若い女性。髪は黒曜石をほぐしたように艶めき、肩までの長さで切りそろえられている。衣は白と青、控えめな刺繍。その背後には金の印璽を抱えた侍従たち。
女性はゆっくりとタクトの顔を覗き込んだ。「――お目覚めですか、財務卿代理補殿」
財務卿代理、補。どこかで聞いたような肩書を、タクトの脳は「係長代理心得」の端っこに紐づけてしまい、次の瞬間には猛然と反発した。
「すみません、僕は課の代理の代理でも、国の財務の代理でもないんですけど」
女性は目を瞬かせ、それから、微笑を作る。珠目がわずかに光量を増した。
「第一王女レティシア・ヴァルデン。ここは《オルド帝国》王城・書記院。閣下は神託により招かれました」
神託。閣下。
タクトは乾いた喉を鳴らした。机上の巻物が一つ、ぬらりと広げられている。装飾写本のように美しい罫線、金泥の見出し。タイトルは「国庫報告書」。
彼は本能に従って、一番端の数字を追った。……が、ない。どこにも、ない。美辞麗句。韻律。比喩。王都の豊穣、国境の栄光、空に飛ぶ竜の蔭影、民の歌。
数値の裏付けゼロ。
「吟遊会計の伝統にございます」と、側に控えた老人が誇らしげに言う。鼻梁が高く、短いひげをきれいに撫で揃えている。「数字は人心を冷やします。詩は人心を温める。温まった人心はいずれ税となって戻る。ゆえに詩を以て数に替える」
替えるな。
タクトは一度、深く息を吸った。徹夜明けの脳は砂漠のようにからりと乾いているのに、舌だけが冷静に動いた。
「第一王女、状況は分かりました。……いや、分かってないですが、分かりました。ひとつ、確認を。国は赤字なんですよね?」
レティシアは、ためらいも虚飾もなく頷いた。「剣は多い。でも、国は赤字のまま」
タクトの指は、机の露のような粉を集めて勝手に動いた。水平線、中央の縦線。紙の上にT字が生まれる。借方、貸方。
「借方は命、貸方は物語。物語は後です。命から救う」
彼の言葉に、侍従たちの背がこわばった。老人は眉を吊り上げる。
レティシアだけが、ふっと息を吐いた。安堵の気配。彼女は印璽を抱えた侍従から小さな箱を受け取り、タクトに差し出した。
「権限が要るでしょう。財務卿代理補の印。三日後の評議会までに、王城経費の実態把握を。それから、赤字の正体を一枚の図で説明してほしい。政治的な後ろ盾は……」
「要りません」タクトは即答した。「現場の自由だけ、ください」
王女の微笑は、少しだけ強くなった。「任せます。アマリ」
呼ばれて進み出た侍女は、まだ十代のように見えた。栗の髪を後ろで括り、薄茶の瞳がよく動く。両腕いっぱい、領収書の束と紐の巻き物を抱えている。
「書記院の鍵と、出納庫の印章。あとは……山ほどの、詩のような領収書です」
詩のような領収書。タクトは砂漠に雨が落ちる音を聞いたような気がした。やることは、無限にある。
◆
出納庫は涼しく、暗かった。厚い石の壁の中に、袋や箱や木札が整然と――いや、雑然と、積まれている。
硬貨は袋単位で並び、その口には小さな金属片が通されている。袋を振れば「チリン」と短い音がする。
「“音勘定”です」と、アマリが囁く。「袋ごとに音が違うので、数えなくても分かるんです」
天才的だが、致命的だ。袋の音の真似はできる。
物納は印章だけで管理されていた。大麦二十俵、鹿皮十枚、銀の釘千本、いずれも「受領済」と墨字の印がある。実物はない。
未払は――祈祷済みの紐。祝詞が刻まれた細紐が束になって、板の釘に掛けられている。一本外すと、祈祷の効力が発現して未払が消える、ということになっているらしい。
タクトは額を押さえ、深呼吸。それからインク壺と羽根ペンを取り出し、羊皮紙の隅に矩形を描いた。
「現金出納帳です。入金、出金、残高。日付、相手先、金額――三行ルールで書く。簿記は詩より短い」
アマリの目が面白いほど大きくなった。「三行……覚えやすいです」
「覚えやすさは、正しさへの近道です」
そこへ、柔らかな足音。布の擦れる音が近づき、男が姿を見せた。長身、細身。眠たげな灰青の瞳。衣の袖口には繊細な刺繍。
「やあ、数字を詩に変える仕事場へようこそ」
自分で言った。タクトは心の中で突っ込んだ。
男は一礼し、気取らない笑みを浮かべる。「吟遊会計官、ライエル。詩は士気を上げる。数は士気を下げる。貴下はどちらを好む?」
「詩は締めの花火です」とタクト。「花火の前に消火器を置きます」
ライエルは片眉を上げ、面白そうに首を傾げた。「では、これは花輪代だ。士気高揚費」
差し出された紙片には、流麗な書体で「勇士のための花輪」と記され、金額欄には――詩。
タクトは丁寧に付箋を貼った。用途不明。のちほど確認。
「用途別補助簿を作ります。花輪は花輪、剣は剣、パンはパン。混ぜない。混ぜれば味は分からない」
アマリが小さく笑って、すぐ真顔に戻った。書記院の空気がわずかに軽くなる。
「いいね」と、ライエルは唇の端で言った。「だが、人は“混ぜ物”が好きでもある。甘さは中毒だ」
「だからこそ、ラベルを貼るんです」
◆
厨房は、湯気と香りの渦だった。
パンの山が二度三度と運び込まれ、その度に山はあっという間に低くなる。肉は大きな台の上で手際よく切り分けられ、吊るされ、煮込まれ、焼かれる。
タクトは人の流れの端に立って、壁際に簡易の在庫表を書いた。朝、昼、夜――三つの枠。投入、消費、残。
「記録は歌だよ」と、ライエルが背後で口ずさむ。「リズムがなければ誰も覚えない」
「では、三拍子で」とタクトは返し、アマリにペンを渡した。「書いて。朝、パン二十籠。昼、パン十五籠。夜、パン十籠」
数字は、すぐに偏りを示した。パンは外部搬入。肉は城内屠畜。パンの消える速度が、肉の消える速度よりも異様に速い。
搬入口から厨房に至る通路で、人と籠が交錯する。受入と調理の役割が曖昧で、同じ人が受け取り、同じ人が切り分け、同じ人が指示を出す。――盗みやすい配置。
タクトは厨房頭と向き合った。大柄で腕の太い男。口の両端に古傷。
「盗みだなんて、心外だ」と男は唸る。「料理人は腹一杯食って当然よ」
「責める気はありません。盗みづらくします」
タクトは通路に紐を張り、受入側と厨房側に木札を掛けた。受入記録は二名のサインに変更。搬入口には小さな机を置き、受領印を押すだけの簡易台帳。
職人たちは最初、露骨に不満を顔に出した。だが、作業の手戻りが減り、肉の廃棄が少なくなり、厨房頭が自分の段取りにだけ集中できるようになると、怒りは薄膜を剥がすように消えた。
アマリが小さな声で言う。「……見えるって、喧嘩の種かと思ってたけど、手間が減るなら、いいかもしれない」
「見える化は、敵を作るけれど、味方も作る」
タクトは振り向き、王城の壁――長い回廊の一角を指さした。そこには、石の壁に据え付けられた巨大な板。
「“出納板”を作ります。入は緑、出は赤。今日の城の出入りを札で見せる」
板はすぐに噂になった。通りがかる廷臣が足を止め、緑と赤の配置に眉をひそめ、あるいは唇を歪める。
「数字が読める……」誰かが驚いた声で言う。「詩が要らないのか?」
「要るさ」とライエル。「詩は最後に置く。花火は、見えるときが一番美しい」
アマリは、札を差す手つきがだんだん速く、正確になっていった。日付、相手先、金額――三行ルールが板の周りの空気に染みる。
◆
三日目、評議会の間は香草の匂いで満ちた。
旧来派の貴族たちは、まるで刺繍のように豪奢な衣をまとい、列をなして腰を下ろした。壁際には教会騎士が黒い外套で無言の列を作る。
最初に立ったのは、元財務卿オルベック。白い髭に指輪を三つ。
彼は深く息を吸い、詩を吟じた。
王都の空に鳥が舞い、皇祖の涙が大地を潤し、民は歌い、川は金貨を運ぶ――美の洪水。
最後に彼は言った。「今年も赤字だが、神話は我らを守る」
拍手。拍手。拍手。
タクトは立った。心臓は静かだ。奇妙なほどに。
彼は巻物でも詩でもなく、一枚の板を壇上に置いた。羊皮紙に緻密な線。左に税(実収)、右に支出(実出)、中央に未収・未払・物納。さらに薄墨で、詩によって「消えたはずの数字」を淡く重ねる。
「赤字は悪じゃない。見えないのが悪だ」
ざわ、と空気が揺れた。
「まずは王城だけで現金主義に切り替え、未収未払を別立てにします。詩は残す。“注”に移しましょう」
オルベックが机を叩く音は、思ったよりも軽かった。「伝統を捨てるのか!」
「詩は嘘の味付けに使いません。真実を飲みやすくするために使う。――その方が詩にとっても、名誉です」
静寂。
沈黙を破ったのは、意外にもライエルだった。詩人上がりの吟遊会計官は、いつもの半分ほどの声音で言った。
「詩は場所を得た方が美しい」
彼の灰青の目は、タクトの板の薄墨をじっと見ている。詩の領域が切り分けられたことを、むしろ喜んでいる顔だ。
レティシアが立ち上がった。王女の声は高くはない。けれど、よく通る。
「王城会計は今日より出納板に従う。詩は注に、花火は夜に」
笑いが――小さな笑いが、どこかから生まれた。それは嘲りではなく、息の抜ける音だった。
教会騎士の列の中で、ひとりの黒衣が微かに動いた。視線だけが、板に差された札の緑と赤をなぞり、すぐに逸れた。
◆
会議後、書記院の一室。
アマリが震える手で、初めての“当日集計”を差し出した。羊皮紙の隅は少し汚れて、数字の五と三が時々入れ替わっている。だが、線は繋がっている。残高は、昨日の残と今日の入出の差と一致している。
タクトは朱で穏やかに修正を入れ、余白に小さく「良」と書いた。
「最初の黒字は、線ではなく習慣から生まれる」
アマリは口元をかすかに歪めた。「字が、震えちゃって……」
「震えは正しい。大事なことをしている手は、震える」
窓際ではライエルが短い詩を紙片に刻んでいた。
――数の歌、見えるものほど静かなる。
彼はそれを誰にも見せず、くるりと巻いて袖に挟んだ。
レティシアが扉口から顔を覗かせる。「新名――タクト。あなたの戦いは、剣無しでも怖い?」
タクトは少しだけ考えて、うなずいた。
「怖いのは“都合のいい曖昧さ”です。それさえ斬れれば、剣は要りません」
王女は満足げに頷くと、扉の外の侍従に短い指示を与えた。印璽がいくつかの文書に押され、出納板と現金出納帳の効力が公式に認められる。
◆
夜。王城の回廊は、蝋燭の炎が語尾を揺らしながら続いていた。
出納板の前に、タクトとアマリの影が二つ並ぶ。
緑の札は「入」。赤は「出」。
今日の未収の数は――赤い札が四枚。徴税官ギルドの遅延が二、王都南門の通行税の未入金が一、王城内の貸与品未返却が一。タクトは指先で赤札の材質を確かめ、裏面の蝋印を見た。問題ない。
「鍵、閉めますね」アマリが木枠の留め金を確かめる。
二人が踵を返した、その瞬間だった。
カシン、と小さな音がした。
振り向くと、赤い札が――一枚、緑に差し替わっている。
タクトは、歩幅を変えずに戻り、板の前に立った。
鍵は閉まっている。留め金も壊れていない。札の裏面には、見慣れぬ刻印が押されていた。小さな祈祷文字。
「……誰かが触った?」アマリの声は細い。
「板そのものが“触られた”」タクトは札の縁を爪で軽く叩いた。木の音は乾いて、清らかだ。
緑の札の裏――祈祷刻印。数字は改竄されていない。帳簿上も未収は未収のまま。だが板上では、未収が消えた。
アマリが小さく叫び、口を押さえる。
回廊の向こうで、黒衣の影が一つ、音もなく角を曲がった。
タクトは札から指を離し、ゆっくり息を吐いた。
「……数字だけの問題じゃない、か」
彼はアマリに向き直る。
「明日、徴税官ギルドにも出納板を置く。反感は呼ぶ。でも“見える化”は敵と味方を同時に炙り出す。詩は注、祈祷は欄外。――“会計兵”が要るかもしれない」
「会計兵?」
「数字を守る兵隊。剣は、要らないかもしれないけど、鍵と目は要る」
アマリはこくりと頷いた。震えは、もうほとんどない。
夜風が石の廊下を渡り、蝋燭の炎が一列、同時に低くなった。
遠い鐘が二度鳴る。
出納板の緑と赤が、風の息にかすかに触れて、色だけが、ほんのわずかに滲んだ。
――第2話「見える化は反感を呼ぶ」へ。徴税官ギルドの抵抗と、会計兵創設の戦いが始まる。



