第1話 敵対者の定義——“言葉の剣”の初斬り

 春は、板書の白に似ている。濡れたチョークの粉がうっすら指に残るみたいに、まだ固まらない何かが空気のなかに浮遊している。王立学院の中庭は、石畳まで淡い色をまとって見えた。新入生の雑談は波のように寄せては引き、潮だまりのように残る沈黙に、名前を呼ぶ声や笑い声が点々と落ちる。

 廉は窓際の席を選んだ。選んだというより、そこが一番、余白に近かった。余白は書き足すためにある。ノートの隅が好きなのは昔からだった。幼い頃、八百屋の店先で母が伝票の赤線を揃えるのを見て育った。線に沿うことは秩序だが、ときどき線を引き直すことも秩序だと知ったのも、その頃だった。

 午前の入門講義は、魔法契約学の概要だった。教師は「魔法は意思ではなく条文で動く」と黒板に大きく書き、その下に小さく「意思は条文を書かせる」と足した。チョークの音は、雪解けの道を靴で踏むみたいに軽く響いた。

 昼休みの鐘が鳴ると、教室の温度が一段軽くなる。弁当の包みがほどける音、紙コップが擦れる音、パンを袋から取り出す乾いた音。いちばん後ろの列で、小さな泣き声がした。泣き声というより、声にならない息の震えだった。

 見れば、同じ一年の少年が、空になった弁当箱の前で手を止めている。斜向かいの机には、パンの袋を持った上級生が二人。笑い方が、からっぽの空き缶を蹴るみたいに軽い。風紀委員の腕章を巻いた先輩が、教室の入り口に立って腕を組んでいる。誰も動かないのは、動いていい線が引かれていないからだ、と廉は思った。

「すみません」

 廉は自分の声が予想よりも普通でほっとした。教壇の空白へ歩き、黒板の端にチョークで線を引く。その線は、誰もが見逃してきた段差の縁だった。

「臨時で“条文ワークショップ”をやらせてください。学院規約の第十二条、“敵対者”の定義を、今日の午後だけ具体化する提案です」

 笑う上級生の片方が、「一年が何を」と呟く。その言い方には、軽い石ころがひとつ混ざっていた。投げる準備の音だ。

「提案文。——『当日正午以後、特定生徒の昼食(弁当・購買品・持参菓子を含む)を奪取・阻害した者を敵対者と見なす』」

 黒板に書くたび、教室の空気が少しずつ硬くなる。風紀委員が腕を組み直し、視線を落として条文を読む。誰かが小さく「要件特定だ」と言った。条件が見えるということは、魔法の回路が閉じ始めるということだ。

「午後だけの一時的な具体化。問題があれば、今日の放課後に再検討して、明日には消します。——賛否をとります。賛成は挙手で」

 ぱらぱらと手が挙がり、ためらいの気配をまとった手がゆっくりと続いた。風紀委員が最後に手を上げた。短い沈黙のあとで、「採択」と彼は言った。廉は礼をしてチョークを置いた。

 教室の空気は、最前列から後方へ戻り水のようにひたひたと流れていった。人は条文があると、安心して息を吐く。守られるためではなく、動けるために。

 昼休みの後半、廉は購買の列の後ろについた。列はいつもの倍はあって、階段の踊り場まで折れ曲がっている。ひたすら続く靴音と、栞の紙が擦れるようなささやき声。前の女子が振り返って、困ったように笑った。

「頼まれ買い、って、今日って、だめ……?」

「“奪取・阻害”に当たらないように、代替の規定を書き足しておきます。行列と同額相当を守れば、頼まれも是正内に入るように」

 言ってから、廉は走った。教室の黒板はもう別の授業が始まっていたから、廊下の掲示板に臨時条文の下書きを貼る。『但し書き:行列遵守・代替提供(同種商品・同額相当)をもって是正とみなし、本条の敵対者に該当しない』。薄い紙が風でふわりと震える。斜めから見ていた二年生の女子が、安心したように手帳に何かを書き込んだ。

 それでも、混乱は起こる。紙の条文は、読み手の数だけ解釈に枝を生やす。非常用に二本の水を買った生徒が、「奪うのと同じじゃない?」と責められる。列を譲ったところで、譲られた側が「施しみたいで嫌」と顔を曇らせる。杓子定規の善意は、人を切ることがある。廉はそれを、チョークの粉の匂いと同じくらい知っていた。

 踊り場で、パンの袋をひったくろうとした上級生の手が、空中で止まった。掌に刻まれた昨夜の軽い攻撃魔法が、要件未充足で点火しない。無音のまま、火花の不在がきれいに見えた。取り巻きの笑い声が途中で折れる。列の三番目にいた風紀委員が、静かに上級生の肩に触れた。

「午後だけの条文だ。今日のところはやめておけ」

 上級生は肩をすくめて、その手を振り払った。振り払う力は弱く、空気だけが左右にほどけた。

 午後の授業は、黒板の光がやけに眩しく見えた。文字は人の目に入るとき、状況の色を帯びる。教室の隅に座っていた同級生が、廉に小さく礼をする。礼は、救われたことだけに向けられるのではない。自分がこれから自分を守るための線を、見える場所に引いてもらったことにも向けられる。

 授業が終わると同時に、廉は生徒会からの召喚状を受け取った。宛名の字は、淡い刃物の光を中に仕込んでいるように、まっすぐで細かった。封を切ると、「上が見ている」とだけ書いてある。上という字はいつだって、階段の数を省略している。

 生徒会室へ向かう廊下は、磨かれた板の匂いがした。この匂いは、足音に過去がとうめいに混ざる匂いだ。扉をノックして入ると、三人がいた。風紀委員の先輩、生徒会書記の少年、そして、窓辺に立つ少女——貴族の魔女見習い、アイリス。昼休みに掲示板を見たあのときの横顔が、光の角度を変えてこちらを向いた。

「廉くん、ね」

 名前を呼ばれたとき、廉は自分の名前が線の起点になったような、控えめな高揚を覚えた。アイリスは手元の紙を持ち上げる。臨時条文の写しだった。端に、細い字で小さな感想が書いてある。〈誰か一人のために書いた言葉が、みんなの足場になる〉

「ありがとう。あなたの言葉は、呪文よりも速く届く」

 言葉は、届いてから効く。魔法は、効いたあとに届く。廉はそんなことを思ったが、口には出さなかった。風紀委員が咳払いをした。

「——ただ、今日の購買部の混乱は事実だ。長蛇の列、頼まれ買いの萎縮、水の買い置きへの過敏反応。善意の条文化は、ときに善悪を均一の面で覆いかねない」

「承知しています。放課後に、但し書きと例外規定の追記案を持ってきます」

「追記を重ねていけば、条文はすぐに肥大化する。読む人間が追いつけない」

 会話のあいだ、書記の少年は一言も喋らず、視線だけで廊下の光と机上の紙の白さを往復していた。彼の目は、行間の湿度を測っているように見えた。

「——提案します。臨時条文には、常に“明日の再契約検討”の一文を添える。今日うまくいかなかった部分を、明日の朝に一度、空気を吸い直してから調整する。常設化する前に、呼吸を作る」

 風紀委員はしばし黙って、頷いた。「試行の回路を含める、か」

 アイリスは微笑んだ。その微笑は、未来の小さな解決を先取りして頬に浮かべてしまう人の微笑だった。彼女は紙を軽く丸め、指先で戻し、乾いた線をなぞるように机に置いた。

「ねえ、廉くん。あなたは線を引くのが上手。でも、線の向こうにいる人を見失わないように、ときどき目を上げて。線は刃にもなるから」

 理解しているつもりだったものが、別の角度から照らされると、違う影が伸びる。廉は小さく礼をした。礼は、言葉を受け取る筋肉のためのストレッチみたいなものだ。

 生徒会室を出ると、廊下はいつの間にか夕方の色に変わっていた。磨かれた床は、空の色を薄く返す。風は窓の隙間を通るとき、言語を持たない。廉は掲示板に戻り、臨時条文の末尾に鉛筆で書き添えた。〈副作用の記録と翌日の再契約検討〉。一行だけの、呼吸のための条文。鉛筆の芯が紙に触れると、やわらかい音がした。

 石段を降りると、校庭の隅で誰かが剣を振っていた。夕方の練習の音は、刃が空気を割く音よりも、足が土を踏み変える音のほうが大きい。あの音が好きだ、と廉は思った。変える音。変えるためには、踏む場所がいる。

 寮に戻る前に、廉は購買部の裏口に回った。店主が外のベンチに腰を下ろし、濡れた布巾を絞っている。布巾から落ちる水が石の皿に小さな輪を広げて、輪は規則的に重なっていく。

「今日は、ごめんなさい。混乱させてしまって」

「謝る相手が違うよ、坊や」

 店主は笑って、布巾を肩にかけた。笑顔の筋肉は、使われ続けると柔らかい弦みたいに鳴る。

「問題はね、いつも“良かれ”から始まるのさ。悪気は、人のふりをするのが得意だから。あんたが線を引いたおかげで、言えた子がいた。ありがとう。明日は、賢く並べばいい」

「賢く並ぶ?」

「列にも、守るべき秩序と崩していい軽さがある。たとえば、明日はクラスごとに少しずつ時間をずらす、とかね。条文は掲示板に、柔らかい運用は人の口に」

 店主の言葉は、紙に書けない種類の現実を連れていた。廉はうなずき、石畳にできた水の輪をしばらく眺めた。輪は消えるために広がる。広がりきって、消える。だから、次の輪が必要だ。

 寮の自室に戻ると、机の上のペン先がひとつ欠けていた。新品の替芯を刺す。芯の冷たさは、緊張をまっすぐにする。ノートを開き、今日のやりとりを箇条書きに起こす。上級生の笑いの高さ、風紀委員の咳払いの間隔、購買の列で起きた会話の種類。感情の温度を温度の言葉に置き換え、矢印を引く。矢印はいつも、矢印自身の影を連れてくる。影の方向が見えないときは、いったん手を止める。

 窓の外で、月が雲の薄皮を一枚めくった。光は、見られるときほど薄くなる。見ようとしないと、強くなる。校庭の遠い端に、人影が一本、立っている。誰かの立つ姿には、その人の条文が無意識に現れる。背筋の角度、足の幅、首の傾き。規定を守るか、逸脱を試みるか。

 彼は一度だけ、こちらを見た。見た、というより、“読む”みたいに視線が走った。廉は窓辺から一歩下がる。目が合った、と思った瞬間、その人影は動いた。足を引いたのか、前に出たのか、判断できないくらい、躊躇が小さかった。あの小ささが、怖い。小さな躊躇は、誰にも気づかれずに大きな結果を産むことがある。

 後に知る。彼は契約師だ。エドガーという名前は、硬い音が続くので呼ぶときに少し舌が疲れる。疲れは、長い会話の終盤に現れる本音みたいだ。

 机に戻り、廉は鉛筆を置いた。芯の黒が紙に残した一行は、たしかに今日と明日をつないでいた。〈副作用の記録と翌日の再契約検討〉。線は、刃にも橋にもなる。どちらにするかは、書いたあとで決まることもある。

 窓を閉めると、外の音が薄くなった。薄くなることで、別の音が手前に出てくる。自分の呼吸の音。ページの端が指に当たるかすかな感覚。遠くの、まだ名前のない気配。そのすべてが、明日の条文の余白になった。

 寝台に横になる前に、廉はもう一度だけ、今日の教室の光景を思い出した。泣いていた少年が、ほんの少し背筋を伸ばして座り直した瞬間。アイリスの言葉の柔らかさが、紙の上の黒を包んだ瞬間。上級生の笑いが途中で折れた瞬間。瞬間は、過去になるための練習をしていたのかもしれない。

 目を閉じる。文字の残像は、眠る直前がいちばんきれいだ。直線が曲がり、曲線がくっきりする。眠りに落ちる前に、廉は小さく呟いた。

「呪文は尽きる。でも、条文は尽きない」

 それは祈りではなく、約束でもなく、習慣に近かった。習慣は、人を守る。ときに人を縛る。だからこそ、明日の朝、また線を引き直す。今日より少しだけ、人が通りやすいように。

 夜の王立学院は、石の体温でゆっくり冷えていく。校庭の隅に立っていた人影は、もう見えない。見えないものは、見えるものよりも長く残る。春の白は、薄い霧になって窓の外に漂っていた。明日の朝、それは露になり、石畳に散るだろう。踏まれるために。

 ——そして、踏まれたあとに、線はまた引かれる。

第2話 門限の罠——保護と自由の釣り合い

 夜は、ルールの匂いがする。昼間の熱や声が洗い流され、残った骨組みだけが冷たい空気に晒される時間。王立学院の寮の廊下は、磨かれた板の匂いに、金属の錠の匂いがまざっている。十時の鐘が鳴る三分前、扉の隙間からこぼれる灯りが一斉に細くなって、規則という名の布団の中に皆が潜り込む音がする。

 壁に下げられた門限契約の額は、太字で「外出二十二時以降の帰寮禁止」とだけ書いてあった。理由は書いていない。目的は、額の裏に置き去りにされている。手段だけが表に残るとき、手段は手段であることを忘れて、目的のふりをする。

 錬金術部の部室は、寮から少し離れた小屋にある。安いランプの炎が瓶詰めの植物を透かし、棚の影を壁に編んでいた。部長の三年生は頬がこけ、目の下に淡い隈がある。テーブルの上には、採集予定表の紙が広がっていた。夜のうちにしか咲かない“月光花”――細長い花弁は淡く光る樹液を含み、魔道具の冷却部分に使うと格段に性能が上がる。今期の研究課題はそれに依存していた。

「門限が動かない以上、活動は停止だ。だってさ、寮監が」

 部長は紙をくしゃりと握り、すぐにひらいて皺を伸ばした。皺は、伸ばしても記憶を残す。彼はそれを見ていた。

 廉は、紙の端を指で押さえた。「動かすんです。契約そのものを」

「門限を?」

「門限の“意味”をです。本来の目的に戻して、必要な例外を掘る。網に穴をあけるんじゃない。息をするための窓をつくるんです」

 口にして、自分の比喩が少し気恥ずかしくなる。けれど、部長の目がその言葉に縋るように揺れて、廉は続ける決心を固めた。

「今夜、寮監室に行きます。同行してもらえますか」

 夜の寮監室は、書類が積み上がっているのに、なぜか整って見えた。整頓は、積み重なった紙の高さを揃えるだけで得られる種類の秩序ではない。寮監――濃い灰色の髪をひっつめた中年の女性――は、眼鏡の縁からこちらを見た。目は疲れている人の目、つまり、守る責任の重さを知っている目だ。守る責任を知る人は、変える話に最初から眉をひそめる。

「門限の例外は認めない。事故が起きたら、誰が責任を取る」

 寮監の声は、石畳に雨が落ちるみたいに硬い。廉は頷いた。反論から入らない。彼女の不安を言語化して、それを条文の中に置く。それから、自分の言葉を置く。

「門限の趣旨は、安全確保にあります。そこは動かしません。ただ、趣旨を明文化して、手段と結び直したい。今の条文は、手段だけが前に出て、趣旨が霞んでいる。――こうです」

 廉は用意してきた紙を机に広げた。丁寧に書いた字は、少し硬い。硬さは、相手に渡すための緊張の形だ。

『【提案】門限契約補足条項
 一、門限の趣旨は居住者の安全に存する。
 二、安全が計画的に担保される活動については、例外を認める。
 三、例外承認の流れは二段とする。
 (1)外出計画書の提出(目的・経路・危険度・代替案の明示)
 (2)帰寮報告契約(帰寮時刻の魔術刻印/遅延時の自動通知)』

 寮監は紙を目の高さに持ち上げた。紙の端が少し震え、彼女の指先の血が紙に移ったように白が濃くなる。

「書類が増える。事故のとき、書類を盾に“最善を尽くした”と言うためだろう?」

「書類は盾ではありません。呼吸です。状況を前に、みんなが同じように息を吸うための段取りです」

「段取りで死は止まらない」

「止められない死があることは、知っています。でも、減らせる。――事故時の責任について、ここに明記します」

 廉は二枚目を出した。

『四、事故時の責任について
 (1)危険度に応じた段階許可(A=引率者二名必須/B=一名/C=単独可)
 (2)善管注意義務を尽くしたと判断される場合、刑罰的な罰は科さない。
 (3)事故発生時は改善報告の提出を義務化し、承認後に再開を判断する。
 (4)承認・却下の根拠は透明化し、閲覧を可能とする。』

 寮監はここで眉を上げた。眉が上がるのは、相手の意見が初めて自分の言語に触れた合図だ。

「“善管注意義務”の判断は誰がする」

「寮監と、書記局と、外部安全顧問の三者で。三者が揃わなければ、判断できない仕組み。判断が遅れた場合の措置も条文化します。緊急時は“当直責任者”に一時全権を委任、翌日に公開審査で妥当性を認定する」

「委任が乱用されたら?」

「翌期の当直資格停止と、改善策提出の義務化。乱用を防ぐ条文で包みます」

 包む、という言葉を選んだのは、抑えたいという欲望を自分の中で冷やすためでもあった。押さえ込むのではない。包む。包むことで、相手の形を損ねずに持ち運ぶ。

 寮監はしばらく黙ってから、紙を机に戻した。

「……君は、言葉で責任の輪郭を作るのが上手い。だが紙の上では、人はよく守られる。現場で人を守るのは、紙ではない」

 廉は頷いた。「だから、現場に“戻るための回路”を作る。紙で守れない部分は、紙で戻れるようにする。それが、試行と改善の条文です」

 寮監は視線を落として、机の角に爪を軽く当てた。木目の波が、海図のように見えた。一呼吸ののち、彼女は口を開いた。

「一次運用を、三週間。事故が起きず、運用負担が許容範囲なら、常設化を検討。――ただし、君が責任者になる」

 廉は背筋を正した。責任という言葉は、重さを測るための単位を持たない。だから、人はその言葉を自分の骨に乗せてバランスを見る。

「引き受けます」

 そう答えたとき、部屋の空気が少し軽くなった。軽くなることに、たいてい誰かの筋肉が使われている。寮監は眼鏡を外し、指で目の縁を押さえてから、もう一度眼鏡をかけた。

「君のような子は、時々危なっかしい。善意で走る子は、崖が見えないときがある」

「崖があることは、いつも怖いです。だから、崖の手前に柵を置きたい。柵の場所は、毎晩、ずらします。崖が動くから」

 寮監の口元が、わずかに緩んだ。それは、理解というよりも、疲れた心が一瞬、寄りかかるための家具に手を伸ばした瞬間の顔だった。

「わかった。――三週間。やってみなさい」

 寮監室を出ると、廊下の時計は九時を廻っていた。紙束を胸に抱えて歩きながら、廉は膝の内側が少し震えているのを自覚した。決めるときに震えるのは、筋肉が先に未来の重さを知っているからだ。

 翌日、寮の掲示板には新しい補足条項が貼り出された。紙の角が風でめくれ、そのたびに誰かの指がそっと押さえる。誰かの指が紙に触れるだけで、条文は少し、現実に近づく。

 その日の午後から、寮監室には外出計画書が積み上がり始めた。目的、経路、危険度、代替案――項目は多くはないが、書き慣れていない者には書けない。予定の言葉は、未来の形に合わせて指を動かす力を要る。書けない未来は、実現されにくい。

「これ、全部、読んで判定するの?」

 昼休み、掲示板の前でため息をついたのは、書記局の少年――ナハトだった。灰色の瞳は、紙の白の濃淡を見分けるのが得意そうだ。彼は、書類の積み上がった寮監室の机を眺めて、額に手を当てた。

「このままじゃ、窒息しますね」

「窒息?」

「条文は呼吸だと言ったでしょう? 呼吸の量が急に増えると、窒息する。量に形を与えないと、人は呼べない」

 ナハトは指先で机を二度叩いた。「テンプレートを作ります。“危険度自動判定”の簡易魔法も。計画書に書かれた単語と数値から、A/B/Cの目星をつける。もちろん、人の目で最後は見るけど、山を分類してから登れば、遭難は減る」

 彼の言う山は、紙の山のことだ。紙の山を登るのは、酸素が足りない。廉は頷いた。ナハトの指の動きに、音がないのがいいと思った。無駄な音がない人の手は、その人の頭の中の余白を想像させる。

 ナハトは夕方までにテンプレを作ってしまった。質問は必要最低限で、言葉が短い。「目的」「経路(地図記載)」「人数」「引率(人数・経験)」「危険予測(最低三つ)」「代替案(最低二つ)」。魔法陣に軽く触れると、危険度の暫定ランクが表示される。目安は目安にすぎないけれど、目安があるだけで、列の進みは一定になる。

 初日の夕方、“月光花”採取の第一陣が許可された。危険度はB。引率者一人必須。寮の玄関前に集まった部員たちは、背筋が少し伸びている。紙に書いた未来に向かう背中は、どこか凛としている。廉は寮門の横に立ち、新設した“帰寮刻印”の魔方陣を確かめた。薄く光る紋様が、帰ってくる時間を待っているみたいに静かだった。

 アイリスが列に混じっていた。白い外套の裾から覗くブーツは、雨で濡れても平気な皮の色をしている。見送りに来たのかと思ったら、肩に小さな薬籠を提げている。行く気配を纏っていた。

「引率は一人必要でしょう?」

 部長が戸惑いがちに視線を泳がせる。貴族令嬢が夜の採集に混じるなど、前例がない。前例は、ルールの裏に住み着いている幽霊のようなものだ。誰も正体を見たことがないのに、皆がその噂話を信じている。

「経験、ありますか」

 廉が問うと、アイリスは軽く笑った。「森で、火を消して歩く経験なら。あと、花に触らずに採るための時間のかけ方」

「危険度は、上がります」

「上がっても、紙に書けば下がるものもあるでしょう?」

 彼女の言葉は、軽くて、芯があった。軽さに芯があるとき、人は安心して笑うことができる。

「あなたの条文は、怖がっている大人も守るのね」

 言われて、廉は少し頬が熱くなった。守る、という言葉には、勝つよりも疲れる筋肉が使われる。疲れるけれど、使い続けたい筋肉だと思った。

 部員たちの足音が石畳に移り、石畳から土に移った。寮の外灯が四角い光の池を作り、その外は、夜の音の方が多い世界だった。林の手前でランプの蓋が閉じられ、闇が濃くなる。濃くなってから初めて、人は自分の呼吸を思い出す。

 森の匂いは、手紙の古いインクに似ている。湿気は薄く、葉の裏で集められた夜露が土に落ちるたび、かすかな音を立てる。月は雲に薄く覆われ、白い皮膚を透かす血管みたいに、光が細く枝に絡む。足元の小石が時々、靴の底で鳴る。鳴るたびに、後ろの誰かが一歩遅れてしまう。遅れた一歩に誰かの息が絡まり、列は細く伸びた緊張でつながる。

 “月光花”の群落に着いたのは、出発から三十分後だった。夜露の濡れた草の匂いの奥に、砂糖を焦がしたときの甘さが入っている。花弁は白く、光を返すというより、自分で薄く発光しているように見えた。息を吐くのが惜しくなる静けさだった。

「採るのは、花じゃない。芯に近い樹液。触れるのも、触れないのも、時間の問題。触れないで取るには、時間をかける」

 アイリスが低い声で言った。手袋をはめた手が、樹皮に沿ってゆっくり動く。その動きは、誰かの肩にかけた毛布をずらさないようにする動きに似ていた。毛布の端をうまく持てたとき、眠りかけの人は目を覚まさない。花も同じだ。触ることが目的ではない。持ち帰ることが目的でもない。息を乱さずに、関係を始めることが目的だ。

 樹液は、細い管に落ちる。落ちる音は、言葉にできない静かさだ。静かな音を言葉にしようとすると、余計な音が増える。だから、誰も喋らない。喋らない会話が、列に広がる。

 戻り道、足元の石がひとつ、予想よりも大きかった。先頭の部員が足首をひねり、短い息が漏れる。アイリスが素早く肩を貸し、体重を軽く分け合う。廉は一歩進んで、列の速度を半歩落とした。速度は空気の温度に似ていて、下げれば痛みは目立たない。帰りは、少し遅くてもいい。帰ることそのものが目的だから。

 寮門に着くと、“帰寮刻印”の魔方陣が列を通るたびに柔らかく光り、帰ってきたという事実だけを静かに記録した。魔法陣は感情を持たない。だからこそ、人の感情を傷つけない。事実だけが、未来のための材料になる。

「ただいま戻りました」

 部長が寮監に礼をする。寮監は短く頷き、刺さるようだった眼鏡の視線を一度だけ柔らげた。柔らかい、という言葉は、硬さの反対ではない。硬さの目的が明確になったとき、硬さは外に向かない。内側に向かって、骨を支える。寮監の硬さは、今、内側に向いていた。

 ナハトは机に腰をおろして、夜の申請ログを眺めた。

「行ける。回る」

 彼の声は小さいが、輪郭のある小ささだった。小さな声に輪郭があるとき、人は案外、長く歩ける。

 翌朝、学院新聞は一面で廉を取り上げた。『条文の怪童、門限の穴を“窓”に変える』――見出しは大袈裟で、写真の廉は緊張した顔で紙を見ている。記事は、錬金術部の活動再開、申請テンプレの導入、危険度判定の自動化、そして寮監の慎重な言葉を淡々と記していた。淡々と書かれたもののほうが、人の心に長く残ることがある。濃い色はすぐに乾くが、薄い水は紙の繊維に奥まで染みる。

 新聞を手にした同級生が、廊下で廉に親指を立てる。「よくやったじゃん」「うちの部も、夜練の申請してみるかな」「いや、おまえらの夜練は近所迷惑で却下だろ」――笑いながら渡る声の橋は、昨日より少しだけ太かった。

 しかし、朝の光は、影をも濃くする。掲示板の前、新聞を畳んでいた上級生は、記事の下にある細い活字を指でなぞり、無表情のまま紙を二つに折った。折り目は、刃のように真っ直ぐだった。エドガー。彼の指先は、紙ではなく空気を切っているみたいに見えた。

「敵を作ったな、坊や」

 独り言のように、誰にも聞こえない音で彼は言って、新聞を懐に入れた。敵、という言葉に血が通うのは、たいてい、こちらが味方を増やしたときだ。味方の数が増えると、ルールは必ず、どこかで誰かの自由を削る。削られた自由の先に、敵は生まれる。

 その日の午後、寮監室のドアがノックされる。中に入ってきたのは、剣術部の副将と、演劇部の舞台監督だった。どちらも、夜間に準備したい用事がある顔をしている。準備は、いつだって夜のほうが捗る。昼間は、人の視線が多すぎて、準備が片付けになってしまうから。

「申請を」

 廉が座り直すと、剣術部の副将が口を開いた。「夜の素振りは危険度どのくらいになります?」

「音の危険度は高いです」

「音にも危険度あるの?」

「もちろん。人の寝入りばなを崖だと思ってください。足音は、落石にあたる」

 副将は腕を組んで笑う。「わかりやすいな。じゃあ、代替案は?」

「校外に出て、川沿いの道で。夜十時前に切り上げて帰寮。帰寮刻印の時間を刻む。耳栓を配るのではなく、場所を変える」

「場所を変える、か」

 演劇部の舞台監督は、手帳を持ったまま眉を寄せた。「舞台の安全確認を、劇場が空いている夜のうちにやりたいんですが」

「安全確認なら、危険度は低い。道具の搬入は高い。分けて申請しましょう。必要な照明は最低限。明るさは安心に見えるけど、影も増やす。影の中で人はつまづく」

 舞台監督の表情が、聞き慣れない言葉に出会ったときの柔らかさに変わる。「影の中で、ね」

 申請の波は、その日を境に、一気に押し寄せた。波は、波として受け止めれば、膝の高さで済む。堤防にするのか、泳ぐのか、飛ぶのか、選ぶだけだ。ナハトのテンプレと自動判定は、波の形を見せてくれた。見えれば、腰の入れ方がわかる。

 運用二日目の夜、寮監室に一件、遅延通知が上がった。帰寮刻印が押されないまま時刻を越えたとき、自動で赤い灯が灯る。灯は、人の焦りを引き受けるためにある。焦りは、誰かの胸に残ると、その人自身を責めてしまうから。

「どこだ」

 寮監の声は短く、無駄がない。廉は魔法陣のログから位置を割り出した。寮から外れた第七区画――森の外れ、石橋の近く。錬金術部の第二陣。地図の上の小さな印は、動かない。動かない印は、人間の時間を長くする。長くなる時間は、誰かの喉を乾かす。

 寮監、廉、ナハト、そして救護の魔術師二名が駆け出した。夜の空気は、走る者の肺に、走ってほしいと言う。足音が土の上で弾んで消える。石橋の上に、三つの影が見えた。二人が座り、もう一人が片膝を立てて空を見ている。見上げる空は、誰かが無事であることを祈るときに、なぜか広がる。

 足をくじいた、と部員が言った。腫れは軽い。帰りが遅れただけ。遅れただけは、たまに、責められないだけ以上の意味を持つ。誰も傷つけない遅刻は、世界の優しさの残高から少しだけ引き出されるものだ。

「すみません」

 部員が何度も言う。寮監は首を振った。「謝罪は、危険に近いときだけでいい。安全に戻ってくるときは、報告を。報告は謝罪じゃない」

 廉は、その言葉を心に書き写した。報告は謝罪じゃない。言葉の位置を少し動かすだけで、息の入り方は変わる。

 寮に戻ると、寮監は机に座り直し、遅延報告書の空欄を指で示した。

「“副作用”の欄を増やしておきなさい。――今日、帰寮刻印の音が、寮の犬を怯えさせた。連鎖して、他の部屋の子が眠れなくなった。音の魔法陣の音量を下げるか、音の質を変える必要がある」

 ナハトが頷く。「音の魔方陣、波形を柔らかくできます。拍の頭に硬い成分があるので、丸めて、長い尾にします。長音は、人の心拍と相性がいい」

「頼む」

 四日目には、演劇部が提出した安全確認の報告が上がった。舞台の床に、四センチの段差がある。段差は、暗転時に見えない。見えない段差は、外傷より内出血を誘う。小さな内出血は、次の本番の不意に痛む。廉は段差の位置を明記した地図を掲示し、移動導線を組み替える案を添えた。

 五日目、剣術部の“川沿い夜練”は、近隣住民の苦情で一時停止になった。苦情は、正しい。正しい苦情は、条文の更新を促す。廉はルートの中間点に“無音練”のチェックポイントを設け、そこで五分間、静かに素振りをする条項を追加した。静かに振る剣は、派手な剣より、脳の奥に残る。副将は「禅か」と笑って、やってみせた。やってみせる笑いは、案外、長持ちする。

 運用の一週間目、寮監は朝のミーティングで短く言った。

「事故ゼロ。苦情、二件。改善案、五件。――続ける」

 続ける、という言葉は勝利より重い。勝ちは、たいてい一瞬で終わる。続けるは、毎朝、始める。

 十日目の夜、廉は寮の屋上に上がった。月は輪郭のはっきりしない薄灯りで、寮の屋根の曲線を撫でていた。彼は腰を下ろし、足をぶらぶらとさせた。下に広がる暗い校庭は、日中より広く見える。広く見えるのは、境界の線が夜に吸われるからだ。線が薄くなると、人の気持ちは少しだけ動きやすくなる。動きやすくなる気持ちは、ときどき悪さをする。だから、線をうっすら引き直す。

 ポケットから紙片を取り出す。新聞の切り抜き――『条文の怪童』。見出しの大げささが可笑しくて、でも、紙のインクの匂いが胸の奥で薄く甘い。あの記事は、自分ではない誰かが、自分のしたことを言葉にしてくれた最初の紙だった。自分で書く言葉と、誰かが書く自分の言葉。その間にある湿った空気を、廉は指で探ってみた。

 階段のほうから足音がした。屋上の扉が軋む。出てきたのは、アイリスだった。外套を羽織っている。肩までの髪が夜風に少しだけ揺れ、彼女の輪郭を柔らかくした。

「寝ないの」

「寝ます。……寝る前に、息を合わせに来た」

「息?」

「あなたが引いた線のこと。線は、人が集まって初めて、線になるから」

 彼女は廉の横に座り、同じように足をぶらぶらとさせた。靴音ではない、靴の影の揺れが屋根に落ちた。

「この前、森で思ったの。ルールは、怖がっている大人のためだけにあるんじゃない。怖がっている子どものためにもある。怖がっているって、弱いって意味じゃないからね。守りたいものがあるって意味だから」

「守りたいもの」

「うん。――それで、ナハトに聞いたら、“怖がってる大人”って、だいたい、過去に責任を取ったことがある人のこと、なんだって」

 廉は笑った。「ナハト、言いそうだ」

「言いそうね」

 二人で笑ったあと、風の音が間を埋めた。風の音は、言葉のかわりにできる。言葉は、風のかわりにできない。

「ねえ」

 アイリスが口を開いた。「“敵”って、どうしてできるんだろう」

「味方が増えるから」

「味方が増えると、敵が生まれる?」

「線が増えるから。線が増えると、誰かの自由が削られる。削られた自由の先に、敵は生まれる」

「ふうん」

 彼女はしばらく黙っていたが、やがて、夜の端を爪でそっと触るみたいに言った。

「それでも、線は引くよね」

「引きます」

「どうして」

「線がないと、足を踏み出せない子がいるから。線は、刃でもあるけど、橋でもあるから」

 アイリスは頷いた。彼女の横顔は、誰かを守ると決めた人の横顔だった。守ることを決められる人は、決めない人より少しだけ寂しい。寂しさは、夜のなかで形になる。

 屋上を降りる階段で、紙片が風にさらわれ、踊り場の隅に落ちた。拾おうとしたとき、踊り場に誰かが立っていた。エドガーだった。彼は新聞の切り抜きを踏まないように足を少しずらし、廉の顔を見た。見上げるでも、見下ろすでもなく、読むように。

「おめでとう、“怪童”」

 皮肉にも、祝福にも聞こえた。どちらで受け取るかは、受け取る側の天気で変わる。

「――敵を作ったな、坊や」

 彼はそう言って、階段を降りた。降りる足音は、やけに軽かった。軽い足音のほうが、たいてい遠くまで行く。重い足音は、地面に優しい代わりに、膝に厳しい。

 廉は新聞の紙を拾い、ポケットに戻した。紙の角が指に触れる感触は、鉛筆の芯とは違う硬さだった。硬さの違いは、持ち方を変えさせる。持ち方を変えると、書く字が変わる。字が変わると、線が変わる。

 部屋に戻り、机に向かった。今日の申請の数字、遅延の時間、改善案の内容。ナハトのテンプレに寄せられた匿名の感謝。寮監の短いOK。アイリスの薬籠の匂い。すべてをノートに写し取ってから、最後に一行、同じ言葉を書いた。

〈副作用の記録と翌日の再契約検討〉

 線は、夜ごと薄くなり、朝ごと濃くなる。夜の薄さに、人は足を取られる。朝の濃さに、人は息を合わせる。息を合わせる相手が増えた分だけ、敵も増える。増えた敵の向こう側にも、誰かの守りたいものがある。

 守りたいものがあることを、忘れない。忘れないで、なお引く線を、自分は選ぶ。選ぶことは、毎日、少しずつ自分を削る。削った自分のかけらを、祈りで包む。包む祈りを、条文の前文に置く。

 寝台に体を沈めると、天井の木目が目の奥で緩く流れた。木目は、流れることで固い。流れない木は、割れやすい。自分も、流れたい。固くなるために。

 目を閉じた直後、寮の外灯が一つ、ふっと消えた。誰かが、明日の朝の電球交換の申請書を書いている気配がした。気配は、たいてい当たる。そういうふうに、ここは回っているのだと思った。

 夜は、ルールの匂いがする。匂いのなかで、眠りは静かに形を変え、明日の線に寄り添う。寄り添う眠りから起きる朝に、また、紙の白が増える。増えた白に、細い線が一本、引かれる。やわらかな刃で。祈りの鞘ごと。

第3話 図書の上限——アクセスの公平化

 朝の図書館は、声が生まれる前の声で満ちている。紙の繊維が吸った夜の湿気がわずかに残り、革装の背表紙は寝起きの人の背中みたいに微かに軋む。高い天窓から差す光は冷たく、埃がひとすじの川になって降りてくる。入口の掲示板には、いつもの小さな額縁がぶら下がっていた。〈貸出は一人三冊まで〉。太字は、ルールがいつの間にか目的のふりをしてしまうときの顔をしている。

 研究合宿の一週間前から、館内の空気はあわただしくなっていた。班ごとに課題を割り振られ、代表者が必要な資料を集めに走る。代表者の背中は紙袋で広がり、両手が塞がる。塞がった両手の横を、何も持たない生徒が軽やかに抜けていく。三冊の上限は、公平に見えて、班という単位の内部で不公平をつくる。必要な資料が五冊あれば、二冊は誰かの“余白にある手”を借りなければならない。余白のある手は、たいてい忙しい。そういう余白は、善意という名前の疲れを溜めやすい。

 司書のマルタは、額縁の下に新しい告知を貼っていた。〈合宿期間中は混雑が予想されます。閲覧は譲り合って〉。譲り合い、という言葉は優しいが、優しさ任せにするとすぐに摩耗する。摩耗しても、誰もそれを拾いに来ない。拾うのは、拾いたい人ひとりだけだ。

「このルール、変えられませんか」

 カウンターの向こう側に立つマルタが振り向いた。白髪はきっちり束ねられていて、目は澄んでいる。澄んでいる目は、曇りを嫌う。嫌うからこそ、曇りそうな空に早めに洗濯物を取り込み、雲を懐疑する。彼女は何度も学生の“良かれ”に疲れてきた人の目をしていた。

「貸出上限は、簡素で、運用が楽で、間違いが少ない。乱すことは簡単でも、戻すことは難しいのよ」

「乱しません。戻せる回路を先に作ってから、出します」

「回路?」

「班契約に紐づけた“役割借受人”制度です」

 廉はスケッチの紙を差し出した。字は、前夜、眠気と競争しながら丁寧に書いたから少し硬い。

『役割借受人制度(提案)
 一、班契約を締結した班は、成員の貸出権(各三冊)を、代表者に委譲できる。
 二、委譲の範囲は“資料名と期間”に限定し、委譲数は明記。
 三、責任は分割。紛失・延滞は委譲数に応じて按分し、代表者が全負担を負わない。
 四、早期返却に応じた“次回優先枠”を班全体に付与(返却合計冊数×○%)。
 五、稀少資料は“閲覧室限定(コピー不可)”の対象とし、同席閲覧の枠を設ける。』

 マルタは紙を読んで、二度瞬きをした。「……簡単なルールは、時に不公平だけれど、複雑なルールは、時に不在の不公平をつくる。わかる?」

「はい。だから“委譲の範囲”を資料名と期間に限定して、委譲簿も公開します。班の外に貸し出さないよう、署名の同時魔術を使う。書記局のナハトが、簡単な手順書を」

「ナハト?」

 ちょうどその名前を呼ばれたみたいに、閲覧室の奥からナハトがカートを押して現れた。薄いグレーの瞳はいつも紙の白の濃淡を数えている。彼は器用にカートを止め、廉の紙に目を通した。

「筆跡の補助魔術ならすぐ組める。委譲簿は公開で、編集履歴も残す。優先枠の計算は自動化。——ただ、稀少資料の扱いは早めに枠決めが必要だ。閲覧室に“同席台”を増やして、時間を割り振る」

「同席台?」

「二人以上で、同じ資料を同じ時間に読む台。読むという行為の速度が違っても、章やページを揃えられるように、ページの余白に段落番号をふる。番号の分母を揃えれば、速度の差を侮辱にしなくて済む」

 マルタは、二人の話を黙って聞いていた。彼女の沈黙は、長い時間を吸って重くなる種類の沈黙だった。最後に、紙に指先で小さく折り目をつけ、頷いた。

「——試します。三日間。毎夕、その日の“副作用”を報告して。副作用は、たいてい最初の三日でわかるから」

「承知しました」

 廉は礼を言って、掲示板に“役割借受人制度(試行)”の案内を貼った。貼られた紙は風を吸い、誰かの目に入り、誰かの眉を動かす。眉が動いた分だけ、ルールは現実に近づく。

     *

 制度は、初日は驚くほど滑らかに動いた。班の代表者が委譲簿の前に並び、署名を重ねていく。魔術陣に触れると、薄い光が筆先から紙へ流れ、名前の輪郭がやわらかく固定される。代表者の背に抱えられた本の数が増え、班の机に分厚い本の山が生まれる。山は、計画が始まるときの形だ。良い山は、崩れない。

 二日目、館内の空気に小さな濁りが混ざった。濁りは、声にならない不満が溶けた色をしている。誰かが「借り屋」と囁いた。班契約に署名だけして、代表者のふりをして人気資料だけを抱え込み、ノートや要約と引き換えに小銭を受け取る生徒が出たのだという。顔は知られている。名をアゼル。軽い髪、軽い笑い。軽い人は、重いものを持たないことで速く動ける。

「ああいうのは、正しいルールほど、うまく利用するのよ」

 マルタは淡々と呟いた。淡々とした声は、怒りより長く効く。廉は委譲簿を見直し、同じ筆跡が短時間に複数の班で繰り返されているのを見つける。委譲の欄に書かれた資料名は、どれも同じ棚から出た稀少な台本集や都市開発の古地図だ。まるで地の利を知っている商人の仕入れの帳尻だ。

「筆跡だけじゃ、抜ける」

 ナハトは委譲簿の紙端を指で弾いた。「二要素にしよう。“筆跡魔術”と“魔素の癖”。魔素は、その人が魔法を使うときにわずかに残す“個体の揺れ”。揺れを極細の魔墨で取って、署名と同時に記録する。紙から切り取って別紙に移せないよう、紙そのものに“移動禁止”の印を焼き込む」

「焼き込む、って」

「紙は生き物だよ、廉。焦がせば、焦げ跡は戻らない」

 ナハトの言い方は穏やかだったが、焦げ跡という言葉は、紙にとって少し痛い。廉は頷いて、稀少資料には“閲覧室限定”の印を重ねる案も出した。持ち出さない。コピーも不可。代わりに、同席台の予約枠を増やす。

「持ち出せないなら“借り屋”は商売にならない」

 マルタは静かに言い、その場で稀少資料の棚の前にロープを設置した。ロープは結界ではない。ただの視覚的な線。それでも線は、人を動かす。線は、曲げるためにある。曲がるのが見える線は、破られにくい。

 三日目の昼、図書館の前で口論が起きた。入口の階段の段差が、言葉の角で少し鋭く見える。演劇部のセラが、舞台演出の古い台本を三冊抱えていた。髪は夜の色、眼差しは舞台の照明を受けると冷たく輝くだろう種類の眼差し。彼女の前に立ちはだかったのは同級生の男子二人と女子一人。彼らは、委譲簿に目を落としながら、早口で責めた。

「独占だよ」「三冊全部持ち出すとか」「“閲覧室限定”になる前に借り切るって、正義のふりした抜け駆けだろ」

 セラは本を落とさないように抱え直し、唇の片側だけで笑った。笑いは、刃物の裏側みたいに薄く光った。

「正しさって、いつも私たちを急かすの。間に合わない人から、“遅い”って切り落としていく。遅いって、そんなに悪い?」

 男子の一人が黙り、女子が言い返した。「あなたが遅いのは、舞台のために必要な遅さじゃない。あなたの“完璧”のための遅さ。完璧はたいてい、誰かに早さを強いる」

 言葉の速度が上がっていく。速度が上がると、舌が先に着地してしまう。着地の場所は、たいてい相手の足の甲だ。踏まれた足の甲は、じんじん痛い。痛みは、ぎりぎりで言い直されるべき言葉の場所を通り過ぎる。

「やめよう」

 廉は間に入った。間に入るという行為は、誰かの視界に自分の背中を置くことだ。置いた背中は、少しの間、盾になる。盾は重い。

「稀少資料は“閲覧室限定”を拡大します。セラ、君が読んでいる台本は、午後から同席台で共有に切り替える。ページ番号と段落番号を揃える。同席の相手は——」

「私が行く」

 横からアイリスが声を上げた。白い外套は今日も端正だが、袖口にインクが薄くついている。午前中、誰かの書類の手伝いをしたのだろう。彼女は階段を一段降りて、セラの横に立った。

「あなたが必要な速度で読めるよう、段取りをつくる。それでいい?」

 セラはアイリスをじっと見て、軽く息を吐いた。「あなたに“いい”と言ってしまうのは、ずるいわね」

「ずるさは、舞台の基礎よ」

 アイリスは、ずるさという言葉を柔らかく言った。柔らかく言われると、言葉は自分の刃を一度たたむ。

「——同席台は十四時から。予約を開けます」

 マルタが短く宣言した。宣言は、宣言された瞬間に現実をわずかに動かす。宣言が間に合う回数の分だけ、世界は穏やかだ。

 廉は委譲簿に新しい欄を追加する。〈稀少資料:閲覧室限定/同席台予約〉。ペン先が紙に触れるたび、軽い音がした。音は、正しさと正しさの間に布を挟む音だ。布は、突然の衝突を少し和らげる。和らげる布は、いつも誰かが洗って干して畳む。

「君さ」

 階段の陰から、低い声がした。アゼルだった。彼は壁にもたれ、軽い笑いを浮かべた。軽い笑いは、天井の高い場所に浮かんで、音ではなく光に近い。

「また“怪童”が仕組みを強くした。強い仕組みは、強い悪い奴だけ喜ばせる。弱い良い奴は、書けない」

「——書けないなら、書けるようにする」

 廉は言って、自分の声が少し硬いことに気づいた。硬い声は、誰かの耳に尖って届く。尖って届くと、相手の声の硬さも上がる。硬さは感染する。

「テンプレートは短くする。班の委譲は、紙を二枚に分けて、背景の説明を要らなくする。委譲簿の“理由”欄は削る。理由は、言わなくてもよい時のほうが、言いたくなる」

「……うまいこと言ってるみたいだけどさ」

 アゼルは片方の眉を上げた。眉は、疑いを載せる皿だ。

「“うまいこと”じゃうまくいかないやつがいる。それは、どこに入れてくれる」

「“副作用”の欄に。毎日集める。集めた副作用は、翌日に条文の“祈り”の前文に置く」

「祈り?」

「目的の再確認。条文の前に、短い一行を置く。“この規則は、誰かを急かし過ぎないためにある”。“この規則は、誰かの遅さを“怠け”と呼ばないためにある”。——祈りは強制じゃない。けれど、読む人の膝に一瞬、手を置く」

 アゼルは笑い、肩をすくめた。「あー、だから“怪童”なのか。やれやれ。——じゃ、同席台で会おうか。俺は稀少資料、持ち出さないから」

 彼は軽い足音で階段を降りていった。軽い足音は、遠くまで響くけれど、すぐに消える。消えてしまうから、追うときに走らなければならない。

     *

 午後の同席台は、静かな緊張で満たされた。セラとアイリスが並び、灰色の布で覆われた台本集が中央に置かれる。廉は台の端に段落番号をふる。ナハトは横の机に簡易砂時計を用意し、十五分ごとにひっくり返す役を引き受けた。時間が砂のように見えると、人は時間に優しくなる。固形の時間は、角で膝を打つ。

 ページがめくられる音が、薄く重なる。セラの指は速い。アイリスの指は一定だ。セラの眼は役を探し、アイリスの眼は役の間の空気を探す。二人の速度が、段落番号と砂時計でわずかに接続され、互いの呼吸を邪魔しない距離が見える。距離が見えると、近づける。

「あなたの“間”は、ここで伸びるのね」

 セラが小声で言った。アイリスは頷いた。「あなたの“跳ね”は、ここで跳ねる」

 跳ねる、という言葉に、セラはほんの少し笑った。その笑いは、観客席に向けた笑いとは違って、小さく内部に閉じる。内部に閉じる笑いは、翌朝の声に効く。

 同席台の端で、廉は「閲覧室限定」の印を押す新しい紙を用意していた。印には薄い青の魔素が染みている。押した紙は、持ち上げるとほんの少し重い。重い紙は、持ち出されにくい。紙に重さを持たせるのは、紙に守ってもらうためではない。紙が人を守るときの抵抗を、少しだけ減らすためだ。

 夕方、マルタは帳簿を閉じて言った。

「——三日。事故なし。“借り屋”の持ち出し数、ゼロ。苦情、二件。“同席台の予約、埋まり過ぎ”と“砂時計の音が気になる”。砂時計は音を小さくする。予約は、時間帯を少しずらして枠を増やす。——続けよう」

 続ける、という言葉は、大袈裟な祝辞のかわりに置ける。祝辞はすぐ乾く。続けるは、毎日湿る。

 館の外に出ると、夕暮れが校舎の壁にゆっくり降りていた。壁に降りる色は、夜に向かう前の、いちばんやわらかい温度をしている。階段の踊り場に、黒い影がひとつ立っていた。影は、待っている人の影だ。待っている人の影は、いちど踏まれると長く残る。

「お疲れ、“怪童”」

 エドガーだった。彼は新聞の言葉をあえて口にして、それを軽く笑うことで、こちらの自意識も同時に笑わせる。笑わせながら、腹を観察する。観察されるのは、少し寒い。

「何か用ですか」

「贈り物だよ」

 彼は一枚のメモ片を差し出した。薄い紙に、太い赤のインクで、たった四文字。〈不利益条項〉。赤は、血を使わなくても血の匂いを持ってくる。

「“条文は、抜け穴があって初めて生きる”。その言葉、前に聞いたろう? 抜け穴を“悪”と呼ぶのは、正しい。ときどき。しかし、条文が本当に生きるのは、“誰かの不利益”が見えてからだ。正義の速度に、遅刻している人たち。見える?」

「見えるようにします」

「見えたとき、君の“かわいげ”は減る。かわいげのない正しさは、支持を失う。支持を失ってもなお、歩けるか」

 エドガーは、軽くメモ片をひらひらさせて手を離した。紙は空気に浮かび、階段の段差で姿勢を崩し、廉の足元に落ちた。拾うと、赤のインクはまだ少しだけ濡れていた。濡れている赤は、乾く赤よりも静かだ。

「君は、敵を増やした。今日は“借り屋”。明日は……そうだな、“完璧”を愛する舞台人かもしれない。次は“気の利いた読み手”。誰もが、君の条文のどこかで不利益を食う。——“不利益条項”は、君のほうに必要だ」

「僕に?」

「“この条文によって不利益を被る可能性のある者”を、条文の中で“見える化”する。名指しでなくていい。影を名前にするだけでいい。影に名前がつくと、影は光を選べる」

 エドガーは肩をすくめ、踊り場の影に溶けた。溶けるという言葉がぴったりだと思った。彼は誰かの主義に溶けるのではない。影に溶ける。影に溶ける人は、光の使い方を知っている。

 廉はポケットにメモ片を入れ、図書館の扉に掲げられた額を見上げた。〈一人三冊まで〉。太字はいつも、目に入りやすい。目に入りやすいものは、見たことにしてしまいやすい。見たことにしてしまうと、見なくなる。見続けるために、太字の下に、小さな字で一行を加える必要がある。

 その夜、寮の机で、廉は条文の末尾に新しい欄を作った。〈不利益の見取り図〉。箇条書きに、今日の“影”を並べていく。

・速く読みたい人(負担:同席で速度を落とす苛立ち)
・遅く読みたい人(負担:予約の短さ/圧)
・代表者の負担(負担:委譲簿/管理の手間)
・司書の負担(負担:判定の重さ)
・“借り屋”になる誘惑(負担:金銭の小さな匂い/貧しさ)
・舞台の人(負担:完璧の速度と公平の速度の衝突)

 書いて、眺める。眺める時間は、どんな“かわいげ”よりも長く効く。かわいげは朝に役立ち、見取り図は夜に役立つ。夜に役立つものは、たいてい、朝のためにある。

 ペン先を置くと、外から軽い足音がした。廊下の灯りが薄く揺れ、誰かが扉の前を通り過ぎる。足音は、紙の上で“副作用”という言葉の横に小さく書かれた糸のようなものを、わずかに引いた。引かれた糸は、明日の朝、もう一本の糸と結ばれて結び目になる。結び目は、ほどけるためにある。ほどけるために、まず結ぶ。

 窓を開けると、夜風が紙の端をめくった。紙の白い面積が増えると、心が少し静かになる。静かになった心に、アイリスの声が浮かぶ。「正しさに祈りを」。マルタの声が混ざる。「三日見てから」。ナハトの声が遠くで響く。「紙は生き物」。セラの声が、その下で微かに笑う。「正しさって、いつも私たちを急かすの」。エドガーの声が最後に残る。「不利益条項」。

 廉は小さく頷いた。声は、紙の上では全部、一行になる。行は、並ぶためにある。並べてから、選ぶ。選んでから、また並べる。

 灯りを落とす前に、廉は短い前文を書き足した。祈りと呼ぶにはおこがましいが、祈りの練習にはなる。

〈この規則は、速さだけを褒めないためにある。遅さを“怠け”の名で裁かないためにある。読むことを、独占ではなく共同の呼吸にするためにある〉

 机の木目が、薄い川のように見えた。川は流れていく。流れていくから、同じ場所に戻らない。戻らないことに、悲しみは少し混ざる。混ざった悲しみは、翌朝、紙の上で静かに乾く。乾いたところから、また書ける。

 薄く夜が動き、窓の外の木々の影が頬に揺れた。眠りの手前、廉は目を閉じながら思う。公平という言葉は、切り分けるための刃と、寄り添うための布を同時に求める。布は、誰かが毎晩洗って干して畳む。刃は、誰かが毎朝研いで鞘に収める。どちらかだけをやる人は、どちらかだけが上手くなる。両方をやろうとする人は、いつも少しだけ下手だ。その下手さが、世界をすこしだけ優しくする。――そんな気がして、わずかに笑った。

 笑いは、紙には書けない。書けないものは、明日、誰かの声で補われる。声は、きっと図書館の朝の音に混ざっている。革装の軋み、砂時計の細い音、ページをめくる指の爪の小さな擦過。すべてが薄く、しかし確かで、同じ場所にとどまらない。とどまらないから、また通り過ぎる。通り過ぎるから、また会える。

 眠りに落ちる直前、廉は思った。——太字を疑い続けるために、自分はここにいる。太字の下に、小さな字を増やすために。小さな字が増えるほど、人は自分の速度を選べる。選べる人が増えるほど、敵も増える。敵を恐れず、敵の向こうの守りたいものを忘れない。それが、自分の条文の唯一の“かわいげ”だ。かわいげが減っても残るものだけを、書く。

 窓の外で、夜の端がほどけていく。ほどけた端が、朝の最初の糸になる。糸の端を握る手が増える。増えた手の数だけ、今日、図書館の扉が開く。扉が開く音は、いつだって少しだけ寂しい。その寂しさが、静かに好きだった。

第4話 部費の配分——人気から成果へ

 昼の鐘は、胃袋を呼ぶだけじゃない。王立学院では、鐘の余韻が壁の中に吸い込まれると、どこからともなく「予算」という言葉の匂いが立ちのぼる。文化祭を一か月後に控え、生徒会の掲示板には各部活動の企画書が貼り出され、糊の甘い匂いとインクの鋭さが廊下の空気を混ぜ合わせていた。手の届くところにある金額と、まだ紙の上にしかない未来が、同じ針で留められている。

 会議室の長机には、部長たちの視線が並んでいた。視線はいつも、数字の列より先に疲れる。疲れを先に感じるのは、人のほうだ。数字はいつだって、後から疲れに追いついてくる。

「例年どおり、人気投票を配分の基準とします」

 生徒会長の声はよく通る。通る声は、よく届くが、届き過ぎることもある。壁に跳ね返って、言った本人に戻ってくるとき、言葉は自分の匂いに気づく。

 廉は、その匂いを嗅ぎ分ける訓練をしてきた。人気投票は簡単で、わかりやすく、そして、わかりやすさの背中に穴があいている。拡散の速度と、後ろに並ぶ人の数で、結果は簡単に覆る。舞台の照明は、暗闇の広さを測らない。明るい場所を強くするだけだ。

「異議あり」

 廉が手を挙げると、椅子の足が一斉に軋んだ。軋みの合唱は、会議の呼吸を一瞬止める。

「“結果連動型”に切り替えたい。配分の仮払いは必要経費の範囲で最小に抑え、本配分を事後の達成指標に連動させる。来場数、満足度、安全の達成。最初に甘さを与えない」

 紙を広げる。前夜、インクが乾くのを待っていた紙だ。薄い字の上に、さらに薄い鉛筆の補助線が残っている。補助線は、書いた本人にしか見えない。

『【文化祭配分契約(案)】
 一、仮払いは「契約担保」内(根拠資料の提出を要件)
 二、本配分は「達成度」に比例して行う(主要指標:来場数、満足度、安全達成)
 三、来場数は出入口の刻印計測、満足度は無記名二段階評価+自由記述、安全達成は事故ゼロ+準事故の報告件数で評価
 四、評価プロセスは公開。不服申立ては翌週の公開審査へ
 五、支援係を設置し、手続きの伴走を提供する(弱い団体の息切れを防ぐ)』

 「達成度」という言葉に、椅子がふたつ、わずかに後ろへ引かれた。引きの音には、疑いが混ざる。疑いは、怖さの別名だ。演劇部の机のほうから、きらりと視線が跳ねる。セラが、とがった爪で机の縁を軽く押している。押す指は綺麗でも、押される木は痛い。

「満足度なんて、捏造し放題じゃない?」と吹奏楽部の一年が言う。彼女の言葉は周囲の空気より半歩早い。早さは悪意ではない。ただ、早いだけで人は切れてしまうことがある。

「自由記述は公開する。短い物語を証拠にする。数字だけだと、うそがつける。物語だけでも、うそがつける。両方を並べれば、うそは少しだけ恥ずかしがる」

 会議室の空気が、言葉の端をなぞった。恥ずかしがる、という言い方は、怒りより効くときがある。怒りは燃やせば煙が出るが、恥ずかしさは静かに体温を落とす。

 生徒会長は顎を上げた。「根拠は?」

「門限の例外のときに使った“試行条項”を適用する。まず三日間、文化祭の試運用。測り方を測る。数の取り方を公開。停止条件も入れる。混乱が一定値を超えたら、即時修正」

「三日で準備できるの?」

 背後で誰かが笑い、小さな舌打ちが続く。廉はその音の方角を見ない。声に顔を与えない。

「できるように、支援係を置く。書記局とボランティア。テンプレートの配布。弱い団体の“遅さ”を怠けと呼ばないように」

 机の端で、ナハトが静かに手を挙げた。静かな手は手品の前振りみたいに期待を呼ばない。呼ばないから、逆に場が寄る。

「支援係の申請テンプレは僕が作る。混雑予測の粗いモデルも。来場の刻印は入場口に三基。停電時の代替も用意しておく」

 「安全」の語が出ると、会議の陰がわずかに深くなる。陰に目が慣れるのに、いつも少し時間がかかる。

 その陰に、もう一枚の影が紛れ込んでいた。エドガー。生徒会役員でもないのに背もたれに肘をかけ、黒目が会議室の温度を計っている。

「——演劇部の舞台、安全管理条項を見直したほうがいいな」

 彼は何でもなさそうに言って、紙束から一枚を抜いた。「火気使用の禁止、舞台上の段差が四センチを超えるときは注意喚起……と列挙してある。悪くはない。が、“注意喚起の方法”を“音声・光・掲示の全て”に限定しているのは、いささか厳格に過ぎる。演劇部のみこの条文を満たすために追加コストが必要だ。他部は該当箇所がそもそもないから、配分の際に不利になる」

 紙に書かれた条文の行間が、ひやりと冷えた。冷えると、指が滑らなくなる。滑らない指は、つい強く押してしまう。押された紙は、余白で歪む。

 廉は受け取った条文を読む。確かに、「注意喚起の方法」の項目は、演劇部の安全配慮を満たす以上の負担を課している。しかも、その「厳格さ」は一般条項ではなく、舞台使用団体に限って発動するよう仕込まれている——“一般性”違反だ。条文が、生徒の顔を持ってしまっている。

「——一般性に反する。特定の団体のみに事実上の負担が集中する設計は無効。**『安全配慮の合理的範囲』**を明確にし、代替の許容を入れるべきだ。音声・光・掲示のいずれか、実地テストで効果のあるものを採用、と」

 会議机の一角で、セラが息をひとつ吐いた。吐息にも種類がある。今のは、濁った水面を手のひらで触って温度を確かめたときの息だ。

「正しさって、いつも私たちを急かすのよ」

 彼女の声は低く、ステージの袖から客席の中央にだけ届く音量で発せられた。廉はその音量の設定に見覚えがあった。人を傷つけないためではなく、当たるべき人にだけ当てる音の選び方。

「“安全管理のテストをして”“達成度に応じて”——舞台は、その言葉より、もっと細い線の上に立ってる。私たちは、ひとつの段差で、誰かの一日の命綱を取り上げることがある。だから、厳格でいたいの。厳格でいたいときに、“柔らかくていいよ”って言われるのは、間に合わないって、責められている気がするの」

 会議室の空気が、少し熱を帯びる。熱は、正論の表面を少しだけ曲げる。曲がると、正論は人の肩に乗りやすくなる。

「セラ——」

 アイリスが名前を呼んだ。呼び方は優しく、甘くはない。甘い声はときどき、責任感の薄さを隠す。優しさは薄さのかわりに、深さを求める。

「厳格であるほうが、あなたの剣はよく切れる。ただ、鞘がいるの。舞台の外に出たとき、剣先で誰かの頬を傷つけないための」

「鞘?」

「支援係のこと。手続きの段取り。段差の可視化のテンプレ。厳格さを生かす道具。——剣だけを磨くと、周りが血だらけになるわ」

 セラは笑った。笑いの線は細く、刃ではなかった。彼女の目の端に、間に合わなかった夜が沈んでいるのを、廉は見た。我慢強い人の中でだけ長生きする種類の夜だ。

「——配分契約案を、採決にかけます」

 生徒会長の声に合わせて、手が上がる。支持の手は速く、懸念の手は遅い。遅い手を見えるところへ長く置く。その時間を作るのが議長の仕事だということを、会長自身はまだ知らない。票は過半数で通った。

 通った瞬間、反発が会議室の隅で芽吹く。芽は見えない。見える頃には、すでに根が伸びている。廉はその気配を、靴の裏で感じた。

     *

 配分契約の「試行」は、二週間にわたって行われた。ナハトと支援係は、テンプレの改良に追われる。来場刻印は入場口に三基設置され、風向きで列の滞留が変わることが分かった。風は行列の気持ちを運ぶ。運ばれた気持ちが入口で詰まらないように、看板の位置が五十センチずつ動かされた。五十センチで世界は変わる。大きな正義は、五十センチの単位を忘れがちだ。

 満足度は二段階。「良い」「どちらとも言えない」。二色の札は、掲示台に次々と刺さっていく。自由記述の紙には、短い物語が積み上がった。『雨でびしょぬれになったとき、演劇部の子がタオルをくれた』『スープがぬるかったけど、笑顔は熱かった』『怖くなりそうな暗転の前に、音が先に手を差し伸べてくれた』。紙の上の物語は、誰のものでもない声で読み返された。

 安全達成は、事故ゼロ、準事故の報告件数で評価。準事故の報告をした団体に、減点ではなく加点がつく設計にした。隠すより、出すほうが誇りになる世界。誇りを設計するのは難しい。けれど、一度でも“出して褒められる”経験を人が持てば、次は少し、早く出せる。

 だが、正論疲れは確実に増えていった。支援係の机に、押印を求める列ができる。列の最後尾で、疲れた顔の生徒が小さくため息をつく。ため息は悪ではない。呼吸の形のひとつだ。ただ、その音が同時に十回重なると、誰かの心は薄く欠ける。

「申請が多すぎる」

「紙が重いのは、剣が重いのと同じです。持ち方を工夫しましょう」

 廉は笑って言うが、その笑いは夜になると少し硬くなる。硬い笑いは、自分の喉で刺さる。

 ある夕方、演劇部の稽古場に、事故報告が上がった。舞台袖の段差で一年生が足を取られ、膝を打った。準事故だ。報告書には、セラの筆跡でこう記されている。〈暗転直前の注意喚起は音のみ。光の一閃を試したが、雰囲気を壊すとの判断で不採用〉

 エドガーが、報告書のコピーに目を落とし、口角を少しだけ上げた。「雰囲気。便利な言葉だな」

 廉は彼の顔を見ない。報告書の下に、支援係の添え書きを滑り込ませた。〈光の一閃は観客への“救い”にもなりうる。救いの光は演出。雰囲気は“壊れる”のではなく“変わる”。それでも、変えられない夜はある。その夜のために、段差の白線を太くする〉

 稽古のあと、薄暗い廊下でセラが待っていた。彼女の目には、決断で削れた小さな切り傷がいくつも見えた。舞台の人の目は、鏡の中でしか休まらない。

「あなたの条文は、正しい。正しいけど、急かす。私たちの“間に合わない”を、罪の言葉で囲う。——あなたは私たちの側にいるの?」

 廉は答えられなかった。側、という言葉は、線で出来ている。線のこちら側に立てば、あちら側は必ず、暗くなる。暗い場所に立つ人を、見失う。

「……僕は、“続ける側”にいる。正しいより、続けたい。だから、そのための条文を書いてる」

「続けるために、誰かを切ることも、ある」

 セラは静かに言って、階段を降りた。降りる足音は、一段ごとに別れの言葉を置いていくみたいに整っていた。

     *

 文化祭の初日、空は薄曇りで、旗は風の向きを迷っていた。刻印の光は、来場者の足首で静かに灯った。来場数は午前だけで昨年を上回り、満足度の札は早々に補充が必要になった。支援係のテントの裏で、ナハトが砂糖の入っていない紅茶を一気に飲む。甘さは疲れを偽装する。砂糖のない紅茶は、疲れをそのまま喉に通す。

 午後、事故が起きた。屋外ステージの天幕のロープが、突風で煽られて緩み、客席の縁の椅子に引っかかった。椅子は倒れ、空気が短く悲鳴をあげる。怪我人は出なかった。出なかったが、出なかったという結果は、「たまたま」の上に立っている。たまたまは、条文では救えない。

 支援係は準事故として即時報告。「加点」がつく。演劇部の稽古場には、その夜、救いの光が小さく試された。観客役の一年は言った。「いまの方が、怖くない」。セラは黙って、その一年の肩に手を置いた。置いた手は、震えていなかった。

 文化祭二日目の夕暮れ、満足度の自由記述箱に、短い紙が入っていた。『演劇部の暗転前の光、ありがとう。泣かないで済んだ』。字は幼く、たぶん一般の子どものものだ。廉は紙を撫で、指の温度を落とした。紙は人より長く、温度を覚えている。

 最終日の朝、配分の速報が掲示された。来場数、満足度、安全達成——三つの曲線が、各部の横に細い色で並ぶ。色は順位ではない。輪郭だ。輪郭が見えれば、人は自分の形を好き嫌いできる。

 演劇部の曲線は、来場数は中位、満足度は高く、安全達成も加点で上に滑った。セラは掲示板の前で立ち尽くした。立ち尽くす姿勢は、似合う人と似合わない人がいる。彼女には似合った。似合うというのは、悲しみに礼をしていることだ。

「ほら」

 アイリスが、彼女の横に立った。二人の肩が触れた。

「鞘、役に立つでしょう」

 セラは頷き、唇の端で笑った。「剣もちゃんと、磨く」

 そのとき、掲示板の下から、小さな声がした。『おねえちゃん、暗くなるまえのきらっと、すきだった』。紙を貼った支援係の一年が、読んで聞かせてくれていた。セラはその子の髪を撫で、舞台袖でしか見せない種類の微笑を落とした。

     *

 配分会議は、文化祭の終幕から二日後に開かれた。部屋の空気は、旗の色を遠くに置いてきた大人の会議の匂いがした。結果連動の数値が、机に並ぶ。廉は、紙の上にだけ現れる公平が、心の上でこぼれないように、言葉の縁に指を添えた。

「——配分額の提案です」

 各部の担当に、数字が読み上げられる。演劇部は前年より増額。吹奏楽部はやや減額。体操部は安全加点の効果で維持。料理研究会は来場数が伸びた分が乗る。

 読み上げの間、ざわはない。ざわの代わりに、沈黙が小さく増える。沈黙はときどき、信頼のために置かれる。たいていは、疲れのために置かれる。

「異議あり」

 ひとつの声が、沈黙の上に刃の背を置いた。エドガーだ。彼は一枚の紙を掲げる。舞台安全管理条項の“改定案”。そこには、廉が会議で提案した修正が反映されている——ように見えるが、末尾に小さな文言が足されていた。『なお、演出上の都合により安全配慮が難しい場合、当該団体の責任において代替措置を講じるものとする』

 廉は即座に嗅ぎ取る。責任の座標が、“団体側”にだけ固定される。安全は、共有されるべき重さだ。共有の重さは、軽くない。軽くないから、皆が少しずつ持つ。

「——**“当該団体の責任において”は外す。安全の“合理的範囲”**を審査する場所は、公開の場だ。舞台だけに被せる重さではない」

 エドガーは笑い、肩をすくめる。「一般性、ね。君の好きな言葉だ。……じゃあ、一般性を君なりに守ってみせろ」

 会議室の空気が固い瓢箪の形に歪む。廉は深く息を吸う。吸う息を、祈りに変える。祈りは、条文の前に置く小さな前文だ。言葉の刃に鞘を与える。

「前文を置きます。『この規則は、安全の責を一人に負わせないためにある。人を守るために、共有するためにある』。——ここから、条文」

 読み上げる声は、落ち着いていた。落ち着きは、震えの奥でつくられる。震えがない落ち着きは、ときどき信頼できない。

『【舞台安全配慮条項(改)】
 一、安全配慮の合理的範囲は、実地テストによる効果で判断する(音・光・掲示のいずれかで可)
 二、代替措置の可否は、団体・支援係・安全顧問の三者で合議する
 三、準事故の速やかな報告は、加点の対象とする
 四、過度の負担が一団体に偏らないよう、「作業割当」を公開する
 五、違反時の責は、“構造”と“人”に分けて評価する(構造の不備は制度側で改善、人の違反は教育で改善)』

 読み上げる間に、セラの肩の力が少し抜けた。抜けた力は床に落ち、床は受け止める。それが床の仕事だ。

 採決。可決。会議室の空気に、疲れのあとだけが残った。あとが残るのは、良いことだ。すべてが綺麗に消えるとき、人は何も学ばない。

 会議後、廊下の角で、セラが廉の袖をつまんだ。つまむ指は、舞台上の細い糸を扱う指だ。

「ありがとう。……でも、疲れる。あなたの正しさは」

「僕も、疲れます」

 正直に言うと、セラは少し笑った。笑いは刃ではない。包帯の役割を果たす笑いだ。彼女は少し顔を伏せて、囁くように続けた。

「ねえ、廉。恋愛契約のテンプレ、見た? エドガーが、拡散してる」

 廉は瞬きした。視界の端に赤い紙が浮かぶ。“恋愛同意契約”。破れば違約魔術。楽しい冗談のふりをして、指先に小さな刃を仕込んだ契約。本気で使えば、血が出る。

「舞台より早く、日常が割れるわ」

 セラの言葉は、薄いガラスの上に置かれた小石みたいに、静かに振動を広げた。ガラスは割れていない。けれど、割れないうちに手を置く必要がある。

     *

 その夜、寮の屋上は、いつもより風が高かった。高い風は、言葉を遠くへ運ぶ。遠くへ運ばれた言葉は、帰ってこない。帰ってこない言葉を追いかけるのは、たいてい愚かだ。でも、追わないと、眠れない夜もある。

 廉は腰をおろし、膝の上にノートを置いた。今日つけた傷の数を、指で数える。文字の隙間から、息が出入りする。息を数えるのは、祈りの練習だ。

〈副作用の記録と翌日の再契約検討〉

 いつもの一行の下に、今日はさらに一行、細い字で書き足す。

〈正論疲れのケア:支援係に休憩の規定、相談枠の匿名化〉

 屋上の扉がきしみ、小さな足音が近づく。アイリスだと思った。だが、違った。ナハトだった。彼はマグカップを二つ持っている。湯気は透明な糸で、夜の輪郭に小さな穴を開けていた。

「飲む?」

「なに」

「砂糖のない、あたたかいもの」

 廉は受け取り、口に含む。熱だけが舌に残る。味のない熱は、言葉の前に置く沈黙に似ている。

「恋愛契約、見た?」

「見た。エドガーの筆。形式は完璧。だから、危ない」

「どうする」

「明日、前文から置く。『この契約は、沈黙と圧力の場所で使わないためにある』。そして、**“静穏時間条項”**を作る」

「舞台のときの“光”みたいに?」

「そう。無音の窓を、恋にも置く」

 ナハトは頷いた。彼の頷きは、音を立てない。音のない頷きは、心臓の拍に重なる。

「——廉」

「なに」

「かわいげ、減ってるよ」

 廉は笑った。笑いは、相手の正しさを受け入れるときに出る。正しさは、受け入れられて初めて人を温める。

「かわいげが減っても残るものだけ、書く」

「それ、ちょっと、かっこつけ」

「うん。かっこつけないと、崩れる夜がある」

 ナハトは肩をすくめ、屋上の縁に腰を乗せた。二人の間に、夜の匂いが流れる。夜は、紙と違って、書き直せない。書き直せないものと向き合う練習が、日中の条文には含まれている。

 風が強くなり、ノートの頁がめくれた。白い面が増えた。増えた白に、廉はペン先を置く。書く速度は、心拍に合わせる。心拍は、夜の音楽だ。夜の音楽は、祈りのリズムに近い。

〈前文:この規則は、人を守るためにある。奪う前に、包む〉

 書き終える前に、遠くから笑い声が上がった。誰かの、まだ何も知らない笑い。何も知らない笑いは、守りたくなる。守りたい、という気持ちが、線を引かせる。線は刃にも橋にもなる。明日は、刃のほうが必要だ。明後日は、橋のほうが必要になる。

 廉はペンを置き、夜の端に小さく息を吐いた。吐いた息は、祈りと約束の中間くらいの温度だった。

 ——次は、恋だ。舞台の外で、もっと簡単に血が出る。だからこそ、無音の窓を先に作る。言葉が刃になる前に、鞘を間に合わせる。

 風が一段強く吹き、ページの角が音を立てた。音は短く、切なかった。切なさは、ときどき、続ける力になる。続けるために、明日の朝、また細い線を一本引く。人が渡れる幅に。自分が折れない細さで。

第4話 部費の配分――人気から成果へ

 昼の鐘は、胃袋だけじゃなく、帳簿も呼び起こす。王立学院の南棟にある生徒会室の廊下は、文化祭前のこの季節になると、糊とインク、それから緊張の匂いが混ざり合って、少し甘く、少し鉄っぽい空気になる。掲示板には各部の企画書が目一杯貼られ、角が反り返った紙の影が床に格子模様を落としている。そこに立ち止まって読む生徒の靴音は、たいてい急いていて、読まれずに通り過ぎる紙ほど、端の画鋲が抜けやすい。

 「例年通り、人気投票で配分の基準を定めます」

 会議室の長机の中心、透明な水を思わせる声が空気に線を引く。生徒会長の声はよく通るが、通り過ぎるときに紙の角を一枚ずつめくっていく厄介さがある。よく通る言葉は、広く届く代わりに、細部を置いていきがちだ。壁に立てかけられたホワイトボードには、昨年の配分表が色分けされた棒グラフで描かれている。上位を占めるのは、拡散のうまい団体――華やかなパフォーマンスを動画に仕立てて詰め込むSNS班、衣装の映えが抜群のコスプレ研究会、甘い匂いで人を釘付けにする菓子研。安全対策や地味な研究展示の棒は短い。短い棒は、棒である前に影だ。影は目に入りにくい。

 廉はメモの角を親指で撫でた。指の腹に紙の繊維がざらりと触れる。ざらつきは、決める前の合図だ。

「異議あり」

 椅子の脚が軋み、何人かがわずかに身を引いた。引く動作は否定じゃない。人は空間を空けることで話を聞く準備をすることがある。廉は前に紙を滑らせた。昨夜、砂時計の音を聞きながら書いた文案。字は、眠気に勝つために少し硬くなっている。

「結果連動型に切り替えたい。仮払いは必要経費の範囲に限り、本配分は事後の達成指標に比例させる。来場数、満足度、事故ゼロ――三本柱。先払いの甘さを抑え、努力の軌跡がそのまま配分に乗る設計です」

 生徒会室の端に掛け時計がある。静かな秒針が、誰かの喉の奥のため息と同じ速さで進む。人気投票は公平に見えて、実は拡散力のある団体に風が吹く。風に乗るのが上手い者は、誰かの足元の砂をも一緒に運んでいく。砂を失った足元は崩れやすい。崩れた責任を負うのは、たいてい目立たない人間だ。

「根拠は?」と会長。眉は動かさない。

「“門限の例外”で使った試行条項を流用します。まず三日、測り方を測る。停止条件付きの試行。来場数は刻印計測、満足度は二段階の札+自由記述、安全は事故ゼロ+準事故の自主報告。報告には減点ではなく加点。隠すより出すほうが利得になる世界を作る」

 「準事故に加点?」と誰かが小さく笑った。笑いはすぐに咳払いに変わる。笑いが咳に変わるとき、会議はやっと呼吸を取り戻す。

「出させないと、次の事故が大きくなる。見える失敗の価値を条文化しておく。……それと」

 廉は紙をめくった。最も大事な追記を、いきなり出すよりも半歩遅らせたかった。

「支援係の設置。手続きに強くない団体へ伴走する係。書記局とボランティアで回す。テンプレの配布、申請の代書、測定方法の説明。ルールは刃だ。鞘がいる」

 その言葉に反応したのは、端の席で静かに控えていたアイリスだった。白い外套の袖口にインクの点がある。午前中、誰かの書類を書いていたのだろう。彼女は目でだけ「いい」と言った。声にしない賛同は、紙に近い。

 反対したのは、軽い口調で切り返しの早い、SNS班の代表だった。「達成度って、結局、盛ればよくないですか? 満足度も、札の配り方次第では?」

「だから自由記述を併置する。物語を証拠にする。数字と物語を並べれば、盛る側は恥ずかしさを覚える。恥ずかしさは静かに効く。怒りより長く」

 書記のナハトが手を挙げる。いつもの落ち着いた手だ。「刻印は三基設置、風向きで列が崩れるので案内板の位置を五十センチ刻みで再配置できるよう可動式に。満足度札は二色だけ、“良い”と“どちらでもない”。“悪い”は自由記述に誘導。短い声を集めたい」

 「短い声」という言い方に、何人かの目が動いた。短いものほど拾われにくい。拾われにくいものを拾う仕組みは、あらかじめ用意しておかないと、誰も拾わない。

「採決にかけます」

 会長が言い、手が上がる。賛成の手が過半に届くまでの時間は、思っていたより短かった。短すぎると不安が残る。だが、今は進めるしかない。反対の手を覚えておく。覚えることも、条文の一部だ。

 配分契約案が通った直後、厚みのある紙束が机に滑り込んだ。エドガーだ。彼は会議室の端で、まるで天気を測るみたいに場の温度を測っていた。差し出された紙束は、舞台安全契約の改定案。表紙は穏やかだが、中身は静かに鋭い。

「安全管理を強化。火気使用の禁止、段差四センチ超の場合の注意喚起……まあ、常識的だ。だが、注意喚起の方法を“音声・光・掲示”の全てに限定し、実施の証跡化を義務付ける、とある。舞台使用団体にのみ発動する条が幾つか。一般性に反しているね」

 廉は紙を引き寄せ、目を走らせた。確かに、演劇部だけが重くなるように設計されている。安全の名を借りた選別。安全は共有の責任だ。共有の責任を、特定の団体だけに乗せるのは、不正義だ。

「無効です。一般性原則に違反している。『安全配慮の合理的範囲』を明記し、代替の許容を入れるべきです。音でも光でも掲示でも、実地テストで効果が確認できれば可。証跡は合議制の支援係・安全顧問・団体で確認。――演劇部だけに重さを被せない」

 エドガーは眉をわずかに上げただけだった。「君の好きな言葉だ。一般性。だが一般性は時に凡庸と呼ばれる。現場は凡庸で死ぬ」

 演劇部の席から、セラが立ち上がった。細い指で紙の端を揃え、視線をホワイトボードの棒グラフに移す。彼女の横顔には、稽古で削れた静かな疲れが宿っている。

「正しいほど、舞台は遅れる」

 冷たい声だった。氷ではなく、深い井戸の水の冷たさ。底まで澄んでいるのに、光は届かない。

「わたしたちは一秒の“間”を作るために、何時間も段取りを積む。そこで“安全の証跡”と“達成度の証跡”が入ってくる。証跡は必要。否定しない。だけど、紙のための時間が増える。紙が舞台に上がる。紙は観客を見ない。間が削れる」

 言葉は机を滑って、何人かの胸の前で止まった。止まった言葉の重さに、それぞれの胸が反応する。重くなる者もいれば、軽くなる者もいる。廉は、軽くなるほうの胸を選びたくなる性質だ。だが、軽さはときに無神経につながる。

 セラは紙を抱えて、仲間を連れて出て行った。扉が閉まる音は静かだった。静かな退出ほど、会議は羞恥を感じる。

 会議は続く。続けなければならない。けれど、正論の汗が机に落ちて、紙は少し重くなった。重くなる紙は、持ち上げたときに指の跡が残る。跡は、夜のノートに移される。

 会議後、廊下の角でアイリスが廉の袖を引いた。引く力は優しいが、決して弱くはない。優しい手は、離れるときのことを先に考えている。

「あなたの剣は美しい。でも、鞘が必要」

 廉は頷いた。頷く前から、彼女がそう言うだろうと分かっていた。剣は正しさの形で、鞘は配慮の形だ。鞘は、誰かの頬を切らないためにある。剣だけを磨く者は、気づかないうちに足元を血で濡らす。

「支援係を条文に入れる。手続きの伴走。弱い団体の息切れを止めるための人の仕組み」

「人の仕組みは、紙より壊れやすい。だから、人の仕組みを支える小さな祈りを入れて」

「祈り?」

「前文。『奪う前に、包む』。あなたがよく書くあれ。あれをみんなで読む時間を短くでいいから置いて」

 祈りは、条文の前に置く布。布に刃を一度触れさせてから抜くと、刃は自分の鋭さを知る。自分の鋭さを知った刃は、少しだけ丁寧になる。廉は頷き、会議室に戻って条文の末尾に支援係を追記した。ナハトがすぐに反応する。

「支援係は書記局の枠を三つ使っていい? ボランティア募集の文面、僕が出す。『手続きに強い人も弱い人も歓迎。遅い手に寄り添うのが仕事』」

 遅い手、とナハトが言ったとき、廉は救われた気がした。遅いことを恥じないようにする言葉は、どの街にも足りない。足りないものを言葉で先に置けるなら、置くべきだ。

 その夜、廉は寮の机に向かった。砂時計をひっくり返す。落ちる砂の音が、紙の上の黒を静かに冷ます。ノートの見出しに細い字で書く。

〈条文の美しさは、運用の優しさで完成する〉

 文の端に小さな点を打った。点は涙の代わりじゃない。点は、次に書くための起点だ。隣の頁に今日の副作用を書き出す。正論疲れ、書類の列、証跡化の負担、支援係の燃え尽き。燃え尽きは紙に映らない。紙に映らないものほど、先に書いておく。

     *

 試行の一週目、支援係のテントは開いてすぐに行列ができた。ナハトが用意したテンプレは、驚くほど短い。「目的」「必要経費」「代替案」「測定方法」「安全配慮」――各項目は一行。空白が大きい。空白は、呼吸のためにある。呼吸ができると、書きたい言葉が出てくる。長い様式は、言葉を引っ込めさせる。

 来場刻印は三基。午前の風は北からで、旗が翻る角度によって列の滞留が変わる。支援係は可動式の看板を五十センチずつ移動し、列の「蛇腹」を解く。蛇腹は解ける。解けると、蛇ではなくなる。

 満足度札は早々に足りなくなり、支援係の一年が必死に切り抜いた厚紙を二色に染める。指先が染まる。染まった指を見た一般の来場者が笑い、札を受け取りやすくなる。誰かの労力が見えると、人は面倒を引き受けやすい。

 自由記述の箱には、小さな物語が積み上がった。『天幕の下で雨宿りをさせてもらった』『スープがぬるかったけど、手が温かかった』『音が怖くなる前に、光が先に来てくれて安心した』――字は不揃いで、誤字も多い。けれど、息が見える。息が見える紙は、数字より重い。

 安全は、準事故の報告が早かった団体に加点が入る仕組みが効いた。屋外ステージのロープが突風で緩んだ件は、演劇部と安全顧問と支援係の合議で、翌朝には結び直しの方法と「逃げるための旗」のルールが掲示された。逃げるための旗――合図は恥じゃない。逃げる練習を条文化しておけば、逃げるときの顔が救われる。

 ただ、疲れが溜まる。支援係の机の下に紙コップが増え、使い捨ての砂糖のスティックが空になっていく。甘さは疲れの仮面だ。仮面は長くは持たない。ナハトが砂糖のない温かい飲み物を配るようになった。味のない熱は、沈黙とよく馴染む。沈黙は、崩れる前の壁だ。

 演劇部は、救いの光をほんの一瞬だけ暗転前に差し込む案を採用した。舞台監督席の横で、セラが腕を組んで見守る。光は細く、観客がまばたきするかしないかの瞬間で消える。消える直前、客席のどこかで小さな息が吸われる音がした。吸われた息の分だけ、誰かが助かる。助かることは大事だ。雰囲気という言葉は、この瞬間にほんの少しだけ意味を変える。

 「雰囲気は“壊れる”んじゃなくて“変わる”」

 廉は報告書にそう書き添え、支援係用の「救いの光テンプレ」を作った。テンプレに救いと書くのは大げさだが、名前は人の手を動かす。名前をつけられたものは、動く。

 そして、正論疲れは確かに可視化された。会場の隅で座り込む部員、印鑑を押す列の最後尾で背中を丸める一年、支援係のテントの横で黙って空を見上げる誰か。空は、努力を評価しない。評価は、同じ地面の上でやるしかない。

 廉は支援係の休憩表を作った。四十五分ごとに五分の沈黙時間。沈黙時間には誰も相談に来られない、というサインを立てる。最初は「なんだ、それ」と笑われたが、二日目には、沈黙板の前で待つ列が静かに息を揃えるようになった。沈黙は奪うのではなく、返すためにある。

     *

 文化祭の最終日、速報の曲線が掲示された。棒グラフではない、三本の細い曲線――来場数、満足度、安全達成――が、各部の横に並ぶ。色は順位を示さない。輪郭を示す。輪郭が見えると、人は自分の形の好き嫌いを言える。言えると、次が作れる。

 演劇部の曲線は、来場数は中位、満足度は高位、安全達成は準事故の迅速な報告で上へ滑っていた。セラは掲示板の前で足を止め、ほんの少し肩の力を抜いた。その抜け方が綺麗だった。綺麗な抜き方は、疲れが礼儀正しく見える。

「ほら」

 アイリスが横に立った。二人の肩が軽く触れる。触れた肩から、救いの光の一閃みたいな温度が伝わる。

「鞘、役に立つでしょう」

 セラは笑った。「剣も磨く」

 そのとき、小さな手が掲示板の下から伸びた。自由記述の紙を貼っていた支援係の一年が、声に出して読んでいる。『演劇のおねえちゃん、くらくなるまえのきらっ、すきでした』――字は大きく、ひらがなが少し踊る。セラの目が少し潤んだ。潤みは泣きではない。潤みは、渇きの反対だ。

     *

 配分会議は文化祭の二日後に開かれた。数字が並ぶ。数字は気温に似ている。数字だけでは寒いのか暑いのか分からない。風の有無、湿度、日差し――それらは紙には書ききれない。だから、自由記述のいくつかを会議で読み上げることにした。読み上げの順番は、ナハトが抽選で決めた。抽選は、運を呼び水にする。

「演劇部、来場数は昨年比一〇四%、満足度札“良い”は七八%、準事故報告二件、対策掲示あり」

 廉の声に、セラが息を吸う。吸った息は、少しだけ重かった。それでも、まっすぐに座っている。

「料理研究会、来場数一二八%。自由記述『パイの端っこがおいしかった』多数」

 笑いが起きる。笑いは必要だ。笑いがない会議は、正しさが硬化する。硬化は欠けやすい。

 ただ、すべてが滑らかにいくわけではない。エドガーが紙を一枚掲げた。舞台安全の改定条文に、彼の側が追記した小さな一文。『なお、演出上の都合により安全配慮の実施が困難な場合、当該団体の責任において代替措置を講じるものとする』――言葉は丁寧だが、重さの座標がずれている。責任の重心が、団体側に落ちる。落ちた重心は、引き上げにくい。

 廉は即座に挙手した。

「その一文は外す。安全の責は“構造”と“人”に分けて評価すべきです。構造の不備は制度側で改善、人の違反は教育で改善。個別の団体だけに押し付けない」

 「一般性」と口に出さなくても、彼の言い分はそこへ戻る。エドガーは肩をすくめた。珍しく、反論を持ち出さない。ただ、「守ってみせろ」と目で言った。目の言葉は紙より刺さる。刺さった言葉は夜に疼く。

 採決は過半を超え、余計な一文は削られた。削られた行が空白になり、ナハトがそこに前文を提案する。『この規則は、安全の責を一人に負わせないためにある。人を守るために、共有するためにある』――読み上げられる前文は、紙の上の祈りだ。祈りは強制しない。けれど、椅子に座る者の膝に、一瞬の手を置く。

 会議の終盤、数字が配られる。演劇部は増額、吹奏楽はやや減額、体操部は安全加点で維持、研究展示は満足度の自由記述が効いて引き上げ。SNS班は来場数の割に満足度が伸びず、見直しの余地が示された。ナハトが、自由記述の一つを読み上げる。『写真はきれいだったけど、わたしの手は写らなかった』――短い文の最後に、静かな風が起きる。

 配分が確定すると、安堵と疲労が一緒に落ちた。落ちる音はしない。しないけれど、床が受け止める。床は、重さを吸う。

 会議が散じ、廊下に出たとき、セラが壁にもたれて廉を待っていた。照明の下で、彼女の影はほそく伸び、踵のところで少し揺れている。

「ありがとう。……でも、疲れるわ。あなたの正しさは」

「僕も、疲れる」

 正直に言うと、彼女は笑った。笑いは包帯だ。固く巻けば血が止まり、緩く巻けば温度を保つ。包帯の巻き方は練習がいる。

「ねえ、廉。恋愛契約、見た?」

 エドガーが拡散し始めたという、噂。冗談の皮を被った小さな刃。違約魔術がアトラクションのように消費され始めれば、血はすぐ出る。舞台より早く、日常が割れる。

「見た。明日、静穏時間条項を作る。合意のための“無音の窓”。圧力のないところでしか、同意は生きない」

「舞台の光みたいに?」

「そう。光は救う。無音も救う。救う前に、名を与えておく」

 セラは頷き、廊下の端を見た。そこには、掲示板に新しく貼られた赤い紙が踊っている。『恋愛同意契約テンプレ』――赤は目に入る。入るからこそ、先に鞘を用意する必要がある。

 セラは踵を返し、稽古場へ戻っていった。その背中は、舞台へ向かうときの背中ではなく、誰かのために台所へ向かう背中に似ていた。舞台も台所も、火を使う。火と向き合うとき、人は静かになる。

     *

 夜、屋上に出ると、風は高かった。高い風は音を持たない。音のない風は、考え事に向いている。廉はノートを膝に置き、砂時計をひっくり返した。砂の音は薄い雨のようで、紙の繊維に水を入れ替える。

 〈副作用の記録と翌日の再契約検討〉

 いつもの一行に続けて、今日はもう一行、書き足した。

 〈正論疲れのケア:支援係の休憩の規定/匿名相談/“今日は頑張らない”申請のための小さな紙〉

 “今日は頑張らない”という紙に印鑑を押すのはばかげている、と誰かは笑うだろう。けれど、ばかげた紙に救われる夜はある。救いは条文化してはじめて、複数の人に配れる。配るには、名前がいる。

 扉が軋み、小さな足音が近づく。今度はアイリスだった。二つのマグカップ。湯気は透明の糸で、夜の輪郭に穴を開ける。

「飲む?」

「ありがとう」

「今日は“前文”を書いた?」

「書いた。『奪う前に、包む』。明日は『沈黙の窓の前では、声を出さない』」

「あなたは、書きながら守っている。守りながら書いている。順番が合っているね」

 遠くで笑い声がした。何も知らない笑い。何も知らない笑いは守りたくなる。守りたいから、線を引く。線は刃にも橋にもなる。刃の側で人が怪我をした日は、橋の側で長く休ませる。そうやって続ける。

 アイリスはマグの縁に息を吹きかけ、目を細めた。

「ねえ、廉。あなたの剣、今日は少し血の匂いがした」

「わかる?」

「うん。可決は、誰かの反対の上に立つから」

「鞘は、間に合ってる?」

「間に合わせるの。間に合う、じゃなく」

 間に合わせる、という言い方は、職人の手付きに似ている。完璧じゃない。でも、使える。使えるうちに次を作る。次を作るために、今日の終わりに祈りを置く。

 廉はノートの最後の行に、もう一度、同じ言葉を書いた。

 〈条文の美しさは、運用の優しさで完成する〉

 そして小さく括弧で挟む。(恋愛契約:静穏時間条項草案/無音の窓/第三者視認の監視の窓)

 風が一段強まり、ページが自分でめくれた。増えた白に、明日の刃をしまう鞘の形を思い描く。夜の匂いは、紙の匂いに似ている。湿り気がある。湿り気は、乾く。乾けば、書ける。

 遠い空の端で、鐘が小さく鳴った。誰かの練習だ。練習は、いつだって少し寂しい。寂しさが、続ける力になる。続けるために、明日の朝、また細い線を一本引く。人が渡れる幅で。自分が折れない細さで。

 学内掲示板には、赤い紙が増えていた。『恋愛契約』。赤は目に痛い。痛みは学びに変換できる。痛みを条文に入れるには、先に祈りを置き、次に無音の窓を開ける。順番を間違えなければ、血は少し減る。

 廉はマグを空にし、砂時計をもう一度ひっくり返した。砂は落ちる。落ちるから、積もる。積もるから、頁が厚くなる。厚くなった頁は、明日の刃の重みを受け止める。受け止めたあとで、誰かの頬を切らないよう、鞘へ戻す。

 直後、風がマグの縁でふっと鳴った。鳴り方が、どこか切なかった。切なさは、正しさの副作用だ。副作用は、今日の欄にもう一つ、細い字で書き加えておく。

 〈敵は増える。味方も増える。どちらの向こうにも、守りたいものがある〉

 そう書いてペンを置く。置いたペン先に夜の色が映る。夜は、誰のものでもない。だから、分けられる。分けられる夜に、明日は少しだけ光を差し込む。無音の窓のための光。恋のための、鞘。

第5話 恋愛契約(前編)――合意は測れるか

 放課後の中庭に、変な静けさが降りていた。噴水の音は相変わらずで、木漏れ日は穏やかに揺れているのに、ベンチの並ぶ一帯だけが、言葉の抜け殻みたいに軽くて、かさかさしている。いつもなら顔を寄せて笑う二人組が、間に鞄を置いて少し距離を取っていたり、誰かがスマートスクロールの画面に、ためらいの親指を乗せたり外したりしている。スクロールに引っかかる指先は、ため息よりも先に疲れる。

 学内SNSで拡散された赤いテンプレが、午前からずっと話題の中心に居座っていた。『恋愛同意契約テンプレ(無断改変不可)』。目を引く色は悪戯のようで、文言は石のように重い。〈互いの恋情の独占的な継続を約し、破棄の場合は違約金魔術一〇万リーブル相当の義務を負う〉。署名と魔術印を並べれば、契約は発動する。冗談半分——その言い方が、いちばん血の匂いを運ぶ。笑って見せた子が昼過ぎに泣いて、泣いた子を見て誰かが口をつぐむ。硬い契約は柔らかい場所で、よく折れる。

 起草者は、エドガーだった。彼自身は何も言わない。彼に近い連中が「遊びだよ」と肩をすくめ、しかし目の奥に濃い影をたたえたままテンプレのリンクを置いていく。置かれた赤い紙は、触れないままでも人の手を冷やす種類の熱を持っていた。

 昼休み、風紀委員室の前には相談の列ができた。列のいちばん前にいた一年生の女子は、しゃくり上げる声を必死に押さえて、握りしめた契約紙を差し出した。紙の端は涙で濡れて硬くなっている。濡れた紙の硬さは、乾いた紙よりも折れやすい。

「同意、したの?」と廉が尋ねると、彼女は首を振った。「——した、ことにされた。既読スタンプで。“OKって言ってた”って。言ってないのに」

 別の二年生の男子は、逆の立場で来ていた。「“合意の演出”をした。教室で、友達に見ててもらって。笑って“いいよ”って言ったから、大丈夫だと思って。でも、あとで“圧を感じた”って。……俺、そんなつもりじゃ」

 つもりじゃ、はいつだって遅い。つもりじゃ、の前に、沈黙の厚さがある。沈黙は、圧で固まる。

 午後、生徒会室。長机の上に、赤い紙がいくつも並んだ。インクの匂いは強くないのに、鼻の奥で金属の味がした。エドガーは後列の隅に座り、机に肘を預けて、何も言わない。黙る人の沈黙は、よく磨かれていて、刃に似る。アイリスは端の席で、紙を一枚一枚指でなぞるように読んでいた。彼女の指は、祈る前に必ず仕事をする。

「——学院として、ミニマム・セーフティを置くべきです」

 廉は口火を切った。声は落ち着いていたが、喉の奥でわずかに震えた。震えは、刃に鞘をあてて角を確かめるときの揺れに似ている。

「第一に未成年保護。保護者同意不要の範囲を明確にする。恋愛の契約は、学内で完結する範囲に限定し、身体的・経済的な重大負担に及ぶ条項は無効。第二に熟慮期間。署名後二四時間の再確認を義務づけ、“冷却”の前文を。第三に第三者同席。同席者は中立誓約を結び、後日の証言で利害関係が検査される。第四に解除の儀式。傷つけない終わり方を条文化する。合意に至らなかった場合の必要な沈黙と、返すべき贈与、公共の場での晒し行為の禁止」

 「晒し」の字を言ったとき、部屋の空気が少し冷えた。晒す文化は速い。速さは、たいてい弱い場所を先に破る。「弱い」は「遅い」とよく混同される。遅いから弱いのではない。弱いから遅れる。遅れる人を守るために遅さの名前を条文に置く。

「——“沈黙の窓”も設置したい。告白後、二四時間は返答を求めない。この期間の“押し問答”は、契約妨害とみなす」

 書記のナハトが静かに頷いた。「フォームは僕が作る。署名魔方陣は同時接触がトリガ。二人の魔素の揺れが同期しないと起動しない。片方だけ触れても、動かない。録音・録画は禁止にして、証拠は同席者の誓約ログと魔方陣の時刻記録で足りるように設計する」

「録音禁止?」と会長が眉を上げた。

「圧力が増す。カメラは沈黙を薄くする。沈黙は、生まれる前に破られる」

 廉は紙をめくった。祈りを前文に置く。〈この規則は、沈黙の中で人が考える権利を守るためにある〉。短い一行を紙の上にすべらせると、言葉の刃が少し鈍る。鈍った刃は、骨ではなく布を切る。

「“沈黙の同意”は否認します。返答がないことは合意ではない。既読は合意ではない。笑いは合意ではない。——この否認を太字に」

 エドガーのほうから、乾いた笑いが落ちた。「言葉で恋が測れるとでも?」

 挑発の文句は、正確にこちらの神経に当たる場所を知っていた。測れるのは恋じゃない。だが、測れないことを理由に、好き勝手にしていい訳でもない。

「測れるのは恋じゃない」アイリスが口を開いた。席の端から一歩、前に出る。彼女の声は、薄い布で刃を包むときの手つきの音に似ていた。「測れるのは“傷つけないための仕組み”。それを先に置くの。恋は、置かない。生のままにしておく」

「傷つけないために、恋を傷つける、と」

 エドガーが肩をすくめた。軽い仕草の下に、堅い意志がある。彼は赤いテンプレの角を指先で撫でる。「君らの前文は、美しい。美しさは、時々、遅い。遅い正しさは、現場で死ぬ」

「遅い、の反対は速い、ではない」と廉は言った。「選べるだ。選べない速さは暴力だ」

 会議は、一応の合意に達した。ミニマム・セーフティは、三日間の試行として施行される。署名魔方陣の設置、同席者の誓約、熟慮期間、解除の儀式——紙は整って、机の上で長方形に並んだ。整ったものを信じすぎないように、廉は自分の指で紙の端を少し曲げた。曲がるものは、折れる。折れるものは、直せる。

     *

 実装は、驚くほど速く広がった。赤いテンプレに薄青の前文が重ねられ、署名魔方陣の紋様が寮の談話室と中庭の端に設置された。二人で同時に触れなければ、光らない。触れた指の魔素の揺れが同期しないと、起動しない。魔方陣は恋の測定器ではない。測るのは、同時性と揺れの一致だけだ。

 副作用は、当日中に表面化した。相手の了承が得られない生徒が、承諾を“演出”し始めたのだ。友人を“了承証人”に仕立て、笑い声で場を満たして圧を上げる。既読スタンプにハートを合わせてスクリーンショットを撮る。魔方陣の前に立って、指を伸ばす手を写真に収め、「もうすぐだった」と周囲に拡散する。“もうすぐ”は、合意じゃない。けれど、写真は言語を曖昧にする。

 ナハトはすぐに証跡の質の定義を上げた。〈第三者同席は一名まで。同席者は沈黙を守る誓約を交わし、語るのは後日、書記局の場に限る。笑いが同席者の口から出た場合、審査無効。目撃者は演出家になってはならない〉。言葉は堅くなり、紙は少し重くなった。重くなった紙は、一回で持てなくなる。だから、二回に分けて持つ。二回に分ける段取りを、支援係はテンプレにして配った。

 相談件数は、一時的に減った。減った裏で、沈黙が増える。沈黙の重さは、廊下の角で足を止める二人の距離に現れる。距離は悪ではない。けれど、増え続ける距離は、どちらかの心を先に欠けさせる。

 午後の終わり、廉は談話室で、赤と青の重なった紙を手に来た二年生の女子に会った。彼女は紙を両手で持ち、目だけで廉を見た。

「解除の儀式を、したい」

 話を聞いた。付き合い始めたのは三日前。赤いテンプレの熱気と、周囲の祝福と、彼の真剣な表情とで、彼女は魔方陣に触れた。二十四時間後の再確認のとき、彼はピアノの練習をしていて、彼女のメッセージは既読にならなかった。三日目の朝、彼女は「ごめん」と送った。彼の返答は「違約金」。彼は冗談のように書き、冗談でない数字を添えた。

 解除の儀式は、談話室の隅で静かに行われた。支援係が立ち会い、短い前文を読み上げる。〈この儀式は、人を傷つけないためにある。奪う前に、包む〉。贈与は返され、暴言の禁止条項が一通り読み上げられる。読まれた言葉は、沈黙に置き換えられ、沈黙は、小さな息へとほどかれる。

 彼は最後に言った。「……わかった。ごめん」

 儀式は終わった。終わり方を知っていれば、人は少しだけ早く次の朝に着く。儀式の場で彼女は泣かなかった。帰り道、寮の階段で、初めて泣いた。泣く場所があることは、大事だ。泣ける場を条文が用意することは、まっとうだ。

     *

 夜、屋上に出ると、風は低かった。低い風は、地面の匂いを運ぶ。地面の匂いは、現実の速度に似ている。廉はノートを膝に置き、いつもの一行を書いた。

〈副作用の記録と翌日の再契約検討〉

 その下に、並べる。〈“了承証人”の濫用/沈黙前の演出/“もうすぐ”の拡散/熟慮期間の“追撃”〉。追撃は、言葉のふりをしてやってくる。言葉はときどき、刃のふりをしてやってくる。

 扉が音を立てて開き、アイリスが現れた。外套の袖は夜風を少し含んで膨らみ、彼女の輪郭を柔らかくする。彼女は廉の横に座り、同じように足をぶらぶらさせた。ぶらぶらさせると、足の裏の緊張がほどける。

「……反論、してもいい?」

「聞かせて」

「契約は、ときどき、救うの」

 彼女の声は、意外なほど静かだった。静かさが深く、底に小石の音がする。

「私、幼い頃、家の債務整理で、身分契約に入れられた。嫌だった。怖かった。でも、あれがあったから、家は壊れなかった。契約が無い世界は、弱い者から壊れる。——恋も同じ。壊す力がある。だから、契約に頼る子がいる。頼りなさい、って言ってあげたいときも、ある」

 廉は目を伏せた。目を伏せると、聞く場所が耳だけになる。耳だけで聞くと、言葉の骨が残る。

「わかってる。契約は、悪くない。——悪いのは、圧のある場所で交わされる契約。公開の場。晒す文化。笑い声。拍手。写真。舞台」

 「舞台」という言葉を、彼女は小さく繰り返した。舞台は、演劇部のそれだけじゃない。食堂の真ん中、校庭の真ん中、鐘の下、告白が観客を集めるための場所すべてが、舞台になる。

「舞台は、圧力。圧は、沈黙を砕く。砕けた沈黙の上に置かれた“はい”は、はいではない」

「だから、静穏時間を置いたんでしょう?」

「置いた。でも、足りない」

 黙って、風の音を聞く。風の音は、言葉の前で役に立つ。役に立たないのは、言葉のあとだ。あとに残るのは、人の顔。顔の筋肉は、条文よりも先に疲れる。

「——公開の場所での恋愛契約は無効。舞台での“はい”は“はい”ではない。……そう、書くべきだと思う」

 アイリスはうなずいた。うなずいたとき、彼女の手首の細さが、夜の輪郭に沿って見えた。細い手首は、重いものを持つときに折れそうで、折れない。

「書いて。前文から」

「〈この規則は、声の届かない人のためにある。声の出ない人のためにある〉」

 書きながら、廉はふと、アイリスの言葉の奥に別の影を見た。身分契約。救った契約。救われなかった夜。救われなかった夜の長さは、紙に書けない。書けないことが多いほど、人は条文の余白を増やす。余白は、祈りのためにある。

     *

 実装二日目の午後、披露の場で、事件が起きた。鐘楼の前の広場に、人だかり。赤い紙を胸に、三年生の男子が声を張り上げる。向かいには、戸惑った顔の二年生の女子。彼は、膝をつき、魔方陣の上に片手を置き、もう片手を彼女に向けた。人の輪は、すぐに厚みを増した。厚みは、圧だ。圧は、沈黙を砕く。

 「やめて」と女子が言う声は小さく、拍手の隙間に吸い込まれていく。拍手は、誰の味方でもない。拍手は、拍手の味方だ。男子は笑う。「みんなの前だから逃げられないだろ?」。笑いは軽いのに、言葉は重い。重い言葉は、軽い笑いに乗ると遠くまで飛ぶ。

 廉は走った。支援係が二人、先に輪の外に到達していた。ナハトは喉の奥で短く息を吸い、掲示旗を開いた。〈静穏時間発動〉。旗は空気を割って、赤い熱に青を差し込む。旗の裏で、アイリスが詠唱なしの魔術で風の膜を張る。膜は音を落とす。落ちた音は、砂のように足元にたまる。

「——無効です」

 廉は男子と女子の間に立ち、声を落ち着かせて言った。「公開の場での恋愛契約は、無効。観客のいる場での“はい”は“はい”ではない。——条文、読み上げます」

 読み上げは短く、はっきりと。短い言葉ほど、正確に届く。男子は顔を歪め、赤い紙をぐしゃりと握りつぶした。握りつぶされた紙は、濡れてはいないのに、ぐずっと音がした。腹の底で、ゆっくり溶けていく音だ。

「逃げられないだろ、って言ったよな」

 輪の外から、低い声が落ちた。セラだった。演劇部の仲間が、彼女のすぐ後ろで息を揃えて立っている。舞台の外の彼女は、舞台の上より静かだ。静かさは、力だ。彼女は男子を見て、「舞台でしか戦えない人は、舞台を降りたら弱いの?」と、さらりと言った。男子は言い返せず、足元を見た。

 旗はゆっくり下ろされ、風の膜は解かれ、音が戻る。戻った音は、さっきより少しだけ薄い。薄くなった音は、人の口数を減らす。その午後、学内SNSには、新しいテンプレが回り始めた。『公開の場での契約は無効』『沈黙の窓』『同意の同期』。赤い紙に、青い前文が重ねられ、さらに薄い灰色の注釈が追加されていく。注釈が増えるのは、悪いことではない。注釈は、息継ぎの場所だ。

     *

 夕暮れ、生徒会の議場。窓の外は、色がしずかに濃くなる時間。エドガーは、後列のいつもの席で笑っていた。笑いは音が小さく、目が大きい。

「君らは、恋を条文化して、恋を壊す装置を作っているのかもしれない」

 廉は返さなかった。返しても、言葉の表面が擦れるだけだ。アイリスが代わりに言う。「壊れている場所に、先に布を敷いているの。布がなければ、血は床に染みる。染みた血は、消えない。消えないから、次の恋が入って来られない」

 エドガーは首を傾げた。「不利益条項は、君らのほうに置いたか? “この規則によって、恋をあきらめる者が出る”。“勇気の最初の呼吸が遮られる”」

 廉は紙をめくった。そこに、もう書いてある。〈不利益の見取り図:告白の勇気が減る/“サプライズ”的な物語が失われる/友人が“中立誓約”に怯える〉。書いて、眺める。眺めることでしか、守れない形がある。

 議場の扉が少し軋み、ナハトが入ってきた。手には新しいテンプレ。『解除の儀式 簡易版』。短い文、少ない手順、柔らかい声の見本。見本は恥ずかしい。恥ずかしいけれど、人は見本がないと不器用な優しさの出し方を忘れる。

「録音禁止にした件、批判がきている」と会長が言った。「証拠がないと不安だ、という声」

「証拠は人にしか残らないと、あらかじめ宣言する」とナハト。「人は嘘をつく。だから三者合議と記録の時刻印で補う。——でも、嘘のない証拠は、圧のない場所にしか生まれない」

 圧のない場所。無音の窓。祈りの前文。言葉の布。どれも、紙の上では美しい。美しいものは、遅い。遅いものに、間に合わせる工夫を、毎日足すしかない。

「——公開の場に関して、もう一つ」

 廉は言った。「“写真・動画の即時拡散”の禁止を追加したい。恋の現場は、他人の娯楽じゃない」

 静かな頷きがいくつか落ちた。落ちた頷きが床で音を立て、音はすぐに消えた。消える音は、会議の友だ。

 会議の終盤、エドガーは一枚の紙を廉に渡した。赤い紙片に、太い字で四文字だけ。〈不利益条項〉。彼は小さく笑って言う。

「可視化しろ。可能な限り。君の条文が誰を傷つけ、誰を救うか。救いだけの紙は、刃だ」

 廉は頷いた。頷くと、首の後ろが重くなる。重さは、眠りに向けて人を静かに押す。

     *

 寮の自室で、廉は机に座り、砂時計をひっくり返した。砂の音は、今日を洗い流す音に似ている。ノートを開き、いつもの一行を書き、さらに下に項目を重ねる。

〈副作用の記録〉
・“了承証人”の演出化
・公開の場での圧力(旗で対応)
・録音禁止への不安(人基準の証跡へ)
・告白の勇気の萎縮(**静穏時間後の“勇気の窓”**を設置)
・支援係の燃え尽き(休憩の規定、匿名相談)

 その下に、細い字で書き足す。〈舞台——公開の場所が、最悪の圧力になる。演出が恋を壊す。次回:舞台条項〉。ペン先が紙に触れる軽い音が、部屋の小さな静けさの中で膨らんだ。

 扉をノックする音がした。開けると、セラが立っていた。髪はほどかれ、目は乾いている。乾いた目は、泣いた人の目だ。

「——あした、公開の謝罪が企画されてる」

 彼女は短く言った。「昼の男子。広場で。**“男を立てる儀式”**だって。……舞台は、また、人を壊す」

 廉は頷いた。頷きながら、机の端に置いた旗を見た。〈静穏時間〉の青い布。布は軽い。軽いけれど、間に合う。間に合わない日は、間に合わせる。間に合わせるのが、鞘の仕事だ。

「舞台の契約を、先に無効にする。“観衆の前では合意は成立しない”。謝罪も、公開では。——条文、書く」

 セラは頷き、扉の外に一歩下がった。「ありがとう。……でも、疲れるわ、あなたの正しさ」

「僕も、疲れる」

 二人で、少し笑った。笑いは包帯だ。包帯の巻き方を覚えるまで、何度だってやり直す。やり直すたびに、祈りを短く書く。〈この規則は、声の届かない人のためにある〉。祈りは、刃の前に置く。置いてから、刃を出す。出す刃は、できるだけ、細い。

 夜はさらに低くなり、窓の外の木々が葉の裏を見せた。葉の裏は、言葉の裏側みたいに白い。白い面は、朝に向いている。朝に向けて、廉はペンを置いた。置くと、胸の奥で何かがひとつ、鳴った。鳴り方は、少し切なかった。切なさは、続けるための軽い痛みだ。軽い痛みは、明日の条文にちょうどいい重さで混ぜられる。

 ——恋は測れない。測れないから、測れるものの輪郭を正確にする。沈黙、同時性、揺れの一致、公開の無効。合意は測れるか。測れない部分を、守るのが条文だ。守りそこねる夜は、きっとまだ来る。来るたびに、前文を短く、鞘を先に。旗を高く、声は低く。舞台に光を、恋に無音を。そこまでを、まずは、書く。