公式メールは、驚くほど素っ気なかった。件名《チャンネル停止解除のお知らせ》。本文はさらに平らだ。「危険行為の助長の意図なし。混同素材による誤解。今後は“安全配信ガイドライン”を共同策定」。三行で、数日ぶりに肺が深さを取り戻す。神谷礼音はモニタの暗転を自分の顔で受け止め、机の上の仕様書(公開版)の角を揃えた。角が揃うと、胸骨の内側まで揃った気がする。
解錠音のように、端末がもう一度鳴った。プラットフォームの公式アカウントが、声明を出したらしい。通知を開くと、そこにも平らな言葉が並ぶ。「今回の停止は混同素材に起因。安全配信ガイドラインの共同策定に着手しました」。いい。硬い。硬さは、今日は栄養だ。
礼音は吸気を深くし、吐息を長くした。深呼吸は、配信のプロトコルであり、自己修復のショートカットだ。マイクの位置を指先ひとつ分寄せ、カメラのピントを目の奥に合わせる。復帰配信のタイトルは、あえて事務的にした。《復帰配信:仕様と手続の状況報告》。サムネは無地。文字のみ。香りのしない紙の、画面版。
カウントダウンの数字がゼロに落ちる。映像が開く。コメントが泡のように浮かび、すぐ消え、また浮かんだ。顔アイコンの海。色の洪水。しかし、ヤチヨが設定したスローモードと表示のレイヤが、色を整理する。色は残り、熱は減る。
「——ただいま」
最初の言葉が空へ置かれ、ちいさな拍手の絵文字が間を埋めた。紙吹雪の音はしない。紙吹雪は片付けが大変だ。代わりに、椅子が並んでいる。視聴者の椅子。代表の椅子。反論の椅子。ログの椅子。——椅子の数だけ、怒りは座る。
礼音は、昨日までの時間を短く要約した。混同の検出手順、公開検証、理由付き投票、重みづけ、視聴者クレジット、そして“安全配信ガイドライン”の共同策定。言葉が機械の図面のように並ぶ。図面は、人を落ち着かせる。
「罰は必要。——これは、変えない。けど、快楽としての潰し合いは終わりにしよう」
チャットが、数拍の沈黙ののち、泡立った。《はい》《そう思う》《椅子》《座る》。絵文字の拍手が、スローモードの隙間に丁寧に置かれていく。置き方に、学習の余韻がある。
画面外、ヤチヨが親指を立てたのが、モニタに薄く映った。彼女は相変わらず、カメラには入らない。その代わり、操作ログに小さな虹色の印が走る。「危険誘導(理由なし)—非表示」「未成年模倣示唆—ブロック」「提案(採用)—ラベル:UI改善」。モデレーションの帯が見える。見えるから、罪悪感が減る。減るから、人間が残る。
復帰配信の前半は報告、後半は実演だ。礼音は、浅層ダンジョンのシミュレーション画面を開いた。新宿三丁目の花街ループの裏配管、その分岐の“擬似環境”。ファンの唸りを合成音で再現し、温度差による霧の裂けのモデルを見せる。家庭では真似できない、施設固有の条件が何かを、簡潔に示す。視聴者代表のチャットが「家庭ではやらない」「観るだけで手汗出る」と重なる。手汗は、参加の前段階。前段階を楽しむ技術を、配信はもっと持っていい。
投票セクションは、今日からさらに一段進化した。《三択→理由投票→重み付け→視聴者クレジット→アフターアクション》。アフターアクションでは、選ばれなかった選択肢の“理由”だけ、アーカイブとして残される。残るのは、敗者の言葉。——敗者の言葉は、次の安全の手すりだ。
「今日の三択は“香気デッキ越え/裏配管直進/管理動線帰還”。理由を添えてください。——なお、投票者のクレジット表示は希望者のみ。匿名でも重みは同じ。ただ、過去の『理由』の質に応じて微調整が入ります」
《安全:帰還》《効率:直進》《好奇心:デッキ越え(風を読みたい)》……文字の粒が整然と並び、背後でヤチヨが分類を回す。結果、裏配管直進が56%。画面に小さなクレジット。「主要投票者:@mizu_hana(安全)、@kasei_▲▲(効率)」。名前はまた小さく、しかし、見える位置にある。責任の顔は、怖くないサイズにできる。
演習を終え、礼音はマイクに近づいた。「——ここからは蛇足。仕様書にない話を、ひとつだけ」
チャットのスクロールがわずかに鈍る。何かの前触れは、視聴者の背中の筋肉でわかるのだ。
「カメラ、切らないで。……ヤチヨ」
画面外の影が少しだけ動く。彼女は咳払いひとつ、いつもの調子だ。「はいはい、何?」
「俺、君とやりたい。……いや、違う、えー、共同運営を」
「言い直し遅い」
「遅延は仕様……じゃない。つまり、共同で、このチャンネルを運営してほしい。名前も出して、公式に。ガイドラインの共同策定チームにも、君の名で入ってほしい」
「承認」
間髪入れず。二文字分、世界が軽くなる。チャットが爆笑と祝福で埋まった。絵文字の雨。椅子の背に放り投げる上着みたいな「おめでとう」。モデレーション帯に、珍しくヤチヨ自身の書き込み。「恋バナ(害なし)—可視化」。可視化された恋バナは、制度の余白にちょうどいい。
礼音は、笑いで喉が温まるのを自覚した。「——業務連絡です。『神谷礼音/ヤチヨ 共同運営』に変更。仕様書も改訂。『やること』に『共同の決裁』を、『やらないこと』に『片方だけでの大決断』を追加します」
「いいね」と彼女。「共同決裁は手間が倍。でも、ミスは半分」
「恋愛仕様書も改訂する?」
「それは非公開」
チャットに《ひどい》《最高》《椅子》が連なり、拍手の波がふたたびきた。波は、今日は穏やかだ。穏やかは、退屈の親戚ではない。長持ちの親戚だ。
◇
数日後。プラットフォームが主催し、協会が後援する“透明配信サミット”が開催された。会場はガラスの壁に囲まれた中層階のホール。ステージの背面には、曇りガラスの帷が立ち、光を柔らかく割る。椅子は段差なしで、緩やかな円弧を描いて並ぶ。壇上には「公開審理」「矯正」「模倣不能性」「理由付き投票」の四つのパネル。テーブルの前に、薄い名札。「神谷礼音(設計)」「ヤチヨ(モデレーション/法務)」「安全チーム」「協会」「教育関係者」。
オープニングは、統計の報告から始まった。停止件数の推移、混同事案の検出精度、公開審理後の再発率、理由付き投票を導入した配信の長期滞在時間の変化。数字は、今日は完全に味方だ。味方は気圧のように舞台を包み、呼吸を楽にする。
礼音のスピーチは、壇上の左端で行われた。手元の紙は薄く、文字は少ない。長いのは、息だ。
「視聴者参加は危険です。——だから、手続を設計する価値がある。参加の快楽は、引っ張ればすぐに過激の快楽につながる。けれど、正しく設計すれば、責任の分配になる。『投票』は『責任の配線』。『クレジット』は『責任のラベル』。『封印』は『責任の保管庫』。ぼくらは、その回路図を共有できる。——俺は、その設計者でいたい」
拍手が、厚みをもって返ってきた。厚みは、昔なら怖かった。今日は安心に似ている。安心は、配信者を甘やかさない。甘やかさない安心——それが、やっと手に入った手触りだ。
パネルディスカッションのセクションで、司会が尋ねた。「『公開審理』が“見世物”にならないための歯止めは?」
ヤチヨがマイクを取る。「椅子です。——段差のない椅子配置、決定権の偏りが見えない配置、よけいな演出の排除。『裁きの椅子』を高くしない。『矯正の椅子』を見える場所に置く。『質問の椅子』は誰にでも近い。配置は倫理の助詞です」
会場の後方で、教育関係者が小さく頷いたのが見えた。配置の話は、学校の話でもある。壇上の照明は少しだけ緩やかに落ち、スクリーンには、公開審理のテンプレートが映った。「冒頭説明」「技術検証」「規定適用」「矯正策協議」「封印」。手順がある。手順があるだけで、言い争いは会話になる。
別のパネルでは、AI生成と混同の境界が話題になった。安全チームのエンジニアが、微細な“手の癖”を識別するアルゴリズムの説明をし、協会の監査官が、現場の「似たもの」と「違うもの」の見分け方を述べる。礼音は一言だけ足した。「“似ているけど違う”を言語化する訓練が、今の配信者には必要です。仕様書は、そのための練習帳です」
休憩時間。ステージ袖で、紙コップの水を飲む。ガラスの向こう、都市は夕方の色を持ち、浅層ダンジョンの入口には、今日も椅子が増えている。椅子には、座りかたがある。勢いよく座る人、端に座る人、背もたれを好む人。座りかたの多様さは、怒りの多様さと直結している。多様さに合わせて、手続は太くなる。
「おつかれ」と、袖の影から手が伸びた。ヤチヨだ。彼女の指は温度を持ち、礼音の掌に触れた。握られた瞬間、彼の内部のどこかで、梁が心地よく鳴る。鳴きは挨拶。挨拶がある間、都市は持ちこたえる。
「共同運営、ほんとにやるのね」と彼女。
「やる。仕様書も改訂済み」
「恋愛仕様書も?」
「……『公開矯正』の項目だけ、置いた」
「遅い。けど、承認」
冗談の音程で交わす合意は、実務のネジにねっとり絡む。ふたりの間の距離は、乾いたユーモアの表面張力で保たれている。近い。べったりは、構造に悪い。
◇
サミットの終盤、ステージの中央に簡易の卓が運ばれ、「公開審理の実演」が行われた。扱うのは、軽微な混同事案——ある切り抜き動画が、原配信者のUIを模した形で編集を行い、ラベルを怠っていた件。該当チャンネルの代表が登壇し、編集手順と意図を説明する。安全チームが技術的な指摘をし、法務が条文の該当箇所を示し、視聴者代表が「勘違いのポイント」を指さす。最後に矯正策が提示される。
「訂正動画の作成(原動画と同等のリーチで配信)」「ウォーターマークの強制付与(自動署名)」「補償プールへの拠出(一定期間)」。規定の条項番号が読み上げられ、代表は頷く。「わかりました。やります」。怒号は出ない。拍手が出る。拍手は、処罰への快楽ではなく、直す手順への納得に対して向けられている。拍手の種類が変わると、都市の色が変わる。色は、香りより長持ちする。
閉会の挨拶で、プラットフォームの政策担当が言った。「本日の議論と実演を踏まえ、“安全配信ガイドライン”のドラフトを来月にも公開します。併せて“公開審理”の常設化を進めます」。拍手。硬いが、良い硬さ。刺さらず、支える硬さ。
礼音は最後にもう一言、壇上で言葉を置いた。「——炎上は、舞台の照明として優秀すぎた。照らしすぎて、目が焼けた。これからの照明は、椅子を照らすために使う。座れる場所を明るくする。立って叫ぶ人の背中も、座って考える人の指先も、両方見える光で。……その設計を、続けます」
会場の光が、少しだけ暖かくなった気がした。気のせいではないかもしれない。照明オペレーターの手が、ほんの少し、温度のつまみを上げたのだろう。
◇
夜、スタジオに戻る。机の上には、改訂済みの仕様書が重ねてある。「神谷礼音/ヤチヨ 共同運営仕様書(公開版/改訂1)」。ヘッダの下に、新しい項目が増えている。「共同決裁のフロー」「公開矯正の手順」「矯正アーカイブの作成」「代表の椅子の数」「疲労の費目」。最後の項目は、ヤチヨが勝手に足した。「疲労の費目:申請すれば付与。非公開でも可。可視化すれば共有も可」。疲労は、制度の敵ではない。無視が敵だ。
復帰からの連日配信は、数字の上では安定していた。滞在時間は伸び、違反申告は減り、理由付き投票の参加率は緩やかに上昇。視聴者クレジットの欄には、新しい名前が、緊張とともに小さく並ぶ。小さい名札は、人間の身長に合っている。巨大な名札は、デモの道具だ。デモは必要だが、いつもではない。
ある晩、匿名のDMが届いた。「“切抜き工房Z”の中から。本当に“公開審理”に出る。条件はひとつ——吊し上げにしないこと」。礼音は短く返した。「椅子を並べます」。返ってきたのは、唐突なスタンプ。椅子の絵。人は、絵の方で先に合意できることがある。
日付が変わる手前、礼音はベランダに出た。遠くで、夜間清掃の水の音。浅層ダンジョンの入口のライトが、早朝の準備のためか、点いたり消えたりしている。光は、噂より遅い。だから、長持ちする。長持ちする光の下で、彼はスマホを取り出し、短い文を打った。「——『潰し合い』の代わりに、『直し合い』を娯楽にする。紙にも、光にも、音にも、その仕様を埋め込む」。送信先は、自分のメモ。未来の自分宛て。未来は既読をつけないが、読み落とさない。
背後で、カーテンが揺れた。ヤチヨが顔を出す。「お湯、沸いた。手、洗って。仕様書、触ってる手でカップ持つと、紙の味がする」
「紙の味、嫌いじゃない」
「うん、でも今は紅茶の味の方がいい」
彼女はカップを二つ持ち、ひとつを礼音に渡した。指が触れ、温度が移る。移った温度は、言葉より早く理解される。理解された温度は、仕様書の余白を増やす。余白は、次の改訂の居場所だ。
「次のダンジョン、どこ行く」と彼女。
「制度の迷宮」
「地図、ないよ」
「透明な道具はもうある」
「なら、行ける」
返事は短いほど、強度が上がる。二人は黙って紅茶を飲み、夜の温度の落ち方を確かめた。都市は、眠りに入る準備に手間がかかる。その手間の上で、配信が朝を迎える。朝は残酷でも優しくもない。ただ、次の検証の時間だ。
礼音はカメラの電源を切り、マイクのポップガードを外し、仕様書を重ね、角をまた揃えた。角が揃うと、筋肉がほどける。ほどけた筋肉は、明日のために巻き直せる。巻き直す手順は、もう書いてある。書いてあるから、彼は眠れる。眠りの費目は、今日だけ非公開にする。非公開は、秘密ではない。非公開は、尊重だ。
ベッドサイドの端末が、小さく震えた。プラットフォームからの内部連絡。「“公開審理”常設化に関する承認および、第一回・重大事案の予定。——共同モデレーションとして、神谷・ヤチヨに依頼」。礼音は画面を伏せ、息を整えた。重大事案。きっと、椅子を増やす必要がある。椅子を並べるのは力仕事だ。でも、筋肉はある。筋肉は疲れる。疲れるから、制度がある。制度があるから、ふたりで眠れる。
「——おやすみ」と、同時に言った。誰に向けてでも、互いに向けても。暗闇は、可視化の前夜だ。黒は、最初のスクリーン。そこに、明日のUIが薄く浮かぶ。理由、重み、クレジット、封印。椅子。拍手。矯正。仕様書の余白。——そして、小さく、握られた手の温度。大団円という言葉は、舞台の上ではなく、袖で起きる。袖で起きるから、次の幕が開く。幕は透明で、風に揺れる。その揺れの音を、都市は覚えた。覚えている間、BANは解除され続ける。解除の度に、手続は太る。太った手続は、風にしなやかだ。しなやかなものが、長持ちする。長持ちするものが、勝ちに似る。勝ちに似るものを、勝ちと言わず、ただ積み上げる。積み上げた先に、ふたりの次のダンジョンが口を開けている。地図はない。だが、透明な道具は、もうある。
解錠音のように、端末がもう一度鳴った。プラットフォームの公式アカウントが、声明を出したらしい。通知を開くと、そこにも平らな言葉が並ぶ。「今回の停止は混同素材に起因。安全配信ガイドラインの共同策定に着手しました」。いい。硬い。硬さは、今日は栄養だ。
礼音は吸気を深くし、吐息を長くした。深呼吸は、配信のプロトコルであり、自己修復のショートカットだ。マイクの位置を指先ひとつ分寄せ、カメラのピントを目の奥に合わせる。復帰配信のタイトルは、あえて事務的にした。《復帰配信:仕様と手続の状況報告》。サムネは無地。文字のみ。香りのしない紙の、画面版。
カウントダウンの数字がゼロに落ちる。映像が開く。コメントが泡のように浮かび、すぐ消え、また浮かんだ。顔アイコンの海。色の洪水。しかし、ヤチヨが設定したスローモードと表示のレイヤが、色を整理する。色は残り、熱は減る。
「——ただいま」
最初の言葉が空へ置かれ、ちいさな拍手の絵文字が間を埋めた。紙吹雪の音はしない。紙吹雪は片付けが大変だ。代わりに、椅子が並んでいる。視聴者の椅子。代表の椅子。反論の椅子。ログの椅子。——椅子の数だけ、怒りは座る。
礼音は、昨日までの時間を短く要約した。混同の検出手順、公開検証、理由付き投票、重みづけ、視聴者クレジット、そして“安全配信ガイドライン”の共同策定。言葉が機械の図面のように並ぶ。図面は、人を落ち着かせる。
「罰は必要。——これは、変えない。けど、快楽としての潰し合いは終わりにしよう」
チャットが、数拍の沈黙ののち、泡立った。《はい》《そう思う》《椅子》《座る》。絵文字の拍手が、スローモードの隙間に丁寧に置かれていく。置き方に、学習の余韻がある。
画面外、ヤチヨが親指を立てたのが、モニタに薄く映った。彼女は相変わらず、カメラには入らない。その代わり、操作ログに小さな虹色の印が走る。「危険誘導(理由なし)—非表示」「未成年模倣示唆—ブロック」「提案(採用)—ラベル:UI改善」。モデレーションの帯が見える。見えるから、罪悪感が減る。減るから、人間が残る。
復帰配信の前半は報告、後半は実演だ。礼音は、浅層ダンジョンのシミュレーション画面を開いた。新宿三丁目の花街ループの裏配管、その分岐の“擬似環境”。ファンの唸りを合成音で再現し、温度差による霧の裂けのモデルを見せる。家庭では真似できない、施設固有の条件が何かを、簡潔に示す。視聴者代表のチャットが「家庭ではやらない」「観るだけで手汗出る」と重なる。手汗は、参加の前段階。前段階を楽しむ技術を、配信はもっと持っていい。
投票セクションは、今日からさらに一段進化した。《三択→理由投票→重み付け→視聴者クレジット→アフターアクション》。アフターアクションでは、選ばれなかった選択肢の“理由”だけ、アーカイブとして残される。残るのは、敗者の言葉。——敗者の言葉は、次の安全の手すりだ。
「今日の三択は“香気デッキ越え/裏配管直進/管理動線帰還”。理由を添えてください。——なお、投票者のクレジット表示は希望者のみ。匿名でも重みは同じ。ただ、過去の『理由』の質に応じて微調整が入ります」
《安全:帰還》《効率:直進》《好奇心:デッキ越え(風を読みたい)》……文字の粒が整然と並び、背後でヤチヨが分類を回す。結果、裏配管直進が56%。画面に小さなクレジット。「主要投票者:@mizu_hana(安全)、@kasei_▲▲(効率)」。名前はまた小さく、しかし、見える位置にある。責任の顔は、怖くないサイズにできる。
演習を終え、礼音はマイクに近づいた。「——ここからは蛇足。仕様書にない話を、ひとつだけ」
チャットのスクロールがわずかに鈍る。何かの前触れは、視聴者の背中の筋肉でわかるのだ。
「カメラ、切らないで。……ヤチヨ」
画面外の影が少しだけ動く。彼女は咳払いひとつ、いつもの調子だ。「はいはい、何?」
「俺、君とやりたい。……いや、違う、えー、共同運営を」
「言い直し遅い」
「遅延は仕様……じゃない。つまり、共同で、このチャンネルを運営してほしい。名前も出して、公式に。ガイドラインの共同策定チームにも、君の名で入ってほしい」
「承認」
間髪入れず。二文字分、世界が軽くなる。チャットが爆笑と祝福で埋まった。絵文字の雨。椅子の背に放り投げる上着みたいな「おめでとう」。モデレーション帯に、珍しくヤチヨ自身の書き込み。「恋バナ(害なし)—可視化」。可視化された恋バナは、制度の余白にちょうどいい。
礼音は、笑いで喉が温まるのを自覚した。「——業務連絡です。『神谷礼音/ヤチヨ 共同運営』に変更。仕様書も改訂。『やること』に『共同の決裁』を、『やらないこと』に『片方だけでの大決断』を追加します」
「いいね」と彼女。「共同決裁は手間が倍。でも、ミスは半分」
「恋愛仕様書も改訂する?」
「それは非公開」
チャットに《ひどい》《最高》《椅子》が連なり、拍手の波がふたたびきた。波は、今日は穏やかだ。穏やかは、退屈の親戚ではない。長持ちの親戚だ。
◇
数日後。プラットフォームが主催し、協会が後援する“透明配信サミット”が開催された。会場はガラスの壁に囲まれた中層階のホール。ステージの背面には、曇りガラスの帷が立ち、光を柔らかく割る。椅子は段差なしで、緩やかな円弧を描いて並ぶ。壇上には「公開審理」「矯正」「模倣不能性」「理由付き投票」の四つのパネル。テーブルの前に、薄い名札。「神谷礼音(設計)」「ヤチヨ(モデレーション/法務)」「安全チーム」「協会」「教育関係者」。
オープニングは、統計の報告から始まった。停止件数の推移、混同事案の検出精度、公開審理後の再発率、理由付き投票を導入した配信の長期滞在時間の変化。数字は、今日は完全に味方だ。味方は気圧のように舞台を包み、呼吸を楽にする。
礼音のスピーチは、壇上の左端で行われた。手元の紙は薄く、文字は少ない。長いのは、息だ。
「視聴者参加は危険です。——だから、手続を設計する価値がある。参加の快楽は、引っ張ればすぐに過激の快楽につながる。けれど、正しく設計すれば、責任の分配になる。『投票』は『責任の配線』。『クレジット』は『責任のラベル』。『封印』は『責任の保管庫』。ぼくらは、その回路図を共有できる。——俺は、その設計者でいたい」
拍手が、厚みをもって返ってきた。厚みは、昔なら怖かった。今日は安心に似ている。安心は、配信者を甘やかさない。甘やかさない安心——それが、やっと手に入った手触りだ。
パネルディスカッションのセクションで、司会が尋ねた。「『公開審理』が“見世物”にならないための歯止めは?」
ヤチヨがマイクを取る。「椅子です。——段差のない椅子配置、決定権の偏りが見えない配置、よけいな演出の排除。『裁きの椅子』を高くしない。『矯正の椅子』を見える場所に置く。『質問の椅子』は誰にでも近い。配置は倫理の助詞です」
会場の後方で、教育関係者が小さく頷いたのが見えた。配置の話は、学校の話でもある。壇上の照明は少しだけ緩やかに落ち、スクリーンには、公開審理のテンプレートが映った。「冒頭説明」「技術検証」「規定適用」「矯正策協議」「封印」。手順がある。手順があるだけで、言い争いは会話になる。
別のパネルでは、AI生成と混同の境界が話題になった。安全チームのエンジニアが、微細な“手の癖”を識別するアルゴリズムの説明をし、協会の監査官が、現場の「似たもの」と「違うもの」の見分け方を述べる。礼音は一言だけ足した。「“似ているけど違う”を言語化する訓練が、今の配信者には必要です。仕様書は、そのための練習帳です」
休憩時間。ステージ袖で、紙コップの水を飲む。ガラスの向こう、都市は夕方の色を持ち、浅層ダンジョンの入口には、今日も椅子が増えている。椅子には、座りかたがある。勢いよく座る人、端に座る人、背もたれを好む人。座りかたの多様さは、怒りの多様さと直結している。多様さに合わせて、手続は太くなる。
「おつかれ」と、袖の影から手が伸びた。ヤチヨだ。彼女の指は温度を持ち、礼音の掌に触れた。握られた瞬間、彼の内部のどこかで、梁が心地よく鳴る。鳴きは挨拶。挨拶がある間、都市は持ちこたえる。
「共同運営、ほんとにやるのね」と彼女。
「やる。仕様書も改訂済み」
「恋愛仕様書も?」
「……『公開矯正』の項目だけ、置いた」
「遅い。けど、承認」
冗談の音程で交わす合意は、実務のネジにねっとり絡む。ふたりの間の距離は、乾いたユーモアの表面張力で保たれている。近い。べったりは、構造に悪い。
◇
サミットの終盤、ステージの中央に簡易の卓が運ばれ、「公開審理の実演」が行われた。扱うのは、軽微な混同事案——ある切り抜き動画が、原配信者のUIを模した形で編集を行い、ラベルを怠っていた件。該当チャンネルの代表が登壇し、編集手順と意図を説明する。安全チームが技術的な指摘をし、法務が条文の該当箇所を示し、視聴者代表が「勘違いのポイント」を指さす。最後に矯正策が提示される。
「訂正動画の作成(原動画と同等のリーチで配信)」「ウォーターマークの強制付与(自動署名)」「補償プールへの拠出(一定期間)」。規定の条項番号が読み上げられ、代表は頷く。「わかりました。やります」。怒号は出ない。拍手が出る。拍手は、処罰への快楽ではなく、直す手順への納得に対して向けられている。拍手の種類が変わると、都市の色が変わる。色は、香りより長持ちする。
閉会の挨拶で、プラットフォームの政策担当が言った。「本日の議論と実演を踏まえ、“安全配信ガイドライン”のドラフトを来月にも公開します。併せて“公開審理”の常設化を進めます」。拍手。硬いが、良い硬さ。刺さらず、支える硬さ。
礼音は最後にもう一言、壇上で言葉を置いた。「——炎上は、舞台の照明として優秀すぎた。照らしすぎて、目が焼けた。これからの照明は、椅子を照らすために使う。座れる場所を明るくする。立って叫ぶ人の背中も、座って考える人の指先も、両方見える光で。……その設計を、続けます」
会場の光が、少しだけ暖かくなった気がした。気のせいではないかもしれない。照明オペレーターの手が、ほんの少し、温度のつまみを上げたのだろう。
◇
夜、スタジオに戻る。机の上には、改訂済みの仕様書が重ねてある。「神谷礼音/ヤチヨ 共同運営仕様書(公開版/改訂1)」。ヘッダの下に、新しい項目が増えている。「共同決裁のフロー」「公開矯正の手順」「矯正アーカイブの作成」「代表の椅子の数」「疲労の費目」。最後の項目は、ヤチヨが勝手に足した。「疲労の費目:申請すれば付与。非公開でも可。可視化すれば共有も可」。疲労は、制度の敵ではない。無視が敵だ。
復帰からの連日配信は、数字の上では安定していた。滞在時間は伸び、違反申告は減り、理由付き投票の参加率は緩やかに上昇。視聴者クレジットの欄には、新しい名前が、緊張とともに小さく並ぶ。小さい名札は、人間の身長に合っている。巨大な名札は、デモの道具だ。デモは必要だが、いつもではない。
ある晩、匿名のDMが届いた。「“切抜き工房Z”の中から。本当に“公開審理”に出る。条件はひとつ——吊し上げにしないこと」。礼音は短く返した。「椅子を並べます」。返ってきたのは、唐突なスタンプ。椅子の絵。人は、絵の方で先に合意できることがある。
日付が変わる手前、礼音はベランダに出た。遠くで、夜間清掃の水の音。浅層ダンジョンの入口のライトが、早朝の準備のためか、点いたり消えたりしている。光は、噂より遅い。だから、長持ちする。長持ちする光の下で、彼はスマホを取り出し、短い文を打った。「——『潰し合い』の代わりに、『直し合い』を娯楽にする。紙にも、光にも、音にも、その仕様を埋め込む」。送信先は、自分のメモ。未来の自分宛て。未来は既読をつけないが、読み落とさない。
背後で、カーテンが揺れた。ヤチヨが顔を出す。「お湯、沸いた。手、洗って。仕様書、触ってる手でカップ持つと、紙の味がする」
「紙の味、嫌いじゃない」
「うん、でも今は紅茶の味の方がいい」
彼女はカップを二つ持ち、ひとつを礼音に渡した。指が触れ、温度が移る。移った温度は、言葉より早く理解される。理解された温度は、仕様書の余白を増やす。余白は、次の改訂の居場所だ。
「次のダンジョン、どこ行く」と彼女。
「制度の迷宮」
「地図、ないよ」
「透明な道具はもうある」
「なら、行ける」
返事は短いほど、強度が上がる。二人は黙って紅茶を飲み、夜の温度の落ち方を確かめた。都市は、眠りに入る準備に手間がかかる。その手間の上で、配信が朝を迎える。朝は残酷でも優しくもない。ただ、次の検証の時間だ。
礼音はカメラの電源を切り、マイクのポップガードを外し、仕様書を重ね、角をまた揃えた。角が揃うと、筋肉がほどける。ほどけた筋肉は、明日のために巻き直せる。巻き直す手順は、もう書いてある。書いてあるから、彼は眠れる。眠りの費目は、今日だけ非公開にする。非公開は、秘密ではない。非公開は、尊重だ。
ベッドサイドの端末が、小さく震えた。プラットフォームからの内部連絡。「“公開審理”常設化に関する承認および、第一回・重大事案の予定。——共同モデレーションとして、神谷・ヤチヨに依頼」。礼音は画面を伏せ、息を整えた。重大事案。きっと、椅子を増やす必要がある。椅子を並べるのは力仕事だ。でも、筋肉はある。筋肉は疲れる。疲れるから、制度がある。制度があるから、ふたりで眠れる。
「——おやすみ」と、同時に言った。誰に向けてでも、互いに向けても。暗闇は、可視化の前夜だ。黒は、最初のスクリーン。そこに、明日のUIが薄く浮かぶ。理由、重み、クレジット、封印。椅子。拍手。矯正。仕様書の余白。——そして、小さく、握られた手の温度。大団円という言葉は、舞台の上ではなく、袖で起きる。袖で起きるから、次の幕が開く。幕は透明で、風に揺れる。その揺れの音を、都市は覚えた。覚えている間、BANは解除され続ける。解除の度に、手続は太る。太った手続は、風にしなやかだ。しなやかなものが、長持ちする。長持ちするものが、勝ちに似る。勝ちに似るものを、勝ちと言わず、ただ積み上げる。積み上げた先に、ふたりの次のダンジョンが口を開けている。地図はない。だが、透明な道具は、もうある。



