朝の新宿三丁目は、夜の名残を少しだけ保存している。看板の電球が一つ二つと遅れて眠り、路地の空気がまだ甘い香料を抱えたまま薄くなる。その人工の朝靄の端で、神谷礼音は「入口」に立った。自治体が仮設した警告パネルには《浅層ダンジョン・花街ループ》とある。浅層——深度は最大で-11、位相の歪みは安定期、観光課の推奨ルートは遊歩道化された楕円の第1帯域まで。だが、今日の礼音は、緊急時退避仕様の第2帯域の扉を使う。
カメラの赤いランプが灯る。今日の配信は「公開検証」。BANの異議申立ての核心、つまり「模倣不能性」と「群衆意思の設計」を、最前面に出して見せる日。画面の向こう側にいるのは、視聴者だけではない。警備員、自治体観光課の職員、探索協会の先輩二名、プラットフォームの安全チームの三人、そして抽選で選ばれた視聴者代表——ブース内で顔を隠し、音声は加工。それぞれに役割がある。全員が目撃者だ。
礼音はまず、ボードを出した。黒地に白い図表。太く引かれたフローチャートの起点に「危険度評価」。次に「装備説明」「退避経路」「実演」「記録封印」。矢印とチェックボックス。〈切る〉という漢字を、彼は小さく余白に記し、拡大して見せた。
「手順を“切ります”。まとめて見ない。細かく切って、順番に見せる。——危険はゼロにできない。けど、可視化して切り分ければ“真似”は難しくなる。模倣は、塊の方が楽だから」
画面の端には、今日の“UI”が重なる。《投票》は常設ではなく、項目ごとに短く開閉されるようになっている。投票に付随するのは、短いテキスト欄。「選ぶ理由を書いてください(最大30字)」。理由のない投票は反映されない。ヤチヨが事前に決めたルールだ。「視聴者意思の最大化はしない。参加は“理由付き投票”のみ」。賛否を騒音にしないための楔。
危険度評価——まずは花街ループ固有のリスク。「香気迷路」。舗道からわずかに階層が下りると、香料の粒子が空気の層を作り、視界ではなく鼻孔の地図をずらす。人間は匂いで道を覚える。覚えたことを裏切る香りは、軽いパニックを呼ぶ。自治体観光課の職員が手を挙げ、用意された小冊子を示す。「香気値は午前中の方が低いです」。画面に重なる小さなバーが、センサーの値を示す。今は「緑」。
続いて、装備説明。礼音はポーチの中から、ハーネス、軽量ロープ、スナップ、グローブ、換気用の吸気フィルタ、携帯用の熱源を出し、ひとつずつテーブルに並べた。カメラは物を映すよりも、手つきを映すべきだ。手つきには緊張が宿るし、緊張は視聴者を落ち着かせる。
「命綱は今日は“浅層仕様”。最大荷重はこのくらい。アンカーは自治体の常設に加えて、携行式を補助に使う。退避経路は、入口側の『光の環』に戻るループと、管理動線の『裏配管ルート』。——今日は見せたいのは“裏配管”」
チャットがざわめく。《裏!》《配管!》《わかりやすい!》。そこに、切り込みのように入ってくる匿名アイコンの連投。《赤い梯子を登れ!》《赤い赤い赤い》《登れコール》。既視感のある煽り。炎上屋は今日もいる。ヤチヨがモデレーションコンソールから新ルールを適用、連投は画面には見えなくなる。ログには残す。理由なき煽りは可視化しない。理由がある煽りは可視化する。〈煽り〉と〈提案〉の区別は、30字でつく。
「投票を開きます。『青い扉・裏配管ルート』と『赤い梯子・香気デッキ越え』。——理由を、添えて」
投票のUIが開くと、画面の左側に小さなコメントがぽつぽつ灯り始める。《青:香気値が朝は低いので、裏配管の流れが読める》《青:退避が短い》《赤:見晴らしが良いから地図が作れる(ただし風が強い)》《青:配管の温度差が使えそう》。連投の波は消え、〈理由〉の連なりが味わえる速度になる。投票は“理由”を伴うと速度が落ちる。落ちた速度が、今日の見せ場だ。
結果、青が七割を占めた。礼音はうなずき、扉のハンドルに手をかける。扉は重くない。重くない扉は、油断させる。油断を手順で打ち消す。
裏配管ルートは、建物の背骨のような通路だ。高さは人の背丈を少し余らせ、幅は大人二人がすれ違えるほど。配管に巻かれた保温材が白い帯となって連なっている。その一部に、すでに人の手で巻き直された跡がある。自治体のメンテ記録と一致。礼音は携帯熱源を保温材の一部に近づける。指示温度まで上げると、経路の温度傾斜が生まれる。空気は温度差につられる。彼はポーチから薄い膜を取り出した。水分を含ませて、通路に小さく広げる。霧が、起きる。
「即席の“霧”で、罠の気流を可視化します。——配管の向こう側から、規則的な負圧。これは、香気迷路の拡散用ファン。ファンが作る風は均一だけど、罠はむしろ『均一』を乱すためのものだから、ここで乱流が生まれてるはず」
霧が細く吸い込まれ、次の瞬間、横に裂ける。裂け目の向こうに微かな揺れ。細い針のような“放香枝”が列をなし、たわむ。香りの破片で視覚を曇らせる罠。礼音は霧の流線を見ながら、足の置き場を選ぶ。迷路に迷わされるのではなく、迷路の意図を迂回する。視聴者から歓声の絵文字。安全チームの一人は無意識に前のめりになり、すぐ姿勢を正してメモを取る。
視聴者代表のブースから、加工音声が質問を飛ばす。「家庭で同じことは、できますか」
「できません」と礼音。「これは国家認可施設の安全枠内で使う『霧』。温度差と換気設備と、管理側の配置データがあって初めて成立する観察。家庭で換気扇の前で真似しても、危険。——だから、方法だけを真似しないで、〈必要条件〉を真似してください。必要条件は『施設』『認定者』『ログ』」
フローチャートの次の項目、「退避経路」を指さし、ルート合流点の〈光の環〉へ一度戻る。戻るという行為は、視聴者体験のテンポに穴をあける。しかし、その穴をあえて空けることで、配信の信頼性が積算される。穴は、手続のための呼吸だ。
中継の合間、画面に薄く「モデレーションログ」が帯として流れる。ヤチヨが可視化するのは、削除・保留にしたコメントの分類。「危険誘導(理由なし)」「未成年の模倣を示唆」「装備誤情報」「提案(採用済)」。削除の理由は削除しない。理由は残す。それが、今日の実験のもう一つの柱。
第二の実演は、香気迷路の“音”の確認。礼音は小さなチューブを配管に当て、耳元の骨導マイクに繋ぐ。配管の中の空気の「唸り」は、ファンと罠の干渉で生じる拍。拍はエンジンの脱調と似たリズムを持つ。リズムは見える。画面に波形が現れ、視聴者は耳で図面を読む。チャットに「ここ好き」「音で安心する」の声。安心は演出の敵ではない。安心は、不必要な演出を不要にする。
最終セクション、「記録封印」。今日のログ——心拍、温度、風速、チャットの投票と〈理由〉、モデレーションの分類、ファンの回転数の推定——すべてを印刷して封筒に入れ、視聴者代表が封を押す。封印は儀礼。儀礼があると、手続が人の記憶に残る。人の記憶が残ると、炎上は起点を失う。
帰還時、自治体観光課の女性職員が頭を下げた。「管理目線でも、勉強になります。“裏配管”の可視化は、観光パンフに載せられないけど、私たちのマニュアルには載せたい」
礼音は笑って、「条件付きなら」と返す。条件は三つ。施設内のみ。認定者の同伴の明記。必要条件の列挙。〈方法〉だけ剥き出しにしない。それが今日の合言葉。
◇
夕方、場所を変えて、プラットフォームの会議室。非公式ミーティング。壁は白く、窓から見える都市はガラスの層で段階的に薄くなる。机の上に紙コップのコーヒー。二重底の冷たさ。対面に座るのは、安全チームの三人と、政策担当の男性、法務の女性。画面共有には、礼音の資料。「公開検証のサマリ」「UI設計と群衆意思」「模倣不能性の要件」「ログ封印の手続」「モデレーションの可視化」。
「先に、これを見ていただきたい」礼音は、例の「混同」の痕跡を示す。サンプルとして添付された《レッドルート死亡回》。他配信者の映像に、自分のロゴが被さっていると主張する根拠——ロゴの反射角と照明角度の矛盾、エンコードの世代差、フレーム単位での境界の“ざらつき”。証拠は物理ではない。だが、物理の比喩で説明できる程度には、固い。
社員の一人が眉間を押さえ、「把握しています」と言った。「特定配信者のコミュニティが、プラットフォーム外で“混同動画”を拡散している。私たちも追っているが、外部領域での削除権限はない」
礼音は頷いた。「権限の話はわかります。だから、提案があります。——共同で“安全配信ガイド”を作りませんか。視聴者参加の設計、危険の可視化、再現不可能性の説明、モデレーションの透明化、誘導の許容範囲。すべて言語化して公開する。それが『模倣を誘発しない配信』の根拠になる。外に出回る“混同”に即時に対抗できなくても、内側に“参照点”があるだけで、揺さぶりは弱くなる」
政策担当が腕を組む。「『参照点』は、誰が負う? 君たち配信者は自由であるべきだが、自由は規格と相性が悪い」
「規格は自由の敵じゃありません。自由の“手続”です」と礼音。「“これを読めば安心”じゃなく、“これを読めば、安心の作り方が理解できる”。——今日の視聴者のチャットは、そういう反応でした」
法務の女性が、資料の紙をめくる手を止めた。「群衆意思の扱いで、君は『最大化しない』と明言した。これは、視聴者数の減少に繋がる恐れがある。数字は誤魔化せない」
「数字は、“今日”の味方ではなく、“日々”の味方です」と礼音。「今日だけの数字は、明日の敵になる。——それに、今日の配信の数字は、味方でしたよ」
会議室の壁のスクリーンに、社内ダッシュボードが映る。視聴者の滞留時間、チャットの感情分析、違反申告の件数、再生の後に押された「保存」の数。数字は、礼音の言葉の裏付けになり得る程度には、静かに上を向いている。政策担当は小さくため息をつき、「渋いな」と呟いた。渋いのは顔か、決断か。
安全チームの若い男性が手を挙げる。「『理由付き投票』の仕組み、UIの負荷は高いですが、効果が見えました。社内の実験環境で検証して、テンプレ化できないか試したい」
法務は「慎重に」と添えた。「“理由”の中に個人情報や医療情報が含まれた場合の扱い、未成年の参加範囲、各地域の表現規制との整合。——“ガイド”の名の下で規約を拡張するのは、慎重に」
礼音は肩の力を少し落として笑った。「慎重に、公開で。閉じたままの慎重さは、炎上の燃料になります」
窓の外、夕方の光がガラスで層を作る。層は、それぞれに違う都市を映し、同じ夕焼けを別々の濃度で抱える。礼音は「層」という言葉を頭の中で転がしながら、机の端のコップに口をつけた。薄いコーヒー。味が薄いのは、悪くない。薄い味は、思考を邪魔しない。
「……わかりました」と政策担当。「ガイドの“原案”を作りましょう。外部の専門家も入れる。君と、協会と、うちの安全チームとで、初稿を三週間で」
「早い」とヤチヨが、小声で笑った。社内の速度としては、たぶん早い。遅くしていいものではないのだろう。ガラスの層は、いつかズレる。
会議が終わり、エレベーターホールで、法務の女性が礼音にだけ聞こえる声で言った。「……君、疲れてるね」
「少し」
「疲労の費目は、申請した?」
礼音は一拍おいて笑う。「あります?」
「非公式にね。うちの中にも、人間がいる」
エレベーターの鏡に、少し疲れた自分の顔が映る。BANの朝の顔とは違う。少し“技術に戻した”顔。戻す、という言葉は、進むのと同じくらい疲れる。スタジオに戻る道すがら、彼は手帳に太字で書いた。「共同:安全配信ガイド」。次に細い字で。「視聴者代表の位置付け/UIテンプレ/ログ封印の標準化/『理由』の匿名化」。箇条書きの終わりに、線を引き、「混同対応の説明責任」。説明責任は自分の仕事だ。混同は相手の仕事。だが、相手の仕事が遅いとき、こちらの仕事が増える。仕事は連鎖する。連鎖を管理するのが、〈手続〉だ。
◇
夜。スタジオ。カメラの前に座り、今日をふりかえるサマリ配信を短く行う。「浅層ダンジョン・花街ループ」の入口からの映像がダイジェストで流れ、霧の裂け目、配管の唸り、封印の印。チャットは今日の「穴」を愛している。《戻ってくれたの良かった》《穴、大事》《理由書くの、面白い》《考えるの疲れたけど気持ちいい》。疲労を快楽に変えるのは、娯楽の本丸ではないのかもしれない。だが、今日のところは、そうであってほしい。
配信の終わり際、礼音は画面端に一枚の紙を映した。「安全配信ガイド(原案)」。表紙だけ。項目は未記入。コメント欄に「それ見たい」の嵐。数字は味方だ。味方は、戦力ではない。気圧のようなもの。気圧が高いと、呼吸が楽になる。
配信を切ると、通知が一つ。プラットフォームからの公式声明の草稿が送られてきた。「本日、神谷様の公開検証配信を受け、当社は安全な参加型配信のガイドラインの策定に着手します。併せて、先日のチャンネル停止に関する調査を継続中です」。文案は固い。固い文は、それでも人を安心させる。固い椅子は、短時間なら姿勢を正すのに向いている。
もう一つ、匿名からのDM。「“混同動画”は今も増殖中。外部領域のモデレートは効かない。次は、“生成”。君の声で、君の顔で、『ルール破り』を喋る“君”。——対策を」。短い映像が添付されていた。画面の中で、“礼音”が笑い、言う。「今日は赤い梯子で死を覗きに行く」。口の形、視線の向き、ロゴの出し方。彼の癖が巧妙に模倣されている。だが、何かが違う。違いは、温度だ。言葉に熱が寄っていない。作り物の熱。彼の体が、拒否感で僅かに粟立つ。
ヤチヨに繋ぐ。「見た?」
「見た。これは『構造』じゃなく、露骨に『敵意』。でも、対策は同じ。手続に戻す。——君の“本物の癖”を、言語化して公開しておく。『本物の神谷礼音は、配信でこれをする/これはしない』。真似られやすいところを、先に規格にする。模倣可能性を下げる、“自分の仕様書”」
「自分の仕様書……」
「うん。気持ち悪い、って顔したね。気持ち悪さの理由も、書こう。『なぜ気持ち悪いか』。その説明が、視聴者の免疫になる」
礼音は笑い、深く息を吸った。今日、何度目かの深呼吸。酸素が熱を連れて肺を出入りし、その熱が少しずつ、冷静と混ざる。「——やろう」
窓の外、深夜の新宿三丁目は、朝の準備を少しだけ始めている。電球のいくつかが、点検のためにまた灯る。浅層ダンジョン・花街ループの入口は、今は封鎖され、警備員が眠気と戦っている。都市は、分厚い眠りを持たない。だから、人が眠る。人が眠るために、手続がある。手続があるから、明日の配信は起動できる。
礼音は机の上に新しい紙を出し、ヘッダを記した。「神谷礼音・配信仕様書(公開版/改訂0)」。項目が並ぶ。「開幕の安全宣言」「今日の危険度のことば・数の両面提示」「UIの原則:理由付き投票/戻るボタン/タイムアウト音」「モデレーションの公開」「模倣不能性の三要件」「封印手続」「未成年視聴者への帯」「楽しみ方の提案(手汗/耳の設計図/ロジックの味)」。最後に、「やらないこと」。項目は、空白のまま少しの間、紙の上で光る。空白は約束の予告だ。埋めるのは、明日の朝。
彼はマイクの位置を整え、カメラの焦点を直し、喉を温めた。配信ボタンには触れない。今日は終わり。終わりは始まりの隣に置く。BANの朝が、公開検証の昼になり、ガイドの夜になった。次は——構造と敵意の境を、手続に置き換える朝だ。
「——おやすみ」と、誰にともなく言って、電気を落とした。画面の黒は、何も写さない。けれど、黒は反射する。自分の顔が、そこにうっすらと戻る。仕様書の白が、暗闇に浮いている。白は、まだ薄い。薄い白を厚くするのが、明日の仕事だ。数字は味方だ。味方は気圧だ。気圧を上げるのは、派手な炎ではなく、地味な手続き。地味は、長持ちする。長持ちは、勝ちに似ている。勝ちに似ているものを、勝ちと言わずに済ませるのが、大人の配信だ。
カメラの赤いランプが灯る。今日の配信は「公開検証」。BANの異議申立ての核心、つまり「模倣不能性」と「群衆意思の設計」を、最前面に出して見せる日。画面の向こう側にいるのは、視聴者だけではない。警備員、自治体観光課の職員、探索協会の先輩二名、プラットフォームの安全チームの三人、そして抽選で選ばれた視聴者代表——ブース内で顔を隠し、音声は加工。それぞれに役割がある。全員が目撃者だ。
礼音はまず、ボードを出した。黒地に白い図表。太く引かれたフローチャートの起点に「危険度評価」。次に「装備説明」「退避経路」「実演」「記録封印」。矢印とチェックボックス。〈切る〉という漢字を、彼は小さく余白に記し、拡大して見せた。
「手順を“切ります”。まとめて見ない。細かく切って、順番に見せる。——危険はゼロにできない。けど、可視化して切り分ければ“真似”は難しくなる。模倣は、塊の方が楽だから」
画面の端には、今日の“UI”が重なる。《投票》は常設ではなく、項目ごとに短く開閉されるようになっている。投票に付随するのは、短いテキスト欄。「選ぶ理由を書いてください(最大30字)」。理由のない投票は反映されない。ヤチヨが事前に決めたルールだ。「視聴者意思の最大化はしない。参加は“理由付き投票”のみ」。賛否を騒音にしないための楔。
危険度評価——まずは花街ループ固有のリスク。「香気迷路」。舗道からわずかに階層が下りると、香料の粒子が空気の層を作り、視界ではなく鼻孔の地図をずらす。人間は匂いで道を覚える。覚えたことを裏切る香りは、軽いパニックを呼ぶ。自治体観光課の職員が手を挙げ、用意された小冊子を示す。「香気値は午前中の方が低いです」。画面に重なる小さなバーが、センサーの値を示す。今は「緑」。
続いて、装備説明。礼音はポーチの中から、ハーネス、軽量ロープ、スナップ、グローブ、換気用の吸気フィルタ、携帯用の熱源を出し、ひとつずつテーブルに並べた。カメラは物を映すよりも、手つきを映すべきだ。手つきには緊張が宿るし、緊張は視聴者を落ち着かせる。
「命綱は今日は“浅層仕様”。最大荷重はこのくらい。アンカーは自治体の常設に加えて、携行式を補助に使う。退避経路は、入口側の『光の環』に戻るループと、管理動線の『裏配管ルート』。——今日は見せたいのは“裏配管”」
チャットがざわめく。《裏!》《配管!》《わかりやすい!》。そこに、切り込みのように入ってくる匿名アイコンの連投。《赤い梯子を登れ!》《赤い赤い赤い》《登れコール》。既視感のある煽り。炎上屋は今日もいる。ヤチヨがモデレーションコンソールから新ルールを適用、連投は画面には見えなくなる。ログには残す。理由なき煽りは可視化しない。理由がある煽りは可視化する。〈煽り〉と〈提案〉の区別は、30字でつく。
「投票を開きます。『青い扉・裏配管ルート』と『赤い梯子・香気デッキ越え』。——理由を、添えて」
投票のUIが開くと、画面の左側に小さなコメントがぽつぽつ灯り始める。《青:香気値が朝は低いので、裏配管の流れが読める》《青:退避が短い》《赤:見晴らしが良いから地図が作れる(ただし風が強い)》《青:配管の温度差が使えそう》。連投の波は消え、〈理由〉の連なりが味わえる速度になる。投票は“理由”を伴うと速度が落ちる。落ちた速度が、今日の見せ場だ。
結果、青が七割を占めた。礼音はうなずき、扉のハンドルに手をかける。扉は重くない。重くない扉は、油断させる。油断を手順で打ち消す。
裏配管ルートは、建物の背骨のような通路だ。高さは人の背丈を少し余らせ、幅は大人二人がすれ違えるほど。配管に巻かれた保温材が白い帯となって連なっている。その一部に、すでに人の手で巻き直された跡がある。自治体のメンテ記録と一致。礼音は携帯熱源を保温材の一部に近づける。指示温度まで上げると、経路の温度傾斜が生まれる。空気は温度差につられる。彼はポーチから薄い膜を取り出した。水分を含ませて、通路に小さく広げる。霧が、起きる。
「即席の“霧”で、罠の気流を可視化します。——配管の向こう側から、規則的な負圧。これは、香気迷路の拡散用ファン。ファンが作る風は均一だけど、罠はむしろ『均一』を乱すためのものだから、ここで乱流が生まれてるはず」
霧が細く吸い込まれ、次の瞬間、横に裂ける。裂け目の向こうに微かな揺れ。細い針のような“放香枝”が列をなし、たわむ。香りの破片で視覚を曇らせる罠。礼音は霧の流線を見ながら、足の置き場を選ぶ。迷路に迷わされるのではなく、迷路の意図を迂回する。視聴者から歓声の絵文字。安全チームの一人は無意識に前のめりになり、すぐ姿勢を正してメモを取る。
視聴者代表のブースから、加工音声が質問を飛ばす。「家庭で同じことは、できますか」
「できません」と礼音。「これは国家認可施設の安全枠内で使う『霧』。温度差と換気設備と、管理側の配置データがあって初めて成立する観察。家庭で換気扇の前で真似しても、危険。——だから、方法だけを真似しないで、〈必要条件〉を真似してください。必要条件は『施設』『認定者』『ログ』」
フローチャートの次の項目、「退避経路」を指さし、ルート合流点の〈光の環〉へ一度戻る。戻るという行為は、視聴者体験のテンポに穴をあける。しかし、その穴をあえて空けることで、配信の信頼性が積算される。穴は、手続のための呼吸だ。
中継の合間、画面に薄く「モデレーションログ」が帯として流れる。ヤチヨが可視化するのは、削除・保留にしたコメントの分類。「危険誘導(理由なし)」「未成年の模倣を示唆」「装備誤情報」「提案(採用済)」。削除の理由は削除しない。理由は残す。それが、今日の実験のもう一つの柱。
第二の実演は、香気迷路の“音”の確認。礼音は小さなチューブを配管に当て、耳元の骨導マイクに繋ぐ。配管の中の空気の「唸り」は、ファンと罠の干渉で生じる拍。拍はエンジンの脱調と似たリズムを持つ。リズムは見える。画面に波形が現れ、視聴者は耳で図面を読む。チャットに「ここ好き」「音で安心する」の声。安心は演出の敵ではない。安心は、不必要な演出を不要にする。
最終セクション、「記録封印」。今日のログ——心拍、温度、風速、チャットの投票と〈理由〉、モデレーションの分類、ファンの回転数の推定——すべてを印刷して封筒に入れ、視聴者代表が封を押す。封印は儀礼。儀礼があると、手続が人の記憶に残る。人の記憶が残ると、炎上は起点を失う。
帰還時、自治体観光課の女性職員が頭を下げた。「管理目線でも、勉強になります。“裏配管”の可視化は、観光パンフに載せられないけど、私たちのマニュアルには載せたい」
礼音は笑って、「条件付きなら」と返す。条件は三つ。施設内のみ。認定者の同伴の明記。必要条件の列挙。〈方法〉だけ剥き出しにしない。それが今日の合言葉。
◇
夕方、場所を変えて、プラットフォームの会議室。非公式ミーティング。壁は白く、窓から見える都市はガラスの層で段階的に薄くなる。机の上に紙コップのコーヒー。二重底の冷たさ。対面に座るのは、安全チームの三人と、政策担当の男性、法務の女性。画面共有には、礼音の資料。「公開検証のサマリ」「UI設計と群衆意思」「模倣不能性の要件」「ログ封印の手続」「モデレーションの可視化」。
「先に、これを見ていただきたい」礼音は、例の「混同」の痕跡を示す。サンプルとして添付された《レッドルート死亡回》。他配信者の映像に、自分のロゴが被さっていると主張する根拠——ロゴの反射角と照明角度の矛盾、エンコードの世代差、フレーム単位での境界の“ざらつき”。証拠は物理ではない。だが、物理の比喩で説明できる程度には、固い。
社員の一人が眉間を押さえ、「把握しています」と言った。「特定配信者のコミュニティが、プラットフォーム外で“混同動画”を拡散している。私たちも追っているが、外部領域での削除権限はない」
礼音は頷いた。「権限の話はわかります。だから、提案があります。——共同で“安全配信ガイド”を作りませんか。視聴者参加の設計、危険の可視化、再現不可能性の説明、モデレーションの透明化、誘導の許容範囲。すべて言語化して公開する。それが『模倣を誘発しない配信』の根拠になる。外に出回る“混同”に即時に対抗できなくても、内側に“参照点”があるだけで、揺さぶりは弱くなる」
政策担当が腕を組む。「『参照点』は、誰が負う? 君たち配信者は自由であるべきだが、自由は規格と相性が悪い」
「規格は自由の敵じゃありません。自由の“手続”です」と礼音。「“これを読めば安心”じゃなく、“これを読めば、安心の作り方が理解できる”。——今日の視聴者のチャットは、そういう反応でした」
法務の女性が、資料の紙をめくる手を止めた。「群衆意思の扱いで、君は『最大化しない』と明言した。これは、視聴者数の減少に繋がる恐れがある。数字は誤魔化せない」
「数字は、“今日”の味方ではなく、“日々”の味方です」と礼音。「今日だけの数字は、明日の敵になる。——それに、今日の配信の数字は、味方でしたよ」
会議室の壁のスクリーンに、社内ダッシュボードが映る。視聴者の滞留時間、チャットの感情分析、違反申告の件数、再生の後に押された「保存」の数。数字は、礼音の言葉の裏付けになり得る程度には、静かに上を向いている。政策担当は小さくため息をつき、「渋いな」と呟いた。渋いのは顔か、決断か。
安全チームの若い男性が手を挙げる。「『理由付き投票』の仕組み、UIの負荷は高いですが、効果が見えました。社内の実験環境で検証して、テンプレ化できないか試したい」
法務は「慎重に」と添えた。「“理由”の中に個人情報や医療情報が含まれた場合の扱い、未成年の参加範囲、各地域の表現規制との整合。——“ガイド”の名の下で規約を拡張するのは、慎重に」
礼音は肩の力を少し落として笑った。「慎重に、公開で。閉じたままの慎重さは、炎上の燃料になります」
窓の外、夕方の光がガラスで層を作る。層は、それぞれに違う都市を映し、同じ夕焼けを別々の濃度で抱える。礼音は「層」という言葉を頭の中で転がしながら、机の端のコップに口をつけた。薄いコーヒー。味が薄いのは、悪くない。薄い味は、思考を邪魔しない。
「……わかりました」と政策担当。「ガイドの“原案”を作りましょう。外部の専門家も入れる。君と、協会と、うちの安全チームとで、初稿を三週間で」
「早い」とヤチヨが、小声で笑った。社内の速度としては、たぶん早い。遅くしていいものではないのだろう。ガラスの層は、いつかズレる。
会議が終わり、エレベーターホールで、法務の女性が礼音にだけ聞こえる声で言った。「……君、疲れてるね」
「少し」
「疲労の費目は、申請した?」
礼音は一拍おいて笑う。「あります?」
「非公式にね。うちの中にも、人間がいる」
エレベーターの鏡に、少し疲れた自分の顔が映る。BANの朝の顔とは違う。少し“技術に戻した”顔。戻す、という言葉は、進むのと同じくらい疲れる。スタジオに戻る道すがら、彼は手帳に太字で書いた。「共同:安全配信ガイド」。次に細い字で。「視聴者代表の位置付け/UIテンプレ/ログ封印の標準化/『理由』の匿名化」。箇条書きの終わりに、線を引き、「混同対応の説明責任」。説明責任は自分の仕事だ。混同は相手の仕事。だが、相手の仕事が遅いとき、こちらの仕事が増える。仕事は連鎖する。連鎖を管理するのが、〈手続〉だ。
◇
夜。スタジオ。カメラの前に座り、今日をふりかえるサマリ配信を短く行う。「浅層ダンジョン・花街ループ」の入口からの映像がダイジェストで流れ、霧の裂け目、配管の唸り、封印の印。チャットは今日の「穴」を愛している。《戻ってくれたの良かった》《穴、大事》《理由書くの、面白い》《考えるの疲れたけど気持ちいい》。疲労を快楽に変えるのは、娯楽の本丸ではないのかもしれない。だが、今日のところは、そうであってほしい。
配信の終わり際、礼音は画面端に一枚の紙を映した。「安全配信ガイド(原案)」。表紙だけ。項目は未記入。コメント欄に「それ見たい」の嵐。数字は味方だ。味方は、戦力ではない。気圧のようなもの。気圧が高いと、呼吸が楽になる。
配信を切ると、通知が一つ。プラットフォームからの公式声明の草稿が送られてきた。「本日、神谷様の公開検証配信を受け、当社は安全な参加型配信のガイドラインの策定に着手します。併せて、先日のチャンネル停止に関する調査を継続中です」。文案は固い。固い文は、それでも人を安心させる。固い椅子は、短時間なら姿勢を正すのに向いている。
もう一つ、匿名からのDM。「“混同動画”は今も増殖中。外部領域のモデレートは効かない。次は、“生成”。君の声で、君の顔で、『ルール破り』を喋る“君”。——対策を」。短い映像が添付されていた。画面の中で、“礼音”が笑い、言う。「今日は赤い梯子で死を覗きに行く」。口の形、視線の向き、ロゴの出し方。彼の癖が巧妙に模倣されている。だが、何かが違う。違いは、温度だ。言葉に熱が寄っていない。作り物の熱。彼の体が、拒否感で僅かに粟立つ。
ヤチヨに繋ぐ。「見た?」
「見た。これは『構造』じゃなく、露骨に『敵意』。でも、対策は同じ。手続に戻す。——君の“本物の癖”を、言語化して公開しておく。『本物の神谷礼音は、配信でこれをする/これはしない』。真似られやすいところを、先に規格にする。模倣可能性を下げる、“自分の仕様書”」
「自分の仕様書……」
「うん。気持ち悪い、って顔したね。気持ち悪さの理由も、書こう。『なぜ気持ち悪いか』。その説明が、視聴者の免疫になる」
礼音は笑い、深く息を吸った。今日、何度目かの深呼吸。酸素が熱を連れて肺を出入りし、その熱が少しずつ、冷静と混ざる。「——やろう」
窓の外、深夜の新宿三丁目は、朝の準備を少しだけ始めている。電球のいくつかが、点検のためにまた灯る。浅層ダンジョン・花街ループの入口は、今は封鎖され、警備員が眠気と戦っている。都市は、分厚い眠りを持たない。だから、人が眠る。人が眠るために、手続がある。手続があるから、明日の配信は起動できる。
礼音は机の上に新しい紙を出し、ヘッダを記した。「神谷礼音・配信仕様書(公開版/改訂0)」。項目が並ぶ。「開幕の安全宣言」「今日の危険度のことば・数の両面提示」「UIの原則:理由付き投票/戻るボタン/タイムアウト音」「モデレーションの公開」「模倣不能性の三要件」「封印手続」「未成年視聴者への帯」「楽しみ方の提案(手汗/耳の設計図/ロジックの味)」。最後に、「やらないこと」。項目は、空白のまま少しの間、紙の上で光る。空白は約束の予告だ。埋めるのは、明日の朝。
彼はマイクの位置を整え、カメラの焦点を直し、喉を温めた。配信ボタンには触れない。今日は終わり。終わりは始まりの隣に置く。BANの朝が、公開検証の昼になり、ガイドの夜になった。次は——構造と敵意の境を、手続に置き換える朝だ。
「——おやすみ」と、誰にともなく言って、電気を落とした。画面の黒は、何も写さない。けれど、黒は反射する。自分の顔が、そこにうっすらと戻る。仕様書の白が、暗闇に浮いている。白は、まだ薄い。薄い白を厚くするのが、明日の仕事だ。数字は味方だ。味方は気圧だ。気圧を上げるのは、派手な炎ではなく、地味な手続き。地味は、長持ちする。長持ちは、勝ちに似ている。勝ちに似ているものを、勝ちと言わずに済ませるのが、大人の配信だ。



