朝は、通知音の群れとしてやってきた。枕元の端末が震え、机の上のタブレットがわずかに唸り、壁の薄いカーテンの向こうで都心の気配がまだ起ききらない。神谷礼音(れお)は一度だけ目を擦り、次の瞬間、目の乾きが嘘だったと知る。画面に浮いた赤い帯——《重大なお知らせ:コミュニティ ガイドライン違反により、あなたのチャンネルは停止されました》。BANの朝。
体温が数ミリ下がる。皮膚の下で、通知音とは別のざわめきが走った。タップ、タップ。指先は習慣に従って「詳しく見る」を押し、プラットフォームの管理画面へ降りる。「理由:危険行為の助長」「対象:直近のライブ配信」「再発防止の観点から、24時間以内の異議申立てが可能です」。驚いたことに、サンプル動画が添付されていた。クリック。再生。
画面に現れたのは、暗い階層。錆びた鉄格子、血のように赤い光。——見覚えが、ない。赤い梯子の縦棒をつかんだ影が、カメラに背を向け、次の瞬間、足を滑らせる。悲鳴、画面の揺れ、落下。タイトルに《レッドルート死亡回》とある。その右上に、見慣れた自分のロゴ。礼音は眉間を指で押さえた。自分のロゴが、他人の死の上に貼られている。貼り合わせの質は悪くない。だが、悪意の精度は、最低限のところで十分だ。
「理由は“危険行為の助長”。——昨日の俺の配信は、救助成功で終わったはずだ」
彼は口に出して言ってみた。声帯に現実味を分配するためだ。昨日の夜——視聴者アンケートを使い、“分岐”を選ばせる実験をした。暗い階層の“赤い梯子”か“青い扉”。視聴者は赤を選び、彼は装備規格内の安全器具を用い、演算済みのルートでNPCレスキューを成功させた。危険を煽る台詞は言っていない。煽りサムネも、置いていない。規約を読んだのは、彼の方だ。
礼音は大学を辞めた。もっと正確に言えば、「研究計画」を配信に移した。都内各所に自然発生するローグライク型ダンジョン——突発的な位相歪みによって形成され、時間とともに構造が変形する“穴”。行政はこれを危険区域として封鎖しつつ、一定要件を満たした探索者に限り申請制で立ち入りを認めている。国家認可のスポーツ。命綱と保険とログ提出が義務化された領域。
配信は競合が多い。若さと無謀は、再生数の油だ。だが、油はすぐ燃える。燃えることで稼ぐ仕組みは、どこかで壊れる。礼音は、装備や派手な見せ場よりも“規約”を売りにしていた。プラットフォームのコミュニティガイドライン、スポーツ庁の探索規程、協会のロープワーク基準、保険会社の免責条項——枠組みを読み解き、ギリギリを攻めずに、視聴体験の「密度」だけを上げる工夫。危険の描写は抑え、可視化する情報を分厚くする。「規約は地図。罰則は落石注意の看板。看板を愛せば、行き止まりでも景色は良い」。そんな調子の配信で、彼は固定ファンを掴んだ。
だからこそ、BANは青天の霹靂であり、同時に既視感のある罠でもあった。この業界で「一度もBANされていない」ことは、勲章ではなく、敵意の的だ。誰かが火をつけ、誰かが風を送る。火は燃える。そして、燃え殻が残る。
礼音はすばやく呼吸を整え、ノートPCを開いた。サブアカウントのダッシュボード。サムネは無地、タイトルは《緊急》。クリックで配信開始。回線はしっかりしている。彼は最初の一言を選んだ。
「——おはよう。BANされた」
チャットが爆発した。涙の絵文字。怒りのスタンプ。「昨日、救助成功で泣いたのに」「は? プラットフォームがわかってない」「異議申立て、どうするの」「サブスク続く?」。高速に流れる文字列に、見知ったモデレーターの青い名前が並ぶ。「スローモードを入れる」「テンプレ質問まとめはこちら」。ヤチヨだ。元法務のフリーランサー。礼音の“規約読解”を支える大黒柱であり、彼の配信が激流になりそうなときは、堰の設計図を出してくる人。
「理由は『危険行為の助長』。サンプル動画は、俺のじゃない。ロゴが合成されてる」
チャットの速度が一瞬落ちた後、逆に早くなる。《え?》《偽装?》《告発動画見た》《アーカイブ見返す》。その中で、ひとつのアカウントが目につく。灰色のアイコン、ハンドルは地味、だが、発言に内部用語が混じる。「内部で議論中。“群衆意思の危険性”が論点です」。プラットフォーム社員を名乗る。真偽はわからない。だが、「群衆意思」という単語は、昨日の実験の核心に重なる。
礼音はカメラに目線を合わせた。「戦う。配信を“技術に戻す”。——煽りと炎上を餌にせず、規約のもとでできることを全部やる。ヤチヨ、あとで通話」
ヤチヨの名前がすぐ浮かぶ。「準備してる」。チャットに小さな拍手の絵文字が走り、スローモードの間隔が少し長くなった。視聴者の中には、彼に「戦う」姿を期待している人と、「守る」姿を期待している人がいる。どちらにも嘘はつけない。
配信を切り替え、彼は通話アプリを開いた。ヤチヨの声は、朝の冷たい水のように澄んでいる。「詳細、見た。サンプル動画は別配信者のものだね。ロゴは被せ。フレームの縁のアンチエイリアスが合ってない。数秒ごとに、異なるアルファ値」
「つまり、雑。でも、機械は引っかかる」
「『自動検出+通報』の合わせ技。通報側がサンプルを添付し、AIが“類似度”で加点、モデレーションが量に押されて判断を急ぐ。——“群衆意思の危険性”という言葉を出してきたのは、内部本気やね」
「昨日の投票のことか」
「規約条文の“空白”だよ。『危険行為の助長』は、未成年保護と模倣可能性の観点で書かれてる。『視聴者を煽って危険な選択を選ばせる』のはNGに近い。けど、国家認可スポーツで、正式装備、資格者同行、保険加入、そして“模倣不能”の設計。ここに空白がある。——礼音、あんたの強みは、空白を悪用しないで、空白を説明するところ」
「模倣不能の証明、いるな」
「“探索ログ”と“機材の安全マニュアル”、そして“運用基準”。レッドルートかブルードアか、選択そのものが危険かどうかじゃない。選択後の行為が“模倣不能”かどうか。未成年が同じことを家でできない、って意味で」
礼音は頷き、キーボードを叩き始めた。昨日の配信のバックエンドログ。彼は独自の“ルートシード”を管理している。階層の位相から乱数を抽出し、ルート識別子として署名。救助対象のNPC——行政の演算体の一種——の位置プロファイルと、救助行為の条件分岐を、時刻とともに記録している。ログは黒いスクリーンに白い文字で現れる。心拍数、酸素濃度、ロープ荷重リアルタイム、照明のルクス。すべて、提出先が決まっているもの。公表は義務じゃないが、今は責任の議論だ。
「公開検証配信をやる。視聴者代表を招いて、機材の安全性と演算の“模倣不能性”を現場で説明する。安全マニュアルはウェブに公開。——“技術に戻す”」
ヤチヨが短く息を呑んだ。「第三者の安全管理者も呼ぶ。認定探索士の先輩に当たる。未成年視聴者のための注意表示は、最初から最後まで帯で。スパチャ読みは後回し。チャットの『やってみた』系コメントはモデレートする」
礼音は笑った。「“やってみた”は禁止ワードに入れよう」
「入れた」
そのとき、机の上の古いスマホが震えた。見慣れない番号。躊躇いながら出る。「神谷さんですか。プラットフォームのX部署の者です」。女性の声。「チャットに書き込んだのは私ではありません。ただ、“群衆意思の危険性”が社内の論点なのは事実です。……あなたの投票は、どこまで“操作”していますか」
「操作?」
「選択肢の提示方法、誘導、時間配列。『赤い梯子』と『青い扉』。色の心理効果は?」
礼音は肩の力を抜く。「赤が危険、青が安全、という誘導は入れてない。赤いのは実際に赤い梯子だったから。色の名称を変えたら、現場の一致性が落ちる。——ただし、投票の最後十秒で、ブザーを鳴らした。迷う時間は短い方が安全。安全のための誘導はした。でも、危険に向けてじゃない」
「記録、ありますか」
「全部、あります」
通話はそこで切れた。礼音は椅子に座り直し、深呼吸をしてから、再び配信をオンにした。サブアカウントの画面。視聴者は、午前の仕事へ散っていきながら、まだ残っている。《代表募集?》《どうやって?》《顔出し嫌》。「代表は匿名でいい。身元確認は協会経由。現場では顔出し不要、声は加工。——“あなたがそこにいる”ことを、ルールの中で示せればいい」
コメント欄に、ひっそりと「ありがとう」と表示され、それから「やるなら、投票のUIも透明にして」と続く。「ログを見せつつ配信」「モーダルはやめて」「戻るボタンつけて」。視聴者の「改善提案」は時に過激だが、方向は嫌いじゃない。礼音はメモアプリに書き連ねた。
◇
昼過ぎ、彼はコンビニで弁当と栄養ゼリーを買い、曲がり角の小さな公園で食べながら、BAN通知の文面を紙に起こした。紙に起こすのは、文章を“手続き”から“目の前の物体”に戻すためだ。「危険行為の助長」。文章の骨は二本ある。「未成年」「模倣可能」。その上に、「過度な反社会的行為の宣伝」「保険未加入」「専門家不在」「アルコール併用」「密造装備」「医療行為の模倣」など、枝葉の条項が絡む。礼音は一本一本、消していく。保険加入済み。専門家同伴認証済み。行政の許可済み。映像に未成年向け誘導なし。——残るのは、「群衆意思」。赤いペンで丸を付けた。
「群衆意思の危険性」——つまり、視聴者という群れが“危険な選択を好む”傾向と、その結果責任の所在。彼は思い返す。昨日の投票、赤い梯子に票が集まったときの、チャットの冗談と緊張。「赤は正義!」「いや青派」「10、9、8——」。彼はそこで、提示時間を短縮し、安全ブザーを鳴らした。群衆は興奮の中で、冷静に引き戻された。——あの瞬間を、彼は自慢したいと思ってはいけない。手続は自慢のためにあるのではないから。
風が少し強くなった。紙の端がめくれ、線がずれる。ずれは嫌いではない。橋はいつも、多少のずれを許容する。ずれを許容しない橋は、折れる。配信も同じだ。完璧な制御が、最初に破綻する。許容の幅を設計する——それが“規約読解”の本体だ。
スマホがまた震えた。通知——匿名のDM。添付画像。プラットフォームの内部ダッシュボードらしきスクショ。「君のseedが抜かれてる」。一行のメッセージ。礼音は息を止めた。seed——彼がルート識別に使う乱数の核。公開していない。探索協会にだけ伝える。プラットフォームにも提出しない。抜けるとすれば、視聴者に見える映像以外から。別配信者の“レッドルート死亡回”に、彼のロゴが重ねられていたのは、その前段か。
「ヤチヨ、今の送る」
五秒で通話。「スクショは本物ぽい。内部のタイムライン、テスト用のフラグ。seedの断片が『コンテンツID』の学習に混ざってる可能性。——誰かが意図的に混ぜたか、拾ったか。いずれにせよ、混同が発生しやすい土壌」
「炎上屋、いるか」
「いる。昨夜、某サーバーで“赤ルート衛星企画”とかいう雑談が出回ってた。サンプルも落ちてる。——ただし、法務として言う。敵は『同業の炎上屋』じゃない。“構造”。“構造”が敵になることがある」
礼音はベンチから立ち上がった。歩きながら、指先が軽く震える。怒りではない。今は使うべき筋肉が違う。彼は自室に戻ると、カメラとライトを設置し直し、背景の黒幕を少し下げた。黒は、心を落ち着かせる。落ち着きは、視聴体験の密度を上げる。
緊急配信——第二回。タイトルは《異議申立ての設計図》。説明欄に、こう書いた。「この配信は、プラットフォームの規約と、国家認可スポーツの規程に基づいて行われます。未成年者は視聴を控えるようにお願いします。配信内では、模倣不能性を説明するための機材とログを公開します。——炎上のためではなく、手続のために」。
カウントダウン。開始。最初の十分は、ハウスルールと安全注意。次の十分で、昨日のルートのログを視覚化。心拍数曲線、ロープ荷重のピーク、梯子の角度、固定点アンカーの強度、NPCのプロファイル。ヤチヨが横で、画面の端に小さなペーパーを表示する。「スポーツ庁『都市型探索競技規程』第12条」「協会『落下防止具基準』」「保険『危険行為の定義と免責』」。チャットにはスローモード。モデレーターが、経験者と未経験者の質問を分ける。経験者には専門的なQ&A、未経験者には「見るだけ」の楽しみ方の提案。「手の汗で楽しむ」「耳で図面を読む」「選択のロジックを味わう」。楽しむことは、参加ではない。参加の前段にあるものだ。
「“模倣不能”の定義を提示します」と礼音。「次の三つを満たす行為は、未成年や一般視聴者が家庭で再現できない、つまり、模倣不能である。一、国家認可の施設内でのみ行える設備を必要とすること。二、認定者の同伴と書面承認が必須であること。三、行為の成否が事前に計算可能であり、偶然を要件に含まないこと。——昨日の赤い梯子は、この三つを満たしていた」
チャットに、灰色のアイコンが一つ。「内部」ではない。「友人の友人」。そこに表示された短い文が、彼の背中を押した。「定義の要件、明確。——“群衆意思”の危険性は、UI設計で緩和できる。誘導の適法性は記録で担保。——議論、持っていける」。
さらに、視聴者代表の選出方法を発表。応募は協会のフォーム経由。抽選で三名。現場では匿名、声は加工、顔は隠す。代表が現場で確認するのは、機材の実在、手順の遵守、演算ログの一致。彼らが見るのは「危険」ではなく、「危険を避ける工程」。
「俺は“規約読解”で食ってきた。——だから、規約の外に出ない。出ないで戦う。これが“技術に戻す”ということです」
拍手の絵文字が、スローモードの隙間に静かに並んだ。スパチャは少ない。いい兆候だ。配信は、金額のステータスではなく、手続のステータスに寄るべき日がある。
終盤、彼は「混同」についても触れた。サンプル動画は他人のもので、自分のロゴが合成されている。合成の証拠は、フレームの境界の処理の不一致、エンコードの世代差、ロゴの反射角の矛盾。彼は数秒間、画面を左右に横滑りさせ、視聴者に境界の不自然さを見せる。「これは検証。煽りではない」。言葉を添える。言葉の添え木は、構造の倫理だ。
配信を閉じたとき、礼音は疲労の波を自覚した。机に突っ伏したくなる衝動を、冷たい水で散らす。夕方、窓の外で高校の部活の掛け声が響く。未成年。——彼は思う。規約に書かれた「未成年」の二文字は、単なる記号ではない。誰かの未来の筋肉だ。筋肉は疲れる。疲れるから、規約がある。
夜。ヤチヨから通話。「内部の人、動いてくれてる。『群衆意思』の論点は、UIと記録の設計で緩和可能。——ただ、もう一つ、厄介なニュース。某大手配信者のDiscordで、『レッドルート死亡回』のサムネと君のロゴの“合体テンプレ”が配布されてた。リーチはそこそこ。匿名。法的手段を取るなら、証拠保全を急ぐ」
「法的手段は、最後。——最初は、手続」
「うん。けど“構造”は人を守らない。人が“構造”を守る」
「守る」
ほんの短い沈黙のあと、ヤチヨが言った。「礼音、あんた、声が少し、震えてる」
「喉が乾いただけ」
「水、飲め」
彼は素直に水を飲んだ。喉の内側を、透明なものが通る感覚。透明は味がしない。だが、味がしないことが、救われる夜がある。
◇
三日後。公開検証配信の当日。会場は、探索協会の訓練用スペース。高天井、クライミングウォール、観覧用のガラス張り。代表の三名は既にブースに入り、顔をカーテンで隠して座っている。音声は変換。彼らの前に、礼音の装備が並ぶ。フルハーネス、ヘルメット、オートビレイ、インパクトカラビナ、ショックアブソーバー。工具箱の中には、保険の書類と、協会のチェックリスト。そして、昨日のログのプリント。
礼音はカメラの前で、ゆっくりと進める。ロープの末端を見せ、アンカーの強度証明書を見せ、シミュレーションの画面を見せる。「ここが“模倣不能”。ここが“偶然ではない”。ここが“興奮の演出”ではなく、“工程の確認”。——UIはここ、投票はここ。音はこれ。終わりに、全てのログは協会の封筒に入れて封。封印は代表が押す」
代表の一人が手を挙げた。声は加工されているが、癖のない喋り方。「『群衆意思』について質問。投票のタイミングで、視聴者の心理に“危険を選びたくなる”力学がある。これを完全に排除することはできますか」
「完全には、できない。けど、減らす工夫はできる。選択肢の文言、説明の順序、タイムラインの押し方、UIの位置。——人は“危険を選びたくなる”のではなく、“選んだと信じたい”。演出が、その信じ方を増幅する。だから、演出を減らす。減らしても、体験は薄くならない。むしろ、体験の“手触り”が残る」
代表は少し黙り、それから頷いた。「納得」
配信のチャットには、「うちの子にも見せたい」「技術配信ってこういうこと」「つまらないと言う人は去っていい」。彼は画面越しに笑い、「去る自由を尊重する」と返した。去る自由がなければ、残る自由も生まれない。
検証の終わり、協会の先輩が前に出て、短く語る。「神谷は、危険を美化しない。工程を美しく見せる。——それは、スポーツの原則だ」。拍手。代表のひとりが封印の印を押す。カメラはそこに寄る。視聴者は、押された印を見る。印は、透明の味方だ。
配信を閉じ、礼音は背伸びをした。天井の梁が、静かに鳴る。梁の鳴きは挨拶——誰かが教えてくれた言葉が、頭の隅で光った。帰り道、商店街のパン屋から漂う匂いが、神経に優しい。
帰宅して、端末を確認する。プラットフォームからメール。「異議申立て受理。調査の結果、チャンネル停止は誤りであった可能性。復旧を予定」。それに続いて、別の通知。「混同事案の調査を開始。外部証拠提供感謝」。そして、最後に、DMが一件。「君のseed、まだ狙われてる。——混同は始まりにすぎない。『群衆意思』の次は、『生成』だ」。添付には、見たことのない自分の声で、自分の口調で、自分のロゴの下に、自分の顔の“似た何か”が喋っている数秒の映像。礼音は背筋を正した。BANの朝は終わった。次の朝は、まだ名前がない。
彼はライトをつけ直し、マイクの位置を微調整した。画面の隅に、小さく紙を貼る。「技術に戻す」。その下に、一本線を引いて、もう一行。「群衆の意思を、手続で受け止める」。ノートの端には、太字で「種(seed)の管理、更新」。そして、ペン先が止まる。「炎上屋」ではなく「構造」。その字面の冷たさに、礼音は苦笑した。冷たいものを温めるのは、熱ではない。手続だ。手続の積み重ねは、温度になる。
配信ボタンを押す前、彼は一瞬だけ、自分の部屋を見回した。散らかったケーブル、壁にもたれた古いギター、机の上の紙コップ、窓の外の肺の音。大学を辞めた日の、心拍数の曲線と似たものが、胸の奥で再現される——が、少しだけ緩やかだ。緩やかにする技術。彼はそれを、自分の職業だと思うことにした。
「——こんばんは。神谷礼音です。BANの朝の話を、夜の手続に変えよう」
体温が数ミリ下がる。皮膚の下で、通知音とは別のざわめきが走った。タップ、タップ。指先は習慣に従って「詳しく見る」を押し、プラットフォームの管理画面へ降りる。「理由:危険行為の助長」「対象:直近のライブ配信」「再発防止の観点から、24時間以内の異議申立てが可能です」。驚いたことに、サンプル動画が添付されていた。クリック。再生。
画面に現れたのは、暗い階層。錆びた鉄格子、血のように赤い光。——見覚えが、ない。赤い梯子の縦棒をつかんだ影が、カメラに背を向け、次の瞬間、足を滑らせる。悲鳴、画面の揺れ、落下。タイトルに《レッドルート死亡回》とある。その右上に、見慣れた自分のロゴ。礼音は眉間を指で押さえた。自分のロゴが、他人の死の上に貼られている。貼り合わせの質は悪くない。だが、悪意の精度は、最低限のところで十分だ。
「理由は“危険行為の助長”。——昨日の俺の配信は、救助成功で終わったはずだ」
彼は口に出して言ってみた。声帯に現実味を分配するためだ。昨日の夜——視聴者アンケートを使い、“分岐”を選ばせる実験をした。暗い階層の“赤い梯子”か“青い扉”。視聴者は赤を選び、彼は装備規格内の安全器具を用い、演算済みのルートでNPCレスキューを成功させた。危険を煽る台詞は言っていない。煽りサムネも、置いていない。規約を読んだのは、彼の方だ。
礼音は大学を辞めた。もっと正確に言えば、「研究計画」を配信に移した。都内各所に自然発生するローグライク型ダンジョン——突発的な位相歪みによって形成され、時間とともに構造が変形する“穴”。行政はこれを危険区域として封鎖しつつ、一定要件を満たした探索者に限り申請制で立ち入りを認めている。国家認可のスポーツ。命綱と保険とログ提出が義務化された領域。
配信は競合が多い。若さと無謀は、再生数の油だ。だが、油はすぐ燃える。燃えることで稼ぐ仕組みは、どこかで壊れる。礼音は、装備や派手な見せ場よりも“規約”を売りにしていた。プラットフォームのコミュニティガイドライン、スポーツ庁の探索規程、協会のロープワーク基準、保険会社の免責条項——枠組みを読み解き、ギリギリを攻めずに、視聴体験の「密度」だけを上げる工夫。危険の描写は抑え、可視化する情報を分厚くする。「規約は地図。罰則は落石注意の看板。看板を愛せば、行き止まりでも景色は良い」。そんな調子の配信で、彼は固定ファンを掴んだ。
だからこそ、BANは青天の霹靂であり、同時に既視感のある罠でもあった。この業界で「一度もBANされていない」ことは、勲章ではなく、敵意の的だ。誰かが火をつけ、誰かが風を送る。火は燃える。そして、燃え殻が残る。
礼音はすばやく呼吸を整え、ノートPCを開いた。サブアカウントのダッシュボード。サムネは無地、タイトルは《緊急》。クリックで配信開始。回線はしっかりしている。彼は最初の一言を選んだ。
「——おはよう。BANされた」
チャットが爆発した。涙の絵文字。怒りのスタンプ。「昨日、救助成功で泣いたのに」「は? プラットフォームがわかってない」「異議申立て、どうするの」「サブスク続く?」。高速に流れる文字列に、見知ったモデレーターの青い名前が並ぶ。「スローモードを入れる」「テンプレ質問まとめはこちら」。ヤチヨだ。元法務のフリーランサー。礼音の“規約読解”を支える大黒柱であり、彼の配信が激流になりそうなときは、堰の設計図を出してくる人。
「理由は『危険行為の助長』。サンプル動画は、俺のじゃない。ロゴが合成されてる」
チャットの速度が一瞬落ちた後、逆に早くなる。《え?》《偽装?》《告発動画見た》《アーカイブ見返す》。その中で、ひとつのアカウントが目につく。灰色のアイコン、ハンドルは地味、だが、発言に内部用語が混じる。「内部で議論中。“群衆意思の危険性”が論点です」。プラットフォーム社員を名乗る。真偽はわからない。だが、「群衆意思」という単語は、昨日の実験の核心に重なる。
礼音はカメラに目線を合わせた。「戦う。配信を“技術に戻す”。——煽りと炎上を餌にせず、規約のもとでできることを全部やる。ヤチヨ、あとで通話」
ヤチヨの名前がすぐ浮かぶ。「準備してる」。チャットに小さな拍手の絵文字が走り、スローモードの間隔が少し長くなった。視聴者の中には、彼に「戦う」姿を期待している人と、「守る」姿を期待している人がいる。どちらにも嘘はつけない。
配信を切り替え、彼は通話アプリを開いた。ヤチヨの声は、朝の冷たい水のように澄んでいる。「詳細、見た。サンプル動画は別配信者のものだね。ロゴは被せ。フレームの縁のアンチエイリアスが合ってない。数秒ごとに、異なるアルファ値」
「つまり、雑。でも、機械は引っかかる」
「『自動検出+通報』の合わせ技。通報側がサンプルを添付し、AIが“類似度”で加点、モデレーションが量に押されて判断を急ぐ。——“群衆意思の危険性”という言葉を出してきたのは、内部本気やね」
「昨日の投票のことか」
「規約条文の“空白”だよ。『危険行為の助長』は、未成年保護と模倣可能性の観点で書かれてる。『視聴者を煽って危険な選択を選ばせる』のはNGに近い。けど、国家認可スポーツで、正式装備、資格者同行、保険加入、そして“模倣不能”の設計。ここに空白がある。——礼音、あんたの強みは、空白を悪用しないで、空白を説明するところ」
「模倣不能の証明、いるな」
「“探索ログ”と“機材の安全マニュアル”、そして“運用基準”。レッドルートかブルードアか、選択そのものが危険かどうかじゃない。選択後の行為が“模倣不能”かどうか。未成年が同じことを家でできない、って意味で」
礼音は頷き、キーボードを叩き始めた。昨日の配信のバックエンドログ。彼は独自の“ルートシード”を管理している。階層の位相から乱数を抽出し、ルート識別子として署名。救助対象のNPC——行政の演算体の一種——の位置プロファイルと、救助行為の条件分岐を、時刻とともに記録している。ログは黒いスクリーンに白い文字で現れる。心拍数、酸素濃度、ロープ荷重リアルタイム、照明のルクス。すべて、提出先が決まっているもの。公表は義務じゃないが、今は責任の議論だ。
「公開検証配信をやる。視聴者代表を招いて、機材の安全性と演算の“模倣不能性”を現場で説明する。安全マニュアルはウェブに公開。——“技術に戻す”」
ヤチヨが短く息を呑んだ。「第三者の安全管理者も呼ぶ。認定探索士の先輩に当たる。未成年視聴者のための注意表示は、最初から最後まで帯で。スパチャ読みは後回し。チャットの『やってみた』系コメントはモデレートする」
礼音は笑った。「“やってみた”は禁止ワードに入れよう」
「入れた」
そのとき、机の上の古いスマホが震えた。見慣れない番号。躊躇いながら出る。「神谷さんですか。プラットフォームのX部署の者です」。女性の声。「チャットに書き込んだのは私ではありません。ただ、“群衆意思の危険性”が社内の論点なのは事実です。……あなたの投票は、どこまで“操作”していますか」
「操作?」
「選択肢の提示方法、誘導、時間配列。『赤い梯子』と『青い扉』。色の心理効果は?」
礼音は肩の力を抜く。「赤が危険、青が安全、という誘導は入れてない。赤いのは実際に赤い梯子だったから。色の名称を変えたら、現場の一致性が落ちる。——ただし、投票の最後十秒で、ブザーを鳴らした。迷う時間は短い方が安全。安全のための誘導はした。でも、危険に向けてじゃない」
「記録、ありますか」
「全部、あります」
通話はそこで切れた。礼音は椅子に座り直し、深呼吸をしてから、再び配信をオンにした。サブアカウントの画面。視聴者は、午前の仕事へ散っていきながら、まだ残っている。《代表募集?》《どうやって?》《顔出し嫌》。「代表は匿名でいい。身元確認は協会経由。現場では顔出し不要、声は加工。——“あなたがそこにいる”ことを、ルールの中で示せればいい」
コメント欄に、ひっそりと「ありがとう」と表示され、それから「やるなら、投票のUIも透明にして」と続く。「ログを見せつつ配信」「モーダルはやめて」「戻るボタンつけて」。視聴者の「改善提案」は時に過激だが、方向は嫌いじゃない。礼音はメモアプリに書き連ねた。
◇
昼過ぎ、彼はコンビニで弁当と栄養ゼリーを買い、曲がり角の小さな公園で食べながら、BAN通知の文面を紙に起こした。紙に起こすのは、文章を“手続き”から“目の前の物体”に戻すためだ。「危険行為の助長」。文章の骨は二本ある。「未成年」「模倣可能」。その上に、「過度な反社会的行為の宣伝」「保険未加入」「専門家不在」「アルコール併用」「密造装備」「医療行為の模倣」など、枝葉の条項が絡む。礼音は一本一本、消していく。保険加入済み。専門家同伴認証済み。行政の許可済み。映像に未成年向け誘導なし。——残るのは、「群衆意思」。赤いペンで丸を付けた。
「群衆意思の危険性」——つまり、視聴者という群れが“危険な選択を好む”傾向と、その結果責任の所在。彼は思い返す。昨日の投票、赤い梯子に票が集まったときの、チャットの冗談と緊張。「赤は正義!」「いや青派」「10、9、8——」。彼はそこで、提示時間を短縮し、安全ブザーを鳴らした。群衆は興奮の中で、冷静に引き戻された。——あの瞬間を、彼は自慢したいと思ってはいけない。手続は自慢のためにあるのではないから。
風が少し強くなった。紙の端がめくれ、線がずれる。ずれは嫌いではない。橋はいつも、多少のずれを許容する。ずれを許容しない橋は、折れる。配信も同じだ。完璧な制御が、最初に破綻する。許容の幅を設計する——それが“規約読解”の本体だ。
スマホがまた震えた。通知——匿名のDM。添付画像。プラットフォームの内部ダッシュボードらしきスクショ。「君のseedが抜かれてる」。一行のメッセージ。礼音は息を止めた。seed——彼がルート識別に使う乱数の核。公開していない。探索協会にだけ伝える。プラットフォームにも提出しない。抜けるとすれば、視聴者に見える映像以外から。別配信者の“レッドルート死亡回”に、彼のロゴが重ねられていたのは、その前段か。
「ヤチヨ、今の送る」
五秒で通話。「スクショは本物ぽい。内部のタイムライン、テスト用のフラグ。seedの断片が『コンテンツID』の学習に混ざってる可能性。——誰かが意図的に混ぜたか、拾ったか。いずれにせよ、混同が発生しやすい土壌」
「炎上屋、いるか」
「いる。昨夜、某サーバーで“赤ルート衛星企画”とかいう雑談が出回ってた。サンプルも落ちてる。——ただし、法務として言う。敵は『同業の炎上屋』じゃない。“構造”。“構造”が敵になることがある」
礼音はベンチから立ち上がった。歩きながら、指先が軽く震える。怒りではない。今は使うべき筋肉が違う。彼は自室に戻ると、カメラとライトを設置し直し、背景の黒幕を少し下げた。黒は、心を落ち着かせる。落ち着きは、視聴体験の密度を上げる。
緊急配信——第二回。タイトルは《異議申立ての設計図》。説明欄に、こう書いた。「この配信は、プラットフォームの規約と、国家認可スポーツの規程に基づいて行われます。未成年者は視聴を控えるようにお願いします。配信内では、模倣不能性を説明するための機材とログを公開します。——炎上のためではなく、手続のために」。
カウントダウン。開始。最初の十分は、ハウスルールと安全注意。次の十分で、昨日のルートのログを視覚化。心拍数曲線、ロープ荷重のピーク、梯子の角度、固定点アンカーの強度、NPCのプロファイル。ヤチヨが横で、画面の端に小さなペーパーを表示する。「スポーツ庁『都市型探索競技規程』第12条」「協会『落下防止具基準』」「保険『危険行為の定義と免責』」。チャットにはスローモード。モデレーターが、経験者と未経験者の質問を分ける。経験者には専門的なQ&A、未経験者には「見るだけ」の楽しみ方の提案。「手の汗で楽しむ」「耳で図面を読む」「選択のロジックを味わう」。楽しむことは、参加ではない。参加の前段にあるものだ。
「“模倣不能”の定義を提示します」と礼音。「次の三つを満たす行為は、未成年や一般視聴者が家庭で再現できない、つまり、模倣不能である。一、国家認可の施設内でのみ行える設備を必要とすること。二、認定者の同伴と書面承認が必須であること。三、行為の成否が事前に計算可能であり、偶然を要件に含まないこと。——昨日の赤い梯子は、この三つを満たしていた」
チャットに、灰色のアイコンが一つ。「内部」ではない。「友人の友人」。そこに表示された短い文が、彼の背中を押した。「定義の要件、明確。——“群衆意思”の危険性は、UI設計で緩和できる。誘導の適法性は記録で担保。——議論、持っていける」。
さらに、視聴者代表の選出方法を発表。応募は協会のフォーム経由。抽選で三名。現場では匿名、声は加工、顔は隠す。代表が現場で確認するのは、機材の実在、手順の遵守、演算ログの一致。彼らが見るのは「危険」ではなく、「危険を避ける工程」。
「俺は“規約読解”で食ってきた。——だから、規約の外に出ない。出ないで戦う。これが“技術に戻す”ということです」
拍手の絵文字が、スローモードの隙間に静かに並んだ。スパチャは少ない。いい兆候だ。配信は、金額のステータスではなく、手続のステータスに寄るべき日がある。
終盤、彼は「混同」についても触れた。サンプル動画は他人のもので、自分のロゴが合成されている。合成の証拠は、フレームの境界の処理の不一致、エンコードの世代差、ロゴの反射角の矛盾。彼は数秒間、画面を左右に横滑りさせ、視聴者に境界の不自然さを見せる。「これは検証。煽りではない」。言葉を添える。言葉の添え木は、構造の倫理だ。
配信を閉じたとき、礼音は疲労の波を自覚した。机に突っ伏したくなる衝動を、冷たい水で散らす。夕方、窓の外で高校の部活の掛け声が響く。未成年。——彼は思う。規約に書かれた「未成年」の二文字は、単なる記号ではない。誰かの未来の筋肉だ。筋肉は疲れる。疲れるから、規約がある。
夜。ヤチヨから通話。「内部の人、動いてくれてる。『群衆意思』の論点は、UIと記録の設計で緩和可能。——ただ、もう一つ、厄介なニュース。某大手配信者のDiscordで、『レッドルート死亡回』のサムネと君のロゴの“合体テンプレ”が配布されてた。リーチはそこそこ。匿名。法的手段を取るなら、証拠保全を急ぐ」
「法的手段は、最後。——最初は、手続」
「うん。けど“構造”は人を守らない。人が“構造”を守る」
「守る」
ほんの短い沈黙のあと、ヤチヨが言った。「礼音、あんた、声が少し、震えてる」
「喉が乾いただけ」
「水、飲め」
彼は素直に水を飲んだ。喉の内側を、透明なものが通る感覚。透明は味がしない。だが、味がしないことが、救われる夜がある。
◇
三日後。公開検証配信の当日。会場は、探索協会の訓練用スペース。高天井、クライミングウォール、観覧用のガラス張り。代表の三名は既にブースに入り、顔をカーテンで隠して座っている。音声は変換。彼らの前に、礼音の装備が並ぶ。フルハーネス、ヘルメット、オートビレイ、インパクトカラビナ、ショックアブソーバー。工具箱の中には、保険の書類と、協会のチェックリスト。そして、昨日のログのプリント。
礼音はカメラの前で、ゆっくりと進める。ロープの末端を見せ、アンカーの強度証明書を見せ、シミュレーションの画面を見せる。「ここが“模倣不能”。ここが“偶然ではない”。ここが“興奮の演出”ではなく、“工程の確認”。——UIはここ、投票はここ。音はこれ。終わりに、全てのログは協会の封筒に入れて封。封印は代表が押す」
代表の一人が手を挙げた。声は加工されているが、癖のない喋り方。「『群衆意思』について質問。投票のタイミングで、視聴者の心理に“危険を選びたくなる”力学がある。これを完全に排除することはできますか」
「完全には、できない。けど、減らす工夫はできる。選択肢の文言、説明の順序、タイムラインの押し方、UIの位置。——人は“危険を選びたくなる”のではなく、“選んだと信じたい”。演出が、その信じ方を増幅する。だから、演出を減らす。減らしても、体験は薄くならない。むしろ、体験の“手触り”が残る」
代表は少し黙り、それから頷いた。「納得」
配信のチャットには、「うちの子にも見せたい」「技術配信ってこういうこと」「つまらないと言う人は去っていい」。彼は画面越しに笑い、「去る自由を尊重する」と返した。去る自由がなければ、残る自由も生まれない。
検証の終わり、協会の先輩が前に出て、短く語る。「神谷は、危険を美化しない。工程を美しく見せる。——それは、スポーツの原則だ」。拍手。代表のひとりが封印の印を押す。カメラはそこに寄る。視聴者は、押された印を見る。印は、透明の味方だ。
配信を閉じ、礼音は背伸びをした。天井の梁が、静かに鳴る。梁の鳴きは挨拶——誰かが教えてくれた言葉が、頭の隅で光った。帰り道、商店街のパン屋から漂う匂いが、神経に優しい。
帰宅して、端末を確認する。プラットフォームからメール。「異議申立て受理。調査の結果、チャンネル停止は誤りであった可能性。復旧を予定」。それに続いて、別の通知。「混同事案の調査を開始。外部証拠提供感謝」。そして、最後に、DMが一件。「君のseed、まだ狙われてる。——混同は始まりにすぎない。『群衆意思』の次は、『生成』だ」。添付には、見たことのない自分の声で、自分の口調で、自分のロゴの下に、自分の顔の“似た何か”が喋っている数秒の映像。礼音は背筋を正した。BANの朝は終わった。次の朝は、まだ名前がない。
彼はライトをつけ直し、マイクの位置を微調整した。画面の隅に、小さく紙を貼る。「技術に戻す」。その下に、一本線を引いて、もう一行。「群衆の意思を、手続で受け止める」。ノートの端には、太字で「種(seed)の管理、更新」。そして、ペン先が止まる。「炎上屋」ではなく「構造」。その字面の冷たさに、礼音は苦笑した。冷たいものを温めるのは、熱ではない。手続だ。手続の積み重ねは、温度になる。
配信ボタンを押す前、彼は一瞬だけ、自分の部屋を見回した。散らかったケーブル、壁にもたれた古いギター、机の上の紙コップ、窓の外の肺の音。大学を辞めた日の、心拍数の曲線と似たものが、胸の奥で再現される——が、少しだけ緩やかだ。緩やかにする技術。彼はそれを、自分の職業だと思うことにした。
「——こんばんは。神谷礼音です。BANの朝の話を、夜の手続に変えよう」



