王城の塔から見下ろすと、かつて華やかだったアリシアの都は、まるで別世界のように変わり果てていた。
 
遠くに漂う黒煙。

そして耳に届くのは、沈黙にも似た、壊れた秩序の音。

 アリス・アリシア。王国第一王女。
 塔の最上階で風を受けながら、彼女は自分の敗北を認めていた。

 衣の袖は破れ、身体は思うように動かない。
 何がどうなったのか、ではなくすでに、何もかもが終わったという確信だけが胸にあった。

 「……静かだね。こんなにも、終わりって静かなものなんだ」

 誰にともなく漏らした言葉は、風にかき消された。

 王都が陥落したのは、ほんの数日前。
 
 信頼していた者の裏切り、王家の崩壊、妹の行方不明。
 
 あまりにも早すぎて、心が追いつく間もなかった。

 足音が近づく。
 軋む扉の音と共に現れたのは懐かしい顔。

 「……エリス?」

 妹の名を呼ぶと、少女は少しだけ瞳を揺らした。
 その手には、何かが握られている。薄暗がりの中では、よく見えなかった。

 「姉上、ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」

 その言葉の直後、胸に鈍い衝撃。
 視界が揺れる。体が傾ぐ。何かが、深く深く、突き刺さってくるような感覚。

 痛みではなかった。むしろ、悲しみが身体を貫いた。
 エリスの顔が歪み、涙が頬を伝っている。

 「私は……私なりに、国を守りたかった。誰かが止めなきゃいけなかったの……」

 言葉の意味は理解できた。けれど、心がそれを拒んだ。

 (守るために、私を……?)

 足元が崩れていく感覚。
 音さえも消えていく。


 ああこれが、終わり。
 そう、思った。

 でも。

 暗闇の中で、何かが残っていた。

 想い。記憶。後悔。そして、強烈な願い。
 まだ、終わりたくない。終われない。

 (このまま終わってたまるものか……)

 アリスの心の奥底で、何かが燃え上がった。
 静かな怒り。確かな執念。冷たい誓い。

 (王国を裏切った者たち……私を欺き、妹さえも利用した存在……)

 顔も名も知らない敵の存在が、心の中で輪郭を帯びていく。

 (必ず……裁く。私の手で、全てを終わらせる)

 その瞬間、意識の底で何かが弾けた。

 世界の色が変わった気がした。光が差し込む。空気の匂いが戻ってくる。

 「……っ!」

 目を開けた瞬間、息を呑んだ。
 そこは見慣れた寝室。自分の部屋だった。

 窓の外にはまだ朝の光が差し込んでいない。
 時間が巻き戻ったのか、それとも生まれ変わったのか。

 だが、確かに言えることが一つある。

 (これは、やり直しの機会……)

 手を握る。感覚がある。血の気が通っている。生きている。

 アリスは鏡の前に立ち、自分の目を見つめた。
 そこに映るのは、かつての自分⋯⋯ではない。

 穏やかだった瞳には、今や揺るぎない意志が宿っていた。

 「……待っていなさい、エリス……そして、あの者たちも」

 少女は、静かに息を吐く。

 すべてを取り戻すために。
 そして、真実の意味で、運命に向き合うために。
 物語は、再び動き出した。



 夢を見ていたようだった。

 名を呼ぶ声。涙。裏切り。
 血ではなく、痛みでもなく、もっと深い場所にあったものそれが、胸の奥に鈍く残っていた。

 目を開けると、天蓋付きのベッドの天井が広がっていた。
 淡いアイボリーに金の刺繍。何度も見た、自室の天蓋。

 「……戻った?」

 まだ声はかすれていたが、喉の奥には確かな空気の重みがあった。
 生きている。鼓動がする。身体が動く。夢ではなかった。

 ベッドの縁に手をつき、ゆっくりと身体を起こす。
 視界に映るすべてが、見慣れたものでありながらどこか遠いもののように感じる。

 壁にかけられた刺繍入りのタペストリー。
 整えられた机の上には、読みかけの書物が数冊積まれていた。

 すべてが、壊れる前のままだ。

 (⋯⋯本当に戻ったの⋯⋯ね⋯⋯)

 震える指で、胸元をなぞる。
 
 かつて、妹の剣がそこを貫いた。けれど、今は傷一つ残っていない。
 あれは幻ではなかった。確かに感じた痛みだった。

 (じゃあ、これは……ただの夢じゃない。神の奇跡でもない)

 冷たい感情が、胸に降りてくる。

 (これは⋯⋯罰か、あるいは猶予)

 もう一度、思考の底から浮かび上がる。
 父の最後の姿。母の叫び。王国が崩れていく音。
 そして、妹の瞳にあった、歪んだ決意。

 それらを、この手で終わらせるために、私は帰ってきた。

 「……ありがとう、神様。もし、そんなものがいるなら」

 ふっ、と笑いがこぼれた。
 
 部屋の外では、まだ夜が支配している。
 静けさは濃く、まるで全世界が息を潜めているかのようだった。

 アリスは立ち上がった。
 部屋着のまま、裸足で床に降りる。
 足元の冷たさが、現実の温度を教えてくれる。

 自分がどこまで知っているのか、どこまで覚えているのか、確認する必要がある。
 誰が味方で、誰が裏切るのか。
 何より妹は、いつ、どうやって変わってしまったのか。

 (同じ結末を繰り返すつもりはない)

 もう、あの時のような無力な自分ではない。
 何も知らず、信じることしかできなかった愚かな姫ではない。

 (あの日に戻れたのなら、私は……)

 アリスは静かに決意した。

 すべてを変える。
 たとえその手が、血に染まるとしてもいや、染めずに済むのなら、それが理想だ。
 だが、理想だけでは守れないことを、彼女はもう知っている。

 だからこそ、今度は戦う。
 生きるために。王国の未来のために。
 そして、失われた家族との絆を、取り戻すために。

夜が明ける前に、アリスは行動を開始した。

 人の目が届かぬ時間帯。侍女たちはまだ眠っている。

 ドレスに着替えるのも後回し。袖のない軽装を羽織り、部屋を抜け出す。



 行き先は、王宮の北翼、古文書の保管庫。



 (もしもこの世界が同じなら、今日の朝、私は花の髪飾りを壊して落ち込んでいた!)



 (そのあと、侍女長のカレンが慰めてくれて……)



 思い返すと、どうでもいいことばかりが思い出される。

 もう二度と戻らないと思っていた日々の、くだらない、でも愛おしい時間たち。



 廊下の先、角を曲がると、静かな足音がひとつ。



 (来る⋯⋯)



 寸分の迷いもなく、壁際に身を寄せた。

 やがて現れたのは、見覚えのある青年。



 騎士、レオンだった。



 「……おはようございます、姫……あっ、あれ?」



 レオンの目が驚きに見開かれる。



 無理もない。彼はアリスがここを通るとは、思っていなかったのだ。



 (確か、彼は無害だった。最後まで。死ぬ直前、私を庇って傷を……)



 わずかに記憶の中で疼く感覚。

 だがそれを顔に出さず、アリスは微笑んだ。



 「おはよう、レオン。少し、散歩に出たくて」



 「まだ朝も早いですし、城の中も危険が……」



 「ありがとう。でも、危険を避けるためには、まず誰が危険か知らなければならないわ」



 「……はい?」



 レオンは困惑した顔をしたが、すぐに真面目な顔に戻った。



 「……それでは、私がご案内を。古文書庫ですね?」



 「……なぜ、そこへ向かうと?」



 「姫が『今の王国のどこにほころびがあるか』を確かめに行くのなら、記録を読むのが最善かと。違いますか?」



 アリスは目を細めた。



 (……この男、賢い)



 記憶ではただの騎士。剣の腕は確かだが、政治には無関心だったはず。

 けれど、こうして目の前にいる彼は、まるで違う人のようだった。



 (いいわ。使えるなら、使わせてもらう)



 「ええ。案内をお願い」



 足音を殺しながら、二人で北翼へと進む。

 城内の空気は静かで、まるで時間までもが眠っているかのようだった。



 文書庫は冷たく、ひっそりとしていた。

 棚には年代ごとに分けられた巻物や帳簿が整然と並んでいる。



 「このあたりは……三年前の記録ですね」



 レオンが指差した棚をアリスが引き寄せる。

 指先が震えた。そこにあるのは、亡き父が残した政務日誌だった。



 (父上……)



 革表紙を開く。整った筆跡。冷静な判断。

 そして、その中に、奇妙な記述があった。



『ガロス将軍に王都防衛の裁量を一部委任。議会は一部反対あり』



 (……ここから、始まっていたのね)



 裏切り者。父に仕えた将軍。王国を裏から崩した男ガロス・マクヴェイル。



 この日誌の時点では、父はまだ彼を信じていた。

 信じすぎていたのだ。家族も、臣下も、そしてアリス自身も。



 「姫……?」



 「ごめんなさい。大丈夫よ。ただ、懐かしくなっただけ」



 優しさの裏にあるものを、まだ信じていいのかは分からない。

 だが、今のアリスはひとりではない。



 文書庫を出ると、東の空が白んでいた。

 夜明け。最初の一日が始まろうとしている。



 かつては、何気ない朝だった。

 だが今は違う。これは、運命を変えるための一日だ。



 王国を救うか、あるいはもう一度、失うか。



 アリスは静かに目を閉じ、胸の奥にある小さな焔に触れた。



 (もう、あの頃の私じゃない)



 (この手で、選ぶ。誰を信じるか。誰を斬るか)



 少女は朝日に背を向け、静かに歩き出した。

 光に満ちた、決して戻れない過去に、別れを告げるように。

朝陽が差し込む食堂。

 

 薔薇の刺繍が施されたテーブルクロスの上に、銀の食器が並ぶ。

 焼きたてのパンの香りと、温かなスープの湯気。



 何もかもが、なんの変哲もない朝だった。



 けれど、アリスの心は張りつめていた。



 (この朝も、私は経験した。ただ食べて、何も疑わなかった)



 (でも、この先に裏切りが待っていた⋯⋯)



 椅子に腰を下ろすと、すぐに扉が開いた。

 ゆったりとした足取りで入ってきたのは、淡いピンクのドレスに身を包んだ少女。



 エリス・アリシア。

 アリスの双子の妹。そして、自分を殺した少女。



 「おはよう、姉上」



 柔らかな声。あどけない笑顔。

 ああ、この表情も覚えている。無垢で、優しくて⋯⋯

 自然に涙がこぼれ、頬を伝った。

 

「おはよう、エリス」



 アリスは笑顔を返した。自然な顔で。



 (演じるのは得意じゃない。でも、もう姉妹ごっこをしている余裕はないのよ)



 二人分の食事が並べられ、侍女たちが小さな礼をして下がっていく。



 今、この部屋には姉妹だけ。

 かつて何百回もあった、たった二人の朝食。



 でも、今日だけは違った。



 「姉上、今日は何をする予定なの?」



 「少し、古文書を読もうかと。最近、昔の記録に興味があってね」



 「へえ、珍しい。姉上って、歴史はあまり好きじゃなかったはずよね⋯⋯?」



 「そうだったかしら?」



 パンを割きながら、エリスがふっと微笑んだ。



 その目に、敵意はない。

 いや、このときのの彼女には、本当に敵意など存在しないのかもしれない。



 アリスは確信している。

 このエリスは、まだ完全に裏切り者ではない。



 (つまり、まだ……手を伸ばせる可能性が、残ってる)



 今朝のエリスには、どこか違和感があった。

 いや、違和感がないことこそが、奇妙だったのだ。



 (本当に、裏で誰かに操られていたのなら……その芽は、どこかにあるはず)



 だからこそ、見逃さない。



 「そういえば、エリス。最近、ガロス将軍とは話した?」



 「え?」



 エリスの手が、パンを裂く動きを止めた。



 一瞬。ほんのわずか。けれどその止まり方は、記憶の中とまったく同じ。



 「ううん……!別に、大した話は⋯⋯あの人、政治の話ばっかりでつまらないもの⋯⋯」



 「そうね、確かに。お堅い人だもの」



 アリスは微笑みを保ったまま、ナイフを軽く持ち上げた。

 スープをすくい、口に運ぶ。ゆっくりと咀嚼しながら、心の奥で言葉を刻む。



 (この子は、知らない。自分がどこへ連れて行かれるのか、まだ何も分かっていない)



 (だからこそ間に合うかもしれない⋯⋯!)



 未来を変える第一歩。それは、敵に先手を打たせないこと。

 そしてもう一つ。妹の変化を少しでも早く気づくこと。



 アリスは手帳を開き、日付を書き込んだ。



 ・九月二十九日 第一日目

 ・エリス:異常なし。だが将軍の名で反応あり

 ・今はまだ、引き返せるはず



 日記のように見せかけた、記録。

 彼女はもう、ただの姫ではない。

 これは戦いだ。言葉を武器にした戦い⋯⋯。



 ナイフで切ったパンを口に運びながら、アリスは思う。



 (あなたを、私の手で取り戻す。たとえ、どれだけ深く汚されていても)




 朝食が終わる頃には、空はすっかり明るくなっていた。

 陽の光がテーブルクロスの銀糸を照らし、ふたりの少女の影を長く伸ばしていた。

午前の謁見の時間。

 王族の義務のひとつとして、貴族たちとの顔合わせが行われる。



 部屋の中央には、日光を跳ね返す艶やかな大理石の床。

 その上に広がるのは、着飾った者たちの優雅な笑みと、計算された沈黙。



 貴族という生き物は、言葉ではなく、間と表情で戦う。

 アリスはその駆け引きに、かつて敗北した。何も知らずに、信じたから。



 (けれど今は違う⋯⋯もう、あの頃じゃない!!)



 玉座に並ぶように設けられた応接椅子に座りながら、アリスは冷静に場を見渡した。



 次々とやって来る来客。挨拶。献辞。退室。

 その繰り返しの中に、一人、心に深く刻まれた顔が現れる。



 「……久しぶりでございますな、アリス様。お美しくなられて」



 穏やかな笑み。

 だが瞳だけは、相変わらず冷たいまま⋯⋯。



 マルク・ヴァンデール伯爵。

 王国西部を治める名門貴族にして、かつて父王を裏切り、敵に通じた男だった。



 (この男が、最初にガロス将軍に呼応した。裏切りの起点⋯⋯)



 「マルク伯。お変わりなく、なによりですわ」



 アリスは微笑んだ。とびきり美しく、穏やかに。

 そして、その笑みの裏で牙を研ぐ。



 「今日はお顔を見られて嬉しいです。西部の領地、今はどうかしら?」



 「ええ、穏やかなものでございます。民も安心しており、特に不安も」



 「それは良かった。けれど、最近文書の不達が続いていると聞きました」



 マルクの瞳が、ほんのわずかに細まる。



 「ご存じでしたか……些細なことかと」



 「些細でも、大事なことですわ。民が怯える前に、王家が手を打たなければなりませんもの」



 その瞬間、部屋の空気がぴんと張った。



 (黙り込んだ……やっぱり何かある)



 アリスは、言葉で罠を張った。

 未来の記憶に基づく伏線。それを軽く提示して、相手の反応を見る。



 マルクはすぐに笑みを取り戻すと、言葉を選ぶように口を開いた。



 「さすが、アリス様。未来の女王は、お目が高い」



 「ええ⋯⋯目だけは、ね」



 皮肉を込めたその一言に、マルクの目が再びわずかに泳いだ。



 (あなたたちの企みを、私は見逃さない。二度と)




 謁見の終わり、貴族たちが退出していく中。

 部屋を出ようとしたそのとき。



 「……アリス様。よろしければ、ひとつだけ」



 マルクが、誰にも聞こえぬような声でささやいた。



 「変わられましたね」



 その言葉が、アリスの背筋をひやりと冷やした。

 (まさか⋯⋯⋯⋯)



 言葉の意味は、どこまでの変化を指しているのか。

 演技がダメだったか。それとも、何かを感づかれたのか。



 マルクは静かに一礼し、立ち去った。



 残されたアリスは、一瞬だけ目を伏せ大きく息を吸った。



 (怖い⋯⋯けれど、これは正しい。進むしかないのよ⋯⋯)



 あの言葉が、ただの印象であることを願いながら。

 もしそうでなかったときの、覚悟も、同時に心に刻みながら⋯⋯。

 



 日が傾きはじめた午後の城内。

 あたたかな光が石壁に斜めの影を落とす。



 王宮の侍女長、カレンは、静かな廊下で指示をしていた。

 姿勢は正しく、表情もいつも通りで、何より誰よりも信用できると、アリスは思っていた。



 (けれど、本当に?)



 今日、彼女に何を話すべきか。

 それは簡単なようで、難しい問題だった。



 (私は、あのとき……)



 アリスの中に残る、断片的な記憶。

 あの最期の夜、追手から逃れた塔の階段。

 扉を開けると、カレンが立っていた。



 確かに、そこにいた。

 けれど、彼女は手を伸ばさなかった。逃げ道を閉ざすように、無言で立っていた。



 それは裏切りだったのか、それとも……恐怖か、諦めか。



 「アリス様?」



 声に呼び戻される。

 気づけば目の前に、カレンがいた。

 

「ご用でしょうか?お部屋に何か不備でも?」



 「……いえ。少し、話したいだけよ。カレン、あなたと」



 「私と……ですか?」



 アリスはうなずき、空いていた窓辺の長椅子を指さした。



 「座って。立ったままじゃ落ち着かないわ」



 「……では、失礼いたします」



 柔らかいクッションの沈みと、ほんのわずかな距離。

 かつて何度もそうしていたように。

 

 姉と妹のような時間。

 けれど、今日は違う。



 「ねえ、カレン。あなたは今も、私の味方?」



 カレンの目が泳ぐ。

 わずかに、ほんの一瞬だけ。

 だがアリスは見逃さなかった。



 「もちろんです、アリス様。私はずっと、あなたのッ⋯⋯」



 「姫として?」



 アリスの問いに、カレンは言葉が詰まった。



 (そこよ⋯⋯)



 今の反応。その一瞬の躊躇。

 それは立場への警戒だと確信した。



 (この人も、私が変わったと感じている)



 アリスは冷静に、そして静かに問いかける。



 「今朝、古文書庫へ行ったの。父の記録を見ていたら、気づいたの……王国の中が、ゆっくりと壊れていたって」



 「……アリス様」



 「そして、その壊れかけた王国に、あなたもいた」



 彼女の目が、怯えたように揺れる。

 それでもカレンはすぐに、姿勢を正した。



 「私は、アリス様をお守りする役目です。それは変わりません。たとえ、王国がどうあれ……」



 「それなら聞かせて。私が処刑されると聞いたとき、あなたは、何を思ったの?」



 沈黙。息苦しいほどの重い空気。



 アリスの心の奥に、再び蘇る記憶。

 処刑ではなくとも、死が間近だったあのとき、誰が手を差し伸べ、誰が背を向けたか。



 「……私は、恐れていました」



 カレンの声は、かすかに震えていた。



 「何が正しいのか、分からなくて……王家の中で何が起きていたのかも。私のような立場では、誰が生き残るのかを考えることしか……できなかった」



 それが、偽らざる本音だったのだろう。

 アリスは目を閉じた。



 (カレンは裏切ったのではない……ただ、選べなかっただけ)



 それでも、その選ばなかった事実は、彼女の中に小さな線を引いている。



 「ありがとう、カレン……もう、わかったわ」



 「……はい?」



 「もしまた、選ばなきゃいけない時が来たら。今度は選んで。私を、じゃなくて自分の意志で」



 カレンは小さくうなずいた。



 陽の光が、ゆっくりと傾く。

 影が長く伸び、ふたりの間に落ちた。

 それは、かつての絆に走った亀裂の形を、どこか思わせるものだった。

その報せは、夕方の廊下。警備隊の見回りを装った若い騎士から、そっと届けられた。



 「姫……報告があります。例の、妹君の動きについて」



 (よし⋯⋯)



 レオンを通じて、こっそりと監視させていたエリスの行動。

 

 当然、今のエリスが裏切り者ではないことは分かっている。

 だが、未来のあの出来事が起こるまでに、何があったのかをこの目で確かめたかった。



 「詳しく話して」



 「本日の午後二刻過ぎ、エリス様は書庫裏の中庭へ。同行者は不明ですが……」



 「……おそらく、男です。細身、黒い外套を着た人物。中庭の外から来て、警備には一切気づかれず」



 (黒い外套……?)



 心当たりはない。だが、目立たぬように姿を隠す者は、平民ではない。

 おそらく、軍か……あるいは貴族の密使それとも、将軍の手か。



 アリスはすぐにその場を離れ、こっそりと書庫裏へ向かった。

 レオンの一声で、道は用意されていた。

 見回りの兵士はすべて遠ざけられ、気配すらない。



 (記憶にはない。私が死んだ前の世界では、ここで何かが起きた記憶は……)



 だが今は、別の線を歩いている。だからこそ、ここに足を踏み入れる必要がある。




 中庭には、月光が降りていた。



 そこで、アリスは見た。

 エリスが、誰かと向かい合っていた。



 背の高い男。目深にフードをかぶっていて、顔は見えない。

 だが、その身のこなし、言葉の端々に軍人の気配が漂っている。



 「……姫は、まだ何も知らぬのですか?」



 「ええ。今はただの、優しい姉ですもの」



 エリスのその言葉に、アリスの背筋が凍った。



 (優しい……姉?)



 その口ぶりは、まるで自分がそれを演じていると理解している者の言葉。



 記憶にある無垢で純粋な妹の声ではなかった。

 そこには意図と冷静さがあった。



 (まさか……この時点ですでに……?)



 男の声が再び響いた。



 「計画は、予定通り進める。ガロス様は、あなたに期待しておられる」



 (……やっぱり、将軍と繋がっている)



 心の中で、確信がつく。

 けれど、すぐに怒りや悲しみは湧かなかった。

 それよりも胸を締めつけたのは、言いようのない距離感だった。



 アリスは、妹を知っているつもりだった。

 優しく、聡明で、少し寂しがり屋で。ずっと、手を繋いでいたと思っていた。



 けれど今、目の前にいる妹は、誰かの命令で動くロボットだった。



 「……あの人が私を疑い始めたら?」



 「その時は、迷わず排除してください」



 「……わかっています」



 その言葉に、アリスの呼吸が一瞬止まった。



 (私を……排除する?)



 まるで過去が、今目の前で再現されていくようだった。

 自分が刺されたあの瞬間を、まるで別の角度から見ているような錯覚。



 (……違う。ダメだ!あの時と同じにはさせない!!)



 ゆっくりと踵を返し、誰にも気づかれぬようその場を離れる。




 廊下に戻り、ひとり、静かな場所で壁に背を預けた。



 (今のあの子は、本当にあの時のエリスとは違う)



 (でも……)



 それでも、たった一つだけ確信できたことがある。



 妹の中には、まだ本物が残っている。



 それがどんなに小さくても、どれだけ深く沈んでいても。

 だから、今はまだ、斬らない。



 アリスは目を閉じ、深く息を吐いた。



 「私が、あなたを取り戻す。必ず⋯⋯」

 言葉は風に流れ、夜の廊下に静かに消えた。




 静まり返った夜の城内。

灯りだけが、壁に揺れている。



 アリスは自室の机に広げた地図を見つめながら、冷静に情報を整理していた。



 (黒い外套の男。エリスと接触し、将軍の名を口にした)



 (つまり、あの未来が動き出すきっかけは、もう始まっている)



 運命の歯車は、もう止まらない。

 ただし、回り方は変えられる。アリスの手で。



 (男の正体を突き止める。何が起こるか知っているからこそ、今度は先に動ける)



 そのとき、扉をノックする音がした。



 「アリス様。深夜に申し訳ありません。書庫の管理者が来ております」



 「書庫の……?」



 「古い記録の整理の件で、お話があるそうで」



 瞬間、アリスの胸に冷たい違和感が走った。



 (タイミングが良すぎる)



 (この時間に書庫の管理者?)



 油断はできない。

 だがこれは誘いだ。



 アリスはゆっくりと立ち上がり、外套を羽織った。



 「案内して。少しだけ時間をもらうわ」



 その声は静かで、揺らぎのない戦士のそれだった。



 

 一方、王都の外れ。

 かつての軍議場の地下、薄暗い空間で。



 大理石の階段を静かに降りる足音が響く。



 その奥にいたのは、一人の男。

 分厚い鎧の上から黒い外套を羽織り、右手には古びた剣の柄。



 ガロス将軍。

 元王国軍第一師団長にして、王家に反旗を翻した男。



 「……エリスは順調か?」



 陰の中から声がした。姿は見えない。



 「悪くない。姫としての仮面も、それらしく振る舞っている」



 「奴は知っているのか?姉がまだ生きていることを」



 「それは……まだ、わからん」



 沈黙。



 「ただ……何かは気づいている。最近の目は少し鋭くなってきた」



 「それなら急げ。起動の刻はそう遠くない」



 「わかっている。王の血は、二人もいらん」



 その言葉に、空気が冷たく沈んだ。



 ガロスは天井を見上げる。

 かつて忠義と呼んだものを、今は遠いものとして。



 「アリス……あの子が生きていたとはな」



 その目に宿るのは、恐れでも怒りでもない。

 ただ、計算だった。




 書庫の奥。

 管理者と名乗った老齢の男は、地図の裏に隠された文書を見せながら、穏やかな声で語っていた。



 「この写本には、古代語で鏡の姫という記述があります」



 「鏡の姫?」



 「はい。伝承では、死を超えて甦る魂を持つ姫の名です」



 その言葉に、アリスは心を射抜かれたように固まった。



 (それは……まさに、私のことだ)



 男の目が細くなった。



 「今宵、この写本をお見せしたのは、偶然ではありません。アリス様。あなたは選ばれた存在です」



 「……何を知っているの?」



 男は何も答えず、ただ一枚の羊皮紙を差し出した。



 そこには、こう書かれていた。



 ・鏡の姫は死を超え、時を超え、記憶を継ぐ

 ・一族を守るためでなく、未来を変えるために

 ・二つの魂が交わる時、王国の運命は書き換えられる



 「二つの魂?それって……エリスのこと?」



 「いずれ分かります。ですが、急がねばなりません。敵はもう、動き出しました」



 その声に、アリスはゆっくりとうなずいた。



 敵は動いている。

 エリスも、その一部であるならもう時間は残されていない。



 「ありがとう。あなたのことは、信じるわけじゃない。でも、この情報は……使わせてもらう」



 男は微笑み、静かに頭を下げた。



 アリスは写本を握りしめ、廊下へと歩き出す。



 (生き返った理由は、やっぱり偶然じゃない。何かが私に⋯⋯いや、私たち姉妹に、起こっている)



 そして、こう呟いた。



 「私はもう逃げない……戦うんだ⋯⋯」



 月は高く昇り、王城の塔を照らしていた。

 その光の下で、運命の線はまた、少しだけ交差した。

早朝。まだ城の石壁に朝靄が残る時間。



 アリスは執務室の奥、封印していた棚を一人で開いていた。

 そこに眠っているのは、父王が極秘裏に集めていた、王国中の動きを記録した書簡の束。



 (ここに……きっと、誰が裏切ったのかが残ってる)



 これから先、どんなに優しくされても、笑顔で語りかけられても、

 かつて誰が王を裏切ったのか。誰が自分を見捨てたのか。

 それを、絶対に忘れてはいけない。



 信頼は武器。けれど、疑念は鎧。



 記憶に頼るだけでは、もう不十分だった。

 世界はあの時と違って動いている。未来もまた、ずれてきている。



 (私はもう、ただの姫じゃない。復讐者でもない……選ぶ者)



 アリスはその思いを文字にした。

 古びた紙に、ひとつずつ敵と、味方の仮名簿を書き始める。



 敵候補:マルク・ヴァンデール伯爵

 状況:王の命令に背き、将軍と通じた。確定。



 疑念:侍女長カレン

 状況:沈黙。選ばなかった側。心の中はまだ揺れている。保留。



 不明:妹・エリス

 状況:敵との接触あり。ただし、心に迷いが見える。監視対象。



 (私はもう、姉妹ですら……完全には信じない)



 ペン先が止まる。

 手の中で震えるのは、怒りでも悲しみでもない。



 ――“責任”だった。



 (でも、エリスが完全に敵になる前に、必ず止める)



 姉としてではなく、“この王国の継承者”として。



 



 * * *



 



 一方、その頃のエリスは――

 朝の陽が差し込む庭園で、一人立ち尽くしていた。



 花が咲き乱れる静寂の中、手元には黒い短剣。

 昨日、あの男――“影の使者”から渡されたものだ。



 『姫があなたを警戒し始めたら、これを使え』



 その言葉が、まだ頭に残っている。



 (姉は、私に優しい。でも……それは、いつまで?)



 どこかで知っていた。

 姉が“変わった”ことを。あの死を境に、目つきも、声も、考え方も――まるで別人のように。



 でも、それでも。



 優しさだけは、変わっていなかった。



 毎朝の挨拶。小さな気遣い。食事の時のささやかな会話。

 そのどれもが、“昔のままの姉”だった。



 (どうして……そんなふうに、私を見てくれるの?)



 (私が、あなたを……傷つけようとしてるのに)



 ふいに胸が苦しくなる。

 誰にも教えられなかった“重さ”が、喉に詰まる。



 気づけば、手にしていた短剣が地面に落ちていた。



 「……あ」



 しゃがんで拾おうとするが、手が震えて動かない。



 (本当に……私はこれを使えるの?)



 (姉を――“排除”なんて……)



 そこに、誰かの足音。

 慌てて振り返ると、庭師の老人が、ゆっくりと近づいていた。



 「ああ、エリス様。こんな朝早くから、どうなさったのです?」



 「……何でもないの。落とし物をしただけよ」



 震える声に、老人は静かにうなずくと、地面に落ちた短剣に視線を落とした。



 「鋭い刃は、持つ者の心まで切りますからな」



 その一言に、エリスは何も返せなかった。



 



 * * *



 



 夜。

 アリスの部屋の窓から見えるのは、今日も変わらぬ城下の灯り。



 けれど、その静けさの裏で、何かが確実に――壊れていく音がする。



 (エリスの表情が、ほんの少しだけ……柔らかくなってた)



 (あれは……“揺れてる”)



 アリスはその小さな変化を、絶対に見逃さなかった。



 だから、心の中でひとつ、呟く。



 「まだ、戻れる。あなたは……完全に敵になっていない」



 だが、それでも――



 「でも、もし……その日が来たなら。私は、あなたを斬る」



 その言葉は、祈りのようで、宣誓のようでもあった。

 訓練場。

 かつてアリスが、父に隠れて剣術を学んでいた場所。



 今はもう兵士の訓練には使われていない、荒れた地面。

 草は伸びている。



 だがアリスにとっては、ここが信頼”を覚えた場所だった。



 (ここにいた……あの人が⋯⋯)



 剣術指南役。騎士、リュカ・ファーレン。



 未来の世界で、アリスが捕らえられたとき、最後の最後まで、彼女を助けようとした男。

 だがその意志は届かず、アリスが処刑される前に……彼は、何者かに始末された。



 (今なら、彼は生きている。私よりも少し年上で、忠義に厚い、まっすぐな人)



 (味方にできるなら、必ず大きな力になる)



 アリスが地面を踏みしめたその瞬間、

 古びた訓練所の影から、重い足音が響いた。



 「……誰だ?こんな場所に何の用だ」



 低く、警戒を含んだ声。



 振り返ると、そこにはリュカ・ファーレンが立っていた。



 鍛えられた体。

 かつて、どんな時もアリスを姫ではなく、一人の剣士として見てくれた人。



 「……久しぶりね、リュカ」



 「……え!?その声……まさか、アリス様……!」



 驚愕が彼の顔に走った。

 だが、それはすぐに懐かしさと安堵へ変わっていく。



 「本当に……生きていらっしゃったんですね」



 その一言に、アリスの胸が締めつけられる。



 (そう。未来では、この人は私の死を知っていた)



 (でも今は違う……今度は一緒に戦える⋯⋯)



 「リュカ。お願いがあるの。私と一緒に動いて。あなたにしか、頼めないことがあるの」



 「……俺でよければ、いつでも命を懸けるつもりです。ですが……」



 彼の瞳が暗くなる。



 「なぜ今?何が動いているのです?……まるで、すべてを知っているような口ぶりだ」



 (鋭い……さすがね)



 アリスは一瞬、言葉を選んだ。

 すべてを話すことはできない。けれど、嘘もつきたくない。



 「未来のことを話しても、信じられないでしょ?」



 「未来⋯⋯ですか?」



 「私……一度、死んだの。だから知ってるの。誰が裏切り、誰が傷つき、誰が……亡くなるのか」



 リュカの目が揺れる。

 だが、彼は信じる者の顔で言った。



 「信じます。アリス様がそう言うのなら」



 アリスの胸に、熱いものがこみ上げる。



 (この人は……本当に、あのときと同じ。今も、まっすぐ)



 「ありがとう、リュカ……あなたがいてくれるだけで、少しだけ、怖くなくなる」



 その声は、姫でも戦士でもないひとりの少女のものだった。



 その夜。



 アリスは新たな名簿に、リュカの名を記した。



 信頼:リュカ・ファーレン

 状況:剣士。忠誠心強。未来では殉職。今は確保済み。味方。



 同じく、少し前に密かに接触していた幼馴染・ミレイナの名も加える。



 信頼:ミレイナ・トラヴィス

 状況:元宮廷薬師。現在王都郊外で療養中。王家への忠義あり。味方候補。



 (少しずつ……揃ってきた)



 ただの孤独な姫だった頃とは違う。

 アリスは、確実に仲間を運命を変えるための剣を揃えていく。



 そして、胸の内にそっとつぶやく。



 「もう一度、あの人たちと出会えるなら……今度こそ、誰も死なせない」

 その誓いが、静かに夜の帳へと消えていった。




アリスは屋敷の窓を閉じながら、胸に広がる不安をそっと押し込めた。



 (そろそろ、奴らが動き出す頃……)



 黒幕、ガロス将軍の動きは、予想よりも静かで速い。

 ここ数日、水面下でいくつもの王家寄りの貴族が姿を消していた。



 事故として処理される者。突然の病死。自ら命を絶ったとされる者。

 だが、アリスは知っていた。



 全部、やつらに処理された。

 王家に忠誠を誓っていた者から、静かに、正確に消されている。



 (でも、次は……もっと危ない)



 次に狙われるのは、未来の希望、ミレイナ。

 アリスの幼馴染であり、かつて王宮の薬師として数々の命を救った天才。



 未来では、王家最後の血筋となったアリスを匿い、命を落とした人物。



 (今度は、彼女を救える)



 (そうしなきゃ⋯⋯私はまた、誰かを失う⋯⋯)



 アリスは剣を手に、夜の城を出た。



 誰にも告げず。

 ただひとりで、夜の闇を駆ける。




 その頃郊外の療養所。



 ミレイナは小さな薬瓶を並べながら、静かに笑っていた。



 「もう、戦争も終わったのに。どうしてみんな、こんなに傷ついてるのかしら」



 答えは風だけが知っている。



 ふと、扉の外に気配。

 扉が開く前に、ミレイナは笑顔を崩さずに言った。



 「誰?こんな時間に」



 だが、入ってきたのは見知らぬ男。

 黒い外套に、光を吸うような瞳。



 「あなたが、ミレイナ嬢ですね」



 「そうだけど……どちら様?」



 男は無言で懐から何かを取り出す。

 細く、鋭い針。

 それは毒と静寂をもたらす、確実な殺意だった。



 (……来た)



 ミレイナは椅子を倒して飛び退いた。



 すぐに棚から粉末薬をひとつ掴み、空中に投げつける。

 閃光!

 光と煙が室内に広がり、男の動きが一瞬止まった。



 (でも、これはほんの数秒!)



 その瞬間扉が蹴り破られた。



 「ミレイナ! 伏せて!!」



 叫んだのはアリスだった。



 黒装束に身を包み、剣を抜いた姿。

 目は冷たく、だが怒りと焦りに燃えていた。



 「姫様!? ど、どうして⋯⋯」



 「あとで話す!」



 アリスはそのまま暗殺者と交錯する。

 刃と刃が火花を散らし、廊下の壁が削れる。



 (迷ってる暇はない。この男を逃がせば、また同じように誰かが⋯⋯)



 「この手で……絶対止める!」



 怒号と共に、アリスは男の刃を弾き、剣の柄で腹を突いた。

 男はうめき声を上げて倒れる。



 すぐに縄で手足を縛り上げ、薬で意識を封じた。



 その場に静寂が戻ると、ミレイナが呆然とつぶやいた。



 「……本当に、姫様なの?」



 「そう。私は生きてる。そして……またこうして、あなたを守れた」



 涙が滲む。

 ミレイナが何も言えずに立ち尽くす中、アリスはそっと手を伸ばした。



 「お願い。あなたの力が必要……もう、誰も死なせたくないの」



 その言葉に、ミレイナの目から静かに涙がこぼれた。



 「……やっぱり、変わったね。あなた」



 「うん。たくさん、失ったから……でも、今度は違う」



 ふたりの手が、静かに重なった。




 その夜。

 アリスはミレイナの部屋で眠る彼女の寝顔を見つめながら、ひとり考えていた。



 (一人救えた。たったそれだけのことに、心が震える)



 (でも……これが、始まり)



 「何度だって救ってみせる……それが、生き返った理由だから⋯⋯」


夜明けの前。

 ミレイナの療養所の地下室。

 暗殺者は、未だ眠っていた。だが、目覚めは近い。



 アリスはその横に椅子を置き、黙っていた。



 壁に吊されたランタンの明かりが静かに揺れている。

 静寂の中、彼女の目は冴えていた。



 (この男の口から、きっと何かが出る)



 それが未来と同じなのか、変化しているのか。

 アリスにとって、それはただの情報ではない。



 命の重さ、運命の因果、希望と絶望の境目。

 そのすべてが、いま、この一瞬に懸かっていた。



 やがて、男が目を覚ます。



 アリスの顔を見た瞬間、彼の表情がわずかにこわばった。



 「……姫……様」



 声が震える。

 アリスは、静かに言った。



 「あなたが誰の命令で動いたか、それだけ聞かせて。私を殺す気だったのか、それとも……」



 男は一瞬口を閉ざしたが、毒もすでに抜け、抵抗する力も残っていない。



 だから、呟くように答えた。



 「……命じたのは……ヴァルレイン侯。王家を裏切った者の一人……」



 その名に、アリスがぴくりと動く。



 (ヴァルレイン……?そんな名、知らない⋯⋯)



 彼女の記憶には、その貴族の名はなかった。

 過去の裏切り者の中に、その男はいなかったはずだった。



 「……何を言ってるの……?そんな人、いなかった……」



 男は言葉を継ぐ。



 「彼の計画はもう始まってる。姫が生きてるなら、すぐにでも……次が動く」



 「次……?」



 「狙われるのは、王都の北部防衛線。あそこが崩れれば、王国は一瞬で……」



 その言葉が終わる前に、アリスは立ち上がっていた。



 (違う。これ……未来と違う!)



 あの時代では、北部の防衛は最後まで保たれた。

 それが崩れたのは、アリスが処刑されたずっと後。



 だが、今は違う。



 「……運命が、ズレてる」




 城に戻ったアリスは、すぐにリュカを呼び出した。



 「北部防衛線が狙われている。急ぎ、兵を送って」



 「しかし、証拠は?」



 「……私は、知ってる。それで十分でしょ?」



 リュカは一瞬戸惑ったが、すぐに頷く。



 「わかりました。信じます。姫様がそう言うのなら」



 すぐに馬が走り出す。

 ミレイナも薬師団を動かし、治療用の物資を積み始めた。



 城の中に、わずかながら、かつての戦の緊張が蘇り始める。




 その夜、アリスは一人、書簡を広げていた。



 未来と、今。

 交錯する二つの記憶が、彼女の中で少しずつ、ずれていく。



 (このまま未来が歪み続けたら、私はもう……何も知らないのと同じになる)



 (未来に頼れないなら、これからは……)



 その時、部屋の扉がノックされた。



 「姉上、よろしいですか?」



 エリスの声だった。



 アリスは答える前に、少しだけ深呼吸する。

 

(今のエリスは……まだ、何も知らないふりをしている)



 「どうしたの?」



 「……最近、姉上が何かに悩んでいるようで。私にできることがあれば……」



 優しげな微笑み。



 だが、アリスの目は、それを仮面”と見抜いていた。



 (もう……私も、気づいてるよ、エリス)



 けれど、口には出さない。

 ただ、穏やかに笑い返した。



 「大丈夫よ。あなたが、そばにいてくれるだけで」



 エリスは小さくうなずき、静かに部屋を後にした。



 その背中が見えなくなったあと、アリスは呟く。



 「運命はズレてる。でも、それでいい」



 「私はそのズレを選ぶ。誰も死なない未来を自分の手で作る⋯⋯」




 王都から北へ三十里。

 険しい山を背に築かれた砦。グラナス防衛線。



 ここは王国北部の最前線。

 かつて大戦時には、三度に渡る侵攻を食い止めた、鉄壁の防御陣だった。



 アリスの命令でリュカたちが急行したその地は、既に不穏な気配に包まれていた。



 「姫の言葉通りだ……ここは狙われている⋯⋯!」



 リュカは、見張り台からの眺めに目を細めた。



 周囲の木々の密度が不自然に薄く、野営の痕跡があちこちに散らばっている。

 兵たちの報告では、昨夜から見えない敵による偵察が続いているという。



 (未来は確かに変わり始めている)



 リュカは心の中で、アリスの直感を思い出す。

 あのとき、彼女の声は絶望の底から這い上がる者のような鋭さを帯びていた。



 「絶対に、今夜だ。奴らは夜陰に紛れて仕掛けてくる」



 その言葉を信じ、リュカは防衛線の全兵力に警戒態勢を取らせていた。



 だが、その準備が終わるか終わらないかのうちに。



 「来た!南の森から火の手!」



 砦が震える。



 闇の中から、無数の影が駆け上がってくる。

 全身黒ずくめの刺客たち。鋭く、静かで、組織的。まさに軍ではなく、暗殺部隊。



 「本当に……戦争を仕掛けてきたのか……」



 砦の将兵たちが驚きと怒りに包まれる中、リュカは前へ出た。



 「姫の予言は、現実になった!ここで食い止めるぞ!」




 一方その頃、王都では。



 アリスが、ミレイナと共に戦況報告を待っていた。

 魔導通信石を通して届くのは、砦からの短い連絡。



 『戦闘開始』



 『奇襲』



 『負傷多数』



 『リュカ健在』



 「間に合った……でも、まだ終わってない」

 アリスは立ち上がる。

 

ミレイナが声をかけた。



 「あなた、行くつもりね?」



 「うん。私はもう、命令を出すだけの姫じゃない。今度は……戦う王女でいるって、決めたの」



 自ら兵を率いて戦場へ赴くなど、かつてのアリスでは考えられなかった。

 けれど今の彼女は違う。



 「未来が変わった。なら、私も変わる」



 それだけを呟き、アリスは馬を用意させた。



 黒馬に乗り、夜の王都を走り抜ける。

 その目は真っ直ぐに、過去の自分を追い越していた。



 砦では激戦が続いていた。

 刺客たちは毒と火薬を使い、兵士たちを巧みに追い詰めていく。



 「姫は来るのか!?このままじゃ……!」



 兵たちの間に、不安が広がりかけたその瞬間。



 「アリス様のお出ましだ!」



 見張り塔の兵が叫ぶ。



 風を切って現れた馬影。

 漆黒のマントを羽織り、目を光らせた少女が馬上から剣を抜いた。



 「開けなさい!!」



 門が開き、アリスが駆け込む。



 その姿に、兵士たちの士気が爆発するように上がった。



 「姫が……来てくださった……!」



 「命令だけじゃない……俺たちと、戦うつもりだ!!」



 アリスは剣を構えたまま、叫ぶ。



 「この砦は、絶対に落とさせない!」



 夜の空に、その声が轟く。




 その頃、王都の別邸にて。



 静かな客間で、エリスはひとり、アリスの後ろ姿を思い出していた。



 (本当に⋯⋯変わった)



 昔は優しく、笑顔が柔らかくて。



 優しさはそのままなのに、心のどこかに手の届かないものがある。



 (あの人は、私に何も言わず、全部背負って……)



 (私は……このままでいいの?)



 思わず手にした短剣。

 影の使者がくれたその時のための道具。



 それを握りながら、エリスは問いかけていた。



 (姉を止めるために、この手を汚す?)



 (それとも⋯⋯)



 目を閉じたとき、ふいに誰かの声が耳に届いた。



 「姫様……あなたの決断が、国を動かすのです」



 それはかつて、母が囁いた言葉だった。



 「あなたたち姉妹は、王国の二つの心臓なのよ」



 (二つの……心臓)



 エリスの手から、短剣が滑り落ちた。

 床に落ちた音が、小さく響く。



 グラナス砦、夜明け前。



 戦は佳境を迎えていた。



 リュカが一人、敵の指揮官と剣を交えている。

 アリスは兵士たちを率いて、左翼の突破に成功しつつあった。



 火の粉が舞い、矢が飛び交う中。



 「退けぇぇぇ!!アリス姫が来たぞ!!」



 敵はついに退却を始める。



 リュカは敵将に一撃を叩き込み、その場を制圧した。



 勝った。



 アリスが予知に基づき、動いた初の戦い。

 それは、確かに未来を変えた証となった。



 夜明け。

 砦の高台で、アリスとリュカが並んでいた。



 空が白む頃、アリスは静かに言う。



 「これで……一人でも多く、守れた?」



 「はい。姫様が動かなければ、この砦は落ちていました」



 リュカの言葉に、アリスは小さく頷いた。



 けれど、心の中に宿るのは勝利の喜びではなく。



 (次は、もっと大きなものを守らなきゃいけない)



 未来はズレた。だからこそ、これから先は未知だ。



 だから彼女は、静かに言った。



 「……私は、止まらない。たとえ誰に裏切られても」

 彼女の顔を太陽の光が優しく照らした。

 夜明けの砦に立つアリスの瞳に、薄く白んだ空が映っていた。

 風が冷たい。

 空気の中に、かすかに焦げた油の匂いと、乾いた土のにおいが混じっている。



 火の粉が舞った戦場の名残。

 だがそれでも、アリスは剣を下ろさなかった。



 (この勝利が終わりじゃない)



 目の前の地平に、彼女には何か。

 黒く、重たい気配が横たわっているのが見えた気がした。

 

 違和感。それが、アリスの中で警鐘を鳴らしていた。



 「……リュカ」



 「はい、姫様」



 「敵は、あまりにもあっさり退いた。あれは……囮かもしれない」



 リュカは目を細める。

 すでに戦いの勝利を祝う空気が、砦の兵士たちの間に広がっていた。

 

 しかしアリスの声には静けさがあった。



 「調査隊を出しましょう。森の奥に、何か痕跡が残っているかもしれません」



 「すぐに」



 リュカがうなずいたその時だった。



 「姫様! 南側の岩場から……妙な魔力の反応です!」



 伝令の声に、アリスは即座に動いた。

 兵を十名連れ、南の斜面へと駆ける。



 岩場の谷間、焦げた木々の奥。

 そこにはひとつの魔法陣が描かれていた。



 直径は三メートル。

 血のように赤黒く染まった線が、何層にも重なっている。



 「……これは、召喚式」



 アリスの顔色が変わる。



 過去、王国が禁じた最古の魔術。虚獣召喚!

 古の戦争時代、軍勢を持たぬ少数勢力が敵国を潰すために用いた、禁断の手段。



 「奴らは……これを、置いていったの?」



 リュカが唇をかむ。



 「なら……これは試合の始まりに過ぎないわ」



 アリスは、剣を鞘に納めたまま、魔法陣の中心に歩を進める。



 (このまま放置すれば、召喚は完了する)



 (使うのは生贄の魂……)



 だが陣の中心には、ひとりの男の遺体があった。



 装束のまま、目を見開き、涙を流しながら笑っていた。



 「これは……自分を鍵にして……」



 アリスはその場に膝をつく。

 ただの召喚ではない。これは、自動発動型の儀式。



 「リュカ、すぐに封印術師を呼んで。これは……私の手に負えない」



 「姫様は⋯⋯?」



 「私は、砦の全兵に退避を命じる。これが発動すれば、ここ一帯が……」



 言葉を切る。

 空が、赤く染まり始めた。



 魔法陣の中心から、黒い煙のようなものが立ち上る。



 アリスは立ち上がり、叫んだ。



 「もう時間がない! 全員、退け!!」



 

 一方その頃、王都では。



 エリスは自室でひとり、窓を開けていた。

 外は静か。朝の光が差し込むが、心は晴れない。



 (姉さま……どうして、そんなに変わってしまったの)



 昔のアリスは、どんなときもエリスを守ってくれた。

 優しくて、まっすぐで⋯⋯でも、それだけじゃなかった。



 今のアリスは、まるで違う人のように。

 背負っているものの重さを誰にも見せないまま、突き進んでいる。



 (わたしは、ただそばにいたかっただけなのに⋯⋯)



 ドアをノックする音がした。



 「姫様、客人が⋯⋯」



 「……通して」



 入ってきたのは、一人の男。

 黒いマントを羽織り、目元を覆ったその男は、エリスの前に跪いた。



 「お久しゅうございます、エリス様。私は⋯⋯ガロスの使い」



 エリスの表情が曇る。



 「あなた方は……終わったと思っていたけど?」



 男は微笑む。



 「いえ、まだこれからです。姉君が砦に出た今、王都は……がら空きですよ」



 「……何が言いたいの」



 「王都中央図書塔。その最上階に、姫様の転生にまつわる記録が保管されています」



 エリスは息をのむ。



 「……記録?」



 「はい。なぜ姉君だけが生まれ変わったのか。その理由が、あの書庫にあるのです」



 沈黙。



 「あなたが真実を知れば、もしかしたら……彼女より、ふさわしい王になれるかもしれない」



 男は低く言った。



 「この王国に、真の心臓が必要なのです。あなたか、姉君か。選ぶ時が来ます」



 エリスは答えなかった。



 だが、視線の奥に浮かんだのは恐れではなく、決意だった。




 再びグラナス砦。



 アリスは最後の兵を脱出させ、自ら魔法陣の前に立っていた。



 黒い靄が地面を這い、魔方陣の文様が脈打つように光を帯びる。



 「……間に合って」



 封印術師たちがようやく駆けつける。



 「姫様、退いてください!危険です!」



 「ダメ。この魔法は意志を持ってる。……下手に動けば暴走する!」



 術師たちが封印の印を組み始める。

 アリスは両手を広げ、自らの魔力を式の中心にぶつけた。



 (この魔法は、誰かが意図的に残したもの。私たちの勝利を帳消しにするために⋯⋯)



 (そんなもの、絶対に許さない)



 風が荒れ、空が割れかけた瞬間。



 「……封!」



 封印術師の声とともに、魔法陣が砕けた。



 光が一閃、そして静寂が戻った。



 アリスは、地面に膝をつき、静かに息を吐いた。




 王都。



 エリスは夜の帳が落ちる頃、こっそりと宮殿を抜け出していた。

 目指すのは中央図書塔。



 (真実を知れば、わたしは何を選ぶんだろう)



 足取りは迷いながらも、確かだった。



 静かに、運命のページがめくられようとしていた。

王都の中央図書塔。王家の秘密を収めた、禁忌の書庫。

 高さ七十メートルを超えるその塔は、夜になると人の出入りが厳重に制限される。

 

だがその夜、塔の影に、ひとつの黒いフードの人影が忍び込んでいた。



 エリス。



 月明かりを背に、静かに石造りの階段を上っていく。

 手に握られているのは、かつて母がくれた王家の魔印。書庫の結界を破る唯一の鍵。



 (姉さま……あなたは何を隠しているの?)



 扉の前に立ち、指をかざす。



 カチリ。

 音もなく、重厚な扉が開いた。



 その奥に広がるのは、石造りの書架。天井まで届くほどの本棚に、魔法書、血統書、戦記、呪術記録……。

 人が扱ってはいけない力、そのすべてが詰まっていた。



 エリスは迷わず、最奥の部屋。転生記録室へと進んだ。



 

 一方その頃。

 アリスはグラナス砦から王都への帰路についていた。



 騎馬での移動。けれど、心は落ち着かない。



 (召喚魔法を誰が残した?あれはあまりに手際がよすぎた)



 (そして……あの術は、私が処刑される直前に使われたものと、同じ型だった)



 虚獣召喚は、本来もう誰も使えないはずの術。

 だが、処刑の直前に現れた黒い裂け目。

 あれは、あの時も、今も同じ術式だった。



 (つまり、誰かが……何度も繰り返している)



 背筋に寒気が走った。



 (もしかして私だけじゃない?……何者かが、世界そのものをやり直してる?)



 考えたくない可能性。

 だが否応なく、彼女の中で運命の歯車が狂い始めていた。



 

 図書塔最上階。転生記録室。

 エリスは書架の奥に、目立たない革張りの小さな本を見つけた。



 背表紙には金の文字で、こう刻まれていた。



 『特例転生記録:アリシア王国・第一王女』



 「……やっぱり……姉さまだけが、記録に……」



 ページを開く。



 中には、驚くべき事実が書かれていた。



 ・【記録:王女アリス=アリシア、死亡後も意識を保持】

 ・【本来、転生の術は王家の者でも不可能】

 ・【不確定要素:アリスの魂に他の時空の干渉あり】

 ・【周期:既に転生は3度以上行われている可能性】

 ・【補足:この魂は観測されている】



 「……え?」



 ページをめくる手が震える。



 ・【観測者:記録なし】

 ・【本来の時間軸から逸脱した異質な意志が、魂に干渉】

 ・【該当人物が本来の死を超え、何かを修正しようとしている】



 「誰かが……姉さまを生かして……?でも、なんのために?」



 ページの最後には、こうあった。



 。【補助対象候補:第二王女・エリス=アリシア】

 ・【もしアリスが軌道を逸脱した場合、エリスが正しき歴史へ導く可能性あり】



 「……私が、姉を……正す? それが……王国の記録……?」



 涙がこぼれた。



 信じていたものが、崩れた。

 姉は、自分の力で生き返ったのではなかった。

 誰かの計画の中で、生かされ、運ばれていた。



 そして、エリス自身も、もしもの備えとして記されている。



 (私は……姉の保険?)



 静かに本を閉じる。



 「私が、本当に……必要なの?」



 その言葉は、誰にも届かなかった。




 その頃、アリスの夢の中に記憶の欠片が蘇っていた。



 あの時、処刑台に立たされた瞬間。

 誰かの声が聞こえたのを思い出した。



 「まだ終わらせるな。お前はまだ、終わってはならぬ」



 それは、誰の声でもない。

 けれど、自分の中に直接語りかけてきた。



 「……あなたは……誰?」



 すると声が答えた。



 「この物語を、見届けたい者」



 「……物語……?」



 「お前たち姉妹の結末は、まだ決まっていない」



 夢の中のアリスは、剣を抜いた。



 「なら……私は、自分の結末を選ぶ」



 目を覚ましたとき、アリスの心は決まっていた。



 たとえ、誰かに操られていようとも。

 自分の生を、自分の意志で終わらせない。



 王都・王宮の玉座の間。

 エリスは深夜、玉座を見上げていた。



 その席は空いている。

 今は王不在の非常事態。



 アリスが戻れば、王位継承の儀が進むはずだった。

 だが、エリスの中で、ひとつの決断が芽生えていた。



 (このまま姉さまに譲っていいの?)

 (私は備えとして生かされてきた。でも、今からでも……)



 「私が……この王国の未来を選ぶなら、どうすればいいの?」



 誰も答えなかった。

 だが、誰よりも自分自身が、その問いの重さを知っていた。



 彼女はゆっくりと、玉座の手すりに触れる。



 冷たい。けれど、確かな存在感がある。



 (次にこの椅子に座るのは、姉? それとも⋯⋯)


 翌朝。

 アリスは王都へ戻り、すぐに重臣たちとの会議に入った。



 王都では、砦での勝利が英雄的に語られていた。

 だが、アリスの中では、もう次の戦いが始まっていた。



 「……この王国には、内部に敵がいる」



 重臣たちがざわめく。



 「私たちは、かつての戦いをまた繰り返そうとしているのかもしれません」



 アリスの目が、鋭く光った。



 「でも私は……もう、繰り返すことを選ばない」



 そう語る彼女の言葉を、エリスは別室の鏡越しに聞いていた。



 ふたりの視線は、まだ交わらない。

 だがその距離は、確実に近づいていた。

早朝の王都。

 空は青く澄んでいるのに、アリスの心には雲がかかっていた。



 執務室の机の上には、古文書の写本と、過去の戦争記録。

 その中に、一つの奇妙な共通点があった。



 (同じような戦の記録が、わずか数年おきに、繰り返されている……)



 しかも、地名も敵の動きも、戦法までもがほとんど同じ。

 アリスは眉をひそめた。



 (まるで……誰かが模写した歴史みたい)



 ガラス越しに見える王都の街並みは穏やかだ。

 けれど彼女は知っている。



 この世界には、本来あるべき流れを歪めている何かが存在する。



 そして自分自身が、その中に巻き込まれているのだと。




 一方、エリスは夜の図書塔で得た記録の余韻を、まだ引きずっていた。



 姉が繰り返していたのは、転生などではなかった。



 それは時間の巻き戻し。



 つまり、アリスは 死ぬたびに過去へと戻り、その記憶を持って未来を変えてきた。



 「でも……どうして?」



 エリスは書の断片を思い出す。



 ・【時間跳躍に伴い、対象は“精神的な損耗”を被る】

 ・【繰り返すほどに、現実感の認識が薄れ、孤独が強まる】



 (じゃあ……姉さまは⋯⋯)



 もしかして、今の姉は、過去を何度も生きた果ての存在なのだとしたら⋯⋯。



 「……どれだけ一人で……」



 胸が苦しくなった。



 これまでの不自然な強さ、迷いのない判断、感情の揺れの少なさ。



 それらはすべて、繰り返した経験の裏付けだった。



 (私が、一番知っている姉さまは……もう、そこにはいないのかもしれない)



 それでも、思い出す笑顔は。

 まだ姉妹だった頃の、あのあたたかい笑みだった。




 数日後。

 アリスは、ある一つの報告に目を通していた。



 「姫様、先日の砦に現れた召喚陣の痕跡から、異界の反応が……」



 「異界?」



 「はい。魔力の流れが、まるで……こちらの世界ではない存在と接触した形跡があると」



 アリスは立ち上がる。



 (やっぱり……この時間の跳躍は、誰かの意志で許されている)



 (私は単に運命を変えているんじゃない。誰かの実験に協力させられている)



 その事実に、寒気がした。



 (私が過去に戻るたび、何かが壊れている。人の心も、歴史も……)



 「……本当に、正しい未来に近づけてるの?」



 誰にもわからない。

 ただ、確かにこの時間は本物の未来ではない。何かが、ねじれている。




 同じころ、エリスは王国の地下聖堂を訪れていた。



 そこには、古くから伝わる時間封印の碑文がある。



 王族だけが読むことを許された、歴史の裏側。



 その石に、エリスは刻まれた文字を見つける。



 ・【王の血が歪むとき、時は巻き戻される】

 ・【姉妹が分かたれ、魂が裂ける】

 ・【選ばれし者が、最後の未来を決定する】



 「……選ばれし者……?」



 その言葉が、心に刺さる。



 姉ではなく、自分が選ばれたとしたら?

 あるいは、姉が何かを超えてしまったなら⋯⋯。



 (私は、姉を止めるために生まれたの……?)



 問いの答えは、碑文にはなかった。

 けれど彼女の心には、少しずつ火が灯り始めていた。




 その日の夜。



 王宮の廊下で、ついに姉妹はすれ違った。



 アリスは無言で歩き、エリスも立ち止まる。



 「姉さま……」



 アリスは、ゆっくりと振り向いた。



 その瞳は、まるで遠くを見ているようだった。



 「……エリス。あなたも……知ったのね」



 「……うん。時間が、繰り返されてる。姉さまは、それを生きてきた」



 「私を止めに来たの?」



 静かな問いだった。



 エリスは、唇をかむ。そして首を振る。



 「違う。私は、ただ知りたいの。何のためにそこまでして、未来を変えようとしてるのか」



 アリスはしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。



 「私には、何度繰り返しても守れなかったものがあるの」



 「家族?」



 アリスはうなずいた。



 「家族、国、民、そして……あなた」



 その言葉に、エリスは驚いたように目を見開いた。



 「でも……あなたは、私から遠ざかっていった」



 「怖かったの。何度も繰り返すうちに、あなたが違う顔をしていくのが……。でも、本当は……」



 そのとき、廊下の奥から、爆音が響いた。



 警報の鐘が鳴り響く。

 王都が、襲撃された。



 アリスとエリスは、同時に顔を上げた。



 「また……始まるのね」



 「うん。でも今度は、私も戦う」



 姉と妹は並び、廊下を駆け出す。

 新たな戦いが、今始まろうとしていた。

朝の冷たい空気が、アリスの頬をなでた。

窓の外、まだ薄く霧がかかった王都の景色が広がっている。けれど彼女の心はその美しさに寄り添わなかった。胸の奥に、どこかに隠されていた記憶のかけらが疼いていたのだ。



「……あの時のこと、思い出さなければならない」



静かにアリスはつぶやいた。



何度も繰り返してきた死。何度も戻ってきた過去。

その最初の死の瞬間。それは、いつもより鮮明で、痛みも絶望も深かった。



彼女は目を閉じると、心の中で時の扉を開いた。



過去へ。



数年前。まだ無垢だった頃のアリスが、城の広間で牢に閉じ込められていた。



冷たい石の壁に囲まれ、外の光はかすかに差し込むだけ。足元には砂利が敷かれ、何の希望も感じられなかった。



「裏切り者の娘として、ここに閉じ込められたのだ」



その言葉は、冷たく突き刺さった。誰の言葉かも、今はわからない。ただ、胸を締め付ける痛みだけが残っている。



何もできない無力さ、仲間も家族も目の前で失う絶望。



それでも、アリスの心にはひとつだけ燃えるものがあった。



「このまま終わってたまるものか」



復讐の炎だ。



彼女はその時、初めて強く決意した。

この運命を断ち切るために、何度でも立ち上がる。



しかし、その死はただの終わりではなかった。



「私は……また、戻された」



気がつくと、同じ朝に、同じ場所にいた。

牢の中。だが、ただ一つ違うのは、過去の自分の記憶すべてを持っていることだった。



「最初のループ⋯⋯これが私の新しい運命」



彼女はそこで知ったのだ。

時が繰り返されていること、そして自分がその中心にいることを。



だが、その運命には秘密があった。



アリスは自分の記憶の中で、次の瞬間を鮮明に思い出した。



処刑台の前に立つ自分。王国の裏切り者たちの笑み。



「その時、妹のエリスはどこにいたのか⋯⋯?」



そこにあったのは、信じがたい光景だった。



エリスは、彼女の目の前で冷たく微笑んでいた。



「あなたが死ねば、すべてが終わる」



その言葉は嘘のように優しい声だったけれど、真実は違った。



裏切り、そして孤独。



「それが、最初のループの真実だった」



しかし、アリスは知っている。

その時の自分はまだ知らなかった。



「本当の敵は、外にはいなかった」



それは、誰かの手の内で動かされる駒だったこと。

そして、誰かがこの時間を何度も巻き戻していること。



それでも彼女は諦めなかった。



「今度こそ、変えてみせる」



目を開けると、アリスの瞳は炎のように燃えていた。

その瞳の奥には、深い孤独と、それを超えた強さが宿っていた。



「妹も、私も、そして王国も運命は私が変える」



その決意は揺るがなかった。



その日、二人の姉妹は再びすれ違った。



お互いの想いが交錯し、言葉にならない叫びが胸を焦がす。



「あなたは、なぜ私を裏切ったの?」



「私は、あなたを止めなければならないの」



しかし、その答えはすぐには見つからなかった。



夜空に浮かぶ月が、静かに二人を見守っていた。

その光の下で、姉妹の物語はさらなる深淵へと進んでいく。

王都の朝はいつもより早く目覚めた。だが、その清らかな空気を引き裂くように、王宮の鐘が鳴り響いた。



「敵襲!敵襲だ!」



兵士たちの叫びが廊下に反響し、慌ただしく装備を身に纏う音が重なる。アリスは窓辺に立ち、東門から立ち昇る黒煙とともに、迫り来る敵兵の姿を見つめた。



「やはり…狙われたか」



心の奥で冷たい何かが這い上がった。これは単なる反乱などではない。計画的に仕組まれた襲撃。何者かが王国の弱点を知り尽くし、今まさに牙を剥いているのだ。



廊下の向こうからエリスの声が響く。



「姉さま、状況を把握しました。東門は突破され、敵は城内に侵入しています!」



「すぐに兵を集め、迎え撃つわ。民も城も、全て守らねばならない」



二人は背を合わせ、心を一つにして動き出した。



しかし、その時、冷たい刃が城の影から迫る。



「裏切り者がいる…⋯!」



混乱に乗じて、城内に潜んでいた裏切り者たちが動き出したのだ。剣が閃き、仲間の悲鳴が響き渡る。アリスは咄嗟に盾となり、エリスを守り抜く。



だが、裏切りは彼女たちの絆を試す試練でもあった。



「なぜ…⋯妹は敵と手を結んだのか?」



アリスの胸に渦巻く疑念。エリスの目にも痛みと決意が宿る。



「姉さま、私が選んだ道は間違っていない。私はあなたを止めなければならない」



姉妹はもはや敵同士。だが、互いの心の奥底には変わらぬ愛情が燃えている。



戦火が城壁を染め、民の叫びが遠くから響く。



「民を守る、それが私たちの使命」



アリスは剣を握り締め、叫んだ。



「どんな闇が訪れても、王国の未来は私たちの手で掴み取る!」



城内の戦いは熾烈を極め、敵も味方も疲弊しきっていた。だが、アリスは何度も心の中で誓う。



「このループの中で何度も死ぬ。だが、今回は違う。必ず王国を救う」



彼女の瞳に強い光が灯る。



翌日、静寂の中、アリスは城の高台に立っていた。そこから見渡す王都の景色は、戦いの爪痕を隠せずにいた。



「これが、私たちの運命なのか…⋯?」



彼女の脳裏に過去の記憶が蘇る。何度も繰り返された死の瞬間、そしてそれに打ち勝つ強い意志。



「だが、私はもう逃げない」



そう心に決めたその時、背後から微かな声が聞こえた。



「姉さま…⋯」



振り返ると、エリスが立っていた。顔には深い疲労が見えるが、瞳は揺るがない。



「私たちは分かり合える。もう一度、手を取り合いましょう」



アリスはその言葉に戸惑いながらも、胸の奥で熱いものを感じた。



「……ああ、そうだな」



二人は互いに歩み寄り、静かに握手を交わした。



しかし、その和解の裏には新たな陰謀の影があった。



「王国を滅ぼした裏切り者は、まだ動いている」



密かに動く黒い影。誰もが知ることのない、王国の未来を揺るがす秘密。



物語はまだ終わらない。

運命を変えるために、姉妹は再び剣を取り、戦いの渦中へと飛び込むのだった。




襲撃の混乱が過ぎ去った王宮は、静かな緊張感に包まれていた。

アリスとエリスは重く沈んだ空気の中で向き合う。



「姉さま、私が裏切ったのは、王国を守るためだった」



エリスの言葉は静かだが、決して揺らがない。



「どうしてそんな道を選んだの?私たちは家族よ」



アリスの声には戸惑いと怒りが混ざる。



「それでも、このままじゃ、王国は滅びる。私には、他に方法がなかった」



二人の間に流れる時間は重い。



その時、遠くから民衆の叫び声が響いた。



「助けてくれ!」



「裏切り者を捕まえろ!」



王都の闇は深く、ただの戦いではないことを告げていた。



「姉さま、私たち、どうすれば……」



エリスの瞳にわずかな涙が光る。



アリスは深く息を吸い、強く答えた。



「一緒に、真実を掴み取る。たとえどんな困難が待っていても」



二人は固く手を握り合った。



しかし、その背後で誰かが冷ややかに微笑んでいた。

黒幕はまだ動きを止めてはいなかった。




王宮の書庫。重い扉を押し開けると、埃と古文書の匂いが漂った。

アリスとエリスはここで、王国の過去と裏切り者の正体を探る決意を新たにしていた。



「この文書には、王国の暗部が隠されているかもしれない」



アリスは慎重にページをめくる。



エリスは隣で声を潜めた。



「もしかしたら、裏切り者が誰なのか分かるかもしれないわね」



二人の視線が一冊の古びた書物に集中する。



ページの中には、何十年も前の密約や陰謀の記録が記されていた。



「これは…⋯」

アリスは震える指で文字を追う。



そこに記されていたのは、かつて王国の高官たちが秘密裏に結んだ契約。

裏切り者の糸口となる黒幕の存在。



「こんなことが……」

 

エリスが呟く。



二人の心は複雑に揺れ動いた。



「今まで知らなかった、王国の真実。私たちの戦いは、ここから本当の意味で始まるんだ」



背後の扉がわずかに軋む音を立てる。



誰かが二人の行動を見張っているのかもしれない。



「気をつけて」



アリスはエリスに囁く。



その瞬間、影が書庫に滑り込んだ。



「さあ、姫様方。真実を知りたいなら、私が教えて差し上げましょう」




重厚な木製の扉がゆっくりと閉ざされる。

冷たい空気が漂う中、アリスとエリスは身を寄せ合いながら、敵の姿を見据えていた。



「なぜ、私たちをここに呼び出した?」



アリスの声には鋭さがあった。



黒いマントを羽織った男がゆっくりと歩み寄る。




「私はルヴァン。かつては王国の忠臣だったが、今は裏で動く者の一人だ」



エリスが震える声で問いかける。



「裏切り者はあなたですか?」



彼は冷笑した。



「私はただの駒に過ぎぬ。真の黒幕はさらに深く、あなた方の知らぬところで王国を操っている」



アリスの目が鋭く光る。



「どんな手を使ってでも、私は王国を守る。あなたたちの陰謀は許さない!」



緊張が張り詰める中、ルヴァンは一枚の巻物を差し出した。



「これを見よ。お前たちの知らぬ秘密が書かれている」



二人は巻物を手に取る。そこには、王国の建国の秘密、そして王族の血筋に関わる禁断の真実が記されていた。



「なんてこと……」



エリスは息を呑んだ。



「私たちの家族に、そんな過去が?」



アリスは拳を強く握り締めた。



「これが真実なら、私たちの戦いはまだ終わっていない。むしろ、これからが本当の戦いだ」



ルヴァンは冷たく言い放つ。



「お前たちはもう、逃げられぬ。王国の闇の中に沈むか、それとも新たな光を放つか、選択はお前たち次第だ」



書庫の窓から差し込む朝日が、アリスとエリスの顔を照らし出す。

決意がその瞳に宿った。



「共に戦おう、姉妹よ。どんな運命でも、私は諦めない」

「ええ、姉さま。私も」



二人は強く手を握り合い、未来に向かって歩き出した。



だが、その背後でルヴァンの影がゆらめき、冷たい笑みを浮かべる。



「始まったばかりだ、物語は⋯⋯」



王国の命運を賭けた新たな戦いが、今、幕を開ける。

アリスとエリスは、戦いの準備を整えた兵士たちの声を背に、城の最上階で顔を合わせていた。



「姉さま、もう後戻りはできないわね」



エリスの瞳は揺るがず、冷静に未来を見据えている。



「そうだ。これが私たちの宿命。奪われた王国を取り戻すため、全てを懸ける時が来た」



アリスは剣を握り締め、心の中で何度も繰り返してきた誓いを強く胸に刻んだ。



「私たちは、何度死んでも立ち上がる。運命を変えるために」



遠く、城下町の灯りが戦の火種のように揺れる。

だが、姉妹の目には未来の光が映っていた。



「共に戦い、共に勝とう」



二人は拳を突き合わせ、静かに闘志を燃やした。



一方、王宮の闇の奥では、黒幕が冷たい笑みを浮かべていた。



「よくぞここまで来た、アリス、エリス。だが、お前たちにこの王国を渡すわけにはいかぬ」



彼の手には、王国の支配を決定づけるある秘密の証拠が握られていた。



「さあ、最後の幕を開けよう」



戦いの火蓋は切って落とされた。

剣戟が城壁に響き、火の手が空を焦がす。



アリスは最前線で叫ぶ。



「王国のために、民のために!負けるわけにはいかない!」



エリスもその隣で、冷静に指示を飛ばす。



「皆、動揺するな。落ち着いて戦え!」



戦場は激しさを増し、姉妹は互いの命を守りながら前進を続ける。



数度の攻防の末、ついに黒幕の正体が姿を現した。



「ここまで来るとは、感心だな」

男は不敵な笑みを浮かべ、魔法の力を解き放つ。



しかし、姉妹は恐れなかった。



「これが、私たちの未来を決める戦い。絶対に負けない!」



二人は剣を交差させ、運命の最終決戦へと踏み込んだ。



激しい戦闘の中、アリスは心の中で叫ぶ。



「これまで何度も死んできた。だが、今は違う。この瞬間を変えるために!」



エリスもまた、姉への想いを胸に剣を振るう。



「姉さま、共に生きて、共に王国を取り戻す!」



戦いの終わりは、まだ見えない。

だが、姉妹の絆と決意は、誰にも砕けない。



王国の未来は、まだ誰にも分からない。

ただ、二人が戦う限り、希望は消えはしないのだ。



「王家の血など、ただの記号にすぎん。お前たちが掲げる正義もまた、空虚だ」



玉座の間に響くのは、黒幕元大宰相グラディウスの声だった。

彼は漆黒の衣を纏い、天井の月光に照らされながら、まるで舞台の主役のように立っていた。



アリスとエリスは、左右から玉座の間に踏み込む。



「……ようやく、顔を見せたわね」



アリスの声は凍りつくように冷たい。



「あなたが……父と母を裏切り、王国を売った」



エリスが睨むその瞳には、怒りではなく、覚悟が宿っていた。



グラディウスは笑う。



「王家が腐っていたからだ。私が正しき秩序を与えようとしただけ」



「秩序の名を借りた、支配と破壊だろう!」



アリスが叫び、剣を構える。

その剣は、何度も過去で折れ、砕け、それでもまた握り直してきた剣だった。



グラディウスが手を掲げると、巨大な魔法陣が床に広がった。

「見せてやろう、王族では触れることすら禁じられた禁術の力を」



空間が歪み、炎と氷と闇の奔流が吹き荒れる。

だがアリスとエリスは一歩も退かない。



「私たちはもう、あの日の私たちじゃない」



アリスは目を閉じ、心の奥に眠る過去の記憶を呼び覚ます。

処刑の刹那。冷たい刃。血を流す家族の手。

それでも、諦めなかった。幾度も時を越えて、この場所までたどり着いた。



「その力は、滅びの先にしかない。私は、未来のために戦う!」



アリスが剣を振るうと、風が鳴った。

その一閃は、玉座の間の空気を切り裂き、魔法の壁に火花を散らす。



「姉さま、援護するわ!」



エリスは背後から補助魔法を展開し、アリスの動きを倍加させる。

姉妹の連携は、すでに何百回も“時を超えて”積み重ねてきた、真の戦術だった。



だが、グラディウスの力は異常だった。

彼の魔力は、大地を揺らし、柱を崩し、まるで世界そのものを否定するかのように暴走している。



「美しいな、姉妹の絆。だが、それは私の計画の予定通りだ」



グラディウスが狂気を帯びた声で囁く。



「……なに?」



アリスの動きが止まった瞬間、空間に亀裂が走る。

玉座の背後から、もう一人の自分が歩み出てきた。



「……私……?」



アリスに瓜二つの姿。

だが、その目は氷のように冷たく、魂の色が違っていた。



「ようやく出番かしら、もう一人のアリスさん」



グラディウスが笑う。

「お前が何度時を越えても、結末は変わらない。なぜなら、始まりが私の手の中にあるからだ」



時を超える力すら、彼の手の中にある⋯⋯そう告げられた瞬間、アリスの膝がわずかに震えた。



「そんな……全部仕組まれていたっていうの?」



だが、エリスが一歩前に出る。



「違う。姉さまが選び続けた未来が、ここまで来たのよ。誰かの計画の中にいたとしても、今この瞬間は私たちの意志だわ!」



その言葉が、アリスの心に火を灯す。



「……そうよ。運命なんて、壊してやる!」



もう一人のアリスが剣を構える。

「なら、力で証明してみなさい。あなたが本物だと」



「私は、私の存在そのものを、証明しなくてはならない」



アリスは剣を掲げ、“もう一人の自分”と向かい合った。

同じ顔、同じ声、同じ記憶。だが、違う。



「あなたは過去に囚われている。私は未来を選びたい」

そう言ったとき、剣の刃が交錯した。




激しい衝突。

もう一人のアリス影の存在は、まるで時の記憶そのものが具現化したようだった。



「何百回、何千回と転生を繰り返してきた。裏切り、死、喪失。あれが真実なら、生きる意味などない」



その声は絶望の底から響いていた。



「それでも、生きるの」



アリスは叫んだ。

「誰かに与えられた意味じゃない。自分の手で掴むんだ!」



その瞬間、背後から光の魔法が放たれた。

「姉さま、今!」



エリスの援護魔法が炸裂し、影のアリスが怯んだ一瞬。

アリスの刃が、その胸を貫いた。



影のアリスがふっと微笑み、呟く。



「これで……やっと……止まれる……」



光に包まれ、影は静かに崩れ落ちた。



玉座の間に、再び静寂が戻った。



しかし。



「ふふ、面白い。やはり、可能性は否定できんか」



最後に立ち上がったのは、グラディウスだった。



「だが私は、理想のために王国を壊す。変革は血を流さなければ成立しない」



アリスがにじり寄り、剣を構える。



「あなたの理想は誰のためでもない。王国の民の声を聞いたことがあるの?誰かを愛したことがあるの?」



グラディウスは一瞬だけ黙りそして笑った。



「ない。だからこそ、私は正しい」



「なら、終わりにしよう」



アリスとエリス、二人の魔力が共鳴し、ひとつの光を放つ。



「私たちは、間違いながらも、誰かを守るために剣を取る。あなたとは違う!」



双剣が交差し、グラディウスの魔力を打ち破る。

強大だった力は音もなく崩れ、男はその場に崩れ落ちた。



「……そうか。これが、敗北……か……」



彼の瞳に浮かんでいたのは、どこか懐かしさを感じさせる、安堵のような微笑だった。



王宮に朝日が差し込む。

火も煙も消え、王都は静かに目を覚まし始めていた。



傷ついた民が再び立ち上がり、兵たちが剣を収める。



そして、姉妹は城壁の上に立ち、遠く王都の街を見下ろしていた。



「終わったの?」



 と、エリス。



アリスはゆっくり頷いた。

「いいえ……これから始まるの」



二人の目の前に広がるのは、何も保証されていない未来。

だが、それでも歩む価値のある、新しい世界。



「私はまた何度でも繰り返すかもしれない。だけど、今この瞬間は確かに生きている」



「私も、あなたとなら何度でも立ち上がれるわ」



姉妹はそっと微笑み合い、歩き出した。



風が吹く。

空はどこまでも青く、高く。



アリスの剣が陽光にきらめいた。



玉座の間。すべてが終わったはずだった。



だが、空気が再び震える。



魔法陣がゆっくりと崩れたはずの床に、亀裂が走る。



「……なに?」



アリスが身構えた瞬間、崩れ落ちたはずのグラディウスが再び立ち上がっていた。

その目に光はなく、瞳孔は深い奈落のように広がっていた。



「どうして……まだ立てるの?」



エリスの声が震える。



「私はただの人間だった……だが、時そのものを取り込んだ」



彼の身体からは、人ならざる魔力があふれ出ていた。

それは転生を繰り返すアリスの“記憶の残滓”を吸収した禁術。



「王族の血、転生の記憶、それらすべてを力に変えた。今ここで、お前たちを永遠に否定する」



それはもはや、人の姿ではなかった。

黒くうねるマント、魔法の奔流、虚ろな瞳。

“グラディウス”は、自らの命と引き換えに、時空の深淵を越えた怪物と化した。



アリスは一歩踏み出す。



「……それでも、私は止まらない。何度でも立ち上がって、あなたを超える」



「姉さま……!」



エリスが震える手で、アリスの背中を押した。

「私たちの記憶は、力じゃない。生きるための証なのよ!」



再び姉妹の力が共鳴する。



アリスの剣は輝き、記憶が刃と化す。

それは過去に何度も倒れ、何度も後悔し、それでもまた歩いてきたすべての時間。



対するグラディウスは、呪文を唱え、時の歪みそのものを攻撃に変えた。

空間がねじれ、未来すらも滲む。



「これが絶対だ。お前たちの願いなど、私の理想の中では幻想に過ぎん!」



だが。



「幻想でも、夢でもいい!私は私の信じる道を貫く!」



アリスは、世界を断ち切るように剣を振るった。



剣が魔法を裂き、空間を越え、記憶を切り裂いた。



怪物の身体が、音もなく崩れていく。



「……ああ……温かいな……まるで、あの時の王だ……」



グラディウスの最後の言葉は、かつて忠誠を誓った王、アリスとエリスの父への言葉だった。



その瞳には、一瞬だけ人間の色が戻り、彼は消えた。

空は高く、雲は穏やかに流れていた。

王都アリシア、かつての悲劇と崩壊を経て、いま静かに再生の時を迎えていた。



あの日、燃え落ちた城門も、瓦礫に埋もれた広場も、すべての場所が、少しずつ、確かに、息を吹き返している。



瓦礫の山をどかし、家を直し、井戸を掘り、失ったものを思いながらも、それでも人々は前を向いていた。



その中心に立つのは、二人の少女。

いや、もう少女ではない。



アリス・アルテア・アリシア

そして

エリス・セレナ・アリシア



王国を取り戻した双子の姉妹。

幾度の転生、失われた時間、深い傷。

すべてを乗り越えた先に、今、彼女たちはここにいた。



王宮の広間には、光が満ちていた。



国の再建式典。

騎士たちが並び、民たちが見上げ、王族たちはひとり、またひとりと頭を垂れる。



「民のために、剣を振るうのではなく」

「民のために、手を取り合う」



アリスの声が響く。



「この国をもう一度、皆と共に、立ち上げたい」



その声に、誰もが答えた。



「姉さま……」



エリスがそっと横に立つ。



「私たちは、運命に逆らった。でも今度は、共に選ぶ未来を歩もう」



二人は頷き合い、手を取り合う。

その姿は、民の心に希望の象徴として刻まれた。



そして夜が明ける。



祭りの火が消え、王都に再び静けさが戻ってくる頃、アリスはひとり、城のバルコニーに立っていた。



遠くまで広がる、星空と夜明けの狭間。

まだ暗く、けれど、確かに空は白み始めていた。



「……長かったね」



呟くその声は、どこか優しくて少しだけ切なかった。



この世界に戻ってきたあの日、何度も思った。



「間に合わなかったらどうしよう」

「また全部失ったらどうしよう」



でも、今。



「エリスがいた……みんながいた。だから、私は立ち上がれた」



アリスは目を閉じる。



処刑の直前に見た光景。

崩れる王宮、叫ぶ声、血の匂い、冷たい石の感触。



あれは終わった。もう、戻らない。



「今は、ここにいる」



空が、明るくなった。



少しだけ、風が暖かい。



足音がして、背後からエリスが現れる。



「姉さま、またここにいたのね」



「……つい、ね」



「ちゃんと眠らないとダメよ」



アリスは笑った。



「朝まで、あと少しだけ」



二人は並んで、夜明けの空を見上げた。



その空は、かつて何度も見た空とは違う。

何かが終わり、何かが始まる、そんな光だった。



王都はゆっくりと、目覚めていく。



市場には新しい商品が並び、焼きたてのパンの香りが流れる。



子供たちの笑い声。修復中の大聖堂の鐘の音。



兵士たちは笑いながら朝食を取り、職人たちは新しい橋の設計図を広げる。



小さな再生が、街のあちこちに散らばっていた。



すぐには変わらない。

それでも、確かに進んでいる。



そう感じさせる、希望の風景だった。



そして、広場の片隅。



まだ若い女性がひとり、王都の外へと向かって歩いていた。

旅装を纏い、小さな荷を背負い、背筋を伸ばして。



その足取りは、迷いがなく、軽やかだった。



すれ違う人々が振り返り、目を見張る。



その横顔に見覚えがあるのだ。



だが彼女は、何も言わずに微笑み、ただ、まっすぐ前を見て歩いていく。



誰も知らない。

その少女こそが、かつて世界を救い、歴史を変えた王女、アリスであることを。



姫であることを捨て、剣を置き、ただの一人の人間として。



「次の物語は、私自身で選ぶ」

「もう、過去に縛られなくていい」



そう呟きながら、風に吹かれて、彼女は歩いていった。



陽が昇る。



誰かの手が、また誰かの手を取り、今日もまた、新しい日が始まる。



そして、その光の中で。



アリスはただ、前へと歩き出す。



やがて遠ざかる背中。

その姿が、朝陽に包まれて、やさしく、そして静かに、世界に溶けていった。



── END ──