王都の朝は、いつでも何かの匂いを連れてくる。焼きたてのパンの湯気、濡れた石畳の鉄の香り、露店の油煙。ここ数日は、そこにもうひとつ、甘すぎる香が混じっている。白い花輪に染み込ませた香油だ。王太子派は“愛”を連呼した。慈善舞踏会、貧民への寄付、病院への豪華な花輪。映える支出は広場の遠くまで届く香りを持つ。だがエレーヌは“香り”を嫌う。数字の匂いは無臭がいい。香りは、誤魔化しの序章だから。

 審理は広場の秤の前、仮設の木舞台に移したまま続行された。監査長は「国民の目の届く場所で」という理由を並べたが、実際には王太子陣営が“群衆の空気”を味方につけたいからだと、エレーヌは読む。空気は見えない。だから測定が難しい。測れないものを戦場に選ぶのは、強い側の常套だ。

 彼女は壇上で、寄付の流路を地図に描いた。王都の輪郭を簡略化した手描きの図。南区の孤児院——黒い点。そこから北へ延びるはずの細い線は、途中で右に折れ、“音楽院教授在籍財団”を経由し、さらに上へ抜け、“王太子主催演奏会費”という金字塔の根元に吸い込まれている。線の太さは金額、色は速度、矢印は便宜の向き。花輪の請求書は三重計上。請求先は孤児院、財団、王宮付属造園局。最終的に“寄付額”と称して広場に貼り出された合計は、実支出の二倍。差分は“見栄の評価額”。貧民にはパン屑だけが落ちた。

 群衆がざわつく。数字は、恐れられている間は冷たいが、理解されると熱を持つ。エレーヌは棒で地図の一点を軽く叩いた。「ここが詰まりです。財団という名のバイパス。ここを通すと、王太子の友人の演奏会に血が集まり、孤児院の手足は痺れる」

 リュカは、テーブルに法廷の模型を広げた。梁の負荷を示すため、支出の重みを白い石で表現する。「この梁(財団)を挟むと、上に飾り(花輪)をいくらでも乗せられる。でも土台(孤児院)は沈む。構造欠陥だ」

 「構造計算の結果、恋は軽かった、ってことね」

 「恋が悪いわけじゃない。悪いのは、恋を言い訳にする梁だ」

 会場の後方で、監査長の眉がわずかに動く。彼は“梁”という言葉に敏感だ。梁は美辞麗句の裏側で折れる。監査長は折れた梁を見てきた。王太子は、梁に詩を刻む趣味がある。詩は梁を飾るが、強くはしない。

 審理後、街角でエレーヌは侍女出身の女性記者に囲まれた。彼女の名はノエミ。指には紙の切り傷がいくつもある。「感情を切り捨てるのですか?」ノエミの声は、怒りの針を針山に挿す手つきで震え、しかしまっすぐだ。

 「いえ。感情を測りにかけるやり方を示したいの」エレーヌは気取らない調子で答える。「測られない感情が、いちばん雑に使われるから」

 「測れるものではない、と人は言います」

 「測れる部分だけ測る。測れない部分には、傷をつけないよう手袋をする」

 「あなたは手袋をしていますか」

 「ええ。見えない手袋だけど」

 ノエミは一瞬だけ笑い、すぐに真顔に戻った。「紙面では、あなたを冷酷と書く人もいる。けれど、侍女たちの間では、違う呼び名も出始めている——“割引の女神”」

 「割引?」

 「私たちの“責められるべき痛み”の負担を、制度で割り引こうとするから」

 「不名誉じゃないといいけど」

 「名誉の値札も、あなたは貼るのでしょう?」

 「貼り直すのよ」

 夜、エレーヌの邸に投石があった。窓が割れ、床に散るガラス。部屋の空気が一瞬で外気に交換され、冷たくなる。ガラスの破片は星に似て、音は雨に似ていた。リュカは静かに片づけ、窓枠に仮の補強具を取り付ける。彼は手際よく、痛みを工程に戻す。

 「君は正しい。でも正しさは孤立する」

 「孤立はいや。でも帳尻の合わない“連帯”はもっといや」

 「連帯を嫌うと、連帯に嫌われる」

 「嫌われて国家が賢くなるなら、それが一番安い」

 リュカは短く笑い、割れた窓越しに夜の通りを見た。通りの向こうで、花輪の香がまだ漂っている。「香りのする正義は、たとえ偽物でも、夜に勝つ。朝に勝つのは、匂いのしない正義だ」

 「なら、朝まで起きていましょう」

 そのとき、扉が叩かれた。ノックは緊張で硬く、しかし躊躇がない。使用人が開ける前に、エレーヌは自ら扉へ歩いた。廊下に立っていたのは、王太子の婚約者“候補”として名前の出た伯爵令嬢——薄桃の外衣、白い襟、握りしめた手紙。彼女は蝋燭のゆらぎで影をはみ出させながら、言葉を押し出した。

 「私は共犯です。王太子殿下に好かれるため、侍女たちを使ってライバルを貶めた。罰を受けます」

 エレーヌは彼女を責めない。「罰は制度で。あなたの告白は証拠で、あなた自身は証人」

 令嬢は目を伏せ、握りしめていた手紙を差し出した。封は既に破られている。中の紙は三枚。最初の二枚は、侍女への指示——噂の流し方、涙の作り方、タイミング。最後の一枚は震える筆致の懺悔。「愛のためにやった」と書いてある。言い訳はいつだって、文法としては正しい。

 「殿下は、私を『誠実だ』と褒めました。私の涙が上手だったから。でも、誰かに教わった涙でした」

 「涙の指導料も、費目に入れましょう」エレーヌは言い、机の上の空の帳票を引き寄せた。「名称は『名誉保全費』。——あなたが今日、ここに来た費用は」

 令嬢は顔を上げ、かすかに笑った。「怖かったので、父の御者を黙って連れ出しました。——無断使用の費目も、入りますか」

 「ええ。費目は現実のためにあるの」

 翌日、広場でエレーヌは“感情の費目”を提案した。王国会計に、寄付や顧客接待とは別の新しい科目「名誉保全費」を設ける案だ。名誉を守るための手続や反論権の費用を正面から計上する。主張のための紙代、記者会見の場代、反論のための弁論時間、侮辱によって生じた営業損失の推定値。これらを「見えない支出」として、帳簿に上げる枠をつくる。

 群衆は戸惑い、そして少し安堵する。「見えなかった重み」を言葉にできるから。広場の隅で、ノエミが小声で言った。「費目の名前があるだけで、救われる人がいます」

 王太子は笑って言う。「君は恋に簿記を持ち込むのか」

 「ええ。恋を口実にした浪費を締め出すために」

 「君の簿記は、詩を殺す」

 「簿記は詩の敵じゃありません。詩の賃金の味方です」

 その時、監査長が控えめに咳払いし、エレーヌの前に置かれた封筒を示した。「匿名投函。開封を許可する」

 中には一枚の紙。王太子の筆跡で書かれた文書。「婚約破棄を宣言する演説稿」。日付は審理前。つまり、事実の検証前に“演出”が先にあった。広場が静まり返る。紙は軽いが、沈黙は重い。

 王太子は一拍置き、ゆっくりと笑った。「準備が良いのは、為政者の徳だ」

 「準備が良いのは、舞台監督の徳でもあります」リュカが口を挟む。「違いは、チケット代を払った観客に嘘をつくかどうか」

 「観客は嘘を愛する」と王太子。

 「なら、嘘に課税する」とエレーヌ。

 「やってみたまえ」

     ◇

 審理の休憩に入ると同時に、王都の空は薄雲を流し、真上で鐘が二回、低く鳴った。監査院の会議室に戻ると、エレーヌは黒板に新しい図を描いた。四象限の図。横軸は「意図:善/悪」、縦軸は「効果:有益/有害」。王太子の“愛”と称する諸行為をこの座標に配置していく。孤児院へのパンは「善意×有害」(他の支援を痩せさせたから)。病院への花輪は「善意×無益」。演奏会への支援は「自己利益×有害」。——図は、語彙より残酷で、語彙より誠実だ。

 若い監査官が指を差す。「『善意×有益』がひとつもない……」

 「あるはずよ。どこかに。見逃してはならない」エレーヌは言い、四象限の隅に小さな丸を描いた。「見つけたとき、そこに厚く資源を割くために、今、全体像を描いている」

 「『名誉保全費』は、このどこに?」

 「すべての象限にかかる。名誉は意図と効果の間に立ち、誤認を減らすための潤滑油。潤滑油の費目がなければ、社会の摩擦熱はいつか火事になる」

 監査長が腕を組む。「詩人協会から抗議が来るだろう。『感情を費目にするなど言語道断』と」

 「詩人協会には、『比喩使用料』の免税措置を提案しましょう」

 室内に乾いた笑いが落ち、緊張がわずかにほぐれた。冗談は分配である。硬さを均す、小さなスプーン。

 その時、記録室の扉が開き、タニアが顔を出した。「嬢ちゃん、新聞が出たよ。『冷酷な恋の会計士』だってさ。写真も素敵」

 ノエミの社ではない大手新聞だ。紙面にはエレーヌの横顔。切り取られた光は冷たく、見出しは熱い。熱い言葉は紙を焦がさないが、人の目を焦がす。「冷酷」は販売部数の友達だ。

 タニアはもう一枚、薄い紙を差し出す。「ほら、ノエミのちっちゃい新聞も。『侍女たちは覚えている——互助金の窓口に灯りがついた夜』」

 紙面は粗いが、言葉は柔らかい。柔らかい言葉は、硬い場所に届く。硬い場所は、心の無関心の関節。そこに油をさすのが、記者の仕事のひとつだ。

     ◇

 午後の審理。王太子側は、音楽院の教授と自称する男を証人席に立てた。彼はよく通る声で、寄付金の正当性を語る。「音楽は心の糧であり、貧民も音楽に触れる権利がある。殿下の寄付は、その門を開いたのだ」

 エレーヌは微笑み、地図の一点を指す。「教授在籍財団の支出のうち、無料演奏会の実施は年に一回。その入場者の住所記録を拝見したら、南区からの来場は全体の三パーセント。理由は簡単。会場が北区だから。交通費は誰が負担?」

 教授は口を噤む。会場がざわめく。人が沈黙に気づく時、沈黙は音になる。音は誰のものでもないが、沈黙の所有者はいる。彼らは、沈黙の税を払い続けている。税は見えないと、永遠に増税される。

 つづいて、伯爵令嬢が証言台に立った。彼女は震えながらも台本を持たない。「私は、殿下の望む『美しい涙』を、他人の顔に貼った。そのために侍女たちに命じ、噂を広め、反論の口をふさぎました。……ごめんなさい」

 「ごめんなさい」は、費目にすると軽くなることがある。だからエレーヌは重さを足す。「あなたが使った侍女の『時間』は、何時間?」

 「……二十七時間」

 「そのうち有給はいくつ?」

 「ゼロ」

 「『名誉保全費』に計上します。従業員の無賃『感情労働』は、禁じます」

 王太子側の弁護士が跳ねる。「従業員の心の動きにまで法が干渉するのか!」

 「心の動きには干渉しません。心を使った労働を、労働として認めるだけです」

 監査長は木槌を軽く叩いた。「静粛に。——『名誉保全費』の試行は、内閣評議会の承認が必要だ。だが、本審理において“推奨”とし、判決言渡し時に“考慮”することはできる」

 王太子は笑って肩を竦める。「君は会計の女王だ。だが、恋は王冠を嫌う」

 「王冠は梁を嫌う」とリュカ。

 「梁は恋の香りを嫌う」とタニアの小声。

 広場の片隅で、誰かが鼻で笑い、誰かが頷き、誰かが泣いた。感情の相場は市場で決まる。だが、相場師だけに相場を任せると、屋根が落ちる。

     ◇

 審理の合間、リュカは小さな銅の分銅を取り出し、机の上に三つ並べた。「『名誉保全費』の内訳を、触れる形で見せよう。分銅は、時間、危険、沈黙」

 「沈黙?」

 「沈黙の重さは、声を出さなかった時間と、その間に失われた機会で測る。例えば——侍女が噂に巻き込まれた半年、彼女は昇給試験を受けない。これは沈黙の税。税率は脅しの強さに比例する」

 「脅しの強さは?」

 「紙の破れ目の深さで見る。強く握りしめた紙は、角が丸い。弱い脅しは紙を汚すが、強い脅しは紙を破る」

 「紙を見て、梁を知る」

 「梁を見て、詩を知る。詩は梁が折れる音を最初に聞く」

 「詩人協会に伝えて」

 彼らの会話は、冗談の顔をした設計図だった。冗談は実務の影。影が濃いほど、日差しは強い。

     ◇

 夕方、王太子派の劇団が広場の端で“恋の一幕”を上演した。美しい衣装、効果的な涙、照明のマジック。人は物語に弱い。彼らが憎むのは物語ではなく、物語の独占だ。上演が終わると、エレーヌは舞台監督に近づいた。「舞台費用の明細を」

 「は?」

 「あなた方は公共の広場を無償で使用した。公共資産の使用は、費目を伴う。『名誉保全費』の関連で」

 舞台監督は口を開け、閉じ、肩をすくめ、「明日、書いて持ってくる」と言った。言質は、小さな橋。橋は一本ずつ必要だ。

 夜。邸に戻ると、再び窓が叩かれた。今度は投石ではない。小さな小箱が置かれ、中には銀の涙がひとつ。礼拝堂の飾りと同型だ。紙が添えられている。「涙に課税できますか」。筆致は王太子のものではない。あの男は挑発にもっと比喩を用いる。これは無骨で、怒りの直線だ。

 エレーヌは銀の涙を掌に載せ、重さを確かめた。「二十六グラム」

 「計るんだな、やっぱり」とリュカが呟く。

 「涙の重さは、落ちたあとでしか計れない。でも飾りは今、計れる」

 「誰からだ?」

 「誰かが、私たちの言葉を嫌った。嫌ったことは悪ではない。嫌い方が問題」

 翌朝、銀の涙は証拠袋に入れられ、監査院の金庫へ。証拠は甘やかすと腐る。乾いた場所に保管し、日を定めて公開する。

     ◇

 第三回審理。冒頭で、エレーヌは一枚の布を取り出した。記録室の白布。鼻水用にも涙用にも使える布だ。「『名誉保全費』の暫定適用による『反論権の手続』をご案内します」と彼女は宣言し、簡潔な手続表を読み上げた。侮辱された側は三日以内に申し出る。監査院は七日以内に予備審理。紙面・公衆前双方での反論の場を確保——費用は『名誉保全費』より立替え。虚偽が認定された場合は、虚偽の側に負担が移転する。

 広場の空気がわずかに変わった。具体的な階段は、人の足を落ち着かせる。抽象の階段は、美しいが滑る。階段の勾配は、建築局の管掌だ。リュカが頷く。「踏面の幅は十分」

 王太子は口角を上げ、「君は国を役所にする」と言った。

 「国はもともと役所です。あなたの詩が、その上に立つ」

 「詩は役所に殺される」

「殺される詩は、だいたい誰かの骨で支えられている」

 王太子は笑い、観客の方へ手を振った。歓声が上がる。歓声は、ひとまず梁にはならない。梁になるのは、そのあとに集まる税と賃金だ。歓声は植物で、梁は鉱物。鉱物を植物で支えようとすると、早晩、根が切れる。

 ここでノエミが、手を挙げた。記者席からの発言は本来認められないが、監査長は「三十秒」と許した。ノエミは立ち上がり、短く言った。「侍女互助金の窓口に行列ができています。『名誉保全費』の案内に従って、侮辱に対する反論の申請も増えています。——これを『愛が壊れた』と書く紙もありますが、私は『愛の負担者が減った』と書きます」

 王太子の眉が、ほんの少しだけ動いた。彼は群衆の空気を読む術に長けるが、個々の言葉の芯を見るのは得意ではない。芯は、香りがしないから。

     ◇

 審理は終盤、王太子側が切り札を出した。慈善舞踏会で配られた“感動の手紙”。「殿下の愛に救われました」と、達者な筆で綴られた数十通。エレーヌは一通を取り、紙の縁を撫で、「同じ束から切り出した紙」と言った。端の毛羽立ちが一致している。封蝋の刻印の歪みは、同じ欠け。つまり、同じ机、同じ刃、同じ蝋匙。

 「同じ夜に、同じ人が『感動』を束ねた」

 王太子の弁護士は声を荒げる。「感動が同時に生じて何が悪い!」

 「悪くない。——ただ、同時に『送られた』。送るための費用は、誰が払った?」

 沈黙。机の木目がよく見える。木目は、冷静な証人だ。長い時間にしか興味がない。

 エレーヌは最後に、広場を見回し、息を整えた。「『愛』の定義は詩人に任せます。私が定義するのは、費目です。『愛』が公共財を動かすとき、その支出と収入の扱いを定義する。『名誉保全費』は、そのための最初の線。線を引くのは冷酷ではありません。線を引かないのが、いつも誰かの皮膚に線を刻むから」

 言葉は、広場の石に沈み、雨の前の匂いになって残った。監査長は木槌を三度叩き、「本日の審理を閉じる」と宣した。判決ではない。だが、判決の筋目は、もう見えている。筋目は、水の流れの地図だ。

     ◇

 夜、邸に戻ると、リュカは工具箱を開け、窓枠の仮補強を外した。「本補強をする」

 「請求書は?」

 「友人割引」

 「割引は嫌い」

 「なら、君に請求する。情の費目で」

 「『友情費』は非課税」

 「非課税にすると、皆が『友情』を名乗る」

 「じゃあ上限額をつけましょう」

 「友情に上限?」

 「梁に上限があるように」

 リュカは笑って、「君は本当にひどい女だ」と言った。褒め言葉として。

 窓枠が新しい金具で固められ、音が変わる。風が駆け抜ける音は、楽器の孔の位置で変わる。都市は巨大な楽器で、監査は調律。調律が進むと、派手な音は少し沈み、隠れていた和音が浮き上がる。和音は拍手を呼ばないが、翌朝を支える。

 テーブルの上、銀の涙の替わりに置かれたのは、古い砂時計。タニアが「気休め」と言って持ってきた。エレーヌは砂時計を横に倒し、砂の流れを止めた。「現在形で残す」。彼女の小さな儀礼。儀礼は、制度の前ぶれ。制度は、暴力の代用品。暴力が減れば、詩は長生きする。

 扉がまた叩かれた。今度は速く、軽い。ノエミだ。紙束を抱えている。「明朝の号、出ます。——見出し、確認を」

 紙には大きな文字。「愛の定義、費目の定義」。副題。「感情に簿記を——侍女たちの声、孤児院の台帳、礼拝堂の梁から」。写真は、砂時計、白布、分銅。香りのない紙面だ。

 ノエミは躊躇してから、もう一枚の紙を差し出した。そこには、短い詩が印刷されている。「詩人協会有志」。三行詩。「愛に費目が付く朝/涙は軽くなり/殴る言葉は重くなる」。署名はない。匿名の勇気は本当の勇気より軽い。だが、最初の一歩には十分だ。

 「載せますか」とノエミ。

 「載せましょう。免税」でエレーヌは茶目っ気を混ぜた。「ただし、次号からは『比喩使用料』の議論も」

 「本当にやる気だ」

 「比喩の乱用は構造疲労を招くの」

 ノエミは笑い、肩をすくめた。「あなたを嫌う人は、あなたの冗談の温度をまだ知らない」

     ◇

 翌朝。広場に集まった人々の足元に、細い白線が引かれていた。建築局と監査院の共同作業。「名誉保全費」の受付動線。並ぶ場所、話す場所、聞く場所、沈黙のための椅子。沈黙にも椅子が必要だ。立ったままの沈黙は、怒りを育てる。

 王太子は白い外套で現れ、線を跨いで壇上に立った。「君たちに問う。愛に費目が必要か」

 「必要!」という声。「不要!」という声。空気は二つに割れ、しかし地面は一つだ。割れ目には線が引かれている。線がなければ、足が滑る。

 王太子は、懐から紙を出した。昨日の演説稿ではない。新しく書いたらしい。「『愛』の定義」。字は美しく、言葉は甘い。蜂蜜のように、パンに塗れば誰でも微笑む。だが、蜂蜜は砂時計を止めない。蜂蜜は梁を支えない。

 エレーヌは彼が読み上げ始めるのを待ち、手を挙げた。「演説の時間は『公共発言枠』から差し引きます。三十分。超過分は『王室広報費』で」

 王太子はにっこり笑い、「君は本当に、恋の敵だ」と言った。

 「ええ。恋の嘘の敵」

 読み上げが始まる。群衆は静まり、紙は音を立て、言葉は空を飾る。飾りは落ちる。落ちないように梁を入れる。梁は見えない。——その見えないものを見せるのが、彼女の仕事だ。

 演説の最後で、王太子は一行を差し込んだ。「本日より、王宮は『誹謗中傷対策室』を設置する」

 エレーヌは即座に手を挙げ、「費目は?」と問うた。

 「王室交際費」

 「交際費で沈黙を買うのは、違法です」

 広場の空気が波立つ。王太子は笑みを深め、「ならば『文化振興費』」と切り返した。

 「文化は沈黙を強要しない」

 「では、『名誉保全費』の一部を王室に配分してくれたまえ」

 監査長が割って入る。「配分は評議会で決める。——本日はここまで」

 木槌の音がした。判決はまだ。だが、制度は歩き始めた。歩き始めた制度は、止めにくい。止めるなら最初の数歩で。王太子はそれを知っている。彼は“愛”で制度を止めたい。エレーヌは“費目”で制度を歩かせたい。二つの力は、橋の上でせめぎ合う。橋は、今日も鳴っている。鳴き声は、都市の心音。

     ◇

 夜。邸の食卓で、エレーヌはスープを冷ましながら、ノエミの小さな新聞を読み返した。「互助金の窓口に灯り」。文字が小さく、余白が大きい。余白は贅沢だ。貧しい新聞ほど、余白を大事にする。余白は読者の呼吸だ。呼吸がある紙は、長持ちする。

 「疲れたか」とリュカ。

 「疲れた。疲れの費目もつくりたい」

 「休息控除」

 「いい響き」

 「申請書は?」

「簡潔で、香りがしない紙」


 窓の外、遠くで太鼓の音。祭りの予告。王太子は祭りが好きだ。群衆の足並みが揃うと、空気は自由を失うが、音は秩序を得る。秩序は安全の友達。だが、友達の友達が敵になることはある。安全が演技と結婚するとき、梁が泣く。

 エレーヌは砂時計を立て直し、砂が落ち始めるのを見つめた。「明日は、費目の定義をもう一歩」

 「定義の定義?」

 「『費目』は〈責任の地図記号〉だと書く」

 「地図が読めない人は?」

 「手すりを太くする」

 「また太く」

 「最初の一歩はいつも太い」

 リュカは椅子を引き、立ち上がった。「礼拝堂の梁、交換が始まる。現場に顔を出す」

 「請求書は?」

 「友情費の上限に合わせて」

 「なら、『友情費』の上限を上げなきゃ」

 「君はやっぱりひどい女だ」

 扉の向こう、夜の空気がいくらか軽かった。香りのない風が通る。数字の匂いは無臭がいい。無臭は無関心ではない。無臭は、詩の邪魔をしない。詩は生きる。梁は支える。費目は名付ける。名付けられたものは、責任を分け合える。

 明日の広場に、線がもう一本増える。並ぶ椅子が三脚増える。『名誉保全費』の受付には、二種類の紙——反論の申し出と、謝罪の申し出。謝罪にも手続がいる。無手続の謝罪は、いつも弱い。

 エレーヌはペンを取り、書き出した。「費目の定義:〈支出・収入を誰の名に結びつけるか〉を示す印。印の不在は、誰かの皮膚に印を焼きつけることと同義。よって——」そこでいったん止め、砂時計を横倒しにした。現在形で残す。終わりを次の始まりの余白に置く。余白は、彼女の小箱。小箱の鍵は、無臭の鉄。

 遠くで、花輪の香がようやく薄れた。代わりに、パンの匂いが強くなる。小麦粉と酵母の約束の匂い。約束は、費目の親戚だ。約束は守られるべきで、守れないなら、費用を払うべきだ。払う手続きを、彼女は明日、もう少しだけ簡単にする。簡単にすることは、冷酷ではない。簡単にしないことが、いつも誰かを冷やすから。

 王都は静かに眠ろうとしていた。梁は鳴らず、鉄は泣かず、詩は眠り、費目は目を覚ましている。費目は眠らない。眠らないものが増えすぎると、人は疲れる。だから、費目の側が眠気を学ぶ番だ。眠気の費目、休息控除。——明日、提案する。香りのない紙に、短い言葉で。

 彼女は灯りを落とし、暗闇の中で短く笑った。「恋に簿記を持ち込む」——誰かは馬鹿にし、誰かは怒り、誰かは救われる。救われる誰かに、名前を。費目の名前は、彼らの名前になる。名前があれば、責任は散らばる。散らばれば、橋は落ちない。

 砂の粒が、最後の一つまで落ちきらないうちに、眠りが背中に降りた。眠りの重さは、詩の重さに似ている。軽くはないが、持ち運べる。持ち運ぶための梁は、明日も彼女の手で確かめられる。数字の匂いは無臭がいい。無臭の朝へ。