王都の中央広場。白石の階段に、銀の秤を模した公印が掲げられている。監査院の公開審理はいつも群衆を集めるが、今日はとりわけ多い。王太子が貴族子女エレーヌとの婚約を破棄し、その理由として「情に欠け、陰で侍女を虐げた」と記した告発書が貼り出されたからだ。秤の下でざわめく声は、砂の中の小さな貝殻を擦り合わせたみたいに乾いている。美醜も正邪も、一度見出しに変えられてしまえば、しばらくはそれに従って呼吸する——都市の習性である。
けれど、エレーヌの身分はただの令嬢ではない。監査院直属の「名誉監査官」——国家の名で“費用対効果”を量る女。彼女は人の噂も予算の数字も、同じ尺で冷静に測る。感情は邪魔、正しさは可視化するもの。彼女はその持論を、恋文よりも重い紙束で証明してきた。
審理冒頭、王太子は芝居がかった声で「君の冷酷が国風を乱した」と断じる。新調の外套が光を撒き散らすたび、拍手の音が点々と起こる。群衆がどよめく。エレーヌは一歩進み、羊皮紙の束を掲げた。侍女の賃金台帳、王太子主催舞踏会の支出決裁書、献上品の差戻し記録。彼女は淡々と言う。「陛下の財は、甘い言葉で増えません。貴殿が浪費を“愛”と呼んだ明細を、私は愛とは呼ばない」
彼女は“賃金からの天引き”という小さな穴を突き、侍女たちのペンネームに紛れ込んだ“同筆の命令書”を示す。そこにあったのは王太子の側近の署名。証言は脅しで揃えられ、侍女いじめという物語は、王太子のオモチャ箱から作られていた。帳簿の端に残る灰色の擦れは、夜更けに慌てて消そうとした痕跡。インクは乾ききらず、紙は怒りの指で毛羽立っている。
群衆の空気が変わる瞬間、エレーヌは秤に小さな錘を置く仕草をした。「私はざまぁを願わない。けれど、収支は合わせます」
“ざまぁ”は復讐劇の合言葉だ。しかし彼女はそれを制度で行う。王太子は言葉を失い、監査長は次回期日を言い渡す。噂の波が引くなか、エレーヌは石段を降りた。その横に、薄笑いを浮かべる青年が立つ。灰の上衣、喉仏の動きだけで感情を隠す顔。名をリュカ——王宮建築局の技官にして、監査院に図面を提供する男。
「君のやり方は嫌われる」
「嫌われて、国家が少し賢くなるなら、それが一番安いわ」
リュカは肩をすくめた。「じゃあ、次は高くつくやつを見せてくれ。俺が“橋”を架ける」
彼の“橋”とは、陰謀と真実のあいだに渡す技術だ。エレーヌは短く頷く。次回、王太子側は“恋の正当性”を盾に、情の大合唱を仕掛けてくる。数字では測れないもの——その測り方を、彼女はまだ見せていない。
◇
監査院の記録室には、常に紙の匂いと鉄の匂いが同居している。紙は過去の呼吸で、鉄は未来の戸締まりだ、とエレーヌは思う。部屋の中央、七角形の卓に書類が放射状に広がっている。侍女の陳述は三種に分かれた。嘘、半分の真実、そして沈黙。沈黙がいちばん値が張る。買収のコストが高いからだ。
彼女は沈黙の価格を推定する表をつくる。月給の四倍か、五倍か、あるいは“家族の安全”という無形の保険料が上乗せされているのか。彼女の指は無感情に動くが、目は侍女たちの筆圧を読む。震え、堪え、消し跡、そして丁寧さ。恐れるほど丁寧になる。恐れの単価は丁寧さの平方根に比例する——彼女が独自に編み出した、行間の算術である。
「感情は邪魔」と言いながら、彼女は感情を見ている。数字に変換できるぶんだけ。変換できない部分は、後でリュカに渡す。彼の設計図は、数字の届かない角を削り取る道具だ。
小窓が叩かれた。顔を出したのは記録係の老女、タニアだ。頬に刺青のようなインクのシミ。書庫の階段で転んだときについた、と豪快に笑う人。
「嬢ちゃん、甘いもの」
タニアは角砂糖を二つ、紙包みのまま置いた。角砂糖は、記録室の暗黙の通貨だ。長話の前に必ず渡される。つまり——
「王太子側が、審理の“構成”を変えたがっているらしいよ。『情』を先にするってさ。『数字』はあと」
「証拠の順番を変えたい、と」
「人々は先に泣いて、あとで計算するものだからねぇ。逆は疲れるのさ」
エレーヌは角砂糖の包みを指で押し潰し、粉砂糖にした。「粉の方が溶けやすい。——順番を変えるなら、溶ける速度を測らせてもらうわ」
タニアは喉で笑い、「嬢ちゃんの悪い癖だよ」と目を細めた。褒め言葉として。
◇
昼下がり、建築局の試験場。溝にかかった仮設橋の上で、リュカは風を読むように目を細めている。橋桁の下では、水車のように回る検査輪が、荷重を刻んで広場の秤に伝えていた。
「『情』を測るって話、面白いな」とリュカ。「人が人にかける重さを、橋のたわみで換算できるなら、俺の学位が倍になる」
「学位は紙だからよく燃えるわ。証拠は石に刻んで」
「皮肉の温度は今日も適温、と」
リュカは手帳を開き、青い線で二つの曲線を描いた。一つは橋の撓み。もう一つは街の鼓動——人流の増減。そこへ赤い点を打つ。「ここが“舞踏会”。ここが“慈善事業”。同じ年の同じ季節。同じだけ人が集まったが、橋の負担は違った。舞踏会の日は、運ばれる荷車が三割増えた。酒と衣装と飾りのためにね。慈善の日は、空っぽの荷車が帰っていった。配ったパンは軽い。腹の底で重くなるだけ」
「腹の底の重さは、秤に乗らない」
「秤に乗らないものを、構造体は嫌う。——君の言う『情』は、荷重か、支持か。どっちだ?」
エレーヌは答えず、彼の手帳を覗き込み、赤い点に小さく×印をつけた。「間違いの方が、学位を増やすわよ」
リュカは笑い、肩をすくめる。「で、王太子は何を持ってくる?」
「手紙。歌。証人。泣き落とし。——“愛の実物”は、いつも紙より薄いもの」
「紙より薄いが、火はつきやすい」
「だから、耐火の壁を用意する」
「俺は橋を」
二人の会話は噛み合っているようで、正確には交差している。交差点で衝突しない秘訣は、速度の管理だ。エレーヌは相手の速度を測る癖がある。王太子は速すぎる。群衆の歓声に押され、ブレーキが効かない。リュカは遅すぎる。安全計算の癖が強く、踏み出しが遅れる。彼女自身は——適正速度を装って、実はかなりの急行である。
◇
夕刻、孤児院前の石畳。レンガの壁には、昨冬の募金者の名が刻まれていた。上の方に王太子の名。下の方に、知らない名が続く。大きく浅い字と、小さく深い字。雨が降れば、浅い字から消えていく。
孤児院長の婦人は、エレーヌを見るなり一歩退いた。噂はここにも届いている。「お優しさのない方が来たと、みな言っておりまして」
「優しさは、施す側が言う言葉じゃないわ」
エレーヌは、孤児院の炊き出し台帳を見せてほしいと頼んだ。婦人は渋い顔をしたが、扉の影から小さな手が伸び、古い帳面を押し出した。しっかりと閉じた表紙の端に、子どもの爪の跡。開くと、粉っぽい粉末が舞い上がる。小麦粉と煤と、幾人ものため息の混ざった匂い。
「王太子殿下は、冬の祭りにパンを二千個寄付してくださいました」
「領収書は?」
「こちらに」
エレーヌは紙の薄さを爪で測り、墨の濃さを目で測った。印章は新しいが、署名は同日の別書類よりも“若い”。——筆者は違う。いや、同じ人間が急いで書いたのか。彼女は斜めに光を当て、小さな凹凸を追った。粉末の中に、粉砂糖の白い輝きがひとつまみ混ざっている。「寄付」と銘打たれたパンは、王太子の厨房から仕入れたものではなく、孤児院の工房が自費で焼いた分だ。王太子の名は、焼き釜の熱より軽い。
「祭りの日、パンは足りましたか」
「足りましたとも。殿下のご慈悲で」
「余りましたか」
婦人は目を泳がせ、「余った分は、翌朝の朝食に」と言った。翌朝の朝食に、二千個のパン。孤児院の子どもの数はそもそも百に満たない。余りはどこへ。——帳簿の余白は、火よりも冷たい。
裏庭に回ると、古い橋の手前でリュカがしゃがみ込み、石の目地を爪でなぞっていた。「ここ、崩しかけて積み直した跡がある。祭りの二日前に」
「なぜ知っているの」
「石が語る。語り口は鈍いけど、嘘はつかない」
エレーヌは石の継ぎ目と台帳の余白を、同じ目で見た。「二日前に橋を直し、祭りの日に群衆を通した。費用は?」
「『殿下の持ち出し』という名目で、実際は建築局の修繕費から。可愛げのない言い方をすれば、殿下は橋を“寄付した顔”で、維持費を国庫に押し付けた。君の嫌いなやつ」
「嫌い、ではないわ。嫌うコストが高い」
リュカは吹き出し、「君は本当に冷たい言い回しの天才だ」と言った。「ああ、褒めてる」
橋の欄干に、古い花束の枯れた枝が括られていた。祭りの日、転んだ子どもがいたのだと、誰かの文字が刻まれている。小さな傷跡。橋は覚えている。都市も覚えている。だが、覚えていることと、公的に認めることの間には、長い廊下がある。エレーヌの仕事は、その廊下を「短くする」ことだ。
◇
夜、監査院の会議室。蝋燭の影が周囲の顔を上下に揺らす。監査長は白髭を撫で、端的に言った。「王太子側は『情』による救済を訴えると言ってきた。婚約破棄の理由は『公的秩序』のためであり、殿下の恋は国家に有益である、と。『愛』は、民の心の秩序を保つ、だそうだ」
テーブルの端から、若い監査官が手を上げる。「『愛』は——測れません」
「測れるわ」とエレーヌ。「もし『愛』が公共の資源を割り当てる理由になるなら、その配分の痕跡は残るはず。誰が、いつ、どれだけ、誰の負担で。情の支出は、必ず誰かの税で賄われる。だったら、換算できる」
「換算式は?」
「はい。『情の算盤』を使う」
彼女は二枚の紙を配った。一枚目は“時間”。二枚目は“危険”。時間は従者や職人や書記の「捧げた時間」を貨幣に換算する。危険は、誰がリスクを背負ったかを、傷病記録と保険料で補正する。最後に“名誉”。名誉は評価が難しいが、公的顕彰と市井の評判を指標にする。三つを足し、重みをつける。誰の“情”が、誰の“負担”になったか。——恋は、資源の流れだ。
「冷酷だな」と老監査官が漏らした。
「冷酷なのは、見たくないものを誰かに押し付ける構造よ」
監査長は指を組み、「反発は大きいだろう」と言った。「殿下は“恋文”と“詩”と“歌”を山ほど持ってくる。君は数字で殴るのか」
「いいえ。詩も歌も読み上げます。文字数と韻脚と紙のサイズと、読み上げにかかった時間と、聴衆の延べ労働損失を添えて」
静かな笑いが走る。嘲りではなく、救いの笑い。緊張の継ぎ目に差し込む楔のようなもの。会議室の空気は少しだけ軽くなった。人は、真面目なことほど、軽さの支えを欲しがる。
「それから、もう一つ」とエレーヌ。「侍女の“いじめ”の件。告発は殿下の側近が仕組んだ。証言の『原稿』がある。筆跡が一致。日付は一致せず。印章は新しい。紙は古い」
「紙は古い?」
「書庫から盗まれた“予備”。盗難記録は一年半前。帳簿の余白に、同じ毛羽立ちがある」
監査長は目を閉じ、短く息を吐いた。「誰かが、きみの敵に回った」
「それはいつものこと」
「……王太子と結婚するつもりは、もう本当にないのだね」
「結婚とは、互いの帳尻合わせよ。私は、余白の多い縁は結ばない」
リュカが机の下で咳払いし、靴先で彼女の椅子の脚を軽く蹴った。たしなめる合図。エレーヌは目を伏せ、ほんの僅かに口角を上げた。冗談の角度は、刃物の角度に似ている。鈍いと刺さらず、鋭すぎると流血する。監査院は血を見る場所ではない。
◇
数日後。広場の秤の周りには、いつもより多くの露店が並んだ。恋文屋、歌い手、涙を拭う布を売る商人。苦笑がこぼれる。市場は真空を嫌い、感傷を商う。王太子の陣営は、街の劇団まで味方につけていた。審理の前座として、恋の悲劇の一幕。詩の朗読。巧妙な演出。互いに見なれた武器だ。情に訴える剣は刃こぼれしにくい。
エレーヌは控室で、一人の少女に会った。侍女であり、告発の“証人”の一人。名はミール。眉は濃く、手は荒れている。緊張で口数が減るタイプ。
「あなたの証言、今日も同じ?」
ミールは唇を噛み、目を伏せた。「……違います。本当は、違います」
「違うなら、違うと言っていい」
「言うと……」
「迷惑がかかる相手の名前を、先に書いておきましょう。私が守るから」
ミールは震える手で小片に名前を書いた。二つ。母と弟。エレーヌはそれを封筒に入れ、蝋で封じてタニアに渡した。「開けるのは、私が死んだときだけ」
タニアは眉を上げ、「嬢ちゃん、縁起でもない」と言った。だが封筒は懐に消えた。記録室の老女は、こういう約束は守る。
ミールは、ぽつりぽつりと話し始める。王太子の側近に言われたこと、読み上げるべき文言、涙のタイミング。舞台の稽古、と呼ぶ方が正確だ。「いじめは……ありませんでした。給金を引かれたのは、私のミスです。でも、本当は引かれるほどのミスではなかった。補填の制度を知らなくて」
「補填の制度?」
「『侍女互助金』。病気や事故のときに、互いに助け合う——でも、私は申請の紙の書き方がわからなくて。エレーヌ様が、こっそり教えてくれた。あの時……」
ミールの目が潤んだ。泣きたいのではない。泣くことに罰金をかけられてきた目だ。エレーヌは彼女に白い布を渡し、「それは涙用ではなく、鼻水用よ」と言って微笑んだ。緊張は、笑いの小さな橋でしか渡れない。
「あなたは、今日、自分の言葉で話せる?」
ミールはこくりと頷いた。首の角度は小さく、意思は固い。エレーヌはその角度を記憶し、控室を出た。
◇
審理は、先に“情”から始まった。王太子は、自分の声に酔わないよう抑制を効かせた、うまい語り手だ。彼は恋の出会いから語り始め、彼女の冷たさに傷つき、国家の未来に思いをはせ、苦渋の末に婚約破棄に至った、と述べた。群衆は呼吸のタイミングを彼に預ける。彼は呼吸の回数まで計算してきたのだろう。いい弁護士は、いい指揮者に似る。
詩人が詩を読み、歌い手が歌い、劇団が短い場面を演じる。涙が流れ、ため息が落ちる。エレーヌは舞台の端からそれを見て、紙に数字を書いた。読み上げ時間、拍手の長さ、笑いの回数、泣いた人数の推定。推定値にはバイアスがあるが、バイアスは恐れない。恐れるべきは、バイアスを隠すことだ。
やがて、彼女の番が来た。「『情』を先に」と言われた彼女は、紙束ではなく、箱を持って壇上に上がった。箱の中には、小さな錘と、透明な砂時計と、白い布。観客席から、好奇心のざわめきが起きる。
「情の測り方をお見せします」
彼女はまず、砂時計をひっくり返し、廣場に立つ弟子の少年に言う。「あなたの名前は?」
「……コリンです」
「コリン、砂が落ちる間、あちらに立っている婦人の荷物を持っていて。これは『情』。理由は聞かない。『お願い』と言われたら、あなたは応じる?」
少年は頷き、荷物を持ち上げる。砂が落ちる。婦人は礼を言い、砂が尽きる頃、荷物を受け取り、去る。拍手。エレーヌは砂時計を指し、「時間の支出」と言った。次に、錘を秤に置く。「重さの支出」。最後に白い布を掲げ、「顔を覆う支出」。恥や恐怖で顔を覆うとき、人は何かを差し出している。それは換算できる。
「今日ここで読まれた詩と歌と演劇は、誰の時間を使いましたか。書いた人、稽古した人、舞台を支えた人、聞いた人。すべて『支出』です。『愛』が公共の価値であると言うなら、その支出を、公金で補助してよいかどうか、判断が必要」
彼女は、王太子の寄付と称したパンの話を出した。橋の修繕費の話を出した。孤児院の台帳の余白を示した。群衆の顔に、計算の影が落ちる。頭の中で数字が動く音は、初めは嫌なものだが、やがて快感になる。脳が新しい筋肉を使い始めるからだ。
そして、侍女ミールの証言。彼女は舞台に上がり、事前に渡された“台本”を破り、自分の言葉で話した。声は細く、言葉はつっかえ、けれど真っ直ぐだった。「私は、エレーヌ様に助けられました。叱られたこともあります。けれど、侍女の互助金のことを教えてくれたのも、申請書を書けるまで横で待ってくれたのも、エレーヌ様です」
王太子側の弁護士が立ち上がる。「脅されていますね?」
ミールは首を横に振る。「怖かったのは、殿下の側近です。『涙は右目から先に落とせ』と言われました。うまくできなかったら、弟の仕事を取り上げると」
静まり返る広場。誰かが咳払いをした。誰かが「そんなことが」と呟いた。誰かが笑い、すぐ喉に戻した。笑いの行き先を間違えると、誰かが怪我をする。
エレーヌは、その瞬間を逃さない。「私はざまぁを願わない。けれど、収支は合わせます。今日、ここで『情』の支出を可視化できた。次は、収入の側です。殿下は何を得たのか。名誉か、歓声か、好意か。どれも通貨に似ている。ならば、課税対象たりうる」
監査長が咳払いし、彼女を制した。「本日の議事はここまでとする」
声は穏やかだが、目は笑っていない。彼は政治の風向きと、法の重さを同時に測る。裁ち鋏のように、二枚の刃を使い分ける男。
◇
審理のあと、広場は熱の残滓を抱えていた。人波は薄くなり、露店は片付けにかかった。リュカが背後に現れ、紙袋を差し出す。「砂糖菓子。角じゃなくて粉にしてある」
「気が利くわね」
「君の比喩集から拝借しただけさ」
紙袋の中は、甘さと香料と、少しの焦げた香り。食べ物の比喩は便利だ、とエレーヌは思う。人間は食べたものの比喩で話すと、急に素直になるから。
「——で、急ぎの話がある」
リュカは顔を引き締めた。軽さはここまで。彼は封蝋の付いた書簡を出した。「王宮の私設礼拝堂。殿下が改修を命じた。天蓋の補強。図面が回ってきたが、支承の計算が甘い。荷重が一点に集中している。『恋の儀礼』で、天蓋に飾りを吊るすつもりだ。……崩れる」
「いつ?」
「三日後。『新しい婚約者のための祈り』。殿下は、群衆の前で天蓋を上げて見せる演出を好む。軽い見栄は重い事故になる」
「止められる?」
「図面の訂正を要求したが、『予定通りに』の一言。計算書を添付して再度送ったら、返ってきたのは詩の引用だった。『天は愛を支える』。——天は梁でできている」
エレーヌは歩き出した。歩くことは、考えを整えることだ。靴の踵の音が、頭の中の算盤の珠を弾く。三日。王太子。礼拝堂。天蓋。荷重。群衆。——数字が、一度に動く。
「殿下の“情”は、いつも誰かに持たせるのよね」
「持つ人が潰れる」
「潰れる前に止める。『情の算盤』の演算対象に、骨と梁も足す」
「初耳の科目だ」
「新設科目は、いつも反発を呼ぶ」
「反発の橋は、俺が架ける」
リュカの言葉は軽く、歩幅は重い。彼はすでに、礼拝堂の現場に立っている視線をしていた。現場の目は、図面の目と違う。湿度が入り込み、匂いが加算され、足元の小石が微分を狂わせる。現場の目は、理論の言い訳を許さない。
◇
翌朝。礼拝堂は王宮の中で最も小さな建築群の一つだが、装飾は重い。天蓋は金糸で縁取られ、四隅の支柱は聖人の彫像に抱かれている。美は、ときに荷重を隠す。尊厳は、ときに劣化を隠す。リュカは足場に上がり、支承の鉄に爪を立てた。「柔らかい。焼きが甘い」
監督官が眉をひそめる。「期日が迫っていますので。殿下は『新しい婚約』の儀礼に、これを——」
「吊るす飾りを減らせ。半分」
「美観が」
「人命の方が美しい」
言い切った直後、リュカは振り返った。こういう言葉は、彼の口に馴染まない。彼は構造体の男で、倫理を語る口より、荷重を語る口の方が強い。けれど、今は倫理の方が通りがいい。通じることが先。
エレーヌは礼拝堂の端で、祭具納戸の台帳を捲っていた。入庫と出庫。重量と運搬短縮。そこに紛れ込んだ、聞き慣れない品名。「銀の涙」。飾りの玉。重い。——彼女は指で重さを想像する。銀は裏切らない。重さで語る。詩よりはっきりと。
「殿下のお使いが来ます」と侍従が告げた。扉が開き、王太子が入ってきた。白い手袋。笑いを携えた目。その笑いは、いつも半歩早い。場の理解が、笑いに追いつく前に走り出す笑いだ。
「エレーヌ。君はまだ私を罰したいのか」
「罰は裁判の役目。私は計算をする」
「計算ばかりしていると、恋が逃げる」
「逃げる恋は、追い込むと噛むわ。噛まれるのは職人と侍女」
「詩を話すのは私の方では?」
「詩は統計と親戚よ。気づいていないだけ」
王太子は笑い、天蓋を見上げた。「美しいだろう。私の愛は、天のように民を覆う」
「天は梁でできている」と、リュカ。
「梁は愛でできていない」と、エレーヌ。
「君たちは、相変わらずだ」
王太子は肩を竦め、侍従に指示した。「飾りを全部吊るせ。——民は、軽いものより重いものに感動する」
「感動は、崩落のあとに長持ちしない」とリュカ。
「崩落しないように計算するのが、君の役目だろう?」
「計算を捻じ曲げるのが、貴殿の役目でなければ」
空気が硬くなった。エレーヌは一歩出て、王太子の前に立った。「殿下。私は個人の情を否定しない。けれど、公の場での情は、制度と同じ責任を負う。ここで何かが起これば、責任は『愛』ではなく、『署名』に向かう。殿下の署名に」
王太子の瞳が、ほんの僅かに細くなった。「脅すのか」
「予告よ」
王太子は笑い、手を振って背を向けた。「詩人と数寄者は、いつも友達になれない。だが私の方が友達は多い」
扉が閉まる音は、終止符にはならなかった。始まりの太鼓のように響いた。リュカは足場に戻り、エレーヌは礼拝堂の外に出た。空は薄曇り。湿った空気は、音を重くする。
◇
三日後の午前。礼拝堂前の広場は、再び人で埋まった。王太子は新しい婚約者を連れ、天蓋の下に立った。彼女は花輪を肩に掛け、緊張を隠すために笑い続けている。笑い続けることは、笑うこととは違う。頬の筋肉は疲れるが、心は動かない。
リュカは支柱の影に立ち、合図のための紐を握った。非常時に飾りを落とすための紐。昨日の夜、誰にも気づかれないよう仕込んだ。計算書を読めない人にも分かるやり方は、いつも「大きな動き」だ。大きな動きは、誤解を呼ぶ。彼は覚悟していた。
エレーヌは群衆の後方で、砂時計を握っていた。時間とは、事件の外側にあるものではない。いつだって、事件の内部に入り込む。砂が落ちる速度は一定だが、人の心の砂は、時々固まる。固まった砂を砕くのが、言葉の役目。——今日、彼女が砕くべき砂は大きい。
王太子は挨拶を始め、聖職者が祝詞を唱え、合唱が響く。天蓋が上がり始める。飾りが揺れ、銀の涙が光る。支柱は黙っている。金糸は、少し無理をしている。鉄は、すでに一度、ため息をついた。
その時、最前列の少し左で、子どもが転んだ。靴紐がほどけていた。群衆の重さが微妙に偏り、床の石がきしみ、支柱の足元で音がした。誰も気づかないはずの音。だが、リュカは気づく。彼の耳は構造体の鼓膜で、彼の筋肉は梁の筋でできている。合図の紐を引いた。銀の涙が一斉に落ち、床に散らばる。きらめきが悲鳴に変わる前に、重さが消えた。
王太子が顔を上げ、怒りと驚きの混ざった声で叫びかけ——その直前、二本目の支承が、静かな音を立てて折れた。天蓋はぐらりと傾き、しかし、落ちない。飾りがないから。落ちるはずの瞬間に落ちなかった天蓋は、恐怖を美に変えた。群衆は息を吸い、次いで吐いた。吐息は、安堵の名前で呼ばれる風になる。
エレーヌは砂時計を逆さにし、壇上に歩み出た。「——これが『情』の配分の結果です。殿下の見栄のために、今日ここで骨を折るはずだったのは、職人と聖職者と侍従。そして、名もない子ども」
王太子は彼女を睨み、「君が仕組んだ」と言いかけ、口を噤んだ。証拠がない。証拠は、そもそも「仕組まれた崩壊」を防いだことを示すのが難しい。防がれた事故は、起こらなかったことにされる。歴史上、最大の冤罪は「起きなかったこと」への無関心だ。
聖職者が、額の汗を拭いながら言った。「命が助かった。それでよいのでは」
監査長が前に出た。彼の白髭は、風で少し乱れている。「本審理は、今から『臨時補足審理』に切り替える。礼拝堂の補強費用と、飾りの購入経路と、工期短縮の指示系統を調べる」
王太子は笑おうとした。いつもの半歩早い笑い。しかし笑いは、今度は出遅れた。半歩どころか、ひと呼吸。笑いが転んだ。人々は見た。転ぶ笑いは、軽いものより重い。
エレーヌは天蓋の下に置かれた花輪を一つ拾い、リュカに渡した。「飾りは、いつでも落とせるように。——『落とす』とは、必ずしも『失う』ことではないわ」
リュカは頷き、花輪を解体し始めた。解体は、創造の裏返しだ。造るより難しく、見栄えが悪い。だが、誰かがやらなければ、都市は壊れていく。都市は、人の見栄よりも、見えない支えでできている。
◇
夕方、監査院。部屋の窓は、橙色の光を長方形に切り取って床に落とす。エレーヌは机に向かい、紙と紙の間に仕込んだ鋼板を指で叩いた。書類に重みを与える小さな工夫。軽く見える言葉ほど、下に重りが必要だ。
扉がノックされ、タニアが入ってきた。「殿下から、書簡」
封蝋は深紅。印章は、昼間と同じ銀の秤。中身は短い。「君の冷酷は、今日、民を救った。だが、君は民を愛していない。私は愛している。——愛に課税できるか。君の『情の算盤』で、計算してみたまえ」
エレーヌは手紙を机に置き、砂時計をひっくり返した。砂は落ちる。彼女はペンを取り、「計算します」と書いた。次の行に、「まずは、あなたの『愛』が、誰の骨と梁の上に立っているかから」と続けた。
リュカが窓辺にもたれ、空の色を見ている。「君は、愛に課税する気か」
「課税とは、共同体の合意よ。『愛』を公共に持ち出すなら、その配当も共同体に戻す必要がある」
「君の言うことは正しい。でも、人は正しさの形が気に入らないと、正しさを嫌う」
「形は工夫する。橋と同じ」
リュカは口角を上げ、手で窓枠を叩いた。「橋の形を気に入らない人は、だいたい橋を渡らない。渡らない人の意見に、橋を変える必要はある?」
「橋を見て怖がる人は、渡り方を知らないだけ。最初の一歩は、手すりを太くすればいい」
「太くしすぎると、見晴らしが悪い」
「見晴らしは、二歩目の特典にする」
軽い皮肉と軽い設計論。二人の会話は、都市の骨組みを音読しているみたいだった。
エレーヌは書簡に返答を書き始めた。筆致は冷静、言葉は短い。けれど、その行間に、今日の礼拝堂の子どもの顔を挟み込む。彼女は自分の方法を信じている。感情を可視化する方法。可視化された感情は、剣よりも遅いが、剣よりも長く効く。遅効性の正義。効き目を疑う者は多い。効き目を信じたい者はもっと多い。
窓の外、王都は薄闇に沈む。遠くで橋が一つ鳴った。鉄が夜の温度に馴染む音。都市は、今日も持ちこたえた。誰かが、見えない支えを足していったから。見える支えは拍手をもらう。見えない支えは、拍手の作り方を教える。
エレーヌは砂時計を横倒しにし、砂が止まる瞬間を見た。「現在形で残す」という、彼女のやり方。終わりを記さないのではない。終わりを、次の始まりの余白にあらかじめ用意しておく。余白は、浪費の領域ではない。投資の領域。彼女の算盤は、そこに珠を置く。
机の端に置いた白い布に、インクの小さな染みがついた。鼻水用にも涙用にも、どちらにも使える布だ。彼女はそれを指で摘み、「涙用と鼻水用の区別をやめると、泣くコストが下がるのよ」と一人ごちた。独り言は、独裁ではない。自分の中の反対派との対話だ。
扉がまた、ノックされた。若い監査官が顔を出す。「明日の段取りです。『情の算盤』の説明、反発が予想されます。特に詩人協会から」
「詩人協会には、詩を持っていく。数字で詩の敵にはならない。詩の味方のふりをして、詩の予算の敵になる」
「……敵、なんですか」
「必要に応じて」
若い監査官は呑み込めない顔をしたが、頷いて去った。彼はまだ、二歩目の見晴らしを知らない。手すりを太くしておいてよかった、とエレーヌは思う。
夜が深まり、砂時計の砂も、都市の呼吸も、速度を落としていく。エレーヌは最後の一行を書きつけた。「『愛』は公共財ではない。だが、公共の場で振るわれる『愛の演出』は公共事業と同価である。——適正な見積りと、応分の負担を」
ペン先のインクが尽きた。彼女は新しいインク壺の蓋を開け、ほんのわずかに笑った。蓋の縁に、粉砂糖がついていた。リュカの悪戯か、タニアの優しさか。甘さはしばしば、正しさの入口に撒かれる砂。滑りにくくするための砂。
「嫌われてもいい。嫌われて、国家が少し賢くなるなら、それが一番安い」
彼女は自分で自分の言葉を繰り返し、明かりを落とした。窓の向こう、王宮の礼拝堂の天蓋は、今夜は静かに眠っている。梁が鳴らず、鉄が泣かない夜。都市にとって、最高に贅沢な休息——目立たない無事。
その静けさの中で、彼女は次の審理の配列を、頭の中で組み替えた。情を先に、数字を後に。数字を先に、情を後に。配列は楽譜で、国家はオーケストラだ。指揮者は、拍手のタイミングまで設計する。拍手は、正しさのために鳴らすものではない。正しさが舞台に立てるよう、照明を当てるために鳴らす。
エレーヌは目を閉じた。眠りは、計算の敵ではない。計算の友だ。朝になれば、砂時計はまた立てられ、珠はまた弾かれる。算盤の音は、詩の音律に似ている。違うのは、聴衆の準備だ。準備の方法は、今日、少しだけ広がった。王都は、ほんの少し、賢くなった。賢くなるコストは支払われた。支払った人々は、まだ名前を持たない。けれど、名を持たない支払は、たいてい最初の旋律になる。
次回期日。情の大合唱の二曲目。彼女はそこで、まだ誰にも見せていない測り方を披露する予定だ。紙にも詩にも数字にも触れない“測り方”。——誰が、誰の沈黙を引き受けたかを測る、最も古い方法。沈黙の重みは、手の甲に落ちた涙の温度で測る。温度は、個人差がある。個人差は、補正する。補正表は、今夜、夢の中で仕上げる。
夢は、監査の敵ではない。監査の未来だ。夢の中で、彼女は天蓋をもう一度見上げ、梁の一本一本に名前を与えた。名を与えることは、責任の配分である。責任の配分は、恐怖を軽くする。恐怖が軽くなれば、人は橋を渡る。橋を渡る人が増えれば、都市は賢くなる。賢さは、恋を殺さない。賢さは、恋のコストを正直にする。正直になった恋は、噛まない。
目が覚めたとき、彼女は新しいペン先を選び、最初の行に短く書いた。「本章:婚約破棄の算盤」。その下に、極小の字で、「ざまぁを制度で」と余白に記す。余白は、彼女の秘密の小箱。秘密は、必要なときにだけ開ける。必要なときは、いつも突然来る。だから、箱はいつも手元にある。砂時計の隣、白い布の上。甘さの粉が、まだ少し残っている。
けれど、エレーヌの身分はただの令嬢ではない。監査院直属の「名誉監査官」——国家の名で“費用対効果”を量る女。彼女は人の噂も予算の数字も、同じ尺で冷静に測る。感情は邪魔、正しさは可視化するもの。彼女はその持論を、恋文よりも重い紙束で証明してきた。
審理冒頭、王太子は芝居がかった声で「君の冷酷が国風を乱した」と断じる。新調の外套が光を撒き散らすたび、拍手の音が点々と起こる。群衆がどよめく。エレーヌは一歩進み、羊皮紙の束を掲げた。侍女の賃金台帳、王太子主催舞踏会の支出決裁書、献上品の差戻し記録。彼女は淡々と言う。「陛下の財は、甘い言葉で増えません。貴殿が浪費を“愛”と呼んだ明細を、私は愛とは呼ばない」
彼女は“賃金からの天引き”という小さな穴を突き、侍女たちのペンネームに紛れ込んだ“同筆の命令書”を示す。そこにあったのは王太子の側近の署名。証言は脅しで揃えられ、侍女いじめという物語は、王太子のオモチャ箱から作られていた。帳簿の端に残る灰色の擦れは、夜更けに慌てて消そうとした痕跡。インクは乾ききらず、紙は怒りの指で毛羽立っている。
群衆の空気が変わる瞬間、エレーヌは秤に小さな錘を置く仕草をした。「私はざまぁを願わない。けれど、収支は合わせます」
“ざまぁ”は復讐劇の合言葉だ。しかし彼女はそれを制度で行う。王太子は言葉を失い、監査長は次回期日を言い渡す。噂の波が引くなか、エレーヌは石段を降りた。その横に、薄笑いを浮かべる青年が立つ。灰の上衣、喉仏の動きだけで感情を隠す顔。名をリュカ——王宮建築局の技官にして、監査院に図面を提供する男。
「君のやり方は嫌われる」
「嫌われて、国家が少し賢くなるなら、それが一番安いわ」
リュカは肩をすくめた。「じゃあ、次は高くつくやつを見せてくれ。俺が“橋”を架ける」
彼の“橋”とは、陰謀と真実のあいだに渡す技術だ。エレーヌは短く頷く。次回、王太子側は“恋の正当性”を盾に、情の大合唱を仕掛けてくる。数字では測れないもの——その測り方を、彼女はまだ見せていない。
◇
監査院の記録室には、常に紙の匂いと鉄の匂いが同居している。紙は過去の呼吸で、鉄は未来の戸締まりだ、とエレーヌは思う。部屋の中央、七角形の卓に書類が放射状に広がっている。侍女の陳述は三種に分かれた。嘘、半分の真実、そして沈黙。沈黙がいちばん値が張る。買収のコストが高いからだ。
彼女は沈黙の価格を推定する表をつくる。月給の四倍か、五倍か、あるいは“家族の安全”という無形の保険料が上乗せされているのか。彼女の指は無感情に動くが、目は侍女たちの筆圧を読む。震え、堪え、消し跡、そして丁寧さ。恐れるほど丁寧になる。恐れの単価は丁寧さの平方根に比例する——彼女が独自に編み出した、行間の算術である。
「感情は邪魔」と言いながら、彼女は感情を見ている。数字に変換できるぶんだけ。変換できない部分は、後でリュカに渡す。彼の設計図は、数字の届かない角を削り取る道具だ。
小窓が叩かれた。顔を出したのは記録係の老女、タニアだ。頬に刺青のようなインクのシミ。書庫の階段で転んだときについた、と豪快に笑う人。
「嬢ちゃん、甘いもの」
タニアは角砂糖を二つ、紙包みのまま置いた。角砂糖は、記録室の暗黙の通貨だ。長話の前に必ず渡される。つまり——
「王太子側が、審理の“構成”を変えたがっているらしいよ。『情』を先にするってさ。『数字』はあと」
「証拠の順番を変えたい、と」
「人々は先に泣いて、あとで計算するものだからねぇ。逆は疲れるのさ」
エレーヌは角砂糖の包みを指で押し潰し、粉砂糖にした。「粉の方が溶けやすい。——順番を変えるなら、溶ける速度を測らせてもらうわ」
タニアは喉で笑い、「嬢ちゃんの悪い癖だよ」と目を細めた。褒め言葉として。
◇
昼下がり、建築局の試験場。溝にかかった仮設橋の上で、リュカは風を読むように目を細めている。橋桁の下では、水車のように回る検査輪が、荷重を刻んで広場の秤に伝えていた。
「『情』を測るって話、面白いな」とリュカ。「人が人にかける重さを、橋のたわみで換算できるなら、俺の学位が倍になる」
「学位は紙だからよく燃えるわ。証拠は石に刻んで」
「皮肉の温度は今日も適温、と」
リュカは手帳を開き、青い線で二つの曲線を描いた。一つは橋の撓み。もう一つは街の鼓動——人流の増減。そこへ赤い点を打つ。「ここが“舞踏会”。ここが“慈善事業”。同じ年の同じ季節。同じだけ人が集まったが、橋の負担は違った。舞踏会の日は、運ばれる荷車が三割増えた。酒と衣装と飾りのためにね。慈善の日は、空っぽの荷車が帰っていった。配ったパンは軽い。腹の底で重くなるだけ」
「腹の底の重さは、秤に乗らない」
「秤に乗らないものを、構造体は嫌う。——君の言う『情』は、荷重か、支持か。どっちだ?」
エレーヌは答えず、彼の手帳を覗き込み、赤い点に小さく×印をつけた。「間違いの方が、学位を増やすわよ」
リュカは笑い、肩をすくめる。「で、王太子は何を持ってくる?」
「手紙。歌。証人。泣き落とし。——“愛の実物”は、いつも紙より薄いもの」
「紙より薄いが、火はつきやすい」
「だから、耐火の壁を用意する」
「俺は橋を」
二人の会話は噛み合っているようで、正確には交差している。交差点で衝突しない秘訣は、速度の管理だ。エレーヌは相手の速度を測る癖がある。王太子は速すぎる。群衆の歓声に押され、ブレーキが効かない。リュカは遅すぎる。安全計算の癖が強く、踏み出しが遅れる。彼女自身は——適正速度を装って、実はかなりの急行である。
◇
夕刻、孤児院前の石畳。レンガの壁には、昨冬の募金者の名が刻まれていた。上の方に王太子の名。下の方に、知らない名が続く。大きく浅い字と、小さく深い字。雨が降れば、浅い字から消えていく。
孤児院長の婦人は、エレーヌを見るなり一歩退いた。噂はここにも届いている。「お優しさのない方が来たと、みな言っておりまして」
「優しさは、施す側が言う言葉じゃないわ」
エレーヌは、孤児院の炊き出し台帳を見せてほしいと頼んだ。婦人は渋い顔をしたが、扉の影から小さな手が伸び、古い帳面を押し出した。しっかりと閉じた表紙の端に、子どもの爪の跡。開くと、粉っぽい粉末が舞い上がる。小麦粉と煤と、幾人ものため息の混ざった匂い。
「王太子殿下は、冬の祭りにパンを二千個寄付してくださいました」
「領収書は?」
「こちらに」
エレーヌは紙の薄さを爪で測り、墨の濃さを目で測った。印章は新しいが、署名は同日の別書類よりも“若い”。——筆者は違う。いや、同じ人間が急いで書いたのか。彼女は斜めに光を当て、小さな凹凸を追った。粉末の中に、粉砂糖の白い輝きがひとつまみ混ざっている。「寄付」と銘打たれたパンは、王太子の厨房から仕入れたものではなく、孤児院の工房が自費で焼いた分だ。王太子の名は、焼き釜の熱より軽い。
「祭りの日、パンは足りましたか」
「足りましたとも。殿下のご慈悲で」
「余りましたか」
婦人は目を泳がせ、「余った分は、翌朝の朝食に」と言った。翌朝の朝食に、二千個のパン。孤児院の子どもの数はそもそも百に満たない。余りはどこへ。——帳簿の余白は、火よりも冷たい。
裏庭に回ると、古い橋の手前でリュカがしゃがみ込み、石の目地を爪でなぞっていた。「ここ、崩しかけて積み直した跡がある。祭りの二日前に」
「なぜ知っているの」
「石が語る。語り口は鈍いけど、嘘はつかない」
エレーヌは石の継ぎ目と台帳の余白を、同じ目で見た。「二日前に橋を直し、祭りの日に群衆を通した。費用は?」
「『殿下の持ち出し』という名目で、実際は建築局の修繕費から。可愛げのない言い方をすれば、殿下は橋を“寄付した顔”で、維持費を国庫に押し付けた。君の嫌いなやつ」
「嫌い、ではないわ。嫌うコストが高い」
リュカは吹き出し、「君は本当に冷たい言い回しの天才だ」と言った。「ああ、褒めてる」
橋の欄干に、古い花束の枯れた枝が括られていた。祭りの日、転んだ子どもがいたのだと、誰かの文字が刻まれている。小さな傷跡。橋は覚えている。都市も覚えている。だが、覚えていることと、公的に認めることの間には、長い廊下がある。エレーヌの仕事は、その廊下を「短くする」ことだ。
◇
夜、監査院の会議室。蝋燭の影が周囲の顔を上下に揺らす。監査長は白髭を撫で、端的に言った。「王太子側は『情』による救済を訴えると言ってきた。婚約破棄の理由は『公的秩序』のためであり、殿下の恋は国家に有益である、と。『愛』は、民の心の秩序を保つ、だそうだ」
テーブルの端から、若い監査官が手を上げる。「『愛』は——測れません」
「測れるわ」とエレーヌ。「もし『愛』が公共の資源を割り当てる理由になるなら、その配分の痕跡は残るはず。誰が、いつ、どれだけ、誰の負担で。情の支出は、必ず誰かの税で賄われる。だったら、換算できる」
「換算式は?」
「はい。『情の算盤』を使う」
彼女は二枚の紙を配った。一枚目は“時間”。二枚目は“危険”。時間は従者や職人や書記の「捧げた時間」を貨幣に換算する。危険は、誰がリスクを背負ったかを、傷病記録と保険料で補正する。最後に“名誉”。名誉は評価が難しいが、公的顕彰と市井の評判を指標にする。三つを足し、重みをつける。誰の“情”が、誰の“負担”になったか。——恋は、資源の流れだ。
「冷酷だな」と老監査官が漏らした。
「冷酷なのは、見たくないものを誰かに押し付ける構造よ」
監査長は指を組み、「反発は大きいだろう」と言った。「殿下は“恋文”と“詩”と“歌”を山ほど持ってくる。君は数字で殴るのか」
「いいえ。詩も歌も読み上げます。文字数と韻脚と紙のサイズと、読み上げにかかった時間と、聴衆の延べ労働損失を添えて」
静かな笑いが走る。嘲りではなく、救いの笑い。緊張の継ぎ目に差し込む楔のようなもの。会議室の空気は少しだけ軽くなった。人は、真面目なことほど、軽さの支えを欲しがる。
「それから、もう一つ」とエレーヌ。「侍女の“いじめ”の件。告発は殿下の側近が仕組んだ。証言の『原稿』がある。筆跡が一致。日付は一致せず。印章は新しい。紙は古い」
「紙は古い?」
「書庫から盗まれた“予備”。盗難記録は一年半前。帳簿の余白に、同じ毛羽立ちがある」
監査長は目を閉じ、短く息を吐いた。「誰かが、きみの敵に回った」
「それはいつものこと」
「……王太子と結婚するつもりは、もう本当にないのだね」
「結婚とは、互いの帳尻合わせよ。私は、余白の多い縁は結ばない」
リュカが机の下で咳払いし、靴先で彼女の椅子の脚を軽く蹴った。たしなめる合図。エレーヌは目を伏せ、ほんの僅かに口角を上げた。冗談の角度は、刃物の角度に似ている。鈍いと刺さらず、鋭すぎると流血する。監査院は血を見る場所ではない。
◇
数日後。広場の秤の周りには、いつもより多くの露店が並んだ。恋文屋、歌い手、涙を拭う布を売る商人。苦笑がこぼれる。市場は真空を嫌い、感傷を商う。王太子の陣営は、街の劇団まで味方につけていた。審理の前座として、恋の悲劇の一幕。詩の朗読。巧妙な演出。互いに見なれた武器だ。情に訴える剣は刃こぼれしにくい。
エレーヌは控室で、一人の少女に会った。侍女であり、告発の“証人”の一人。名はミール。眉は濃く、手は荒れている。緊張で口数が減るタイプ。
「あなたの証言、今日も同じ?」
ミールは唇を噛み、目を伏せた。「……違います。本当は、違います」
「違うなら、違うと言っていい」
「言うと……」
「迷惑がかかる相手の名前を、先に書いておきましょう。私が守るから」
ミールは震える手で小片に名前を書いた。二つ。母と弟。エレーヌはそれを封筒に入れ、蝋で封じてタニアに渡した。「開けるのは、私が死んだときだけ」
タニアは眉を上げ、「嬢ちゃん、縁起でもない」と言った。だが封筒は懐に消えた。記録室の老女は、こういう約束は守る。
ミールは、ぽつりぽつりと話し始める。王太子の側近に言われたこと、読み上げるべき文言、涙のタイミング。舞台の稽古、と呼ぶ方が正確だ。「いじめは……ありませんでした。給金を引かれたのは、私のミスです。でも、本当は引かれるほどのミスではなかった。補填の制度を知らなくて」
「補填の制度?」
「『侍女互助金』。病気や事故のときに、互いに助け合う——でも、私は申請の紙の書き方がわからなくて。エレーヌ様が、こっそり教えてくれた。あの時……」
ミールの目が潤んだ。泣きたいのではない。泣くことに罰金をかけられてきた目だ。エレーヌは彼女に白い布を渡し、「それは涙用ではなく、鼻水用よ」と言って微笑んだ。緊張は、笑いの小さな橋でしか渡れない。
「あなたは、今日、自分の言葉で話せる?」
ミールはこくりと頷いた。首の角度は小さく、意思は固い。エレーヌはその角度を記憶し、控室を出た。
◇
審理は、先に“情”から始まった。王太子は、自分の声に酔わないよう抑制を効かせた、うまい語り手だ。彼は恋の出会いから語り始め、彼女の冷たさに傷つき、国家の未来に思いをはせ、苦渋の末に婚約破棄に至った、と述べた。群衆は呼吸のタイミングを彼に預ける。彼は呼吸の回数まで計算してきたのだろう。いい弁護士は、いい指揮者に似る。
詩人が詩を読み、歌い手が歌い、劇団が短い場面を演じる。涙が流れ、ため息が落ちる。エレーヌは舞台の端からそれを見て、紙に数字を書いた。読み上げ時間、拍手の長さ、笑いの回数、泣いた人数の推定。推定値にはバイアスがあるが、バイアスは恐れない。恐れるべきは、バイアスを隠すことだ。
やがて、彼女の番が来た。「『情』を先に」と言われた彼女は、紙束ではなく、箱を持って壇上に上がった。箱の中には、小さな錘と、透明な砂時計と、白い布。観客席から、好奇心のざわめきが起きる。
「情の測り方をお見せします」
彼女はまず、砂時計をひっくり返し、廣場に立つ弟子の少年に言う。「あなたの名前は?」
「……コリンです」
「コリン、砂が落ちる間、あちらに立っている婦人の荷物を持っていて。これは『情』。理由は聞かない。『お願い』と言われたら、あなたは応じる?」
少年は頷き、荷物を持ち上げる。砂が落ちる。婦人は礼を言い、砂が尽きる頃、荷物を受け取り、去る。拍手。エレーヌは砂時計を指し、「時間の支出」と言った。次に、錘を秤に置く。「重さの支出」。最後に白い布を掲げ、「顔を覆う支出」。恥や恐怖で顔を覆うとき、人は何かを差し出している。それは換算できる。
「今日ここで読まれた詩と歌と演劇は、誰の時間を使いましたか。書いた人、稽古した人、舞台を支えた人、聞いた人。すべて『支出』です。『愛』が公共の価値であると言うなら、その支出を、公金で補助してよいかどうか、判断が必要」
彼女は、王太子の寄付と称したパンの話を出した。橋の修繕費の話を出した。孤児院の台帳の余白を示した。群衆の顔に、計算の影が落ちる。頭の中で数字が動く音は、初めは嫌なものだが、やがて快感になる。脳が新しい筋肉を使い始めるからだ。
そして、侍女ミールの証言。彼女は舞台に上がり、事前に渡された“台本”を破り、自分の言葉で話した。声は細く、言葉はつっかえ、けれど真っ直ぐだった。「私は、エレーヌ様に助けられました。叱られたこともあります。けれど、侍女の互助金のことを教えてくれたのも、申請書を書けるまで横で待ってくれたのも、エレーヌ様です」
王太子側の弁護士が立ち上がる。「脅されていますね?」
ミールは首を横に振る。「怖かったのは、殿下の側近です。『涙は右目から先に落とせ』と言われました。うまくできなかったら、弟の仕事を取り上げると」
静まり返る広場。誰かが咳払いをした。誰かが「そんなことが」と呟いた。誰かが笑い、すぐ喉に戻した。笑いの行き先を間違えると、誰かが怪我をする。
エレーヌは、その瞬間を逃さない。「私はざまぁを願わない。けれど、収支は合わせます。今日、ここで『情』の支出を可視化できた。次は、収入の側です。殿下は何を得たのか。名誉か、歓声か、好意か。どれも通貨に似ている。ならば、課税対象たりうる」
監査長が咳払いし、彼女を制した。「本日の議事はここまでとする」
声は穏やかだが、目は笑っていない。彼は政治の風向きと、法の重さを同時に測る。裁ち鋏のように、二枚の刃を使い分ける男。
◇
審理のあと、広場は熱の残滓を抱えていた。人波は薄くなり、露店は片付けにかかった。リュカが背後に現れ、紙袋を差し出す。「砂糖菓子。角じゃなくて粉にしてある」
「気が利くわね」
「君の比喩集から拝借しただけさ」
紙袋の中は、甘さと香料と、少しの焦げた香り。食べ物の比喩は便利だ、とエレーヌは思う。人間は食べたものの比喩で話すと、急に素直になるから。
「——で、急ぎの話がある」
リュカは顔を引き締めた。軽さはここまで。彼は封蝋の付いた書簡を出した。「王宮の私設礼拝堂。殿下が改修を命じた。天蓋の補強。図面が回ってきたが、支承の計算が甘い。荷重が一点に集中している。『恋の儀礼』で、天蓋に飾りを吊るすつもりだ。……崩れる」
「いつ?」
「三日後。『新しい婚約者のための祈り』。殿下は、群衆の前で天蓋を上げて見せる演出を好む。軽い見栄は重い事故になる」
「止められる?」
「図面の訂正を要求したが、『予定通りに』の一言。計算書を添付して再度送ったら、返ってきたのは詩の引用だった。『天は愛を支える』。——天は梁でできている」
エレーヌは歩き出した。歩くことは、考えを整えることだ。靴の踵の音が、頭の中の算盤の珠を弾く。三日。王太子。礼拝堂。天蓋。荷重。群衆。——数字が、一度に動く。
「殿下の“情”は、いつも誰かに持たせるのよね」
「持つ人が潰れる」
「潰れる前に止める。『情の算盤』の演算対象に、骨と梁も足す」
「初耳の科目だ」
「新設科目は、いつも反発を呼ぶ」
「反発の橋は、俺が架ける」
リュカの言葉は軽く、歩幅は重い。彼はすでに、礼拝堂の現場に立っている視線をしていた。現場の目は、図面の目と違う。湿度が入り込み、匂いが加算され、足元の小石が微分を狂わせる。現場の目は、理論の言い訳を許さない。
◇
翌朝。礼拝堂は王宮の中で最も小さな建築群の一つだが、装飾は重い。天蓋は金糸で縁取られ、四隅の支柱は聖人の彫像に抱かれている。美は、ときに荷重を隠す。尊厳は、ときに劣化を隠す。リュカは足場に上がり、支承の鉄に爪を立てた。「柔らかい。焼きが甘い」
監督官が眉をひそめる。「期日が迫っていますので。殿下は『新しい婚約』の儀礼に、これを——」
「吊るす飾りを減らせ。半分」
「美観が」
「人命の方が美しい」
言い切った直後、リュカは振り返った。こういう言葉は、彼の口に馴染まない。彼は構造体の男で、倫理を語る口より、荷重を語る口の方が強い。けれど、今は倫理の方が通りがいい。通じることが先。
エレーヌは礼拝堂の端で、祭具納戸の台帳を捲っていた。入庫と出庫。重量と運搬短縮。そこに紛れ込んだ、聞き慣れない品名。「銀の涙」。飾りの玉。重い。——彼女は指で重さを想像する。銀は裏切らない。重さで語る。詩よりはっきりと。
「殿下のお使いが来ます」と侍従が告げた。扉が開き、王太子が入ってきた。白い手袋。笑いを携えた目。その笑いは、いつも半歩早い。場の理解が、笑いに追いつく前に走り出す笑いだ。
「エレーヌ。君はまだ私を罰したいのか」
「罰は裁判の役目。私は計算をする」
「計算ばかりしていると、恋が逃げる」
「逃げる恋は、追い込むと噛むわ。噛まれるのは職人と侍女」
「詩を話すのは私の方では?」
「詩は統計と親戚よ。気づいていないだけ」
王太子は笑い、天蓋を見上げた。「美しいだろう。私の愛は、天のように民を覆う」
「天は梁でできている」と、リュカ。
「梁は愛でできていない」と、エレーヌ。
「君たちは、相変わらずだ」
王太子は肩を竦め、侍従に指示した。「飾りを全部吊るせ。——民は、軽いものより重いものに感動する」
「感動は、崩落のあとに長持ちしない」とリュカ。
「崩落しないように計算するのが、君の役目だろう?」
「計算を捻じ曲げるのが、貴殿の役目でなければ」
空気が硬くなった。エレーヌは一歩出て、王太子の前に立った。「殿下。私は個人の情を否定しない。けれど、公の場での情は、制度と同じ責任を負う。ここで何かが起これば、責任は『愛』ではなく、『署名』に向かう。殿下の署名に」
王太子の瞳が、ほんの僅かに細くなった。「脅すのか」
「予告よ」
王太子は笑い、手を振って背を向けた。「詩人と数寄者は、いつも友達になれない。だが私の方が友達は多い」
扉が閉まる音は、終止符にはならなかった。始まりの太鼓のように響いた。リュカは足場に戻り、エレーヌは礼拝堂の外に出た。空は薄曇り。湿った空気は、音を重くする。
◇
三日後の午前。礼拝堂前の広場は、再び人で埋まった。王太子は新しい婚約者を連れ、天蓋の下に立った。彼女は花輪を肩に掛け、緊張を隠すために笑い続けている。笑い続けることは、笑うこととは違う。頬の筋肉は疲れるが、心は動かない。
リュカは支柱の影に立ち、合図のための紐を握った。非常時に飾りを落とすための紐。昨日の夜、誰にも気づかれないよう仕込んだ。計算書を読めない人にも分かるやり方は、いつも「大きな動き」だ。大きな動きは、誤解を呼ぶ。彼は覚悟していた。
エレーヌは群衆の後方で、砂時計を握っていた。時間とは、事件の外側にあるものではない。いつだって、事件の内部に入り込む。砂が落ちる速度は一定だが、人の心の砂は、時々固まる。固まった砂を砕くのが、言葉の役目。——今日、彼女が砕くべき砂は大きい。
王太子は挨拶を始め、聖職者が祝詞を唱え、合唱が響く。天蓋が上がり始める。飾りが揺れ、銀の涙が光る。支柱は黙っている。金糸は、少し無理をしている。鉄は、すでに一度、ため息をついた。
その時、最前列の少し左で、子どもが転んだ。靴紐がほどけていた。群衆の重さが微妙に偏り、床の石がきしみ、支柱の足元で音がした。誰も気づかないはずの音。だが、リュカは気づく。彼の耳は構造体の鼓膜で、彼の筋肉は梁の筋でできている。合図の紐を引いた。銀の涙が一斉に落ち、床に散らばる。きらめきが悲鳴に変わる前に、重さが消えた。
王太子が顔を上げ、怒りと驚きの混ざった声で叫びかけ——その直前、二本目の支承が、静かな音を立てて折れた。天蓋はぐらりと傾き、しかし、落ちない。飾りがないから。落ちるはずの瞬間に落ちなかった天蓋は、恐怖を美に変えた。群衆は息を吸い、次いで吐いた。吐息は、安堵の名前で呼ばれる風になる。
エレーヌは砂時計を逆さにし、壇上に歩み出た。「——これが『情』の配分の結果です。殿下の見栄のために、今日ここで骨を折るはずだったのは、職人と聖職者と侍従。そして、名もない子ども」
王太子は彼女を睨み、「君が仕組んだ」と言いかけ、口を噤んだ。証拠がない。証拠は、そもそも「仕組まれた崩壊」を防いだことを示すのが難しい。防がれた事故は、起こらなかったことにされる。歴史上、最大の冤罪は「起きなかったこと」への無関心だ。
聖職者が、額の汗を拭いながら言った。「命が助かった。それでよいのでは」
監査長が前に出た。彼の白髭は、風で少し乱れている。「本審理は、今から『臨時補足審理』に切り替える。礼拝堂の補強費用と、飾りの購入経路と、工期短縮の指示系統を調べる」
王太子は笑おうとした。いつもの半歩早い笑い。しかし笑いは、今度は出遅れた。半歩どころか、ひと呼吸。笑いが転んだ。人々は見た。転ぶ笑いは、軽いものより重い。
エレーヌは天蓋の下に置かれた花輪を一つ拾い、リュカに渡した。「飾りは、いつでも落とせるように。——『落とす』とは、必ずしも『失う』ことではないわ」
リュカは頷き、花輪を解体し始めた。解体は、創造の裏返しだ。造るより難しく、見栄えが悪い。だが、誰かがやらなければ、都市は壊れていく。都市は、人の見栄よりも、見えない支えでできている。
◇
夕方、監査院。部屋の窓は、橙色の光を長方形に切り取って床に落とす。エレーヌは机に向かい、紙と紙の間に仕込んだ鋼板を指で叩いた。書類に重みを与える小さな工夫。軽く見える言葉ほど、下に重りが必要だ。
扉がノックされ、タニアが入ってきた。「殿下から、書簡」
封蝋は深紅。印章は、昼間と同じ銀の秤。中身は短い。「君の冷酷は、今日、民を救った。だが、君は民を愛していない。私は愛している。——愛に課税できるか。君の『情の算盤』で、計算してみたまえ」
エレーヌは手紙を机に置き、砂時計をひっくり返した。砂は落ちる。彼女はペンを取り、「計算します」と書いた。次の行に、「まずは、あなたの『愛』が、誰の骨と梁の上に立っているかから」と続けた。
リュカが窓辺にもたれ、空の色を見ている。「君は、愛に課税する気か」
「課税とは、共同体の合意よ。『愛』を公共に持ち出すなら、その配当も共同体に戻す必要がある」
「君の言うことは正しい。でも、人は正しさの形が気に入らないと、正しさを嫌う」
「形は工夫する。橋と同じ」
リュカは口角を上げ、手で窓枠を叩いた。「橋の形を気に入らない人は、だいたい橋を渡らない。渡らない人の意見に、橋を変える必要はある?」
「橋を見て怖がる人は、渡り方を知らないだけ。最初の一歩は、手すりを太くすればいい」
「太くしすぎると、見晴らしが悪い」
「見晴らしは、二歩目の特典にする」
軽い皮肉と軽い設計論。二人の会話は、都市の骨組みを音読しているみたいだった。
エレーヌは書簡に返答を書き始めた。筆致は冷静、言葉は短い。けれど、その行間に、今日の礼拝堂の子どもの顔を挟み込む。彼女は自分の方法を信じている。感情を可視化する方法。可視化された感情は、剣よりも遅いが、剣よりも長く効く。遅効性の正義。効き目を疑う者は多い。効き目を信じたい者はもっと多い。
窓の外、王都は薄闇に沈む。遠くで橋が一つ鳴った。鉄が夜の温度に馴染む音。都市は、今日も持ちこたえた。誰かが、見えない支えを足していったから。見える支えは拍手をもらう。見えない支えは、拍手の作り方を教える。
エレーヌは砂時計を横倒しにし、砂が止まる瞬間を見た。「現在形で残す」という、彼女のやり方。終わりを記さないのではない。終わりを、次の始まりの余白にあらかじめ用意しておく。余白は、浪費の領域ではない。投資の領域。彼女の算盤は、そこに珠を置く。
机の端に置いた白い布に、インクの小さな染みがついた。鼻水用にも涙用にも、どちらにも使える布だ。彼女はそれを指で摘み、「涙用と鼻水用の区別をやめると、泣くコストが下がるのよ」と一人ごちた。独り言は、独裁ではない。自分の中の反対派との対話だ。
扉がまた、ノックされた。若い監査官が顔を出す。「明日の段取りです。『情の算盤』の説明、反発が予想されます。特に詩人協会から」
「詩人協会には、詩を持っていく。数字で詩の敵にはならない。詩の味方のふりをして、詩の予算の敵になる」
「……敵、なんですか」
「必要に応じて」
若い監査官は呑み込めない顔をしたが、頷いて去った。彼はまだ、二歩目の見晴らしを知らない。手すりを太くしておいてよかった、とエレーヌは思う。
夜が深まり、砂時計の砂も、都市の呼吸も、速度を落としていく。エレーヌは最後の一行を書きつけた。「『愛』は公共財ではない。だが、公共の場で振るわれる『愛の演出』は公共事業と同価である。——適正な見積りと、応分の負担を」
ペン先のインクが尽きた。彼女は新しいインク壺の蓋を開け、ほんのわずかに笑った。蓋の縁に、粉砂糖がついていた。リュカの悪戯か、タニアの優しさか。甘さはしばしば、正しさの入口に撒かれる砂。滑りにくくするための砂。
「嫌われてもいい。嫌われて、国家が少し賢くなるなら、それが一番安い」
彼女は自分で自分の言葉を繰り返し、明かりを落とした。窓の向こう、王宮の礼拝堂の天蓋は、今夜は静かに眠っている。梁が鳴らず、鉄が泣かない夜。都市にとって、最高に贅沢な休息——目立たない無事。
その静けさの中で、彼女は次の審理の配列を、頭の中で組み替えた。情を先に、数字を後に。数字を先に、情を後に。配列は楽譜で、国家はオーケストラだ。指揮者は、拍手のタイミングまで設計する。拍手は、正しさのために鳴らすものではない。正しさが舞台に立てるよう、照明を当てるために鳴らす。
エレーヌは目を閉じた。眠りは、計算の敵ではない。計算の友だ。朝になれば、砂時計はまた立てられ、珠はまた弾かれる。算盤の音は、詩の音律に似ている。違うのは、聴衆の準備だ。準備の方法は、今日、少しだけ広がった。王都は、ほんの少し、賢くなった。賢くなるコストは支払われた。支払った人々は、まだ名前を持たない。けれど、名を持たない支払は、たいてい最初の旋律になる。
次回期日。情の大合唱の二曲目。彼女はそこで、まだ誰にも見せていない測り方を披露する予定だ。紙にも詩にも数字にも触れない“測り方”。——誰が、誰の沈黙を引き受けたかを測る、最も古い方法。沈黙の重みは、手の甲に落ちた涙の温度で測る。温度は、個人差がある。個人差は、補正する。補正表は、今夜、夢の中で仕上げる。
夢は、監査の敵ではない。監査の未来だ。夢の中で、彼女は天蓋をもう一度見上げ、梁の一本一本に名前を与えた。名を与えることは、責任の配分である。責任の配分は、恐怖を軽くする。恐怖が軽くなれば、人は橋を渡る。橋を渡る人が増えれば、都市は賢くなる。賢さは、恋を殺さない。賢さは、恋のコストを正直にする。正直になった恋は、噛まない。
目が覚めたとき、彼女は新しいペン先を選び、最初の行に短く書いた。「本章:婚約破棄の算盤」。その下に、極小の字で、「ざまぁを制度で」と余白に記す。余白は、彼女の秘密の小箱。秘密は、必要なときにだけ開ける。必要なときは、いつも突然来る。だから、箱はいつも手元にある。砂時計の隣、白い布の上。甘さの粉が、まだ少し残っている。



