聴取は、友思の病室で行うことになった。個室のため落ち着いて話が出来るだろうということで、幸枝からの提案だった。
「タイミングが悪くすみません」
篠田の謝罪に、幸枝は「お気になさらず」と首を横に振った。
入院期間が不確定だったため、一度中井家に友思の着替えを取りに行こうとしていたところだったという。遺体発見現場でもあるその場所は鑑識作業も済んでおり、関係者であれば立ち入りが許可されている。
そこに、藍たちがやってきたというわけだ。
「もしご迷惑でなければ、聴取が終わり次第、私どもがお送りしますが」
「……助かります」
意外にもすんなりと受け入れた実和子を不思議に思いつつも、無理もないか、と納得する。
正月シーズンの中、予約なしで空港付近のホテルに泊まり、当日に取ったチケットではるばる徳島から東京へとやってきたのだ。想定外の費用の捻出に、少なからず困窮しているのかもしれない。それに、見知らぬ土地で慣れない交通手段を使うより、無料という点に加えて警察車両という安心安全の保証は、彼女にとって渡りに船だったのだろう。
藍は、幸枝を凝視した。
やけに落ち着いているな、と思った。
上京して家庭を持った実娘の、突然の訃報。それも他殺。普通なら、もう少し取り乱していてもおかしくはなさそうだが。
幸枝は、藍と篠田に丸椅子を差し出すと、自分はベッドの上に腰を掛けた。藍たちも、それを見送ってから座った。
聴取に入る前に提示してもらったマイナンバーカードには、後藤田幸枝の文字。顔写真も、目の前で背筋を伸ばしている淑女と相違ない。住所の下には、生年月日も載っていた。
【昭和50年6月7日】
現在、五十歳。小学五年生の孫を持つ祖母としては、やはり若い。
実和子が三十一歳ということは、単純計算で――と頭を働かせる前に、幸枝の方から口を開いた。
「実和子は、十九のときに産んだ子です。うちの村では、それくらいに初産を迎えるのは珍しくありません」
淀みない口調に多少の違和感を抱えつつも、藍は「なるほど」と相槌を打った。
「ありがとうございます」
篠田が手帳に個人情報を写し終えたのを確認してから、藍はカードを差し出した。
「では早速、事件発覚当夜のことについて訊かせてください。友思くんから一一〇番に通報があったのが、一月三日午後六時十七分。その後、友思くんからあなたに電話を掛けていると思うのですが」
「ええ。六時二十分ごろやったかと」
「電話口で、どのような話をしましたか」
「母さんと父さんが動かない。死んでいるかもしれない。警察には通報した――と。最初は何かの冗談やないかと疑ったんですけど、あの子は、そんな不謹慎なこと言いよる子やないし……」
その洗練された容姿からは想像できない、柔らかな阿波弁だった。
「それで、その後はどうされましたか?」
「急いで家を出る準備をしました。バスの便がなかったけん、近所に住んどるミノルさんに軽トラ出してもろて、徳島駅に着いたんが七時半ごろです。そこからは、電車で空港近くのホテルまで」
ミノルさんというのは、小幡稔という五十代の男性だという。
二十代のころに駐在員として白峯村にやってきたのだが、現在はその職から離れて村に残り、林業作業員として生計を立てている。村で出会い結婚した妻には二年前に先立たれ、子宝にも恵まれなかったため現在は独り身。四十まで子どもは諦めなかったようだが、妻の病気が発覚してからは二人でひっそりと暮らすことにシフトしたとのことだった。
「幸枝さん、失礼ですがご主人は?」
藍が控えめに問いかけると、幸枝は力無く首を横に振った。
「七年前に、亡くなりました」
「ご病気ですか?」
「……いえ」
「では、不慮の事故でしょうか」
「あの」藍の言葉をやや遮るように、幸枝は声を上げた。「それ、答えないけませんか?」
「何か答えられない理由でも?」
「そういうわけじゃ……」
口籠る幸枝に対し、藍は疑いの視線を向けた。
しかし、聴取が始まってから一言も話していなかった篠田が、横から口を挟んだ。
「話されたくないことでしたら、話していただかなくて結構ですよ。強制ではありませんので」
「すみません」
「……では、質問を変えます」藍の体が、やや前のめりになる。「ご夫婦と、幸枝さんの関係性について教えてください」
戸惑うように視線を泳がせた幸枝に対し、藍は一拍置くとさらに切り出した。
「実和子さんと岳郎さんが、友思くんだけを帰省させていたのは、なぜでしょう」
「それは、」幸枝の声が落ちた。「……わかりません」
「わからないなんてことはないでしょう。岳郎さんだけならまだしも、実娘である実和子さんまで帰省せず、そのわりに友思くんだけは徳島へ帰っている。まだ聞き取りが出来ていなので定かではありませんが、おそらく二人に三が日中の出勤やそれ以外の予定はなかった。岳郎さん方のご両親は訃報の連絡の際、年末に顔を合わせたきりだと証言しています。こちらもまだ詳しい捜査が必要ですが、三日間の二人の行動が明らかになり、予定がなかったことが証明されてしまえば、帰省を妨げる要因が見当たらない、ということになります」
両膝に乗せられていた幸枝の手が、意味もなく組み替えられる。唇を噛み締め、視線を泳がせる幸枝を見て、藍の疑念はより一層深まった。
「親子仲、うまくいってたなかった、とか……?」
探るように問うてみると、先ほどまで行ったり来たりしていた幸枝の視線が、藍に定まった。そして、目を大きく見開くと、ぶんぶんと首を横に振った。
「そんなっ――! ち、違いますっ!」
「へぇ」
藍は、したり顔で口角をわずかに上げた。
――その反応、図星じゃん。
否定が大きければ大きいほど、そこにはそれ相応の隠し事がある。
いったい、何を隠しているのか。
藍の棘のような眼光が、幸枝をえぐるように射抜いた。
「本当に、何も心当たりはないんですか?」
突きつけられた問いに、幸枝は息を呑んだ。
白い指先は膝の上で複雑に絡み合い、強張っている。まるで、幸枝の心をそのまま表しているようだ。
薄く開けられた口から、細い呼吸が何度か繰り返される。そして、震える声がかろうじて紡がれた。
「良いとは、言えなかったかもしれません」
「詳しく聞かせてください」
「……二年前からです。実和子が家に帰らんようになったのは」
幸枝が言うにはこうだ。
友思が生まれてから、実和子は岳郎も連れて三人で徳島へ帰省していたという。東京都足立区に実家を構える岳郎の家には年末に訪れ、遠方の実和子の実家には、年始に泊まりがけの二泊三日。そして東京に帰ってきたあとは、ふたたび岳郎の両親と正月を過ごす。強行日程ではあるものの、これが中井家の正月恒例行事だったという。気を遣った幸枝が「無理に帰省しなくてもいい」と伝えたこともあるそうだが、実和子も岳郎も、それを聞き入れなかった。何より、友思が徳島に来たがっていたのだ。
「やけど、友思が小学三年生になった年……秋ごろやったと思います。突然実和子から電話が来ました。年始の帰省から、友思だけを行かせることにするって」
「その理由について、実和子さんはなんと?」
幸枝は、首を横に振った。
「前々から、無理に帰省せんでええと伝えとったけん、深くは聞きませんでした。実和子もそれ以上は説明しようとせんかったし、理由を聞いて、変に気ぃ遣わせるのも嫌やったので」
「……それだと、幸枝さんが実和子さんに対して気を遣っていたように聞こえますけど」
藍の静かな指摘に、幸枝の瞼がぴくりと動いた。
「親子なのに、なぜ気を遣う必要があるんです?」
「……親子、やからです」
そう答えた幸枝の声は震えていたが、その奥底には、揺るぎない何かを感じた。
充血した瞳からは、いまにもこぼれ落ちそうな涙が光っている。
「わたしたち親子は、たった二人の家族です。どちらかが何かを間違えれば、すぐに崩れる。せやから、」
ほろりと、一筋の涙が幸枝の頬に流れた。それを皮切りに、一筋、また一筋と、大きな瞳からこぼれ落ちていく。
篠田は窓際に置いてあったティッシュを箱ごと取ると、幸枝に差し出した。幸枝は「すみません」と謝りながら、何枚かティッシュを抜き取ると、目と鼻に押し当てる。
藍は、意図せず友人を泣かしてしまったときのような、妙な罪悪感に襲われた。申し訳なさと、しかし自分は悪くない、という相反する感情がせめぎ合っている。篠田からひしひしと感じる咎めるような視線も、藍の胸にじくじくと刺さった。
しばらくして、幸枝は平常心を取り戻したようで、目と鼻を赤く染めながら、ぽつぽつと話を続けた。
「それが、間違うとったんかな。きちんと聞くべきやった。それが最後に聞く実和子の声だってわかっとったら、聞いとったかもしれん。おらんくなってから気づくやなんて――母親失格やなぁ」
自分に言い聞かせるような悲痛な声に、さすがの藍も顔を歪ませた。
幸枝の嗚咽だけが病室に響く中、篠田が開いていた手帳を閉じた。そして、それをジャケットの内ポケットにしまいこむと、立ち上がった。
「今日はここまでにしましょうか」
「……はっ?」
思わず声が漏れた。
まだ手掛かりになりそうなものなど一つも聞けていないのに、手ぶらで本部に戻ろうとする篠田の気がしれなかった。
「まだ何も聞けてませんけど」
藍はすかさず立ち上がると、篠田の裾を引っ張り、耳元に顔を寄せた。自然と、篠田の体は藍のほうへと傾く。三十センチ以上の背丈の差があるため、まるで大人が子どもに耳を貸すような図になった。
「何考えてるんですか」
低く刺すような声で言うも、篠田は一度きょとんとした顔を見せただけで、すぐに柔和な表情を浮かべた。そして藍の問いには答えずに、その笑みを幸枝へと向けた。
「大変なときに押しかけてしまい、申し訳ありませんでした。また後日、詳しくお話を伺わせてください」
「……すみません、ありがとうございます」
「では、百人町までお送りいたします」
言いながら篠田が手を差し出すも、幸枝はその手を掴まなかった。
「……やっぱり大丈夫です。いろいろと考えたいけん、ひとりで行きます」
幸枝が、ちらりと藍のほうを見やった。篠田はしばらく手を差し出したままだったが、やがて小さく頷いて引っ込めた。
「そうですか。無理強いはいたしませんので、お気になさらず。ただ、どうかお気をつけて。まだ犯人は捕まっていません」
「お気遣い、ありがとうございます」
「いえ。では、我々は先に――」
「最後にいいですか」
病室を後にしようとした篠田を手で制止しながら、藍がおもむろに口を開いた。
幸枝の表情に、ふたたび影が落ちる。
「なんでしょう」
「実和子さんが、誰かに恨まれていたということはありませんか?」
「千木良巡査、」
何か言い掛けた篠田を遮ったのは、幸枝の声だった。
「ありえんっ。あの子が、誰かに恨まれとったなんてそんなこと――っ、誰に対しても優しゅうて、優しすぎるくらいで……そんな子が、誰かに恨まれることなんてありません」
「……そうですか」
「千木良巡査、行きましょう」
「では、本日は失礼します」
病室を出ると、扉の向こうから咽び泣く声が聞こえてきた。
見張りで立っていた二人にも内容が聞こえていたのか、「大丈夫ですか」と声を掛けてくる。その横を通り過ぎる藍の代わりに、篠田は軽く頭を下げると、その後を追いかけた。
「タイミングが悪くすみません」
篠田の謝罪に、幸枝は「お気になさらず」と首を横に振った。
入院期間が不確定だったため、一度中井家に友思の着替えを取りに行こうとしていたところだったという。遺体発見現場でもあるその場所は鑑識作業も済んでおり、関係者であれば立ち入りが許可されている。
そこに、藍たちがやってきたというわけだ。
「もしご迷惑でなければ、聴取が終わり次第、私どもがお送りしますが」
「……助かります」
意外にもすんなりと受け入れた実和子を不思議に思いつつも、無理もないか、と納得する。
正月シーズンの中、予約なしで空港付近のホテルに泊まり、当日に取ったチケットではるばる徳島から東京へとやってきたのだ。想定外の費用の捻出に、少なからず困窮しているのかもしれない。それに、見知らぬ土地で慣れない交通手段を使うより、無料という点に加えて警察車両という安心安全の保証は、彼女にとって渡りに船だったのだろう。
藍は、幸枝を凝視した。
やけに落ち着いているな、と思った。
上京して家庭を持った実娘の、突然の訃報。それも他殺。普通なら、もう少し取り乱していてもおかしくはなさそうだが。
幸枝は、藍と篠田に丸椅子を差し出すと、自分はベッドの上に腰を掛けた。藍たちも、それを見送ってから座った。
聴取に入る前に提示してもらったマイナンバーカードには、後藤田幸枝の文字。顔写真も、目の前で背筋を伸ばしている淑女と相違ない。住所の下には、生年月日も載っていた。
【昭和50年6月7日】
現在、五十歳。小学五年生の孫を持つ祖母としては、やはり若い。
実和子が三十一歳ということは、単純計算で――と頭を働かせる前に、幸枝の方から口を開いた。
「実和子は、十九のときに産んだ子です。うちの村では、それくらいに初産を迎えるのは珍しくありません」
淀みない口調に多少の違和感を抱えつつも、藍は「なるほど」と相槌を打った。
「ありがとうございます」
篠田が手帳に個人情報を写し終えたのを確認してから、藍はカードを差し出した。
「では早速、事件発覚当夜のことについて訊かせてください。友思くんから一一〇番に通報があったのが、一月三日午後六時十七分。その後、友思くんからあなたに電話を掛けていると思うのですが」
「ええ。六時二十分ごろやったかと」
「電話口で、どのような話をしましたか」
「母さんと父さんが動かない。死んでいるかもしれない。警察には通報した――と。最初は何かの冗談やないかと疑ったんですけど、あの子は、そんな不謹慎なこと言いよる子やないし……」
その洗練された容姿からは想像できない、柔らかな阿波弁だった。
「それで、その後はどうされましたか?」
「急いで家を出る準備をしました。バスの便がなかったけん、近所に住んどるミノルさんに軽トラ出してもろて、徳島駅に着いたんが七時半ごろです。そこからは、電車で空港近くのホテルまで」
ミノルさんというのは、小幡稔という五十代の男性だという。
二十代のころに駐在員として白峯村にやってきたのだが、現在はその職から離れて村に残り、林業作業員として生計を立てている。村で出会い結婚した妻には二年前に先立たれ、子宝にも恵まれなかったため現在は独り身。四十まで子どもは諦めなかったようだが、妻の病気が発覚してからは二人でひっそりと暮らすことにシフトしたとのことだった。
「幸枝さん、失礼ですがご主人は?」
藍が控えめに問いかけると、幸枝は力無く首を横に振った。
「七年前に、亡くなりました」
「ご病気ですか?」
「……いえ」
「では、不慮の事故でしょうか」
「あの」藍の言葉をやや遮るように、幸枝は声を上げた。「それ、答えないけませんか?」
「何か答えられない理由でも?」
「そういうわけじゃ……」
口籠る幸枝に対し、藍は疑いの視線を向けた。
しかし、聴取が始まってから一言も話していなかった篠田が、横から口を挟んだ。
「話されたくないことでしたら、話していただかなくて結構ですよ。強制ではありませんので」
「すみません」
「……では、質問を変えます」藍の体が、やや前のめりになる。「ご夫婦と、幸枝さんの関係性について教えてください」
戸惑うように視線を泳がせた幸枝に対し、藍は一拍置くとさらに切り出した。
「実和子さんと岳郎さんが、友思くんだけを帰省させていたのは、なぜでしょう」
「それは、」幸枝の声が落ちた。「……わかりません」
「わからないなんてことはないでしょう。岳郎さんだけならまだしも、実娘である実和子さんまで帰省せず、そのわりに友思くんだけは徳島へ帰っている。まだ聞き取りが出来ていなので定かではありませんが、おそらく二人に三が日中の出勤やそれ以外の予定はなかった。岳郎さん方のご両親は訃報の連絡の際、年末に顔を合わせたきりだと証言しています。こちらもまだ詳しい捜査が必要ですが、三日間の二人の行動が明らかになり、予定がなかったことが証明されてしまえば、帰省を妨げる要因が見当たらない、ということになります」
両膝に乗せられていた幸枝の手が、意味もなく組み替えられる。唇を噛み締め、視線を泳がせる幸枝を見て、藍の疑念はより一層深まった。
「親子仲、うまくいってたなかった、とか……?」
探るように問うてみると、先ほどまで行ったり来たりしていた幸枝の視線が、藍に定まった。そして、目を大きく見開くと、ぶんぶんと首を横に振った。
「そんなっ――! ち、違いますっ!」
「へぇ」
藍は、したり顔で口角をわずかに上げた。
――その反応、図星じゃん。
否定が大きければ大きいほど、そこにはそれ相応の隠し事がある。
いったい、何を隠しているのか。
藍の棘のような眼光が、幸枝をえぐるように射抜いた。
「本当に、何も心当たりはないんですか?」
突きつけられた問いに、幸枝は息を呑んだ。
白い指先は膝の上で複雑に絡み合い、強張っている。まるで、幸枝の心をそのまま表しているようだ。
薄く開けられた口から、細い呼吸が何度か繰り返される。そして、震える声がかろうじて紡がれた。
「良いとは、言えなかったかもしれません」
「詳しく聞かせてください」
「……二年前からです。実和子が家に帰らんようになったのは」
幸枝が言うにはこうだ。
友思が生まれてから、実和子は岳郎も連れて三人で徳島へ帰省していたという。東京都足立区に実家を構える岳郎の家には年末に訪れ、遠方の実和子の実家には、年始に泊まりがけの二泊三日。そして東京に帰ってきたあとは、ふたたび岳郎の両親と正月を過ごす。強行日程ではあるものの、これが中井家の正月恒例行事だったという。気を遣った幸枝が「無理に帰省しなくてもいい」と伝えたこともあるそうだが、実和子も岳郎も、それを聞き入れなかった。何より、友思が徳島に来たがっていたのだ。
「やけど、友思が小学三年生になった年……秋ごろやったと思います。突然実和子から電話が来ました。年始の帰省から、友思だけを行かせることにするって」
「その理由について、実和子さんはなんと?」
幸枝は、首を横に振った。
「前々から、無理に帰省せんでええと伝えとったけん、深くは聞きませんでした。実和子もそれ以上は説明しようとせんかったし、理由を聞いて、変に気ぃ遣わせるのも嫌やったので」
「……それだと、幸枝さんが実和子さんに対して気を遣っていたように聞こえますけど」
藍の静かな指摘に、幸枝の瞼がぴくりと動いた。
「親子なのに、なぜ気を遣う必要があるんです?」
「……親子、やからです」
そう答えた幸枝の声は震えていたが、その奥底には、揺るぎない何かを感じた。
充血した瞳からは、いまにもこぼれ落ちそうな涙が光っている。
「わたしたち親子は、たった二人の家族です。どちらかが何かを間違えれば、すぐに崩れる。せやから、」
ほろりと、一筋の涙が幸枝の頬に流れた。それを皮切りに、一筋、また一筋と、大きな瞳からこぼれ落ちていく。
篠田は窓際に置いてあったティッシュを箱ごと取ると、幸枝に差し出した。幸枝は「すみません」と謝りながら、何枚かティッシュを抜き取ると、目と鼻に押し当てる。
藍は、意図せず友人を泣かしてしまったときのような、妙な罪悪感に襲われた。申し訳なさと、しかし自分は悪くない、という相反する感情がせめぎ合っている。篠田からひしひしと感じる咎めるような視線も、藍の胸にじくじくと刺さった。
しばらくして、幸枝は平常心を取り戻したようで、目と鼻を赤く染めながら、ぽつぽつと話を続けた。
「それが、間違うとったんかな。きちんと聞くべきやった。それが最後に聞く実和子の声だってわかっとったら、聞いとったかもしれん。おらんくなってから気づくやなんて――母親失格やなぁ」
自分に言い聞かせるような悲痛な声に、さすがの藍も顔を歪ませた。
幸枝の嗚咽だけが病室に響く中、篠田が開いていた手帳を閉じた。そして、それをジャケットの内ポケットにしまいこむと、立ち上がった。
「今日はここまでにしましょうか」
「……はっ?」
思わず声が漏れた。
まだ手掛かりになりそうなものなど一つも聞けていないのに、手ぶらで本部に戻ろうとする篠田の気がしれなかった。
「まだ何も聞けてませんけど」
藍はすかさず立ち上がると、篠田の裾を引っ張り、耳元に顔を寄せた。自然と、篠田の体は藍のほうへと傾く。三十センチ以上の背丈の差があるため、まるで大人が子どもに耳を貸すような図になった。
「何考えてるんですか」
低く刺すような声で言うも、篠田は一度きょとんとした顔を見せただけで、すぐに柔和な表情を浮かべた。そして藍の問いには答えずに、その笑みを幸枝へと向けた。
「大変なときに押しかけてしまい、申し訳ありませんでした。また後日、詳しくお話を伺わせてください」
「……すみません、ありがとうございます」
「では、百人町までお送りいたします」
言いながら篠田が手を差し出すも、幸枝はその手を掴まなかった。
「……やっぱり大丈夫です。いろいろと考えたいけん、ひとりで行きます」
幸枝が、ちらりと藍のほうを見やった。篠田はしばらく手を差し出したままだったが、やがて小さく頷いて引っ込めた。
「そうですか。無理強いはいたしませんので、お気になさらず。ただ、どうかお気をつけて。まだ犯人は捕まっていません」
「お気遣い、ありがとうございます」
「いえ。では、我々は先に――」
「最後にいいですか」
病室を後にしようとした篠田を手で制止しながら、藍がおもむろに口を開いた。
幸枝の表情に、ふたたび影が落ちる。
「なんでしょう」
「実和子さんが、誰かに恨まれていたということはありませんか?」
「千木良巡査、」
何か言い掛けた篠田を遮ったのは、幸枝の声だった。
「ありえんっ。あの子が、誰かに恨まれとったなんてそんなこと――っ、誰に対しても優しゅうて、優しすぎるくらいで……そんな子が、誰かに恨まれることなんてありません」
「……そうですか」
「千木良巡査、行きましょう」
「では、本日は失礼します」
病室を出ると、扉の向こうから咽び泣く声が聞こえてきた。
見張りで立っていた二人にも内容が聞こえていたのか、「大丈夫ですか」と声を掛けてくる。その横を通り過ぎる藍の代わりに、篠田は軽く頭を下げると、その後を追いかけた。


