「上席に、礼」
彼らが腰を下ろすのを見届けてから、捜査員たちも着席する。
上座から、新宿署副署長、捜査一課長、捜査一課第五強行犯管理官、新宿署刑事課長、捜査一課第九係係長と並んでいる。副署長が訓示を述べたあとは、この場において捜査主任官にあたる九係係長の柳内直孝が進行役となり、事件の概要が共有された。
「被害者は、発見場所となった都営百人町五丁目アパートの五〇五号室に住む、中井岳郎、男性、会社員。妻の実和子、女性、パート勤務。ともに三十一歳。発見当時、二人は椅子に縛られ、口内には旧紙幣の一万円札が詰め込まれていた。検視の結果、目立った外傷が見られないことから、被害者は何らかの方法で意識を失わされ、その後、口内に詰め込まれた異物により窒息死した可能性が高いと思われる。詳しい死因については、現在、法医学教室からの解剖結果待ちだ」
柳内が手元の捜査計画書に視線を落としながら、言葉を続ける。
「えー、第一発見者となる被害者夫婦の一人息子……中井友思については、通報後に意識を失った状態で倒れているのが発見され、現在は高田馬場メディカルセンターに入院中。容体は安定しているが、医師の判断でしばらく経過観察となる。事情聴取については主治医の許可が下り次第、慎重に行う予定だ」
捜査計画書に書かれいてることをそのまま読み終えると、機捜隊員からの初動捜査報告に入る。
目撃者はなし。近隣の聞き込みも三が日中ということもあり留守が多く、目ぼしい情報は得られず。肝心の第一発見者である中井友思についても聴取不能。アパートに設置されていた防犯カメラはダミーで、死亡推定時刻にアパートに出入りした人間の確認すらできていない。
あまりの八方塞がり具合に、雛壇幹部のほうから唸り声が聞こえた。
夫妻の死亡推定時刻については、鑑識課からの検視結果に続いた。
被害者の直腸温度、遺体の硬直具合、下半身の広範囲に死斑が現れていたことから、死後およそ一日。死亡推定時刻は一月二日の午後七時から九時の間と割り出された。死因は資料に記載されている通り、窒息死でほぼ間違いないとのことだ。
目新しい情報がないまま淡々と話が進み、あっという間に捜査会議は終わっていた。まだ九時にもなっていない。
鑑取り班として名前を呼ばれた藍は、布施が座るデスクの前へと足を運んだ。生活安全課少年係所属の泉月も、第一発見者で被害者夫婦の息子である友思のケアと聴取要員として、同じく名前を呼ばれていた。
基本的に、本部捜査員と所轄捜査員の二人一組で捜査を進めていくことになる。ペアの振り分けは、デスク主任が全体のバランスを見ながら決める。本部の捜査員が若ければ、それと組むのは所轄のベテラン。また、逆のパターンもある。
藍が組むことになったのは、つい先ほど泉月から熱弁を受けていた、例の篠田誠一だった。
四十と言われても、何の疑いもなく信じてしまいそうなほど、想像以上に若々しい男だった。髪はフサフサで、顔のシミや皺も少ない。肌も健康的にこんがりと焼けている。
「篠田誠一です。よろしくお願いします」
ピシッと伸びた背筋に、余裕のありそうな柔和な笑み。まさに、紳士という言葉が似合う見てくれは、藍の辞書に載っているような刑事とはかけ離れていた。
「……千木良です。どうも」
藍が軽く会釈をすると、篠田は目尻に皺を寄せて微笑んだ。
泉月はと言うと、布施と組むことになったようで、お互いのペアを認識した直後「交換する?」と、軽い調子で囁いてきた。
――するわけがない。
というか、できない。替えたいです、と言って替えられるものではないのだ。
その提案を軽くスルーすると、泉月はやや不貞腐れたように口を尖らせた。
藍と篠田は、実和子の母であり、友思の祖母にあたる後藤田幸枝の聴取に割り振られた。
現状、警察側が把握している関係者の中でも、最重要とも言える人物の聴取になぜ自分が割り振られたのか。重要な役割を与えられ少々浮かれていると、全ペアに割り振りを終えた布施がこちらへと歩み寄ってきた。
「シノさん、ご無沙汰してます」
布施は、捜査一課の大部屋ではなかなか見せない穏やかな表情で、篠田に声をかけた。
「お久しぶりです、布施主任。相変わらず捜一は忙しそうですね」
「やめてくださいよ、水臭い。昔のように、布施で構いません」
篠田は返事に窮したのか、唇を内側に巻きこむと困ったように微笑んだ。
二人が旧知の仲であることは間違いなさそうだが、どこか距離を感じるのは気のせいだろうか。見定めるような視線を送っていると、突然藍の肩に布施の手が乗った。
「こいつ、捜一に来て初めての帳場なんで、いろいろと至らない点はあるかと思いますが」
「ええ、お任せください。私で務まるかわかりませんが、身を尽くして支えさせていただきます」
「心強いです」
布施は、藍の肩をポンポンと叩くと、そっと篠田のほうへと押した。
「千木良のこと、頼みましたよ」
布施は軽やかにそう言い残すと、背広の裾を翻し、泉月を連れて部屋を後にした。
ほんの一瞬、静寂が訪れた。
――いきなり二人きりにしないでよ。
すでにこの場にいない布施に心の中で文句を言いながらも、藍は背筋を伸ばし、篠田に向き直った。
「改めて、よろしくお願いします」
「こちらこそ。頼りになるかどうかはわかりませんが、足は引っ張らないように心掛けます」
年下の女に対し、いささか謙りすぎている気もする。見くびられているような感じもしたが、初っ端から角を立てるのも賢くない。
しかし駐車場へ行き、助手席のドアを開けてもらったときには、さすがの藍もツッコまずにはいられなかった。
「いやいや、ちょっと待って」
「はい、何でしょう」
ドアの上部に手を乗せたまま乗車を促すような体勢は、なるほど執事のように見えた。据わりの悪さを感じている藍に対し、篠田は眉を上げ、不思議そうに首を倒している。
「あーいや……」少し考えてから、口を開く。「篠田さん、前職は何を?」
「……前職、と言いますと?」
「警察官になる前、です」
篠田は一瞬だけ目を瞬かせた。
しかし質問の意図を理解したのか、わずかに口角を緩める。
「ずいぶんと唐突ですね」
「わたしも、あなたの唐突な行動に驚いてるんです。……すみません、気になったんで」
藍は眉を顰めたまま、じっと篠田を見据えた。
「ラーメン屋です」
――は?
驚きで声も出ず、藍は目を見開くことしかできなかった。
「大学の近くにあったんです。もう三十年以上も前の話ですが……いやぁ、あそこの賄いは絶品でしたね」
懐かしむように虚空に視線を動かした篠田に、藍は「はぁ」と気の抜けた相槌を漏らす。学生時代のアルバイト経験を聞きたかったわけではないが、どうやら大学卒業後はダイレクトに警察学校へ進んだらしい。前職がホテルマンや秘書だのと言われれば、過剰な低姿勢も理解はできた。
しかし、そうでないとするのであれば、やはり揶揄われている気がしてならない。
「コンカフェ、みたいなやつですか」
「こんかふぇ?」
「ラーメン屋で、その所作が身につくとは思えません。メイドカフェとか、マッスルバーみたいなノリで、執事コンセプトのラーメン屋的なやつかと……」
そこまで言って、口を止めた。
このおじさんの学生時代に、そんな流行があるわけないか、と思い至ったからだ。そもそも、コンカフェというワードにいまいちピンと来ていないみたいだし。
篠田を置き去りに「とにかく」と藍は話を再開する。
「警察の、しかも刑事畑にいれば、もっと荒っぽくなるものだと思うんですけど」
訝しげな視線を向ける藍に対して、篠田は「ははっ」と声を上げて笑った。
「すみません。これは癖のようなものでして」
言いながら、運転席側へと回る。
「気分を害されたようでしたら、申し訳ありません」
「いや、害されたってことでは……」
「それなら、安心です」
――なんだ、このおじさん。全然読めない。
どんな意図があって、このような扱いをしてくるのか。
疑心暗鬼になりかけたまま、藍は開かれたドアから助手席に乗り込んだ。続いて、運転席に篠田も乗り込む。
エンジンがかかり、わずかな振動がシートから伝わってくる。
新宿署を出たのは、九時十二分のことだった。


