*
本庁に持ち帰らなければいけない荷物は、そんなになかった。
強いて言うなら、三交代で使っていたスーツとバス用品くらいだ。
「なんで一課の刑事が先に離脱できんの~」
ボストンバッグに荷物を詰め込んでいると、後ろから不満そうな声が降ってきた。
泉月が腕を組んだまま、壁に寄り掛かっている。
「しょうがないでしょ。第五強行犯の係が全部出払っちゃってて、待機班がいないの。それに、デスクワークが山のように残ってるし」
うぅ、と藍は唸る。
退屈なデスクワークより、一日中捜査で外回りをしていたほうが藍には合う。
予想を上回る早期離脱に、物足りなさを感じているくらいだ。できることなら、泉月に代わってほしい。
第九係布施班は、麻植小百合の検挙をもって特別捜査本部からの離脱を命じられた。夫妻殺害の容疑を掛けられている後藤田晋也の捜査については、第九係の別の班が引き続き行うことになっている。
「そういえば、」泉月が思い出したように声を上げる。「友思くんが自分が売られることを知ってたなんて、どうして気づいたの?」
「呼び方だよ」
「呼び方?」
「病室で暴れた日、友思くんはこう言ってたらしい」
――ばあばも俺を捨てるのか。
「幸枝さんは、岳郎さん方の祖母のことについて言ってると思ったらしいけど、わたしはそうは思わなかった」
藍の推理についていけていないのか、泉月は眉根を寄せた。
「だから、普段友思くんが幸枝さんのことをなんて呼んでるか、内海さんと日向に確認させたってわけ。結果、友思くんは幸枝さんのことをばあばと呼んでたことがわかった。内海さんも日向も、その質問の意図をまるで理解できてなかったみたいだけど」
そうなると、友思が発した「ばあばも俺を捨てるのか」というのは、徳島に連れて行こうとした幸枝に対しての言葉ということになる。
自分のことを白峯村に売ろうとした母親と、幸枝が重なったのだろう。
また捨てられる。そう考えたら、暴れるしかなくなってしまった。
「そういうことね」やがて、泉月は納得したように頷いた。「あんたはほんと、細かいところに目がいくね。さすが警察学校主席卒業」
「何年前の話してんの」
満更でもなさそうな顔で、藍は軽く受け流す。
「でも、やっぱちょっと悲しいわ。藍とシノさんのコンビ、結構ハマってたのに」
「何がどうどこにハマったの」
藍がバッグの口を閉めながら問い返すと、泉月は「うーん」と考えるように視線を虚空に投げてから、何やら合点がいったように「あっ」と声を漏らす。
その声に振り向いてみれば、泉月は得意げに口角を上げていた。
「親子、みたいな?」
「……あぁ」
「納得すんのかい」
「いや、父親いたらあんな感じだったのかなぁ、と思って」
ぽつりと口にした藍の言葉に、泉月は「あーね」と鼻で笑った。
「シノさんが父親だったら、あたしも喜んで娘やるわ」
「いや、シノさんの血が入ってたらこんなヤンキー娘産まれないから」
「それは言えてる」
思う存分軽口を叩き合ったあと、藍は小柄な体と不釣り合いな大きなバッグを肩にかけて立ち上がった。
「……じゃあ、そろそろ行くね」
「うん。また近いうちに飲みにでもいこうよ。那由多と三人で」
「それなら大賛成」
藍はにっと笑って答えた。
「さてと」泉月が仮眠室の扉を開いた。「地獄のデスクワークが、藍を待ってるよ〜」
「やめてそれ〜」
バッグを肩に掛け直し、扉のほうへと近づく。
いたすらな笑みを浮かべていた泉月が、途端に真面目くさい顔になった。
「無茶すんなよ」
「え、何心配してくれてんの」
「んなわけないでしょ。ほら、行った行ったー」
どんっ、と背中を押されたかと思えば、ばたん、と扉が閉じた。
本当、素直じゃない。人のこと言えないじゃん。
でも、それが泉月なりの優しさだということは藍がよくわかっている。
ふふっと鼻で笑ったあと、目の前に大きな壁が立ちはだかっていることに気づいた。
見上げてみると、そこにいたのは篠田だった。
「女子仮眠室の前で待ち伏せ?」
半歩後退り、わざと挑発気味に言う。
「すみません。最後にご挨拶をと思いまして」
篠田は恥ずかしそうに、それでいて申し訳なさそうに頭を下げた。
彼の困ったような表情は、藍の心をくすぐる。何も本当に困らせたいわけではなく、目尻に寄る皺と、刑事にしては柔いその表情を見ると、ほっとするのだ。
いまになって、泉月が言っていた「オアシス」という意味がよくわかった。刑事失格とさえ思っていたが、こういう人間が一人いても悪くないかもしれない。
「千木良巡査、」
篠田が背筋を伸ばして改まる。一変した空気感にむず痒さを感じながらも、藍も自然と背筋を伸ばした。
「あなたと一緒に捜査が出来てよかったです」
そのまっすぐすぎる視線をまともに受け、少し照れ臭くなった。
よくもまあ、そんな真正面から言えるな、と感心する。泉月はこんなにストレートな人間ではないし、那由多はまっすぐだが篠田とは類が違う。
言葉に飾り気は一切ない。自分の中で生まれた言葉を、そのまま渡してくるまっすぐさが、藍にとってはとても新鮮だった。
「……わたしも、なんだかんだ楽しかったよ」
篠田は、意外そうに目を見開いた。
「それは……」篠田が照れ臭そうに微笑む。「よかったです」
藍は、ふっと肩の力を抜いた。自然と、自身の口角も上がっていくのだわかった。
「シノさん、」
「はい」
「やるべきことは、全うできましたか」
その問いに、篠田は目を閉じてゆっくりと首を縦に振る。
「あなたに痛いところがひとつもないのであれば」
「おかげさまで、無傷です」
「千木良巡査はどうですか。試練、乗り越えることができたでしょうか」
少し考える。
自分は果たして、友思のことを救うことができたのだろうか。
「……その答え合わせは、もう少し先になりそうかな。この事件が幕を下ろすまでは、気は抜けないでしょ」
藍のその答えに、篠田は「そうでしたね」と頷いた。
肩に、バッグの持ち手が食い込んできた。
いつまでも、余韻に浸るわけにはいかない。
「じゃあ、わたしはそろそろ」
「玄関までお持ちしましょうか」
「大丈夫」
伸びてきた篠田の手を、藍はさらりと躱す。
「ありがとね、シノさん。わたしのこと、いろいろと助けてくれて」
「えっ」
「じゃ、わたし本当に行かなきゃなんで! シノさん、元気でね」
「あ、ちょっ――!」
焦りが帯びた篠田の声を背に、藍は振り返らずに階段を降りていく。
なんだか恥ずかしくて言い逃げみたいなことをしてしまったが、いまはこれでいい気がした。
根拠は、何一つない。
でもまた近いうちに、彼と会えそうな気がした。
そんな予感が、藍の胸を躍らせていた。
篠田は、颯爽と去っていった小さな背中を見送ると、差し伸べていた手をゆっくりと下ろした。
「ま、いっか……」
目を離すと何をするかわからない、じゃじゃ馬娘。
姿はもう目に見えないはずなのに、なぜだか篠田は、その手綱をしっかりと握っているような気がした。
「どうか、お元気で」
本庁に持ち帰らなければいけない荷物は、そんなになかった。
強いて言うなら、三交代で使っていたスーツとバス用品くらいだ。
「なんで一課の刑事が先に離脱できんの~」
ボストンバッグに荷物を詰め込んでいると、後ろから不満そうな声が降ってきた。
泉月が腕を組んだまま、壁に寄り掛かっている。
「しょうがないでしょ。第五強行犯の係が全部出払っちゃってて、待機班がいないの。それに、デスクワークが山のように残ってるし」
うぅ、と藍は唸る。
退屈なデスクワークより、一日中捜査で外回りをしていたほうが藍には合う。
予想を上回る早期離脱に、物足りなさを感じているくらいだ。できることなら、泉月に代わってほしい。
第九係布施班は、麻植小百合の検挙をもって特別捜査本部からの離脱を命じられた。夫妻殺害の容疑を掛けられている後藤田晋也の捜査については、第九係の別の班が引き続き行うことになっている。
「そういえば、」泉月が思い出したように声を上げる。「友思くんが自分が売られることを知ってたなんて、どうして気づいたの?」
「呼び方だよ」
「呼び方?」
「病室で暴れた日、友思くんはこう言ってたらしい」
――ばあばも俺を捨てるのか。
「幸枝さんは、岳郎さん方の祖母のことについて言ってると思ったらしいけど、わたしはそうは思わなかった」
藍の推理についていけていないのか、泉月は眉根を寄せた。
「だから、普段友思くんが幸枝さんのことをなんて呼んでるか、内海さんと日向に確認させたってわけ。結果、友思くんは幸枝さんのことをばあばと呼んでたことがわかった。内海さんも日向も、その質問の意図をまるで理解できてなかったみたいだけど」
そうなると、友思が発した「ばあばも俺を捨てるのか」というのは、徳島に連れて行こうとした幸枝に対しての言葉ということになる。
自分のことを白峯村に売ろうとした母親と、幸枝が重なったのだろう。
また捨てられる。そう考えたら、暴れるしかなくなってしまった。
「そういうことね」やがて、泉月は納得したように頷いた。「あんたはほんと、細かいところに目がいくね。さすが警察学校主席卒業」
「何年前の話してんの」
満更でもなさそうな顔で、藍は軽く受け流す。
「でも、やっぱちょっと悲しいわ。藍とシノさんのコンビ、結構ハマってたのに」
「何がどうどこにハマったの」
藍がバッグの口を閉めながら問い返すと、泉月は「うーん」と考えるように視線を虚空に投げてから、何やら合点がいったように「あっ」と声を漏らす。
その声に振り向いてみれば、泉月は得意げに口角を上げていた。
「親子、みたいな?」
「……あぁ」
「納得すんのかい」
「いや、父親いたらあんな感じだったのかなぁ、と思って」
ぽつりと口にした藍の言葉に、泉月は「あーね」と鼻で笑った。
「シノさんが父親だったら、あたしも喜んで娘やるわ」
「いや、シノさんの血が入ってたらこんなヤンキー娘産まれないから」
「それは言えてる」
思う存分軽口を叩き合ったあと、藍は小柄な体と不釣り合いな大きなバッグを肩にかけて立ち上がった。
「……じゃあ、そろそろ行くね」
「うん。また近いうちに飲みにでもいこうよ。那由多と三人で」
「それなら大賛成」
藍はにっと笑って答えた。
「さてと」泉月が仮眠室の扉を開いた。「地獄のデスクワークが、藍を待ってるよ〜」
「やめてそれ〜」
バッグを肩に掛け直し、扉のほうへと近づく。
いたすらな笑みを浮かべていた泉月が、途端に真面目くさい顔になった。
「無茶すんなよ」
「え、何心配してくれてんの」
「んなわけないでしょ。ほら、行った行ったー」
どんっ、と背中を押されたかと思えば、ばたん、と扉が閉じた。
本当、素直じゃない。人のこと言えないじゃん。
でも、それが泉月なりの優しさだということは藍がよくわかっている。
ふふっと鼻で笑ったあと、目の前に大きな壁が立ちはだかっていることに気づいた。
見上げてみると、そこにいたのは篠田だった。
「女子仮眠室の前で待ち伏せ?」
半歩後退り、わざと挑発気味に言う。
「すみません。最後にご挨拶をと思いまして」
篠田は恥ずかしそうに、それでいて申し訳なさそうに頭を下げた。
彼の困ったような表情は、藍の心をくすぐる。何も本当に困らせたいわけではなく、目尻に寄る皺と、刑事にしては柔いその表情を見ると、ほっとするのだ。
いまになって、泉月が言っていた「オアシス」という意味がよくわかった。刑事失格とさえ思っていたが、こういう人間が一人いても悪くないかもしれない。
「千木良巡査、」
篠田が背筋を伸ばして改まる。一変した空気感にむず痒さを感じながらも、藍も自然と背筋を伸ばした。
「あなたと一緒に捜査が出来てよかったです」
そのまっすぐすぎる視線をまともに受け、少し照れ臭くなった。
よくもまあ、そんな真正面から言えるな、と感心する。泉月はこんなにストレートな人間ではないし、那由多はまっすぐだが篠田とは類が違う。
言葉に飾り気は一切ない。自分の中で生まれた言葉を、そのまま渡してくるまっすぐさが、藍にとってはとても新鮮だった。
「……わたしも、なんだかんだ楽しかったよ」
篠田は、意外そうに目を見開いた。
「それは……」篠田が照れ臭そうに微笑む。「よかったです」
藍は、ふっと肩の力を抜いた。自然と、自身の口角も上がっていくのだわかった。
「シノさん、」
「はい」
「やるべきことは、全うできましたか」
その問いに、篠田は目を閉じてゆっくりと首を縦に振る。
「あなたに痛いところがひとつもないのであれば」
「おかげさまで、無傷です」
「千木良巡査はどうですか。試練、乗り越えることができたでしょうか」
少し考える。
自分は果たして、友思のことを救うことができたのだろうか。
「……その答え合わせは、もう少し先になりそうかな。この事件が幕を下ろすまでは、気は抜けないでしょ」
藍のその答えに、篠田は「そうでしたね」と頷いた。
肩に、バッグの持ち手が食い込んできた。
いつまでも、余韻に浸るわけにはいかない。
「じゃあ、わたしはそろそろ」
「玄関までお持ちしましょうか」
「大丈夫」
伸びてきた篠田の手を、藍はさらりと躱す。
「ありがとね、シノさん。わたしのこと、いろいろと助けてくれて」
「えっ」
「じゃ、わたし本当に行かなきゃなんで! シノさん、元気でね」
「あ、ちょっ――!」
焦りが帯びた篠田の声を背に、藍は振り返らずに階段を降りていく。
なんだか恥ずかしくて言い逃げみたいなことをしてしまったが、いまはこれでいい気がした。
根拠は、何一つない。
でもまた近いうちに、彼と会えそうな気がした。
そんな予感が、藍の胸を躍らせていた。
篠田は、颯爽と去っていった小さな背中を見送ると、差し伸べていた手をゆっくりと下ろした。
「ま、いっか……」
目を離すと何をするかわからない、じゃじゃ馬娘。
姿はもう目に見えないはずなのに、なぜだか篠田は、その手綱をしっかりと握っているような気がした。
「どうか、お元気で」


