ドンッ――。
不意に肩に衝撃が走り、藍はよろめいた。
驚いて振り返ると、そこには険しい目をした男が立っていた。藍と同じく布施班所属の、日向駆巡査長だ。
その男は藍の顔を見ると、ふっと鼻を鳴らした。
「あぁ、悪い悪い。小さくて見えなかった」
わざとらしい物言いに、藍は眉を顰めた。
日向は、藍より六歳年上の二十八歳。捜一の歴としては、藍より一年先に配属されただけの新参者ではあるのだが、事あるごとに横槍を入れてくる。
ノンキャリアの二十二歳。そんな女が史上最年少とも言える歳で捜一入りしたことが、さぞかし気に食わないのだろう。精悍な顔立ちをしているくせに、腹の内はドロドロだ。口を開けば嫌味、目が合えば挑発。年下の女に対する態度とは思えない。明らかに、敵対視をされている。
しかし藍は、理不尽な対応に怖気づいて怯えるような、そんな気弱な玉ではない。
「本当に見えなかったんなら、眼科にでも行ってくれば」
藍の返しに、日向は呆れたように口角を上げた。その二人の間で、泉月は面倒なことに巻き込まれたと言わんばかりに、こめかみを掻いている。
「生憎、両目とも視力は二.〇だ」
「視力はよくても、視野が狭いなら刑事としては致命的じゃん」
刹那、日向の目に怒気とも笑気ともつかぬ鋭い光が走った。藍のこの返しは、少々効いてしまったようだ。
「おい、何してる」
ばちばちと火花が散り始めたところに、低く乾いた声が二人の耳に届いた。
振り向けば、そこには内海浩司巡査部長が腕を組んで立っていた。糸のように細い目で、二人を順番に射抜く。
日向は体裁悪そうに肩をすくめると、視線を逸らした。藍も、薄汚れた床へと視線を投げる。
「他所の島だ。角突き合いをしたいのなら、せめて自分たちの巣に帰ってからにしてくれ」
内海は、布施班最年長のベテラン刑事だ。口数こそ少ないが、ひとたび口を開けば、場を制するほどの貫禄の持ち主だ。そんな人物の眼差しを受けてもなお不毛なやりとりを続けるほど、藍たちは子どもではない。「すみません」と口々に言うと、内海は特に何を言うでもなく、先に会議室の中へと足を踏み入れた。その背を追うように、日向も続く。会議室に入る直前、わかりやすく舌を打たれたが、藍は無視を貫いた。
「すっご」
思わずといった様子で、泉月が口を開いた。
「ごめん。巻き込んだ」
こちらから売ったものではなかったが、一応謝っておく。しかし「違くて」と泉月は首を横に振った。そして、いつもより潤みを帯びた瞳を、藍に向ける。
「醤油顔イケメンに塩顔イケメンか~」
「えっ」
「さいっこう。目の保養に困ることはなさそうで安心した~」
その言葉に呆然とする藍をよそに、泉月も会議室へと入っていった。
「……え、話聞いてた?」
第三会議室には、四人掛けの長机が縦四列六台ずつの二十四台、奥にはデスクが六台と、什器が整然と並べられていた。すでに長机の前に腰を下ろしている者もいる。無線機やコピー機、ノートパソコンなどの備品も、昨夜中に設置されたのだろう。上級幹部たちが揃えば、すぐにでも第一回の捜査会議が行われる。
藍は泉月とともに、雛壇席から一番遠い、入口付近の最後列に腰を下ろした。
辺りを見渡してみると、デスク席のほうに見慣れた姿を見つけた。
布施だ。
ばっちりと目が合い、藍はすかさず頭を下げると、布施はそれに答えるように小さく頷いた。意図せず、口角がぐんと上がる。
「ニヤけてる」
「うっさい」
茶化してくる泉月に、藍は小声で吐き捨てた。
長机の上には、すでに捜査計画書が置かれている。藍はそれをパラパラと捲りながら、昨夜のことを反芻していた。
事件が発覚したのは昨夜。三が日の最終日、一月三日のことだった。午後六時十七分に一一〇番通報が入電。発信主は小学五年生の少年、中井友思。
徳島にある祖母の家から自宅に戻ったところ、ダイニングで椅子に縛られたまま動かない両親を発見したという。
現場は新宿区百人町五丁目にある『都営百人町五丁目アパート』の五〇五号室。一番に現着したのは、密行中の機動捜査隊だった。機捜が臨場すると、少年の両親と思しき夫婦が椅子に縛り付けられており、さらに口内には旧紙幣の万札が詰め込まれた状態だった。
その写真も、資料の中に添付されている。
昨夜、藍が所属する九係が臨場したときにも実際に目にした遺体だった。しかし写真にして改めて見てみると、生々しさが薄れた分、逆に現場では気づかなかった細部に目が留まる。
唇の端から滲んだ血、頬には乾ききった涙の筋が白く残されており、顔には苦悶の色がありありと残っていた。どれほど苦しんだことか、亡くなった夫婦の胸中を考えると、自然と顔は険しくなる。
そして何より、新年というお祝いムードの中、両親を同時に亡くした少年の心の傷を思うと胸が締め付けられた。一人きりで祖母の家に帰省していたことについては疑問が残るが、その理由は後の捜査で明らかになるだろう。
食い入るように資料に目を通していると、隣の椅子が引かれる気配がした。
スーツジャケットのボタンをしめながら横に座ってきたのは、先ほど話題に上がっていた那由多だ。会議室に入るなり、同期二人の後ろ姿を見つけてほっとしたのだろう。「よっ」と片手を上げる那由多に、藍と泉月も「よっ」と同じように返す。
「千木良、めっちゃ久しぶりだね」
「実践実習振りだから……二年とか?」
「もうそんな立つかぁ――あっ、言い忘れてた」何か思い出したのか、那由多が居住まいを正す。「捜査一課への配属、おめでとう」
「やめてよ」
なんだか気恥ずかしくなり、藍はそっと目を逸らした。しかしその先には、ニタニタとしている泉月の顔があった。
「素直になれよ~」
「なれよ~」那由多も乗っかる。
「あーもう、うざい」
口ではそう言いながらも、懐かしい空気感に頬が緩んだ。
少々浮き立っていると、突然「起立」という号令がかかった。慌てて立ち上がる。
前方の扉から、新宿署副署長を始めとした、雛壇幹部が姿を現した。
不意に肩に衝撃が走り、藍はよろめいた。
驚いて振り返ると、そこには険しい目をした男が立っていた。藍と同じく布施班所属の、日向駆巡査長だ。
その男は藍の顔を見ると、ふっと鼻を鳴らした。
「あぁ、悪い悪い。小さくて見えなかった」
わざとらしい物言いに、藍は眉を顰めた。
日向は、藍より六歳年上の二十八歳。捜一の歴としては、藍より一年先に配属されただけの新参者ではあるのだが、事あるごとに横槍を入れてくる。
ノンキャリアの二十二歳。そんな女が史上最年少とも言える歳で捜一入りしたことが、さぞかし気に食わないのだろう。精悍な顔立ちをしているくせに、腹の内はドロドロだ。口を開けば嫌味、目が合えば挑発。年下の女に対する態度とは思えない。明らかに、敵対視をされている。
しかし藍は、理不尽な対応に怖気づいて怯えるような、そんな気弱な玉ではない。
「本当に見えなかったんなら、眼科にでも行ってくれば」
藍の返しに、日向は呆れたように口角を上げた。その二人の間で、泉月は面倒なことに巻き込まれたと言わんばかりに、こめかみを掻いている。
「生憎、両目とも視力は二.〇だ」
「視力はよくても、視野が狭いなら刑事としては致命的じゃん」
刹那、日向の目に怒気とも笑気ともつかぬ鋭い光が走った。藍のこの返しは、少々効いてしまったようだ。
「おい、何してる」
ばちばちと火花が散り始めたところに、低く乾いた声が二人の耳に届いた。
振り向けば、そこには内海浩司巡査部長が腕を組んで立っていた。糸のように細い目で、二人を順番に射抜く。
日向は体裁悪そうに肩をすくめると、視線を逸らした。藍も、薄汚れた床へと視線を投げる。
「他所の島だ。角突き合いをしたいのなら、せめて自分たちの巣に帰ってからにしてくれ」
内海は、布施班最年長のベテラン刑事だ。口数こそ少ないが、ひとたび口を開けば、場を制するほどの貫禄の持ち主だ。そんな人物の眼差しを受けてもなお不毛なやりとりを続けるほど、藍たちは子どもではない。「すみません」と口々に言うと、内海は特に何を言うでもなく、先に会議室の中へと足を踏み入れた。その背を追うように、日向も続く。会議室に入る直前、わかりやすく舌を打たれたが、藍は無視を貫いた。
「すっご」
思わずといった様子で、泉月が口を開いた。
「ごめん。巻き込んだ」
こちらから売ったものではなかったが、一応謝っておく。しかし「違くて」と泉月は首を横に振った。そして、いつもより潤みを帯びた瞳を、藍に向ける。
「醤油顔イケメンに塩顔イケメンか~」
「えっ」
「さいっこう。目の保養に困ることはなさそうで安心した~」
その言葉に呆然とする藍をよそに、泉月も会議室へと入っていった。
「……え、話聞いてた?」
第三会議室には、四人掛けの長机が縦四列六台ずつの二十四台、奥にはデスクが六台と、什器が整然と並べられていた。すでに長机の前に腰を下ろしている者もいる。無線機やコピー機、ノートパソコンなどの備品も、昨夜中に設置されたのだろう。上級幹部たちが揃えば、すぐにでも第一回の捜査会議が行われる。
藍は泉月とともに、雛壇席から一番遠い、入口付近の最後列に腰を下ろした。
辺りを見渡してみると、デスク席のほうに見慣れた姿を見つけた。
布施だ。
ばっちりと目が合い、藍はすかさず頭を下げると、布施はそれに答えるように小さく頷いた。意図せず、口角がぐんと上がる。
「ニヤけてる」
「うっさい」
茶化してくる泉月に、藍は小声で吐き捨てた。
長机の上には、すでに捜査計画書が置かれている。藍はそれをパラパラと捲りながら、昨夜のことを反芻していた。
事件が発覚したのは昨夜。三が日の最終日、一月三日のことだった。午後六時十七分に一一〇番通報が入電。発信主は小学五年生の少年、中井友思。
徳島にある祖母の家から自宅に戻ったところ、ダイニングで椅子に縛られたまま動かない両親を発見したという。
現場は新宿区百人町五丁目にある『都営百人町五丁目アパート』の五〇五号室。一番に現着したのは、密行中の機動捜査隊だった。機捜が臨場すると、少年の両親と思しき夫婦が椅子に縛り付けられており、さらに口内には旧紙幣の万札が詰め込まれた状態だった。
その写真も、資料の中に添付されている。
昨夜、藍が所属する九係が臨場したときにも実際に目にした遺体だった。しかし写真にして改めて見てみると、生々しさが薄れた分、逆に現場では気づかなかった細部に目が留まる。
唇の端から滲んだ血、頬には乾ききった涙の筋が白く残されており、顔には苦悶の色がありありと残っていた。どれほど苦しんだことか、亡くなった夫婦の胸中を考えると、自然と顔は険しくなる。
そして何より、新年というお祝いムードの中、両親を同時に亡くした少年の心の傷を思うと胸が締め付けられた。一人きりで祖母の家に帰省していたことについては疑問が残るが、その理由は後の捜査で明らかになるだろう。
食い入るように資料に目を通していると、隣の椅子が引かれる気配がした。
スーツジャケットのボタンをしめながら横に座ってきたのは、先ほど話題に上がっていた那由多だ。会議室に入るなり、同期二人の後ろ姿を見つけてほっとしたのだろう。「よっ」と片手を上げる那由多に、藍と泉月も「よっ」と同じように返す。
「千木良、めっちゃ久しぶりだね」
「実践実習振りだから……二年とか?」
「もうそんな立つかぁ――あっ、言い忘れてた」何か思い出したのか、那由多が居住まいを正す。「捜査一課への配属、おめでとう」
「やめてよ」
なんだか気恥ずかしくなり、藍はそっと目を逸らした。しかしその先には、ニタニタとしている泉月の顔があった。
「素直になれよ~」
「なれよ~」那由多も乗っかる。
「あーもう、うざい」
口ではそう言いながらも、懐かしい空気感に頬が緩んだ。
少々浮き立っていると、突然「起立」という号令がかかった。慌てて立ち上がる。
前方の扉から、新宿署副署長を始めとした、雛壇幹部が姿を現した。


