クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 それまでなんとか保っていた微笑は、潮が引くように小百合の顔から消えた。

「……はっ?」

「そうやって、隠れて逃げて、自分の中に押し込めておけばなかったことにできるとでも思いましたか?」

「何が言いたいの」

「あなたはいまも、白峯村とつながっている(かせ)を外さずにいる。ずいぶんと遠いところまで逃げてきたのに、その枷はとっくに外せるはずなのに……あなた自身が、外そうとしていない」

 威嚇する猫のような目で、小百合は藍を睨んだ。

 先ほどまでの奥ゆかしさはどこかへと消え、五日前の小百合が顔を出す。おそらく、こちらが彼女の本性だ。

「うちは――逃げとらん」

「じゃあ、話してください。わたしたちのことを信じて」

「信じて話したら、そしたらなかったことになるってこと?」

「なかったことには、できないでしょうね」

「ほな、なんの意味もないでよ!」

 藍の言葉を切り裂くように、小百合は声を張り上げた。

「全部話しても、記憶が()うなるわけやないやろっ。あのころのうちの心、刑事さんが助けてくれるわけやないやろ……!」

「そうですね」

感情的な小百合に対して、藍は淡々と返す。

「でも、いまのあなたを助けることはできる。だから、話して」

 小百合は、力なくかぶりを振った。

 両者引き下がらない状況の中、篠田は小さく息を吐くとその場から立ち上がった。

「今日のところはお暇しましょう」

「だめです」

「……行きましょう」

「行きません」

「千木良巡査、」

 篠田は藍の肩にそっと手を乗せると、視線を横に向けた。

 その視線を辿った先には、口を手で押さえ、肩を震わせている小百合がいた。指の隙間から漏れ出る小さな嗚咽は、耳を塞ぎたくなるほど苦痛の色に滲んでいる。

 これ以上の聴取は、小百合の心を救うどころか壊してしまうかもしれない。

「……わかりました」

 藍は、渋々と椅子から立ち上がった。

 食べかけの食事たちからは、哀愁が漂っている。

「麻植さん、今日はこの辺で失礼いたします。そして、ご馳走様でした」

 篠田が柔らかい声音で謝意を述べるも、小百合にはその声は届いていないようだった。

 タワーマンションを出て駐車場へと戻る途中で、篠田は電話で張り込み班の手配をした。小百合の精神面を考慮し、下手な行動に出ないようにするためのことだということは、視野が狭まっていた藍でも理解はできた。

 通話を終えると、篠田は短く息を吐いた。

 先に言われることを見越して、藍のほうが先に口を開く。

「すみません」

「……わかっているのなら、大いに結構です。でも、あのまま聴取を続けていたら、間違いなく麻植さんの心は崩れてしまっていたと思います」

 藍は、隣にいてくれたのが篠田でよかったと心の底から思った。

 もはや、藍の手綱をしっかりと握れるのは、布施のほかに篠田しかいないのかもしれない。

「千木良巡査。あなたは、この事件を自らの試練だと、そうおっしゃっていましたね」

「はい」

「私は、あなたと組むとわかった時点で、この身を尽くす覚悟でいました。もちろん、できる限りはあなたのお望みどおりに、協力できることには手を差し伸べるつもりです」

「……はい」

 藍は途端に情けなくなり、首を垂らした。

 無条件に自分を信じ、自制心が欠如している若い女刑事に対し「身を尽くす」とまで宣言している。

 それなのに自分は、この一週間で何度篠田を(ないがし)ろにしてきただろう。

「ただ、私にだってやるべきことはあります」

 藍は、思わず顔を上げた。

 いつもの柔和な表情はそこにはない。

 口を真一文字に結び藍を見下ろすその顔からは、年を重ねた者からしか滲み出ない真の貫禄が感じられた。

「それは――あなたを無事に、本庁に返すことです」

「……無事に?」

「ええ。せっかく捜査一課の刑事になれたのですから、その顔にはなるべく泥は塗らないほうがいい。もちろん、失敗して得ることもあるでしょうが、ただ失うだけの失敗はさせたくない。私には、あなたのいまの地位に傷をつけずに、毒しかない茨の道は掻きわけるという責務があります」

 何の躊躇もない強い眼差しに耐え切れず、藍はそっと視線を落とした。

 アスファルトを街灯が照らし、黒く光っている。

 ふと、こんなことを思う。

 毒しかない茨の道を篠田が掻きわけたとして、篠田はどうなってしまうのか。毒が塗布された棘で、無傷ではいられないはずだ。

 なぜ、そこまで――。

「……そんなこと、わたしは頼んでいません」

「あなたに頼まれていなくても、私はその責務を全うする必要がある」

「どうして」

「布施主任から、託されたからです」

 その名前に、藍はふたたび視線を篠田に戻した。

「言ったでしょう。あなたのことを大切に思っている人間は、あなたが思う以上に多い、と。彼は、幼いころからあなたのことを見てきました。私には事の詳細を話してはくれませんでしたが、それはすべてあなたを思ってのことです。これ以上、あなたが傷つく姿を見たくないのです」

 溢れ出そうなものを堪えるように、藍は唇を噛み締めた。

 布施はいつだって、自分のすぐそばにいた。

 母を失ったときも、児童養護施設に入ることになったときも、進路に悩んでいたときも、ずっとそばで支えてくれていた。

 道を逸れないようにと、布施もまた毒だらけの茨の道を切り拓いてくれていたのかもしれない。その手が傷だらけになっても、藍のためだけを思って、ひたすらに。

 では、小百合はどうだろう。

 溢れ出そうな弱音を吐露したくなったとき、ひとりでは挫けそうな夜、そばにいてくれた人間はいたのだろうか。

 きっと、いなかった。
 だからこそ、こうやって東京まで逃げてきたのではないか。

 ――逃げるの?

 いまさらになって自分が発したその言葉が、ひどく残酷に思えてきた。

 誰かに守られていたがゆえに前に進めた自分と、誰にも守られずに逃げることしかできなかった小百合では、そもそも生きてきた土俵が違うのだ。

 でも、だからといって彼女を見捨てるわけにはいかない。

「シノさん、」

「はい」

「……わたしは警察官です。もう、守られるだけの一般市民じゃない。布施主任が思ったように、わたしも麻植さんの傷つく姿は見たくない。早く、生き苦しい場所からその心を救ってあげたいんです」

「それは、私も同じ気持ちです」

 強く頷いた篠田に、藍も首を縦に振る。

「村の件も今回の事件も、わたしたちの手で解決しましょう。明日までに」

「……明日?」

「明日は一月十二日。何の日か、わかりますよね?」

 篠田は「あっ」と声を漏らす。

「気づきましたか」

「ええ。――成人の日、ですよね」

「きっと麻植さんの心は、半成式の日に置き去りのままです。明日すべてを解決して、人として成るための道を取り戻してほしい。だからシノさん、協力してください」

 意志の強いその言葉に、篠田は首肯で賛同を示した。