クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

篠田(しのだ)……?」

「そう、新宿署刑事課強行犯捜査係の篠田誠一(せいいち)。通称、シノさん」

 廊下を歩きながら泉月が教えてくれたのは、推しであるそのイケオジとやらの名前だった。心なしか、泉月の横顔はいつもより生き生きしている。

「刑事課って同じフロアじゃん。毎度顔合わせてるでしょ?」

「こっちは認知してるけど、あっちはどうだかね。なんてったって、こんだけ大きい署だし、あたしは生安(せいあん)の端くれだし」

 ふうん、と藍が気の抜けた相槌を返す。

「で、泉月はその人のどこがいいの?」

 正直、おじさんには興味ない。詳しく話を聞いてみれば、今年で五十歳を迎えるらしい。頭に浮かぶのは、顔に皺が寄り頭部が寂しくなり始めた、哀愁漂う男の姿だ。

 しかし、どうやら藍のイメージしていた人物像とはかなりかけ離れているようだ。

「まずは、あのがっちりした肉体だね。背なんて、これくらいあるんだよ」

 言いながら、泉月は頭のてっぺんから十五センチほど高い位置に手を掲げた。泉月は、身長一六八センチと女にしては背丈が高めだが、それよりも十五センチほど高いとなると、ゆうに一八〇は超えているだろう。高身長な泉月からしてみれば、自分より背が高いというだけでもポイントは高いのだろう。
 対して、身長一五一センチの小柄な藍にとっては、相当な大男に思える。並べば、小学生の娘と父親という図に見えてしまうだろう。

「それから?」

「刑事なのに、刑事っぽくないとこ」

「……はぁ? それダメじゃん」

「いいの。ほらナユタ、いまうちの署の刑事課にいるんだけどさ」

 ナユタ――。

 藍の頭に、西(にし)那由多(なゆた)の四文字が思い浮かんだ。藍と泉月の同期だ。たしか昨秋の定期異動で、万世橋署地域課から、新宿署刑事課への辞令が下りていた。警察学校時代から刑事になりたいと言っていたので、ようやく夢が叶ったかと嬉しく思った。
 彼も、藍に対して理解のある数少ない同期のうちの一人だからだ。

「那由多がいま組んでるっていうのが、そのシノさん。誰に対しても物腰柔らかで、困ってたら助けてくれて、執事みたいな、騎士みたいな感じの人なんだって。メロくない?」

 想像してみる。

 少なくとも、藍が所属する九係にはそのような刑事はいない。野心で燃え(たぎ)っている者か、達観(たっかん)して冷めきっている者かの二択だ。心穏やかで周りに気を配れる刑事など、実在するのか怪しいところだ。

 でも確かに、殺伐とした空気の中にそんな人物がいれば、多少は和らぐだろう。メロいかどうかを置いておいて、口頭だけでもその魅力は存分に伝わってきた。

 しかしそれはやはり、刑事でなければ、の話だ。
 犯人と正面から対峙し、時に駆け引きを要する現場で、その柔らかさは隙になる。

「んー、刑事としてはどうだかね」

「そこがいいんだよ。んもう、わかってないなぁ」肘で藍を小突く。「むさ苦しい男たちの中で、唯一のオアシスなの。少しくらい夢見させてよ」

「はいはいどうぞ、ご自由に」

「相変わらず、つれない女だな」

「そーゆー女の方が追いたくなるでしょ」

「うっざぁ」

 軽口を叩きながら廊下を歩いていくと、徐々に重苦しい空気が濃くなっていった。
 先ほどまでの談笑が嘘かのように、二人は口を真一文字に結ぶと召集された第三会議室の前に立った。

 ――【新宿区百人町都営アパート夫婦殺人事件特別捜査本部】

 昨夜のうちに、達筆な所轄警察官が書いたであろう戒名(かいみょう)を見上げ、藍は大きく息を吐いた。その横で、泉月もため息をつく。

「まさか、殺人事件の捜本(そうほん)に吸い上げられるなんて……長い戦いになりそう」

 これから訪れる荒行(あらぎょう)の日々を想像したのか、泉月の顔がわかりやすく歪んだ。

 帳場(ちょうば)が立ち、そこの捜査員に選ばれてしまえば、二交代制二十四時間勤務は当たり前。捜査目安は三週間とされているが、殺人犯を検挙せずに任務が解除されることはそうそうなく、捜査は数か月にも及ぶことがある。そのうち、自宅に帰れるのはよくて数日。徹夜続きの捜査に、毎朝八時半からの朝会となれば帰宅する時間さえも惜しい。事件解決まで、多くの捜査員たちがこの新宿署で夜を明かすことになるだろう。

 それは、女性警察官である藍たちも例外ではない。捜査員の男女比率は九対一といったところだが、総員が一〇〇名を超えてしまえば、単純計算で十人。二交代制で少なく見積もっても、五人。その人数で、数か月間、たった八畳間の仮眠室で雑魚寝しなければならない。
 仮眠室事情については、藍も思うところはあるが――それより、事件だ。

 この事件が、藍にとっての捜一(そういち)デビュー戦なのだ。

 胸を熱くしながら、戒名を見上げる。毛筆で書かれた、力強く燃えているような字は、まさに藍の心の中を映しているようだった。