新宿署、第三会議室。
新宿区百人町都営アパート夫婦殺人事件の特別捜査本部となっているその部屋のど真ん中で、男たちは頭を抱えていた。
何台か繋げられた長机の上には、ここ三日間で得た川原健二についての情報資料が雑然と並べられていた。
「いったい、どういうことなんだぁこれは」
上座の柳内が、こめかみをぽりぽりと掻きながら唸った。捜査員たちも、眉間に皺を寄せている。その中には、布施班の内海と日向、所轄刑事の那由多と折原の姿もある。
連日、川原健二の捜査にあたっていた班が集結し、得た情報を持ち寄ったのだが、ここで問題が発生した。
「杉並区役所に照会をかけ、本籍地である神奈川県川崎市の実家が判明。両親ともにご存命で、話を聞くことができました」
「それで?」
内海の言葉に、柳内がやきもきとした様子で先を促した。
「この男は、川原健二ではない。そう証言しています」
内海は、川原健二の運転免許証写真を掲げながら言い切った。
「そのご存命だっていう両親はよ、」柳内はこめみを掻いていた手を止めると、そのまま二度軽く叩いた。「こっちのほうはどうなんだよ」
「お二人とも物忘れのもの字もないくらい、五体満足で矍鑠としていました。親子三人で最後に撮ったという写真も、ものの数十秒で押し入れから取り出してくれましたよ」
そう言うと、ジャケットの内ポケットから件の家族写真を長机の上に差し出した。
全員が身を乗り出し、その写真を確認する。
写真の中には川原の両親であろう老夫妻と、その間で仏頂面を決め込んでいる中肉中背の男。その男の見てくれはお世辞にもいいとは言えない。四方八方に伸びきっている無精髭に、油分の多そうな髪の毛。写真越しからも、つんと鼻を衝くような酸っぱい臭いが感じ取れた。
さらに、内海はその男を指さしながら言う。
「この男が、川原健二、だそうです」
「おいおい、全然違うじゃねぇか」
柳内の言うとおり、免許証写真の彫りの深い川原健二とは、似ても似つかない。
内海の話を引き取り、那由多が意気揚々と続ける。
「写真は十七年前のもので、夫妻が初めて生前遺影を依頼した際についでに撮ってもらったようです。川原は大学受験に失敗してから引きこもるようになったそうで、いわゆる子供部屋おじさんでした。頑として外に出たがらなかったため、リビングでの撮影が及第点だったと。しかしその二年後に、実家を出ています」
「理由は?」
「川原の父親は、一度くも膜下出血で倒れています。それも、川原が実家を出る一週間前のことです。置手紙を残して出て行ってしまったため真意はわからないとのことでしたが、おそらく危機感を覚えたんでしょうね。いつまでも親が生きているとは限らないですし――」
「あー長い」柳内が那由多の声を遮った。「つまり、どういうことだ。この男が本物の川原健二なら、そっちの川原健二はいったい何者なんだって話だよ」
気圧されたのか、那由多は音も立てずに腰を下ろした。
隣で見守っていたはずの内海が、もう一度話を引き取る。
「こちらをご覧ください」
四次元ポケットのごとく、ふたたびジャケットの内ポケットから紙を取り出す。
今度は写真ではなく、はがきだった。
「十年前、それまで音沙汰のなかった川原から突然届いたそうです」
はがきには、ビルが林立する街の写真とともに次の文章が添えられていた。
---
父さん、母さん
長い間、迷惑をかけてごめん。
僕は新たな自分に生まれ変わりました。
もう僕のことは忘れて、余生を謳歌してください。
あなたたちの息子に生まれてきたことを、誇りに思います。
どうか、どうか、いつまでも健康で。
健二
---
内海が代読すると、健二の心中を慮ったのか捜査員たちの表情に苦悶の色が浮かんだ。
子供部屋おじさんと耳にしてしまえば、無遠慮に親の脛を齧り続け、のうのうと生きている人間を思い浮かべたくなるところだが、その文面からは不快感は一ミリも抱けない。やるせない気持ちが、ひしひしと感じられるだけだ。
「我々が認識している川原健二と、この川原健二はまったくの別人。つまり――」
糸のように細い目から、鋭い眼光が放たれた。
「本物の川原健二が、第三者に戸籍を売った可能性があります。そして、その第三者は――」
内海が言いかけたところで、電子音が鳴り響いた。
場にそぐわない軽快なリズムで奏でられたそれは、日向のスーツジャケットからだった。
意図したものではないにしろ、結果的に水を差すことになってしまった日向は、先輩刑事たちの咎めるような視線を背中に浴びながら部屋を出た。
廊下に出てようやくスマホを取り出す。
画面に表示された四文字に、日向の胸はとくん、と鳴った。
新宿区百人町都営アパート夫婦殺人事件の特別捜査本部となっているその部屋のど真ん中で、男たちは頭を抱えていた。
何台か繋げられた長机の上には、ここ三日間で得た川原健二についての情報資料が雑然と並べられていた。
「いったい、どういうことなんだぁこれは」
上座の柳内が、こめかみをぽりぽりと掻きながら唸った。捜査員たちも、眉間に皺を寄せている。その中には、布施班の内海と日向、所轄刑事の那由多と折原の姿もある。
連日、川原健二の捜査にあたっていた班が集結し、得た情報を持ち寄ったのだが、ここで問題が発生した。
「杉並区役所に照会をかけ、本籍地である神奈川県川崎市の実家が判明。両親ともにご存命で、話を聞くことができました」
「それで?」
内海の言葉に、柳内がやきもきとした様子で先を促した。
「この男は、川原健二ではない。そう証言しています」
内海は、川原健二の運転免許証写真を掲げながら言い切った。
「そのご存命だっていう両親はよ、」柳内はこめみを掻いていた手を止めると、そのまま二度軽く叩いた。「こっちのほうはどうなんだよ」
「お二人とも物忘れのもの字もないくらい、五体満足で矍鑠としていました。親子三人で最後に撮ったという写真も、ものの数十秒で押し入れから取り出してくれましたよ」
そう言うと、ジャケットの内ポケットから件の家族写真を長机の上に差し出した。
全員が身を乗り出し、その写真を確認する。
写真の中には川原の両親であろう老夫妻と、その間で仏頂面を決め込んでいる中肉中背の男。その男の見てくれはお世辞にもいいとは言えない。四方八方に伸びきっている無精髭に、油分の多そうな髪の毛。写真越しからも、つんと鼻を衝くような酸っぱい臭いが感じ取れた。
さらに、内海はその男を指さしながら言う。
「この男が、川原健二、だそうです」
「おいおい、全然違うじゃねぇか」
柳内の言うとおり、免許証写真の彫りの深い川原健二とは、似ても似つかない。
内海の話を引き取り、那由多が意気揚々と続ける。
「写真は十七年前のもので、夫妻が初めて生前遺影を依頼した際についでに撮ってもらったようです。川原は大学受験に失敗してから引きこもるようになったそうで、いわゆる子供部屋おじさんでした。頑として外に出たがらなかったため、リビングでの撮影が及第点だったと。しかしその二年後に、実家を出ています」
「理由は?」
「川原の父親は、一度くも膜下出血で倒れています。それも、川原が実家を出る一週間前のことです。置手紙を残して出て行ってしまったため真意はわからないとのことでしたが、おそらく危機感を覚えたんでしょうね。いつまでも親が生きているとは限らないですし――」
「あー長い」柳内が那由多の声を遮った。「つまり、どういうことだ。この男が本物の川原健二なら、そっちの川原健二はいったい何者なんだって話だよ」
気圧されたのか、那由多は音も立てずに腰を下ろした。
隣で見守っていたはずの内海が、もう一度話を引き取る。
「こちらをご覧ください」
四次元ポケットのごとく、ふたたびジャケットの内ポケットから紙を取り出す。
今度は写真ではなく、はがきだった。
「十年前、それまで音沙汰のなかった川原から突然届いたそうです」
はがきには、ビルが林立する街の写真とともに次の文章が添えられていた。
---
父さん、母さん
長い間、迷惑をかけてごめん。
僕は新たな自分に生まれ変わりました。
もう僕のことは忘れて、余生を謳歌してください。
あなたたちの息子に生まれてきたことを、誇りに思います。
どうか、どうか、いつまでも健康で。
健二
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内海が代読すると、健二の心中を慮ったのか捜査員たちの表情に苦悶の色が浮かんだ。
子供部屋おじさんと耳にしてしまえば、無遠慮に親の脛を齧り続け、のうのうと生きている人間を思い浮かべたくなるところだが、その文面からは不快感は一ミリも抱けない。やるせない気持ちが、ひしひしと感じられるだけだ。
「我々が認識している川原健二と、この川原健二はまったくの別人。つまり――」
糸のように細い目から、鋭い眼光が放たれた。
「本物の川原健二が、第三者に戸籍を売った可能性があります。そして、その第三者は――」
内海が言いかけたところで、電子音が鳴り響いた。
場にそぐわない軽快なリズムで奏でられたそれは、日向のスーツジャケットからだった。
意図したものではないにしろ、結果的に水を差すことになってしまった日向は、先輩刑事たちの咎めるような視線を背中に浴びながら部屋を出た。
廊下に出てようやくスマホを取り出す。
画面に表示された四文字に、日向の胸はとくん、と鳴った。


